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2002年9月1日(日)

 何やら人の縁が日本の国内だけでなく拡がりはじめ、昨日今日と立て続けに、本場中国に生まれ本格的に功を練られた中国武術家の方と会う機会に恵まれた。そして、その全身の動きから生み出される勁力はさすがに目を見張らされた。どちらの方も、私の剣術の演武に興味を示され手を拍って下さったが、非常に友好的雰囲気の中での出会いであるから、勿論本当に評価をして下さったなどと自惚れられる筈もない。ただ、笑顔の中に一瞬頭の中でシュミレーションをされるような表情も見受けられたので、多少は気にして戴けたぐらいのことはあったのかも知れない。

 僅かな時間であったが、捻るような動きの中に居付いた拘束された捻れがなく、常に全身が同時に働き、また随所に体の動きのロックによる勁力の発揮を目にすることが出来たのは大変大きな収穫だった。それにしても人間の身体の開発法・鍛練法というのは、深まってゆく方法が幾通りもあるのだという事をあらためて実感した。ただ、今も述べたが、すぐれた動きはどれも全身がよく働いていること、威力の発揮に動きのロックというブレーキ機構が働いていること、釣り合いがとれていること、気配が消えていることなどの共通点があった。

 今回のような稀な出会いの機会を作って下さったK氏とM氏、そして会場でいろいろお世話になったU女史、N氏には感謝の意を表したい。

以上1日分/掲載日 平成14年9月2日(月)

2002年9月7日(土)

 今日は思いがけず嬉しいことが2つあった。1つは、稽古を終えた桑田氏から通算161勝目、3年ぶりの完投勝利の記念として、それらの来歴を記したウイニングボールをプレゼントされた事。そして、その時行われた「読売ウイークリー」の取材に対して、「フォームの改造は今までの野球界の常識にはなかったことで、聞く人もいませんでしたから、先生と僕とで作ってきたのです」とのコメントを聞いていると思わず胸が熱くなった。

 桑田選手のひたむきな努力と志に心からの祝福を送りたい。

 もう1つは、何年ぶりかに中健二郎氏から電話をもらったこと。中国、東南アジア、印度各地を20年以上も廻り、あちこちで深い交流のネットワークを作り上げている中氏は特に気功に詳しい人物だが、中氏というと、あの群を抜いた人としての好感度が何よりも印象的である。見知らぬ、人家も稀な地で身をまもるのは、何よりも人としての感じの良さだろう。その天性の財産を持たれている中氏は、今後日本と中国や東南アジアを結ぶ大きな役割を果たされることになると思う。近々お目にかかれることを心から楽しみにしている。

 技の方は、光岡氏から学んだシラットのスリーカウントを応用して、一昨日明らかな進展があったが、今日も発見が続く。相手の攻撃を払う手の交叉が上になるか下になるかで、これほどの大きな違いが出るとは!秘伝や口訣というのは確かにあったのだとあらためて思う。

以上1日分/掲載日 平成14年9月8日(日)

2002年9月11日(水)

 忙しいというようなものではなくなってきた。今は明後日と期限がハッキリしている『武術の新・人間学』の再校ゲラの赤入れをしているのだが、その上にあちこちに送る約束をした資料や手紙に追われているところへ取材の問い合わせの電話やら何やらが何回も入る。以前私が何度も読み込んだ大本草創期を描いた大河小説『大地の母』のなかに、そのどうにもならない忙しさの表現として、「堀端で合羽屋が合羽を干していたら、突風が吹いてきて、慌てた合羽屋の親爺があっちを押さえこっちを押さえしているうちに自分が堀へ落ちてしまうようなもの」というユーモラスなものがあったが、突然そのことを思い出し我ながら笑ってしまった。

 何しろついこの間まで優先順位を考えているといたずらに時間が過ぎるので、「思い出し順」としていたのだが、そうすると以前はまず決してなかった最も急がねばならない用件をポッカリ忘れていたりする。(メモしておいてすらそうなのだ!)それで優先順位表を作りかけたが、その作り始めた端から又用件が入ってくる。それでも忙しいなか今日これを書いているのは、私と何か約束をされた方に今一度日時の確認をして戴きたいからである。

