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2004年7月2日(金)

 29日の夜、帰宅。今回の旅先でのさまざまな出会いについて書きたいと思い、現に書き始めているのだが、まとまって書く時間がないため、まだ詳しく今回の旅先での驚きの出会いについて書くことが出来ない。というのも、帰宅してみると様々な依頼やら、やりかけの仕事が貯まりに貯まってきていて、しかも雑誌のインタビューなど待ったなしの仕事が入ってくる。インタビューは昨日連続して2件、1時間の時間差は一応つけてあったのだが、私の用件が次々に入ってくるので、前半の方と後半の方とまとめた合同インタビューとなってしまった。
 それが終わったところで、東京新聞から私の親や祖父母に関するインタビューの申し込みの電話。当初は多忙を理由に断っていたのだが、「どこへでも伺います。講座の合間でも…」と食い下がられ、とうとう面倒くさくなってきて受けてしまう。最近は断るという事もエネルギーを使うものだという事が分かってきた。
 そこで、ふと思い浮かんだのだが、大河小説『大地の母』に出ていた、昔、大本の出口王仁三郎が気に入っていたという呑気な茶店の看板「じつにまずい字でこう書いてある。『酒、肴、あったりなかったり』」私も取材やインタビューは皆受けて、ただし、「出来たり出来なかったり」とでもしようかと思う。何しろ記憶していなければならない人との約束が、私の頭の容量を完全にオーバーしてきているからであり、誰かを情報整理係として雇おうとしても、雇った人が居る場所もないし、段取りを教えることも面倒だからである。
 取材等の依頼を受けて、特にやりたい事、印象に残った人以外は、私がヤル気になったらやる。とでもさせてもらおう。全くもって無責任な方法だとは思うが、無責任な人間だと呆れてもらい、取材が減りでもしないと、この先心身共に持ちそうもない。

 現在、私が8月か9月頃、何か企画に乗るような返答を受け取られた方は、あらためて私に確認を取って頂きたい。
 さて、明日、明後日と仙台での稽古だ。

以上1日分/掲載日 平成16年7月3日(土)


2004年7月4日(日)

 7月3日4日と仙台で稽古。今回は、抜刀術から体術への展開に、いくつか見るべきものがあったが、これも先日6月24日から29日にかけて、関西・四国・中国地方での講座や出会いが少なからず影響を与えているように思う。
 この旅は、思いがけぬ事や、予想はしていたが予想以上の事がいくつも重なり、現在置かれている私の忙しさの状況を思い出す暇も殆どない有様だった。(そのため、今回の旅に持って出た原稿の続きが全く進まなかった)
 思いがけぬ事の1つは、四国の講座の世話人を今回も務めてもらった守伸二郎氏のところへ、家伝の夢想願流の絵伝書について問い合わせをされた方があり、送られてきた伝書は松林家に伝わるものとは全く違う筆致ながら、技の形や名称が同じで、これには感動した。

 予想以上の事もいくつかあったが、そのなかでも武術の技に関する事では、伊丹在住のT氏の手裏剣術の打法が、私の想像を越えるものであった事は大きな収穫だった。このT氏は、10年以上も前から、私の関西の稽古会に時々出て来られた方で、私よりひとまわり以上年長の方で、あと数年で古希を迎えられようという年齢ながら、お若い頃から空手や拳法の鍛錬に日を送られたようで、多くを語られなかったが、その眼光や物腰には只ならぬ修練の後がにじみ出ていた。
 このT氏が、私の演武した手裏剣術に強く関心を持たれ、独自の修練を始められていた事は知っていたし、はじめの頃、私が用いている剣とほぼ同形の八角先太の剣を炭素鋼の丸棒からヤスリだけで削り出され、そのヤスリの削り屑がバケツ1杯ほども溜まったというお話しに、T氏の集中力の凄まじさを感じていたが、ここ数年は殆どお会いする機会もなかった。
 ただ、私との共著『武術の創造力』の著者である、作家の多田容子女史が、よくこのT氏の許に通っていろいろ教えを受けていて、時折話を聞くことがあり、最近T氏が滑空打法と名づけた、剣を弓の矢のように飛ばす方法を確立されたとの情報に接したので、それは是非1度拝見したいものだと思っていたのだが、今回、『武術の創造力』文庫化に伴い、写真を新たに関西のT氏の近くで撮り直す話が出たため、これは是非何とか時間をとって、T氏の技を見せて頂きたいと多田女史に連絡して、T氏に久しぶりにお会いすることが出来た。

