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1999年3月3日(水)

目の前に皇居が見えるパレスホテルで、『婦人公論井戸端会議』 の収録。
編集部から指定された部屋に行く途中、部屋を探している様子の糸井重里氏と遭遇、初対面の挨拶をする。
『井戸端会議』の内容は、糸井氏が司会で、野村雅一国立民族学博物館教授と私との鼎談。
約3時間ほど話したが、糸井氏の話の通りの良さとセンスは抜群で、話は大変盛り上った。
初対面の人と話をして、こんなに楽しい思いをしたのは、いったいいつ以来だろうか、と思うほどだった。

しかし、糸井氏のホームページ 『ほぼ日刊イトイ新聞』へのアクセス件数は、毎日、万単位という。
この日の糸井氏の様子からして、私のことを『ほぼ日』に何らかの形で書かれるだろうことは、ほぼ間違いなさそうだ、と思うと、空恐ろしくなって、ホテルを出て思わず皇居の上に拡がる夜空を見上げてしまった。
それにしても編集者の打田いずみさんの対応も見事、この場を借りてお礼を申し上げたい。

以上1日分/掲載日 平成11年5月23日(日)


1999年3月4日(木)

私立T学園のバスケットボール部部長で、元実業団のバスケットボールで活躍されていたK先生が、同僚で剣道五段のH先生と来館。
はじめは、半信半疑の様子だったが、私の巴のターンなどを体験されてからは、畳をなめるほど顔を低くして、私の足の動きを観察されるなど、大変な熱が入ってきて、帰られる前に、「是非、近いうち生徒達にもこの動きを体験させたいので、学校の方へ来ていただきたい」とまでおっしゃって下さった。

以上1日分/掲載日 平成11年6月7日(月)


1999年3月10日(水)

スポーツライターのK氏がラグビー選手として著名なI氏を伴われて来館。
この日、前日からはじめた木薙刀の振り下し斬り止めによる丹田錬成法で、気合を出さなかったため、首に異常な緊張がきて、朝からずっと頭痛がしていたが、I氏に動きの説明をしている途中、体のなかで何やら妙な感覚がしたかと思うと、7〜8秒のうちに突然、肚のなかの重心が下り、拭い去った様に頭痛もとれてしまった。
いままで記憶にある限り、あれほど短時間で体調が好転したことはなかったから唖然としてしまった。
そのおかげか、はじめはいぶかしげな表情をされていたI氏も後半は打ち解けて下さり、時折嘆声を上げられていた。

1999年3月11日(木)

信州から江崎氏が稽古に来館。
この江崎氏との稽古中に、木薙刀の振り下し斬り止めの際、気合を出すことの意味を知り、これを小手返等、体術に応用していままでにない感触を得る。
気合を発すると正中線ならぬ正中筒ともいえるものが体の芯に立ち上ってきて、体が歪みにくくなるからのようだ。
上方へはア音、上から前へはエ音、下へはオ音の気合がいいようだ。

1999年3月15日(月)

午前11時、新宿駅で岩渕輝氏、長谷川智の両氏と待ち合わせて、三番町のPHP研究所へ。
その後、直接PHP研究所で合流した中島章夫氏と、ブレーン3人を揃え、7年ぶりの養老孟司元東大・現北里大教授との対談に臨む。

7年前にくらべ、一層上品さの漂う養老先生だったが、発言内容はすこぶる過激。お陰で私も発言が過激にならざるを得ず、夜、銀座の中華料理店での食事が終るまで約7時間の対談はたいへんスリリングだった。

以上3日分/掲載日 平成11年6月15日(火)


1999年3月18日(木)

午後、K先生がバスケットボールを指導されているT学園に招かれて行く。
中学・高校合わせて100人近くの部員を前に体育館で解説を加えながら実演。この時、スクリーンと呼ばれているらしい、腰を落としてその位置を守っている者を、手を使ったりせずに「体だけの接触でどうやったらそのポジションをとれるのでしょうか」という質問がK先生から出され、私より20sほど体重が重い高校3年生を相手にその場でしばらく工夫してみたが、体だけの接触であるため、すぐにはいい方法が見つからず宿題にさせてもらって、一応その場は終った。

ところがK先生らの教員室に一応引き上げてから、荷物を持ってきてくれた生徒を相手に続きを考えていたところ、剣術の前後斬りを応用すればいいことに気づき、その場に居合わせた生徒数人とK先生にも体験していただいたところ「画期的な方法」との折り紙がつき、その場でK先生は、体育館で練習を始めていた部員を呼び集め、私が作ったばかりのスクリーン撃破法を生徒達が体験できるように場を作って下さった。

その後、少年のように頬を紅潮させて喜んで下さったK先生と、K先生を私に引き合わせて下さったH先生と3人で学園を出て、寿司屋で夕食を御馳走になりながら話がはずんだ。

1999年3月19日(金)

月に2度行なっている都内の稽古会に行く。
この日は、2週間ほど前に知り合った糸井重里氏が知人のT氏と稽古会の見学にみえる予定であったが、たまたま全く別ルートで糸井氏もよく知っておられるミュージシャンの坂本龍一氏も、何か私の武術に関心を持たれているとのことで、以前私もお会いしたことのあるS先生の御紹介で、マネージャーの方と一緒にみえられた。

糸井氏は、私の技はすでに体験されていたので、この日は技よりも稽古会の雰囲気が、各自てんでにやっていながら、それはそれで稽古になっている、という状態にひどく関心を持たれたようだった。
坂本氏も最後まで興味深げに観たり、体験したりして下さったが、世界中に知られたビッグネームと引き換えたかのような巨大な虚しさが氏を極北にまで追いつめているようで、傍目にも痛まし気だった。
「得るものがあれば失うものがある」というのは、まさにこういうことなのであろう。

1999年3月22日(月)

この日は夜の10時過ぎ、3日前に私の稽古会に見学にみえた糸井重里氏が、その折も同行されたT氏を伴って来館された。
1度じっくりと私と話したい、と希望され、この日、浦安にリングスの試合を観に行かれた後、1度東麻布の事務所に寄られてから私のところまで車をとばして来られたのである。
私も糸井氏には少なからぬ影響を受ける予感がしていたので、この日の夜は松聲館の常連会員では最古参の吉田健三氏と、都内の稽古会の世話人で『縁の森』(合気ニュース)の共著者でもある中島章夫氏を呼び、5人で話は一気に翌23日の朝5時過ぎまで続いた。
そしてこの後2時間ほど寝てから、起き出して支度をし、PHP研究所での養老先生との2度目の対談に臨んだ。

1999年3月25日(木)

この日は午後3時過ぎ、佐野史郎氏が初めて監督をつとめられた映画『カラオケ』の試写会に銀座へ行く。
この映画はエンディングにカルメン・マキさんの歌「戦争は知らない」が使われており、マキさんもちょうどこの日しか都合がつかないとのことだったので映画館で落ち合った。
映画は観ているうち、なんともいえぬ懐かしさが込み上げてきて、しばし時を忘れた。
映画の後、4月19日に紀伊國屋サザンシアターであるという寺山修司未発表作品朗読会の打合せに行くマキさんに付き合ったりして、この日は全く稽古をする時間はなかった。
しかし、映画を観に銀座に向かう電車の中で体術の突技に関する新しい術理の気づきがあり、それは翌々日の27日、初めて実際の動きで検討し、いままでにない有効な突き方であることを確認した(これが壁突で、その動きのモデルは、直打法における手裏剣の飛行軌跡であり、見方によれば井桁崩しそのものである)。

以上4日分/掲載日 平成11年6月24日(木)


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