 どうか9月、10月中(取り敢えず)私と何か約束をされている方は、ダブルブッキングを防ぐため、もう1度御連絡を頂きたい。ただ、こうしたビデオの早送りのような日常の中でも畏友諸氏と電話で話したり、御手紙を戴くのは嬉しいし、ありがたいものである。

 あらためて分に過ぎた方々との出会いに恵まれたことに感謝したい。

以上1日分/掲載日 平成14年9月11日(水)

2002年9月13日(金)

 早送りのような日々の中、そこだけ切り取られたような時間が生じることもある。昨夕から深夜までの約6時間、中国のH氏、通訳のS氏、随行のH女史が来館。

 内家拳の練功を積んだH氏の技の一端を体験させて戴いたが、とても人とは思えないほどその功夫は凄まじかった。板壁に畳をたてかけた所への発力は、三寸角の柱3本が入っていた四畳半ほどの面積の板壁が目で見ていて明らかにそれと分かるほど撓んだし、私よりも大きくなった長男は、豹に襲われたカモシカのように振り回され、飛ばされていた。只、この長男をH先生はひどく気に入って下さり、「是非私が教えたい」と何度も何度も誘って下さった。私も手を合わせさせて戴いたが、触れた瞬間の感覚は今まで1度も体験したことのない、ある圧倒的な違いを感じさせるものだった。ただ、食事を一緒にさせて戴いている時など非常ににこやかで、それだけに技を使われている時の表情の厳しさは一層際立っていた。

 H先生の功夫には深く打たれたが、その変化の多い動きの中でも体幹部が捻れることは全くなく、又ウエイト・トレーニングなど器具を持つと全体の動きのバランスが崩れるので、そうした物は一切持たず、歩法と套路で練るということなど共感するところも多く、私としても得るものは非常にあった。又、H先生は、私の剣術、杖術には目を光らせ、もとより外交辞令もあるだろうが何度も賛辞を戴いた。又、手裏剣術も試されたが、一間くらい離れると剣が回転して刺さらないので「これは難しい」と諦めの表情を笑顔で包まれていた。

 このH先生の来訪も突然決まった事だったが、今日のTVの録画撮りも降って湧いたような話だった。巨人の桑田投手の投法に関して様々な事が取り沙汰されているようなので、いつまでも逃げてもいられまいと思い、又、交通整理をしておく必要を感じたので、今回は『スポーツうるぐす』への出演を決めたのである。

 今回のTV出演に関しては、それによって私がマスコミの渦中に晒されることを気遣う桑田氏の電話の声に深い私への配慮を感じ、今まで散々苦労をしてきたであろう桑田氏の胸中を思い、フト胸が熱くなった。そして私も私に背負えるものがあれば、彼の荷の一部を背負って支えていこうとあらためて思った。

以上1日分/掲載日 平成14年9月14日(土)

2002年9月17日(火)

 14日の稽古では、H師に教示された歩法の意味の深さにあらためて驚く。腰や背の形など私が今までやってきた日本武術の姿勢と全く違うように思えるが、かつて私が鹿島神流を学んでいた時の裏太刀の姿や、今私がやっている杖術などともよく検討し見直してみると共通点も多い。しかし、伝統の威力ともいうべきか、H師に教示された歩法は、私が今後10年考えても恐らく気付かなかった巧妙さがある。先日のシラットのスリーカウントの手法といい、やはり先人が工夫した技術というのはホンのちょっとした違いが天地の違いというほど大きなことがある。これは、卑近な例でいえば、両腕を前に伸ばし、手首の辺を交叉させて両手の指を組み合わせた時、その組み方が指ひとつズレるかどうかで合わせた両掌を顎に持ってきた時、人さし指を顎の先につけ、指をパッとほどくと左右に掌が分かれられたり分かれられなかったりする事に似ていなくもない。これなどは一場の余興だが、武術の場合は原理としての術理を知っているかどうかは相手にやられるかどうかを分ける事になろう。