 あいにく、当日は雨で、T氏が普段稽古に使われている青天井の駐車場では打てないため、写真撮影用のマンションで実技を見せて頂いたのだが、はじめは3間あるかなしの距離であるため、飛行軌跡がよく分からず、T氏が創出されたという滑空打法は今ひとつ分からなかった。
 しかし、この手裏剣を打つ場所がマンションで、2つの部屋の端から端まで使わざるを得なかったため、間に鴨居があって上段から斬り下ろすように剣を打つと、どうしても鴨居が気になる。その事が気になって、いろいろと考えながら、T氏の打法の解説を伺っているうちに、実際にT氏の6間(約11メートル)以上を糸を引くように飛ぶという滑空打法そのものを見た訳ではないが、「なるほど、そうか」と俄かにT氏の打法が私の中にストンと落ちるように納得出来たのである。そして、その時から私の打法は、T氏の滑空打法の影響を受けた、新たな打法へとその形を変えていったのである。
 私が新しく気づいた打法がT氏の打法とも違うのは、T氏が滑空打法の特色として手之内が汗などで粘ると打ちにくいと語られていたのに対し、私が新しく気づいた打法は、今まで散々悩まされてきた手之内が粘った時の打法としては、従来工夫してきたものより遥かに有効で安定性があるからである。
 T氏にお目にかかった翌日、四国で会があったのだが、そのおり5間以上を、その翌日の大阪で6間を、いずれも酷く汗で手之内が粘った状態で何本もかつてない安定さで通すことが出来た。その際の飛行軌跡は、話に聞くT氏の矢のような直進とは異なる従来の直打法の軌跡に近いものではあったが、明らかに剣の首落ちの度合は少なかった。

 このような事実を我が身で体験すると、つくづく専門家の陥りやすい常識の落とし穴、別の言葉でいえば専門家の奢りということを考えさせられた。なにしろT氏が、この滑空打法の創出に取り組んだのは、かつて私が「時代劇などで飛んできた手裏剣を躱したら、2間ほど後の塀や立木に突き刺さるなどという事は在り得ない。もし、そこに刺さるのなら、体を躱した時は、まだ剣先が先端を向いていない時だから」と話した事を聞いたのがキッカケで、「本当にそうだろうか。剣を矢のように飛ばすことは出来ないのだろうか」と疑問に思われ、そのことを身をもって解明すべく齢60歳で発奮。それまで修練されてきた空手や拳法の動きを工夫し、特に指先を伸ばして突く貫手の動きを応用し、何年かかけて遂にこの滑空打法を創出されたという事を、その時伺ったからである。
 「負うた子に教えられる」という諺を、T翁とも呼んでもいいT氏に用いるのは失礼だが、私が手解きをした方に逆に教えられるというのは、術技、技芸の道では当然あって然るべきとはいえ、これほど目覚しい例はちょっとないと思う。ただ、きわめて稀な事とはいえ、この例を見ても明らかだが、ホンのひとときの接触で、あるヒントを得たことから、大きな成果を産み出すことは在り得るのである。したがって、私が常々言っていることだが、僅かに1回講座等に出られただけでも、そこからそれまで全く考えつかなかった技を創出展開できる可能性はあるのであり、いわゆる真面目な反復稽古が更なる可能性を見えなくしている事は十分に考えられる。
 この一事をもっても、「基本をしっかり身につけよう」という言葉に呪縛され、いたずらに無為な時を送っている人も多いのではないかと思う。もちろん、だからといって自由な発想による稽古は、稽古内容を伴わぬのに夢ばかり追い、自分の思い込みで出来たつもりになるという危険性も待ち構えている。
 以前、私の所に来たある居合の愛好者は、自分が剣術に仕掛けられても間に合うと信じ込んでおり、試しに私が袋竹刀で打ち込んでいくと簡単に打てるのだが、その時のコメントが、「今の先生の打ちが外れていれば僕の勝ちですよね」というもので、その後何度か形を変えて打っても「もし今〜なら僕の勝ちですね」という主張を繰り返すばかりで、さすがにこの人物には私の方が苦笑いせざるを得なかった。この例は極端にしても、居合や手裏剣術など1人での修練を主とするものは、いわゆるオタク的な思い込みの世界に入りやすいだけに、十分な注意が必要となる。
 そうした中にあって、T氏の御努力は特筆に値する成果といえよう。心からの讃辞を捧げたい。

以上1日分/掲載日 平成16年7月5日(月)


2004年7月7日(水)

