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1999年10月1日(金)

先月17日に都内であった稽古会に出てから約10日以上も、最近では珍しく家の近所以外は出歩くことなく過した。
この間、養老孟司先生とPHP研究所から出した新刊を献本するための送り状書きや本の梱包・発送などの作業をやっていたため、稽古以外で人に会うこともほとんどなかったが、昨日今日と2日間続けて都内に出た。

まず昨日の9月30日は、大島渚プロダクションの大島瑛子代表からのお招きで、乃木坂の大島渚プロダクションのオフィスを訪ね、近くの中華料理店でM氏、M女史を交え4人で会食した。
大島女史とお会いするのはおそらく5回目ぐらいだと思うが、大変な苦労をされているに違いないのに、しばしば見せられる少女のような無邪気でいたずらっぽい笑顔はたいへん魅力的である。
大島女史は「もう今度の仕事を最後に老人ホームに入るの」などと口にされるから私よりかなり年上らしいが、その人間としての風景は実に絵になる。人間誰しも風景よく年齢を重ねていくのは難しいが、大島女史はその点では、多くの人達に「自分もああなりたい」と憧れられるような素敵な年の重ね方をされている方である。

そして今日10月1日は、夕方から恵比寿稽古会の日であるが、その前、午後まだ早めの時間に坂本龍一氏を都内のスタジオに訪ねる。
坂本氏とお会いするのは今回で3度目。現在、大島渚監督の映画『御法度』の音楽を担当されていて、その作曲に没頭されている様子だったので、あまり長居をしても申し訳ないと思っていたのだが、実際に実技を交えた武術の話や、環境問題、民族による音楽の感受性の違いなど、いろいろお話しをさせていただいたり、伺ったりしているうちに、いつしか時を忘れ、辺りは暗くなっていた。
話は尽きないものの、すでに稽古会が始まってしまった時刻になっていたので腰を上げかけた私を、坂本氏が「もう5分間だけ時間ありませんか」と引き止められ、映画『御法度』の冒頭シーンの音楽を聴かせて下さった。
始まってすぐ画面いっぱいに見覚えのある゛御法度゛の3文字。恥ずかしくて思わず下を向いてしまった。ホンの僅かとはいえ自分も関わった作品を観るということはなんとも落ち着かないものである。
ただそのお蔭で、話し足りず後ろ髪を引かれる思いでいた気持に区切りをつけ、坂本氏やマネージャーの空さんの御好意に深く感謝してスタジオを後にした。

以上1日分/掲載日 平成11年10月6日(水)


1999年10月6日(水)

養老孟司先生との共著『自分の頭と身体で考える』が先月の下旬に刊行になったが、今日、版元のPHP研究所から電話があり2刷が決定したとのこと。初版1刷13,000部という、最近の売れ行き不振の出版業界では異例の多さに、私など「年内に売れればいいほうだろう」と思っていたから少なからず驚いた。やはり今、養老先生への世間からの注目度というのは、ちょっと桁が違うのだろう。
このことを他の用件で電話が掛かってきた、ある出版関係者に話したところ「まだ書評などで紹介される前に…。それなら今後相当伸びるんじゃないですか」とのこと。
その書評だが、私の知る限りこの本の初めての紹介が、ちょうど本日10月6日付の朝日新聞夕刊のコラム『乱読・味読・お買い読』(関西など西日本版)に出た。今回この欄を書いて下さったのは、2月に関西大学の植島啓司先生との『対論』を企画して下さった朝日新聞大阪本社の石井晃論説委員。今回の本は対談のなかで、朝日新聞に対する辛辣な意見が養老先生から出されているのだが、そうしたことにこだわることなく推薦・紹介をして下さった石井論説委員の度量には頭が下がった。

また今日は、資生堂『花椿』に私のことを紹介して下さった、フリー編集者の後藤繁雄氏と電話で新しい企画について話しをしたり、朝日カルチャーセンターからの講座の依頼が届いたり、といった展開があり、それらの対応と雑用でたちまち日が暮れてしまった。

そして夜は、久しぶりに私の20年来の武術の同志である伊藤峯夫氏が来館。しばし稽古に時を忘れる。
「この先どんなことがあろうとも、この人と気まずくなることだけはあるまい」と思われる親しい人物の1人や2人は誰でも持っているかもしれないが、伊藤氏はこの20年間、私が会って話していて「この人ほど私の精神の平安が常に保たれる人はいない」という、他に類をみない人物。こういう人と縁があったことに改めて感謝した。

以上1日分/掲載日 平成11年10月9日(土)


1999年10月7日(木)