 こういう体験をすると、“基本”ということについて、あらためて考えさせらる。もちろん単純に「基本は大切だから繰り返し反復稽古して身につけよう」などという言葉には今も大いに疑問があるが、確かな技術と指導力のある人物から“基本”をシッカリ指導されたらやはり違うだろう。(もっともこの事は以前から言っていたが、最近すぐれた中国武術の指導者に親しく接する機会を得てあらためて思う)しかし、それは日本の武術(特に型稽古主体)にありがちな攻撃側が「もしここでこうしたら、ああしたら」と様々な攻撃方法を変化させた場合、対応出来なくて「そういう指導者が困るような攻撃や質問はやってはいけない」という暗黙の御約束が出来ているような状況下では、この「基本の大切さ」など、どうにも説得力がない事は言うまでもない。そんなことを考えながら14日夕方からは瀬田の整体協会稽古場へ。名越氏らと待ち合わせて野口裕之先生の許へ伺う。

 この日は翌日15日熱海で全国のびのび剣道学校での講座があるので11時過ぎには私1人早退させて戴こうと思ったのだが、話は異常なほど盛り上がってしまい抜けるに抜けられず、野口先生の許を名越氏らと辞したのは午前1時をかなりまわっていた。この夜はとにかく裕之先生の自覚のなさ(御自分が天才であることの)があらためて明らかになって不思議な感動があった。なにしろ「そこがまさに天才」と我々が思うところが、裕之先生にとっては劣等意識となっているらしいのだから。「天才は我にかえらない」とは名越氏の大名言の1つだが、あらためてその言葉を実感した。

 帰って午前3時頃、録画してあった「うるぐす」を見る。まあ好意的にまとめてもらったらしい感じはするのだが、私の術理の解説が全くの的外れなのにはいささか呆れた。私の術理が分かりにくいにしても、多少ものの道理について考えれば、遠くからの体当たりで動かぬ相手に、それよりも近くから当たって動きがコンパクトになったから威力が出るなどとまるで説明にならないことが言える筈はない。

 私は「近くからでは普通なら威力が出ない筈ですが、動きをロックするから威力が出るのです」と解説したはずである。又、体を細かく割り捻らないとどういう意味があるのかという事に関して、かつて江川氏が、桑田氏が私から聞いてホームページに書いている魚の群れの譬えに関して、「瞬時に魚が動けるのは水中だからで、陸上にいる我々は出来ない」といった意味の発言をしていたが、だからこそ私は「膝を抜き、鳥や魚のように体を浮かすのです。そして、その稽古があの桑田さんの折れたバットよけにもつながったのでしょう」とまで説明しておいたものも全く使われていなかった。まあ悪意はなかったと思うが、特に忙しいなか無理無理2時間とったのに、あそこまで理解されていなかったのかと思うとガックリである。

 このガックリさを味わった後、15日16日と伺った網代での全国のびのび剣道学校では、予想以上に多くの方々から私の動きに関して積極的な関心を持って戴きありがたかった。いろいろお世話をおかけした坂上康博先生とスタッフの方々にあらためて御礼を申し上げておきたい。

以上1日分/掲載日 平成14年9月18日(水)

2002年9月20日(金)

 H先生から教示された内家拳の歩法を工夫して稽古していたためだと思うが、昨夕、恵比寿の稽古会に出かける前頃から腹部全体がひきつれるように痛みはじめる。まあ行って稽古すれば直るだろうと思って家を出た。しかし恵比寿に着いて稽古を始めたが、いっこうに痛みは去らない。理由は尻餅をつきそうでつかないような、その腰つきのせいらしい。この腰つきで腰腹に強大な城のような構えを作ると技の効きが今までに比べ確かに一段は上がってくる。

 手は軽く、しかしアソビをとるようにしておいて、一段とアソビのなくなった腰腹で動き、一気にロックをかける。相手になった人達の崩れ方が今までとは違っていることは、相手にも私にも確かに分かる。そうなると腹のひきつるような痛みがあっても、その動きが止められなくなる。