 7月6日の、このホームページのアクセス数は1日で遂に空前の4136.今更のように『徹子の部屋』の影響力の大きさを知る。お陰で、いろいろな方から感想のお電話やFAX、又ホームページの管理人へのメールなども頂いたが、私が番組の最後に述べた、現在の少年少女のスポーツ指導者の酷さについては、深い共感を示して下さる方が何人もいらした。
 『徹子の部屋』への出演依頼が来た時、まっ先に、現在の少年スポーツの見るに耐えない現場の酷さが浮かび、「この事は是非言わせてもらいたい」と思って、そのことを条件に受けたので、私の思い入れも格別強かったため、この私の思いに共感して下さった方がいらっしゃったのだと思う。
 願わくば、私への共感を示されるだけでなく、どうしたら、このスポーツに一生懸命取り組んでいる少年少女が大人の権力志向と支配欲の犠牲にならず、もっと活き活きと活動出来るか、その方策を真剣に考えて頂きたい。こういう事に関して文部省とか教育委員会は全く当てにならない。
 とにかく、目を覆い、耳を塞ぎたくなるような、少年少女の全人格を否定するような愚劣な指導が、現在も日本中の小・中学、高校、又リトルリーグをはじめとする各種のスポーツクラブや、剣道、柔道、空手等の武道場等で行なわれているかと思うと、本当にいたたまれない気分になる。
 馬鹿な、そして権力欲にまみれた大人が実権を握っているなら、登校拒否、登クラブ拒否、登道場拒否する方が、まともな感性だと思う。とにかく、事ここに至ったら、もう学校制度をはじめとする既成の諸団体の在り方を根本的に改め、私塾を多くし、学ぶ者が優れた指導者を探して就ける教育システムにするべきだし、それしかないと思う。
 私は最近種々のスポーツ競技関係者から、体の使い方についてのアドバイスを求められ、それに応じ、それなりの成果も出しているが、諸欲にまみれた大人のスポーツ指導者を多くの少年少女が拒否し、その結果、日本がオリンピックに送る選手が育たなくなったとしても、人が人として、まともなプライドを持ち、その結果そうなったのだとしたら、そうした国となった日本の方に、より一層魅力を感じる。このような意見を私がいま持つに至った事については、私の最新刊で漫画家の井上雄彦氏との対談共著『武』(宝島社刊)の中にも、その兆しが出ていると思うし、更に『スプリット』(「時には母のない子のように」で大ブレイク、その後ロックの女王と謳われた歌手のカルメン・マキ女史と、いまフジテレビの話題の番組『グータン』でブレイク中の精神科医、名越康文氏との鼎談共著)では、人間そのものについて、普通ではちょっとない掘り下げ方で話をしているので、私に御関心を持って頂いた方には、是非お読み頂きたい。その他、私の考え方に関心を持って下さる方には、PHP文庫の『自分の頭と身体で考える』(養老孟司先生との共著)、『古武術からの発想』、『表の体育・裏の体育』、又、『古武術に学ぶ身体操法』(岩波アクティブ新書)、『武術を語る』(徳間文庫)等にも目を通して頂ければ幸いである。

 それにしても、昨日、今日のわずか2日間で、文庫化の本の制作段階での確認が2本、単行本の制作中の連絡が3本、新聞雑誌のインタビューの確認が3本、講演・講座の確認が数本が、電話、FAX、郵便で続々届く。話を聞き、目を通せば、「ああ、こんな依頼もあったな」とは思うが、とても全てに応じきれる状態ではない。
 今後、私に何か依頼をされ、私が引き受けるような返答をしたとしても、もう断る気力もないためと御判断頂き、よほどの例外を除いては本気にしないで頂きたい。この事を、あらためて各方面の担当者の方々にお願いしておきたい。
 そして、どうか現在の愚劣な少年スポーツの現状改革の志を持つ方、また、かつての宗教にかわる権威を持ってしまった"科学"を等身大の方法論の世界に帰したいと思っている私の思いに共感して下さる方、これらの事に関して具体的改革運動をして下さる方が1人でも多く出られる事を心から願っている。
 私は、いま述べた2点に関して、私の言動がひとつのキッカケとなって、世の中に改革の動きが出れば、それで十分に満足であり、そこでも先頭に立って旗振りを行なうには、身体が持ちそうもない(勿論、情況によっては、ある程度やらざるを得ないかも知れないが)。出来るなら、今後は極力、私が本当に書きたいと思っている本を書き、探究したいと思っている世界を探究する方向に行きたいと思っている。そうでもしないと精神的にも肉体的にも、私自身もう持ちそうもないので、どうか御理解頂きたい。

以上1日分/掲載日 平成16年7月7日(水)


2004年7月13日(火)

 7日は、さいたま芸術劇場へ、ピナ・バウシュとブッパタール舞踏団の日本公演、それも"日本"を取材してつくられたという新作『天地』を観に行く。この新作に関しては、昨年11月、私も招かれて行なったワークショップの動きも取り入れられているとの事。
 ただ、そうした事よりも、深みのある齢を重ねられているピナ・バウシュ女史にお会いしたいという思いがあって、土砂崩れ状況の用件には目を瞑って、夕方、与野本町駅近くの芸術劇場に向かう。
 舞台では、あるいはこれが私の動きを参考にされたのか、というものもあったが、終了後、楽屋に招かれ、ピナ・バウシュ女史から私に贈る旨の為、書の入った写真集を頂き、約7ヶ月ぶりに私のワークショップに参加された団員の方々とも握手をかわした。
 こうした時、英語とフランス語に不自由がなかった母に、子供の頃もっと語学を教え込んでおいてもらったら良かったと、つくづく思う。もっとも母は、当初熱心に私に英語を教え込もうとしたのだが、その熱意の度が過ぎて、私がすっかり嫌になってしまったのである。もし母に教え方を工夫する才能があり、自然と私の興味を育てるようにしてもらったら、日常会話程度は出来るようになっていただろうと思う。その母も、既にこの世を去ってやがて3年。月日の経つ早さは年々その速度を増している。