平凡社から『にっぽにあ』届く。これは外務省が平凡社に委託して作る季刊誌で、14ヶ国語に翻訳して各国の大使館・公使館に送り、日本をPRするための雑誌として配布するものだという。

今回の特集は『ニッポンは武道の国?』。英語版では『Martial Arts in Japan』。
この特集ではどういう訳か私にも取材要請が来たので、「私の武術理論は、現在の武道界では異端ですよ」と念を押した上で、私がいつも説いている、和服が着崩れない、捻らない身体の運用法などを解説したのだが、出来上がってきた誌面を観て驚いた。
取材の折に撮られた写真は分解され、抜刀術の演武写真は古流武術の抜刀術の項に入れられ、「居合術ともいう…」といった解説がつけられていて、その代表流派として「林崎夢想流などの流派が現在も残っているほか…」などと述べられている。
これでは現在の日本の抜刀術、居合術のなかでは異端であるに相違ない私の抜刀術が、まるで日本の代表的抜刀術と誤解されてしまう(もっともその写真には私が演武しているという解説はないが、それだけに余計紛らわしい)。

そして私が、私の武術の動きを解説したくだりは「武術の体の動かし方」という見出しで、まるで古流武術の動きのすべてを私が解説しているような形になってしまっている。そしてそこには「筆者による手裏剣術」として、私の手裏剣を打つ姿と、手之内に剣を収めている写真が載っている。このチグハグぶりには参った。

これではまるで、日本武道の事情をよく知らない外国の取材陣が日本にやって来て作ったような誌面である。
だが、ぼやいても後の祭り。もうこれはきっと世界各国に発送されているのだろう。
しかし考えてみれば、武道人口は日本の人口の3〜4%というから、ほとんどの日本人にとって武道界の内情などよく分からないであろう。ましてや各国の一般人に、日本の現代武道や古武道各派の実情を簡潔に伝えるなどということは、土台無理な話である。そしてその無理を、まことに無理矢理に『Martial Arts in Japan』といった形でパンフレット的に紹介するからには、どうやってもおかしな形になってしまうのかもしれない。
……しかし、それにしても、もうちょっとどうにかならなかったのかと思う。

以上1日分/掲載日 平成11年10月10日(日)


1999年10月11日(月)

昨日10日は新宿のエルタワーで、桜井章一・雀鬼会会長の写真集『心温かきは万能なり』の発刊を祝うパネル展があり、私も大阪の精神科医の名越康文氏と共にお招きにあずかりうかがった。
今年のはじめ大病を患われ、このままでは危ないと病院を御自身で出られ、持ち前の野性で克服されたという桜井会長は、その大苦闘のせいか、いままでよりまるくなられた印象だった。

桜井会長のお話、そしてゲストの方の祝辞の後、我々は桜井会長から前に招かれた。「何か話をするように」ということらしい。
私はここずっと゛基本゛といわれるものについての見直しを考えており、今度名越氏とこのことも含め対談を行なって1冊にまとめる作業に入り始めている(この日も我々の本の刊行予定のT書店の編集者K氏と、販売担当のN氏がこのパネル展の会場でもずっと我々に付き添い、刊行に向けての具体的打合せのため我々は夕方から深夜まで検討を重ねた)。
そうしたこともあって、桜井会長から我々2人が招かれ、会場を埋めた数百人の人々の前で座談的なトークを始めることになったのだが、私は前の晩も明け方まで名越氏と話し、名越氏が床に就いた後も尚、ろくに眠らずいろいろ仕事をしながら考えていたこともあってか、ひどく思いつめていたらしい。
そのため祝いの席であるのに、桜井雀鬼というテンションの高い方を目の前にして、その場にそぐわないキツい話を一気に語り出しそうな殺気めいたものがあったようである。

私は多くの人達の前で話をする時は、まず顔を上げない。というのは顔を上げて誰かの顔を見ると、その人に語りかけてしまうことになり、もしその人がよくわからない顔をしたら話す気を失うし、よく通りそうだったら、ついその人にばかり顔を向けて話すことになり、全体のバランスが崩れるからである(最初から決まった原稿を読むように語るのなら、いろいろな人の顔を見ながら話も出来るだろうが、私のようにいつもその場で話を創りながら話すものにとって、そのようないろいろな人の顔を見ながら話すことはどうしても出来ない)。