 普段はほとんど意識することもないのだが、こういう自分をみていると、武術の研究の為なら身を削ってもいいという私がいることに今更のように気付かされる。その昔、鹿島神流の国井道之先生の噂を耳にした時、「もし今そんな人がいるなら、命なくなることを覚悟しても会いに行きたいものだ」と思った自分をふと懐かしく思い出した。

 しかし、私の武術研究は本当に試行錯誤の連続だった。その昔、肥田式強健術を知り、腰を反らす事に凝りに凝った結果、とうとう腰椎2番と3番が圧迫されて歪み、尿が出なくなって、言葉で言い表せないほど苦しんだ事があったが、今回はその反りとは正反対の形をとっての副作用である。つくづく私のなかにある武術家の業の深さを感じる。

 帰宅してから深夜、中国武術に詳しい岡山の光岡氏と電話で話をしたが、光岡氏曰く、「甲野先生は勁道が感じられるので、体の練功がその動きに耐えられるように育っていない段階でもある程度使えるため、そういう事になるんでしょう」とのこと。

 まあ私としても「やり過ぎないように」と思ってはいるが、今までにない手応えというのは、どうにも魅力的で、ついついやってしまいそうである。 

以上1日分/掲載日 平成14年9月20日(金)

2002年9月25日(水)

 「わが宿の さびしさ思へ 桐一葉」

 というのは、確か松尾芭蕉の句だったと思う。秋の気配の深まりと、祭りのあとの虚しさが交錯したためなのか、昨夜、巨人の祝勝会をテレビで見た後、急速に我に返ってしまった。
 今年は桑田氏の事があったため、生まれて初めてプロ野球が人ごととは思えず、ここ数ヶ月間テレビで試合をしばしば観たが、今は何か全てが遠い遠い感じがする。

 秋ももう少し深まって11月頃になると、その昔、香取神宮へ1人出かけた時の事を思い出す。思えばあの頃の探究心は只事ではなかった。もしあの頃の私が今の私と出会ったら、貼り付いて離れなかっただろう。あの頃の私に今の私が知り得た術理や稽古法を教えたらどんなに喜んだろうに、と何か昔の自分の姿がまるで夭折した我が子を思うような感情で思い出されてくるから不思議である。こんな時、こんな私の気持ちを話したり、手紙に書いて理解してもらえる畏友が存在することは、何にもましてありがたい。そして武術の稽古が出来る事と・・。

 今月の中旬、道場に来て下さったH先生に触れてから、今更のように自分の功力のなさを自覚し、人から見れば地味で地道と思われるだろう稽古を、このところ毎日しているが、毎日言葉になりにくい発見があり、「こういうベーシックなことをどうして今まで気付かなかったかなあ・・。」という思いが湧いてくる。これによって今までも散々変わりに変わってきた私の稽古法だったが、又々変わりそうだ。ただ、回り道はしたが、もし有効な方法を最初から教わっていたら、体を捻ることの問題点といったことを深く自覚することなく、いつのまにかそういう捻らない身体になってしまっていたようにも思う。

 私の試行錯誤の変転に変転を重ねてきた稽古体系が、そのお蔭で捻ることの問題点などを強く自覚することが出来、それによって新たな体の使い方のヒントを得た人も出たのだから、これはこれで私の役目だったとしか思う他ないだろう。(これを書いていて人間というのはどうしても自己肯定したがるものだとあらためて苦笑する思いだった。)

以上1日分/掲載日 平成14年9月26日(木)

2002年9月27日(金)

 夕刻近く家を出て、まず岩波書店で本の企画について、旧知のK氏の紹介で担当編集者の方々と話し合う。その後、この岩波書店の主宰で開かれた『市川浩さんを偲ぶ会』に出席するため如水会館へ。もう十年ぶりとか十数年ぶりといった顔見知りの方々にも何人かお目にかかったが、年月の経過は夢のようで、お会いしても中々それと分からなかったりする。ただ何人かの方々の市川先生(哲学者で明治大学教授を務められていた)との思い出を語られるのを聞きながら、私が今日得難い方々との御縁を結ばせて戴いたのも、その元の元は市川先生との御縁から始まった事が多いことに改めて気づかされた。まるでドミノ倒しの最初の牌が市川浩先生であったような印象なのである。