 それにしても『徹子の部屋』の影響力は恐ろしい。この日、さいたまへの往復の道で、「昨日、『徹子の部屋』を観て、本を2冊買いました」という人を含め、3人の見知らぬ人に声をかけられた。

 8日は、ネコ・パブリッシングから刊行される本に関しての取材を受ける。中国武術にも思い入れが深く、中国での散打大会で活躍されたO氏との対談をメインに実技を交えながら話しているうち、O氏の誠実な人柄に感応して話は4時間に及んでいた。

 その後、40分ほどの間を置いて、晶文社の安藤氏来館。ずっと止まっていた神戸女学院大学の内田樹先生との対論本の原稿書き。S女史にある程度まとめてもらったものに大量の加筆。編集者を目の前にして原稿を書くという経験は少なからずあったが、約4時間ぶっ続けでという例はちょっと思い出さない。しかし、それが出来たのも、安藤氏の編集者としての御人柄と力量のお蔭だと思う。こうした編集の方に、わざわざ時間をとって頂くと、「やらなければ」という気になってくる。やはり人間のやる仕事は、その事に関わる人の熱意やセンス、志によって大きく左右されるものなのだという事が実感された。

 9日は、家の近くの、かつて長男が世話になった小学校からの依頼で、武術の動きと、その応用について6年生を対象に講座。時間が1時間程度で、体育館内は35℃くらいの暑さだったから、大した事も出来なかったが、それなりの関心は持ってもらったようだ。
 この日は、その後池袋コミュニティカレッジ講座だったが、その前後に会場で新たな企画の相談を受けたり、東京新聞の取材と写真撮影があったりした。

 11日は、千代田での会だったが、その前に浅草の宮本スタジオで、和太鼓の打ち方について、打楽器奏者で広く活躍されている仙堂新太郎先生からのお話しのあったミニ講座に臨む。和太鼓は、その昔、祭りの折に2,3回打ったことはあったが、どうしたらより良い打ち方が出来るのかを真剣に問われて、その問いに答えるべく太鼓に向かうのは全く初めての経験だった。
 ただ、仙堂先生は、最近の和太鼓奏者が、走りこんで体力をつけても、太鼓を打っているうちに体を傷める奏者が多く、その原因が本質的な太鼓の打ち方が失伝し、西欧スポーツ的な方法で太鼓を打っているからではないか、との疑問から、私を招いて下さったので、武術の立場から私自身気づいたことを話しながら、実際に太鼓を打ってみたところ(私には、それは自然だから、そうやったに過ぎないのだが)、仙堂先生には喜んで頂けたようだった。

 その後、千代田区総合体育館での術理解説の講習会へ。今回も多くの方々が来られていて、いろいろな質問を受けて体を動かしたが、私自身一番印象に残ったのは、ある施設の職員の方から出た質問に答えた時だった。その質問とは、知的障害者を連れて散歩中、何らかのキッカケで、その障害者が道に横たわり、起こそうとする手をはねのけて、その場を動こうとしない場合、「何とか無理やりという感じがなく、その場から連れ帰ることは出来ないでしょうか?」というもの。その話を聞いているうち、フト思い浮かんだ事があったので、直ぐに試みてみた。それは、横たわっているその障害者役の方が、私の手をはねのけようとした時、その横たわっている人を越えるような形で前受身をとって(ちょうど柔術の横落としをかけられて投げられた形となり)、そのまま相手を巴状になって絡んで相手を浮かし、その一連の動きの中で相手を立たせて連れ去るというものである。それが想像以上にうまくいったので、観ていた人からどよめきと拍手を浴びた。
 今まで講座や演武で拍手を受けた事は勿論数多くあるが、今回のような状況下で、思いがけず多数の方々から拍手を浴びた事は全く記憶になかった。恐らく、というより間違いなく拍手をされた方々も、その直前まで拍手をしようなどとは全く考えられていなかったと思う。恐らく、それほど私の動きは意外性があり、又、うまくはまったのだと思う。
 現に私自身、動きの途中までは考えていたものの、その後の動きはまったくの出たとこ勝負で即興そのものだった。