下を向いていた私の顔を名越氏がどう感じているかは痛いほど分かった。「彼はなんとしても場をシラケさせてはならないと思っているな」と感じるのだが、どうも言葉がうまく出ない。
と、その時、大きな音がした。このトークを聴いていた1人が失神して倒れたのである。名越氏は医師という立場上、直ぐに診察、しばらくトークショーは中断した。
そのお蔭で雰囲気は一変し、私も桜井会長と初めて出会った時のエピソードを話し始めることが出来た。
しかしテンションは落ちている。このままではトークがつまらなくなると名越氏は思ったのだろう。次に驚くべき高等技術を仕掛けてきた。それは私が桜井会長と初めて出会った当時の思い出話にひっかけて、私のプライベートなことを面白くデフォルメして暴露的に話したのである。
これはおそらくよほど目のある人でも気づかない凄い技術であった。口の軽い、軽薄な人物に自分を見せかけ、その実、私の殺気を完全に封じ、その場を盛り上げ、尚且つ私に彼への信頼感を毛ほども揺るがせさせないというものである。
私はいままで名越氏の表現力の巧みさ、対応力の深さに唸ったことは数知れずあったが、これほどの高等技術を体験したことはなかった。゛御見事゛と言う他はない。完全に兜を脱いだ。

この日深夜、共著の題名について2人で話しているうち私のアイデアを名越氏が奇抜でピッタリな言葉にまとめられた。
その題名はまだ今は明かせないが、出版社の了解をとったらここで発表したいと思っている。

以上1日分/掲載日 平成11年10月17日(日)


1999年10月16日(土)

今日は午後2時過ぎから、スタジオジブリの宮崎駿監督にお目にかかるため、東小金井駅近くにある宮崎監督のアトリエ二馬力を訪れ、宮崎監督と5時過ぎまでお話しをさせて頂いた。
前回4月に初めて伺った時と違い、今回はほとんど途切れることなくお話しを伺ったり、こちらからさせて頂いたりした。
その上、5時半頃スタジオジブリに向われる宮崎監督と一緒に二馬力を出て、途中で御挨拶をして別れた後に忘れ物を思い出して二馬力に戻り、そこで今度はスタッフの篠原征子さんと話し始めたところ止まらなくなり、9時近くまで結局7時間近くも二馬力にお邪魔し続けたことになってしまった。そのお蔭で、私のなかにあった宮崎駿監督像がいっそう拡がり、改めてこの宮崎駿という人物のオリジナリティの類稀さを思い知らされた。

とにかく今回の二馬力行きで何よりも感じたことは、宮崎駿監督という人物は人好きで人中にまみれていながら恐ろしいほどに゛孤゛の人だということである。
上に立ってただ命令だけする人ではなく、自らも若いスタッフと一緒にいろいろなことをされるようだが、オリジナル性が強いため誰も真似が出来ないと思う(個性の強い人はその個性の強さ故、ある面真似をしやすい場合もよくあるが、宮崎駿監督の場合はその感覚に非常な拡がりがあるため、これぞ宮崎駿というものを特定しかねるのである)。
そのことに関してスタッフの篠原さんが宮崎監督を『もののけ姫』の登場人物にたとえ「エボシ御前も宮崎さんだし、アシタカもサンもジゴ坊もどれも宮崎さんの一面なんですよ」と語られていたが、まさにその通りなのだろう。
普通こういう人だと多重人格ということで人望を失いそうだが、そうはならないところが宮崎駿という人物の凄味であろう。

宮崎駿という人物には将としての器がある、というのは宮崎監督を私に紹介して下さった加藤晴之氏と私との共通認識だが、将は将でも一般的な将とはまた幾味も違っていると思う。
「人は褒められれば悪い気はしない」とよく言われるが、宮崎監督ほど褒めにくい人も珍しいだろう(人を褒めるというのはたいそれた思い上がったことになる場合があり、時によっては大変な失礼にあたるものだが、宮崎監督を目の前にすると本当に自分の正直な感想以外は言えなくなってしまう)。
宮崎監督からも篠原女史からも「またときどきいらして下さい」とおっしゃって頂いたが、なかなかそう度々は伺うことは出来そうもない(度々伺いたい気持はもちろんあるが)。
とにかく宮崎駿という人物は私のいままでの人生で1度も同じような類型の人を見たことがない、実に不思議な人物である。
今後この御縁がどのように展開してゆくのか分からないが、とにかく私自身を映させて頂く鏡として是非末永く御交誼頂きたいと願っている。

以上1日分/掲載日 平成11年10月18日(月)


1999年10月26日(火)

忙しいといって、いまほど忙しいことはかつてなかったと思うほどである。この間、人との出会いも、技の進展もあったが、それを記している暇もほとんど無く、是非とも出したい手紙すらいまだに書けないほどである。それでもとにかく私自身の整理も兼ねて、このホームページの原稿を書くことにした。