 例えば、私は非常に多くの縁を解剖学者の養老孟司先生との共著によって得られたが、私が養老先生と対談させて戴くキッカケは、1985年の暮れも押しつまった日、市川浩先生の企画による、私の動きを見、体験する会があり、建築家の磯崎新・彫刻家の宮脇愛子御夫妻をはじめ、F1レーサーの方、読売新聞の記者の方、SFの編集者の方々が私の道場に来られたからである。なぜかというと、この時来られたSFの編集者である志賀隆生氏が、UPUで刊行が決まった『身体の冒険』の中で、養老先生と私との対談を企画されたためである。その企画のお蔭で私は養老先生の知遇を得、3冊の単行本の中で養老先生と対談させて戴き、多くの方々に私の考えを伝えることが出来たのである。

 市川先生は行動の人であった。常に大きなリュックを背負い、足許も運動性のよい靴で、あちこち飛び回っておられた。そのせいであろう、今日も実に多くの分野の方々が集まられていた。会が進むにつれて私も記憶のある何人かの方々から声をかけて戴いたが、彫刻家の宮脇愛子先生は車椅子で来場され、わざわざ人に頼んで私を呼ばれ、久闊を叙して下さり、更にこの日笙を吹かれた宮田まゆみ女史を私に紹介して下さった。宮田女史は、この日2曲笙を披露されたが、その音は空間を泳ぎまわるように右の耳から入ったり左の耳から入ったり、頭の中から鳴り出したりして、その不思議さには驚嘆した。

 そして何よりもこの会に今日出席して、その甲斐があったと思ったのは荒川修作氏のスピーチを聞けたことである。岐阜県養老町の「養老天命反転地」の設計者として知られている荒川修作という人物ほど己の意志を曲げず、己の思いのままに行動する人物を私は他に知らない。天才という言葉はこの人のためにあるとつくづく思う。他人のスピーチの最中も横の人としばしば喋っておられたが、「ああ、この人なら許せる」というより、それも絵になるのである。声は低く抑えられていたのが荒川氏にしては大妥協なのだろう。

 以前、精神科医の名越氏を伴って、この怪物ともいえる荒川氏を、今はもうなくなってしまった九段坂上のフェアモントホテルに尋ねたことがあったが、その時、既に倒れられてしまわれた市川先生のことを、「惜しいことをした」と話されてから、フト私の横に座っている名越氏に視線を転じ、いきなり「お前は誰だ」と問いかけられた。(勿論、最初に名越氏を紹介させて戴いたのだが全く意識の外だったのだろう)その問い方は無礼とか無作法といった浮世の気遣いを遥かに越えた、極めて根源的な響きをもっており、その度肝を抜く問いかけに、明らかに感激の体の名越氏は、「な、なこしと申します」と、どもりそうになりながら答えたところ、すぐ「何をしている」と次の問い。「精神科医をやっております」と、名越氏。すると間髪を入れず、「精神の死んだ時代に精神なんてやって何になるんだ」と畳み掛ける荒川氏。あまりの見事さに大感激していた名越氏の横顔が今でも思い浮かぶ。私は目の前で本当に力量のある禅僧が行なう問答を天然物として聞いた気がした。名越氏も「人と会ってあんなふうにシビレたことはなかった」と語っていたが、それはそれは見事な一場の活問答だった。

 こういう人物の言動を間近で見ていると、自分の凡庸さが本当にイヤというほど思い知らされる。今でも時々名越氏と荒川氏の噂をすることがあるが、我々がこの人物を語る時、他のいかなる人とも違うことは、“先生”とか“さん”といった敬称をこの人物の後に付けにくいことである。つまり、あまりにも世間的スケールから人物がハミ出しているので“さん”と気安く呼ぶことも出来ず、かといって“先生”といった敬称ではこの人物を世間的常識の枠に入れ、卑小に評価してしまう気がする。仕方がないので“荒川修作”と、あたかも歴史上の人物を語るかのように敬称抜きで話さざるを得ないのである。