 それにしても、やる事の多いのには、もう半ば以上頭が麻痺してきている。一昨夜もまだ先と思っていた文庫本のまえがきの期限が2日しかないと聞かされ、とにかくそれをやるしかないのだが、その前にやらねばならない事が多く、実際これを書き始めたのは、今日の午後2時過ぎからだった。約2時間で書き上げたが、この他に、かなり切迫した予定で私の意識に上ってきていないものが7つか8つはありそうである。ここしばらくダブルブッキングがないのが奇跡に思える。
 しかし、本来すぐにも連絡をして御礼を言わねばならないといった、かなり重要な用件は既に10件以上そのままになっていると思う。思い当たられる方、誠に申し訳ありませんが、もう暫くお待ち下さい。ただ1本の電話、数行のハガキ、それだけで済む程度とはいっても、そのちょっとが出来ず、ずっと滞っている事が、いま恐らくは100近くあるのですから…。

以上1日分/掲載日 平成16年7月13日(火)


2004年7月15日(木)

 昨日14日は、朝8時すぎに家を出て、水天宮駅に直結しているロイヤル・パーク・ホテルでインタビューを受けた後、かねてから懸案の用件やら急ぎの宝島社の文庫本の校正やらで都内を転々と何ヶ所か回り、深夜に帰宅。
 このように、昨日は終日留守をしていたためであろうか、今日15日は午前中だけで10数件の電話。殆ど話しているうちに次の電話が入り、それまで話していた人とはまた10分後にとか1時間後に、と言って次の人と話していたから、同じ人から2度3度ということもあり、一段落ついた時は既に午後1時近かった。
 現在、妻が旅行中という事もあり、男ばかりで家事もやっているが、当然私が主役にならざるを得ないという事もあって、その忙しさは今年の梅雨のような異常状態が加速中。一昨日も土鍋で雑穀飯を炊き始めたところへ急な用件が入り、15分後台所へ戻ると、何と土鍋の蓋を開けたまま火を点けていた。急いで水を足して蓋をし、何とか食べられる状態のものに炊き直したが、さすがに「これはまずい」と自分でも背筋が寒くなった。
 今日受けた電話のなかの3分の1は、「ああ、そういえば、そんな依頼もあったなあ」という、きわめて心もとない状態。まあ、このような、どうにもならない状態であることを随感録で書きまくっていると、さすがに依頼も減ってくるし、なかには「あまりにお忙しそうなので…」と、1度依頼されていたのを取り消して下さる方もあって、みっともなくても、ここで悲鳴を上げ続けている意味もあると思ったのだが、よく考えてみると「時すでに遅し」というか、既に受けてしまった依頼でも、とてもこなしきれない状況になっているようだ。ここはとにかく成り行きに任せるしかない。

 そんな状態でも、今日も防大バスケットボール部の入江監督が来られたので、少しだけ稽古はする。お蔭で足裏の垂直離陸と抜刀術が今までよりも具体的に結びついた。また、打剣の方は辻本氏の滑空打法を参考にした新打法がいろいろと気づかせてくれる。
 今日一番の発見は、入江監督から質問を受けたクロスオーバードリブルに使える新しい工夫。しかし、出来るには出来たが、これは足腰を現代にあっては、たいへん非日常的に使うもので、およそバスケット・ボールのプレーにこのような方法があろうとは「スポーツ的発想では、まず絶対に浮かばないだろうな」という気はした。

 そういえば、私の事が出ている本や雑誌がいくつか出たようだ。1つは清流出版の『生の科学・死の哲学』(養老孟司対談集)、もう1つは『文藝春秋』8月号(ケッサクな写真つき)です。

以上1日分/掲載日 平成16年7月16日(金)


2004年7月16日(金)

 昨夜というか本日の夜明け前というべきか、午前2時すぎ、大阪の精神科医の名越康文氏から電話。この日、毎週土曜の夜フジテレビ系で放映中のテレビ番組『グータン』の撮りで、青木さやか、辺見えみり両女史とのカウンセリングがあったようだが、今までで最も深い展開となったようだ。つまり、テレビで公開する以上、普通はある種のお約束的展開(登場する人もギャラが出て出演するのだから、自分から診察代を払う現実のカウンセリングとはどうしても違ってくる)となるのは避けがたいものだが、それが実際に問題を抱えて来た人に対する、つまり本物のカウンセリングモードに入りかけたようだ。これは凄いことである。どれほどの名優が演じていても、ドラマでは実際のニュースなどに見られるナマな場面は演じきれない。特に微妙な気まずさなどの感情の変化を表情に出す事は至難中の至難である。
 それと同じレベルとまで言えないだろうが、公開される映像で出演者にそこまでの心境を引っ張り出せたというのは、やはり名越康文という精神科医が努力や熱意ではどうにも出来ない抜きん出たセンスと才能を備えているからであろう。
 電話を聞いていて、私も体が震えてきた。今後、おそらく大ブレイクするだろうが、健康にはくれぐれも注意して頂きたいものである。

以上1日分/掲載日 平成16年7月17日(土)


2004年7月20日(火)