22日は竹芝駅近くの10番スタジオへ映画『御法度』のサウンドトラックCDのジャケット用の日本刀撮影のため出掛ける。
これは坂本龍一氏のマネージャーの空里香さんから、「CDのジャケットに日本刀を使おう」ということで、デザイナーの中島英樹氏と話が決まり、それに関して私の日本刀を撮らせて欲しいとの依頼があったからである。その依頼のFAXの文面は情理を尽くした大変に丁重なもので、私も少なからず心を動かされた。ただ問題は私の持っている刀がそれほどいいものであるわけが無いことだが、ジャケットのデザインのひとつにならなんとかなるかと、無銘の関物と思われる脇差と延寿宣次2尺4寸6分の2本を提供することにし、その他若干の縁(刀の柄の金具)や鍔なども持っていった。
はじめは20日に都内に出たついでに空さんに会い、脇差と打粉や油を届けたので、これで済ますつもりだったのだが、空さんに会ってみると、当日のスタッフの中に日本刀を扱ったことのある人が1人もいないらしいとのこと。空さんは私に迷惑を掛けまいと「大丈夫です」と気丈に言われるのだが(因みに空さんほど九種…整体協会の故・野口晴哉先生による体癖の分類でいうところの…が濃いと思われる女性には会ったことが無い。恐らく何事かをやり遂げることにかけるエネルギーは常人の域を遥かに超えているだろう)、一抹の不安が拭えない様子である。この『御法度』に関しては大島渚プロダクションの大島瑛子社長から過分な待遇を受けていることもあり、何とか都合をつけて私も行こうと決めたのである。
そして21日、撮影のあるスタジオに出掛けたのである。行ってみればデザイナーの中島氏や、カメラマンの瀧本氏にも会えたし行っただけのことはあったのだが時間はますます無くなってしまった。

そうした流れのなか、23日、24日と稽古。25日は中学の校長先生が、この後に述べる問題の件で出した私の手紙の返事を持って来館。そして今日26日は合気ニュースのビデオ撮影(鈴木さん、大阪からの野口さんお世話になりました)。28日からは岡山に発ち、あと広島、四国、大阪とまわる予定。この間、合気ニュースの連載の原稿、名越氏との共著の準備の他、いくつか書かねばならないものがある。

もっとも、この程度の忙しさであればいままでにも経験していたが、今回身を焦がされるような忙しさを感じているのは、こうしたことの他に容易ならぬことに関わり始めたからである。
それは私の長男がこの春から通い始めた中学校の状況が、とても放置するに忍びない゛学校崩壊゛状態になりつつあることを目撃したからである。授業参観に行った16日からこれは捨てておけないと思い始め(そのため、この日の午後、宮崎監督をアトリエ二馬力に訪ねた際、約1時間はこれに関した話を宮崎監督ともさせていただいた)、その後とりあえずいろいろな人(精神科医の名越氏、オーディオ製作の加藤晴之氏、朝日新聞論説委員の石井晃氏…)ともこのことについて話した。
しかし、ことここに至るまでそれなりに何とかしようとした人はいたのだろうが、父母や教師で積極的にニュースになるほどの行動を起した人がまったくいない(少なくとも私は知らない)ということに驚かざるを得ない。
これこそまさに共同体の縛り(養老先生が私との共著『自分の頭と身体で考える』の中で語られていた)の典型例のひとつかもしれないが、まったく無策な学校側、教育委員会、文部省に呆れざるを得ないし、メディアも「ただこういう事実がある」という報道程度で済ませているということに憤りを覚えた。まさに名越氏の言われるように、神奈川県警の相次ぐ不祥事隠しと同じで、問題があってそれがますます深刻になってきていても隠したがる傾向が、学校側にも親側にもあるようだ。
台湾の大地震も東ティモールもたしかに大変だろう。しかしごく身近で日本人の子供が騒々しく劣悪な環境で学校生活を強いられたり、その元凶を作り出したりしていることにもっと関心を持つべきであろうし、何か行動を起すべきであろう。
私はその大きな原因の1つを作っていると思われる学歴社会を一刻も早く撤廃し、役所や企業はそれぞれが独自の入所・入社試験を実施又はどこかに委託して、多様な価値観を社会が認め、十代のはじめからそれぞれ自分が進みたい方向の仕事をしたり学べる環境が出来ることを切望している。
本日はもう時間も無いのでこれ以上書けないが、私もそうした新しい教育環境の実現に向けて、今後具体的なアクションを起したいと考えている。

以上1日分/掲載日 平成11年10月27日(水)


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