 とにかく遥かに世間の規範の外に居ながら、本当にギリギリのところでそれこそ糸の1本で世間の規範内に何とか収まっている人物(と呼んでいいのかどうか、とにかく生命体であることだけは間違いないと思うが・・)なのである。この人物と会うと、間近に居させて戴くだけで猛烈にゆさぶられる。こんな人物とずっと毎日のように議論したという(しかも意見が全く一致しないことも多々あったという)市川先生は、やはりタダモノではなかったのだとあらためて思う。

 私も主催者側からの依頼で、市川先生の思い出を話し、数本刀を抜かせていただいたが、気合をかけた時、頭で余計なことは考えず、この動きを研き上げれば何とか荒川氏に対抗出来るかも知れないと思えた事が収穫といえば収穫だった。お蔭で、数日前から落ち込んでいた穴からスポッと抜け出すことが出来た。ああ、この思いを名越氏に話したい・・。

 会の後、家路に向かうのに急行等に乗らず、各駅停車に揺られながら今これを書いている。

以上1日分/掲載日 平成14年9月30日(月)

2002年9月28日(土)

 人生というのは明日起こる事は分からぬものだ。ところが起こってみると妙に納得させられたりする。

 昨夜、市川先生を偲ぶ会の宴も酣であったと思われた時刻、昨日の時点では翌日、すなわち今日のその時刻は私の道場での稽古が終わったかどうかという頃であったと信じて疑わなかったと思う。ところが今いる場所は越後湯沢に向かう「特急はくたか」19号の車中である。

 昨夜、“偲ぶ会”が終わって帰宅。風呂から上がってすぐ父の兄である伯父が息を引き取ったとの報が入ったのである。時間は11時半をまわっていたと思う。すぐに能登半島の付け根にある実家に車で向かうという従兄弟に父も同行するという。現在の私の日程を5分ほどの間にめまぐるしく頭を回転させ、老齢の父の付き添いということも考えて、私も同行することを決める。すぐに土曜の稽古の実質的とりまとめ役のI女史に電話で状況を話し自主稽古会として、大急ぎで仕度を整え従兄弟夫妻のワゴン車を待つ。そして午前1時20分出発。中央高速で信州に入り、そこから新潟、富山を一気に抜け、父の生家に9時少し前に着いて伯父の遺骸に線香を手向ける。

 寝たり起きたりの生活が、急にこのところ起き上がれなくなっていたとはいえ、まだまだ大丈夫という様子だったとの事だっただけに誰もが戸惑いの中にいた。そのため通夜も告別式も遅れるとの事。せめて通夜だけでも出ようと着換え一式を用意してきたのだが、その通夜に出るにも二泊せねばならないとなると私をインタビューして雑誌づくりを企画している方をはじめ多くの人達に迷惑をかけてしまう。どうするか迷ったが、線香をあげさせてもらった事で私の気持ちもひとまず収まったので帰ることにした。そして、東京までバスや列車の乗り継ぎが最も都合のいい時間を教えてもらうと、まだ3時間ほどある。そこで、50日ほど前にやはり亡くなった父の親友で、私も2度ほど伺ったことのあるO氏宅とその裏山にある墓所に父と参拝に伺うことにする。

 十村という他藩にはなかった十ヶ村の庄屋を束ねる家柄であったO氏宅は家の前に堀があり、二抱えも三抱えもあるような杉やケヤキが邸宅内に生えているという広壮なもので、一間幅の畳廊下の長さは十間もある。このO氏家に来て墓所に頭を垂れた時、突然この唐突な北陸への旅の意味が、20数年前の秋、私が香取神宮へ参拝しに出かけた時と同じ意味があったことを悟り、何かすべて納得できた思いだった。

 昨年の秋、母を亡くして、死んだ人には活きている人間にはない力があることを実感したが、今回伯父とO氏の死によって再びその事を実感した。そして帰途、ここ数日私がずっと気になっていた事、気になっていた人からの電話が留守電に入っており、私の気づきは確信に変わっていた。

以上1日分/掲載日 平成14年9月30日(月)

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