 かなりつめて、この随感録を書いていたつもりだったが、忽ちのうちに3,4日は経ってしまう。この間にもいろいろな事はあった。昨日はTBSラジオBS1『元気e!』の収録に赤坂のTBSへ。(8月14日放送予定)ここで、いろいろな質問に答えているうちに、2日前の17日、二子玉川の身体教育研究所で野口裕之先生から頂いた『教育哲学研究』誌第89号に載っていた野口先生の論考「生きること死ぬこと−日本の自壊」が思い出されてきた。
 明治維新から140年、この間日本が歩んできた欧化啓蒙政策に対する野口先生の怨念にも近い絶望感の深さは、ちょっと比類がないかも知れない。その思いがどのようなものかを知って頂くために、この論考の最初と最後をここに引用させて頂きたい。


生きること死ぬこと−日本の自壊(抄)
一 薄気味悪い笑い

 喩えようもない<薄気味悪さ>に、日本の近代知は到達した。薄気味悪いものに直面しているという意味ではない。歳月をかけて磨かれていった近代知が、その暁に露呈したものは得体の知れぬ<薄気味悪さ>であったというのである。
 昨年の暮に、或る大学病院が告発されるという報道を見た。心臓手術に過誤があったとする遺族側は、その証拠として手術中のビデオテープを入手して居り、その一部が放映されたのである。密室での執刀場面が教材以外で公表されること自体稀であるが、異例なのはこの映像に音声が伴っていたことである。鋭利なメスが身体を切裂き、普段目にすることのない内臓界が大きく映し出される。思いの外乱雑なメスの動きが内臓を抉っていく、どこに過誤があったのか、この際どうでも良いことである。問題はこの手術中の医師団の会話なのだ。<オイ、オイ、そんなことすると出ちゃうぞ><大丈夫、大丈夫イヒッヒッヒッ><いけねえ、出ちゃった、イッヒッヒッ>。僅か数十秒の映像の中で、この<ヒッヒッヒッ>という息を吸い込むような得体の知れぬ不気味な笑いが頻繁に聞えてくるのである。
 もし私に強い嫌悪感が生じたなら、それは単に、人格低劣な医師が、その責を負えばいいと思ったに過ぎぬだろう。そしてこうした劣悪な医師が二度とメスを持たぬように医の倫理を強化すべきであると紋切型の感想を抱くだけである。
 だが、私はその瞬間身が縮み、何一つ言葉が出なくなった。そしてその後重い疲労感と共に、あの薄気味悪い笑いが我が身に纏いついてきたのである。その笑いは画面の向こうから聞えてくるようであって、その実我が身から発しているようにも思えた。それが私に無縁のものであるなどと到底思えなかった。あの薄気味悪い笑いは、確かに私の中にもあり、この国に蔓延しているものであると感じたのである。

(中略)

五 死の風景

 一つの文化を端的に象徴するものとして、誕生と死の風景がある。
 近代国家機構の最大の特色は、市民の凡ゆる自由を認めるということであろう。信仰の自由、表現の自由、しかしいづれの近代国家に於いても決して認められない自由が存在する。それは治療選択の自由なのである。近代実証医学に掛からない病死は、基本的に自殺乃至変死であり、死んだ当人の信念による医療拒絶は裁きようがないとしても、それを看護した家族は自殺幇助の罪に問われる。一体死とは自己の人生の終焉であり、最後の息は子孫に伝える最大の教育である。この最後の息に接して、どれだけ多くの人間が、自らの人生観・生命観・身体観を変革したのか。これこそ文化の伝承の最も重要な瞬間であった。かくも厳粛なる人間的瞬間を、近代国家と近代医学はやすやすと奪い、死を数値に置き換え、遺族に機械の故障箇処を告げ、産業廃棄物のレッテルを貼り、この死を無駄にしない為の部品のリサイクルを奨励するのである。
 周知の通り末期の姿は十本ものカテーテルが差し込まれている。このカテーテルを眠っている時に反射的に取り外さぬ為に、手足をベルトで縛りつけられている老人もいる。医師はこの末期の姿を余儀なくした患者を称して、スパゲッティー症候群と呼ぶのである。
 身体と人生を切り離し、人間の物質化を図り、身体の国家管理を推進する近代国家に於ける死とは、このようなものである。あの<イッヒッヒッ>という不気味な笑いと共に迎える死の光景を、文化と呼ぶものがあるとしたら、その鈍感は嘲笑されるべきであろう。
 文化を自らの手で崩壊せしめ、富と利便を選んだ我国の末路は、この死の風景の中に確かに刻印されているのである。

(引用終)


 いまの時代、ここまでものが見えるという事は、どれほどの苦痛が伴うであろうか。
 私も7年前、『もののけ姫』を観て、人間がやってきた事に何の意味があったのかと、立ち上がる気力も失せる日が続いたが、野口先生のように、具体的に時代の愚行が目に映じ心に写ってくる苦しさは、さらに厳しいものがあるように思う。
 普通、初代が傑出し、二代目はそれを広く一般化するか、穏やかに分かりやすく解説するものだが、野口家のように、大天才を謳われた晴哉先生の後、一般化とはおよそ違った、深く日本の病巣を抉り取るように指摘し続けている天才野口裕之を生み出すという例外もあるのだという事は今まで何度も感じてきたが、この夜久しぶりに又痛感させられた。
 しかし、現代のように加害者と被害者がもはや分離不可能なほどの同化し、止めるに止まらぬ時代の波が我々の足元をおびやかしている時、いったい私個人に何が出来るかと、今まで何千回も繰り返してきた思いにまたふけってしまう。
 そうした時、それが逃げなのか救いなのか分からないが、私にとって追求を諦められない武術の技があるという事は、本当にありがたい事なのかもしれない。

以上1日分/掲載日 平成16年7月20日(火)


2004年7月26日(月)

 24日から講習会で家を出ている。25日は、午前中は名古屋、午後は岡山という、今までにはない強行スケジュールだったが、強い関心を持って下さる方々と接して技を説明していていると疲れも取れる。具体的に、いくつか技の上でも新しい気づきがあった。名古屋では山口氏、栢野氏、岡山では光岡師、守氏、野上氏はじめ何人もの方々にお世話になった。あらためてここで御礼を申し上げたい。
 今の私の技は、足裏の垂直離陸に関連した縦方向の一種の捨身技がメインになっている気がするが、これからは、これが単なる捨身ではないようにしなければと思っている。
 それにしても蒸し暑く、手がベトベト状態で六間からも余力をもって打剣できたのは、やはり感激だった。6月末から大激変した打法のお陰だが、剣の軌跡が今までより明らかに低く、今までのように直立して飛び出し、的近くで剣先を的に向けていく"首落ち"の度合が少なくなってきた。
 この"首落ち"という用語は私の造語であるが、最近、根岸流の飛行軌跡として、ある手裏剣術に関する書籍の中に、昔から使われていた用語であるかのように用いられているのを見かけ、何ともくすぐったい思いをした。この事に関連して思い浮かんだが、手裏剣の飛行軌跡を分類した直打法とか、半回転打法、あるいは半転打法などという用語も、昔は他流との比較研究などという事も出来なかったと思われるので、近代になって出来たものだと思う。恐らくは成瀬関次、根岸流三代師範が、専門家の間でよく知られている『手裏剣』(昭和18年新大衆社刊)を執筆した時か、その前に必要に迫られて考え出したのだと思う。現に成瀬師の意識の中でも直打という言葉は、それほどハッキリと認識されていなかったらしく、『手裏剣』の本のなかで、この直打を「蛇行打」というふうにも表現されている。
 いずれにしても、世に出る、人に知られるという事は、話がドンドン一人歩きをしてしまうものだという事をあらためて感じさせられた。

以上1日分/掲載日 平成16年7月27日(火)


2004年7月27日(火)

 今回の旅は24日に家を出て27日に帰ったから、決して長いとはいえないものだったが、その旅の初日の24日がとても同じ旅のはじめとは思えないほど遠くに感じられたことは、ちょっと前例がないほどである。
 それは多分、まるで印象の違う場所や人に連続的に会ったからだと思う。スポーツでもいろいろな種類、いろいろな立場の人がいるし、ダンスのような身体表現に思いを傾けている方、又、ぬるま湯とか平和ボケとか言われる日本でも、自ら置かれた環境や内面と凄絶に向き合って生きている若者。こういう若者と直接会い、しかもそういう人がにこやかだったりすると、一層心を打たれる。そういう人と深く内面に踏み込んだ話をして、そのことを書いてみたいという思いに駆られるが、諸般の事情でそれが出来ないのは残念である。
 しかし、そういう人達の存在感の重さを感じるだけに、人間にとって平和と安全が保障されるという事が、人が人でないロボット化へ向かっているような気がして、なんとも複雑な思いにかられる。

 それにしても私の対応する間口の拡がりようは、私自身も呆れるほどだ。まあ武術稽古研究会を解散し、「武術を基盤とした身体技法の実践研究者」として活動しているのだから、当然といえば当然かも知れないが、自分自身でもこれからどこへ行くのか、まるで見当がつかない。
 ただ、私個人的には武術の具体的技法追求は何よりしなくてはならぬものだけに、今回も岡山で光岡師と会えた事は大きいし、兵庫で手裏剣術の滑空打法(従来の分類法でいえば、これも直打法の一種ではあるが、飛行軌跡が低く、飛行途中に剣先が飛行方向に保ちやすい)を工夫された辻本氏に少しゆっくり時間を取って頂いて武術談義を行ない、六間以上の距離をこの打法で打つのを見せて頂いた事は有難かった。
 今回、実際に拝見できた辻本氏の剣の軌跡は、このところ私が研究しているものとそれほど違わず、私の工夫の確認がとれた気がしたが、大変驚いたのは、剣の飛行軌跡よりも手裏剣の的である。
 駐車場の一画の木立に囲まれた場所に、剣止めのカーペットの古材を2b50a四方ほどに張りめぐらした中央に、畳半畳ほどの正方形の的がブルーのシートに包まれている。そして、そのシートが取り除かれた瞬間「アッ!」と思わず息を呑み、「ウーン、なるほど!」と心中唸ってしまった。
 何やらひどく思わせぶりに書いているが、あまりに見事な工夫だったので、すぐに書くのが惜しいのである。つまり、現代なら誰もが容易に入手出来る、きわめて安価(というより殆どタダ)な材料を組み合わせ、これほどよく出来た的は一寸他にはない。言い方によっては「究極の的」(身近な材料を工夫したという意味で)という感じがしたからである。
 私は最近技を解説する時、単純な帆掛船と三角帆を装着する事によって向かい風も利用出来るようになったヨットとの効率の違いや、ただの車とキャスターの便利さの段違いさ、クサビとネジの違いなどをよく例に引くが、辻本氏の手裏剣の的材の工夫の見事さは、見た瞬間に「ワァー、なるほど!いや恐れ入りました」と心から感動した。
 恐らく、私の縁に連なる手裏剣術の稽古を行なっている人達の多くが、今後この辻本氏考案の的を取り入れるだろう。私も道場備え付けの伐根(伐材された材の根元の丸太)の的以外の、演武などでの持ち運び用の的にはすぐこれを知友のY氏にでも製作を依頼して用意しようと思っている。
 その的とは、私が道場の常設の的としている伐根の木材の繊維方向を、剣が刺さる方向と一致させたアイディアと基本的には同じものである。ただ、伐根は、元々切り株など太い木口を見せているので容易に思いつくが、辻本氏の工夫は日常我々が極めてよく見かけながら、そして実際に手裏剣術の的として少なからず今までにも用いられていながら、どうしてもその面積の広い方に目が行っているため気づきにくいものだったのである。
 ここまで書けば、勘のいい方は「アーッ、それってあれをああいうふうに使ったんじゃないかな」と気付かれたと思う。「そう、その通りなのである」あれを30cmに15cmほどの大きさにカッターで切り、木工用ボンドで切口の方向を揃えて貼り合せブロック状とし、これを90cm四方の木枠に三段に詰め込んであるのである。そして、痛んだところは、まだあまり痛んでないところと差し替えたり表裏を返して使うというアイディアなのである。そして、このようにしてこれを使うと、単純に板状のまま使うのとは桁違いに長持ちするとのことである。ここまで書けば、「これ」が何であるかは最早ほとんどの方が思い当たったと思う。
 お察しの通り「段ボール」である。段ボールの穴が通っている側を的面となるように揃えてブロック状になるように木工用ボンドで貼り付けるのである。
 辻本氏によれば、この段ボールもスイカやキャベツが入っていたような丈夫な段ボール箱が好適との事で、始めはもっとすぐに傷むと考えられていたそうだが、意外に長持ちするとの事である。これは私が厚板や柱を寄せて的板としていたものに比べ、木口を表に出した伐根の方が格段に長持ちしているのと同じ原理だと思う。それだけに、この辻本氏の工夫を目にした瞬間、「ワァーッ、やられた」「どうしてこのアイディアに気づかなかったのだろう」と足許をすくわれたような衝撃と感動に襲われたのである。
 その昔、初めて鉄砲を手にした日本の鍛冶屋は、銃身の後部を塞いでいるネジ構造に驚嘆したというが、その気持ちが僅かながら分かった気がした。
 辻本家で話し込み、交換教授で足裏の垂直離陸を詳しく解説させて頂いたが、同好の者同士語りだすと話が止めども無くなり、あっという間に3時間が過ぎていた。

 辻本家を辞去し3日ぶりに帰宅してみると、いくつもの依頼がFAX等で届いていたが、その中の1件で27年間も続いているというNHK FMラジオの『日曜喫茶室』の対談ゲストが、今まで私が全く会ったことのないタイプの方だったので、受ける方向で今考えている。やらねばならない事は数限りなくあるが、今は私自身の容量を変える試みをしていかないと、この先もちそうもないように思われるので…。

以上1日分/掲載日 平成16年7月28日(水)


2004年7月29日(木)

 昨日28日、身体教育研究所のS氏から電話。身体教育研究所が所属する社団法人 整体協会の野口昭子会長が27日に逝去されたとの事。整体協会の創設者、野口晴哉夫人であり、私が深く敬愛している野口裕之先生の母堂。近衛文麿総理大臣の長女という、まるで小説の中のヒロインのような人生を送られた方である。
 私は個人的に2度ほどお話しさせて頂いただけだったが、その品の良さは他に比較出来る人物を思い浮かべられなかった。
 謹んで御冥福をお祈りしたい。

以上1日分/掲載日 平成16年7月30日(金)


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