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2004年9月4日(土)

 相変わらず時間がザルで掬う水のように消えていく。暑い暑いと思っているうちに、日が落ちれば、もうすっかり秋の気配。樹上での青松虫の合唱が一段とにぎやかになってきた。
 このところ片づけを優先しているが、その間にもいろいろと依頼が来たり、本や手紙が届いたり…。一昨日は徳間文庫から刊行された、小森君美著『ナンバの効用』が、昨日はネコパブリッシングから刊行のムック本『東洋武術で生命力を高める』が送られてきた。いずれも私が推薦文や対談などで少し関わった本。『ナンバの効用』は、タイトルは一般向けだが、内容は「ちょっと普通の人の手に負えるかな」という、かなり専門的な内容のもの。この本を読んで成果を挙げられる人は、まず間違いなく「自分の身体と頭で考える」ことの出来る人だと思う。
 『東洋武術で生命力を高める』は、私が対談をさせて頂いた岡部武央氏が全体の編集に関わられているが、出来上がった本を見て、岡部氏が大変な経歴を持たれていた事に気づき、あらためて驚いてしまった。中国の散打大会で最も高く評価されたという岡部氏が、私の技のどういう点を評価されたのかは分からないが、対談の時には真摯に幾度となく私の技の受けをとって頂いた。
 ただ、その時(7月8日)岡部氏に受けて頂いた技は、今でもその技名に変わりはないが、体の使い方はかなり違ってきている。例えば、片手を受けに両手でしっかり掴んでもらい、左右へのいなしも自由という「浪之下」は、こちらが準備出来ていない状態で相手にしっかり持たれてから始めると、かなりやりにくかったが、下腹を使う方向に体の工夫を始めてから、そのやりにくさがかなり変わってきた。
 又、太刀奪りも、腰を低くして下腹への力の集まりで体幹から動くようにすると、明らかに体を捌く際のダルさ、アソビが以前よりとれてきた事を感じる。ただ、普通ではない体の沈ませ状況で体を捌いているため、この太刀奪りなど、途中で普通の体の状態に帰ってしまうと凄まじい負荷が膝にくる。これは、ついうっかり稽古出来ないなと思った。
 しかし、この事で実感したが、武道関係者のなかには低く沈んだ構えは足が上手く使えず体が居つきやすい、などという意見を言う人もいるが、腰を落とし、足が使いにくいからこそ体幹が使えて、普通ではない速度で体が捌けるし、相手への加撃が重くなるのである。
 もちろん腹がしっかり出来れば腰の高い姿勢でも重く早く動けると思うが、現代それほどの動きを体現出来る人が果たしてどのくらいいるのかと思うと甚だ心もとない。
 しかし、腰は反るべきか反らざるべきか散々迷ってきた私にとって、いま下腹のなかに、下腹を取り巻く体幹で握り飯を作るように、腰の反りと反らない動きを共存させるという事は、この工夫によって私なりの結論がそれほど遠くないうちに出るような気もしてきた。
 もちろん、否定の上に否定を重ねて今まで来た私としては、その結論もいつまで持つか分からない気もするが、どう変わったとしても、この動きが様々な技芸に使える身体感覚開拓の基地の1つにはなるように思う。

以上1日分/掲載日 平成16年9月5日(日)


2004年9月6日(月)

 最近、腹のこと、丹田のことを考え、フト『聖中心道肥田式強健術』を読み返す事があるが、それに関して晩年の肥田春充翁は、遥か先の人類も醜い争いをしている幻影を見て絶望し、拒食拒飲症に陥ったという事を嫌でも思い出してしまうのは、連日ロシアで起きた小学校での惨劇報道に接しているからだと思う。
 知能と技術の発達により天敵をなくした人間は、生物の法則として自らが天敵とならざるを得なくなったというのは以前からの私の意見だが、その宿命"逆縁の出会い"を「敵ながらあっぱれ」と見て、生命の高揚感を願った(もちろん現実には悲惨な事は数知れずあったが)日本の武の根本に流れている思想について、あらためて思いが動いた。
 ただ何冊もの本の仕上げや企画や取材依頼がひしめきあっていて、思いを深める事が出来ないのが何とももどかしい。
 来春から夏までの2〜3ヶ月間の全面休業に向けての準備を始めようと本気で考え始めている。

以上1日分/掲載日 平成16年9月7日(火)


2004年9月8日(水)

 昨日は、外務省からの日本紹介のビデオ撮りを松聲館で行ない、今日は『婦人公論』誌の介護に関する記事のインタビューと写真撮影のため、神奈川リハビリテーション病院へ、介護の専門家岡田慎一郎氏を同行して、『婦人公論』のH記者、フリーライターU氏とハイヤーで向かう。
 桑田投手との縁のできた神奈川リハビリテーション病院を訪ねるのは、かなり久しぶりである。すべての(桑田氏との縁やそこから拡がった現在の私の置かれている状況)キッカケとなった理学療法士のK氏に迎えて頂いたが、K氏の話す物腰や内容が驚くほど身体教育研究所の野口裕之先生に似ていて、K氏がいかに深く野口先生に傾倒されているかを肌で感じ、仲をとりもった身としては何とも感慨深かった。
 岡田氏や、見学に来られた理学療法士の方々にもモデルになって頂き、上体起こしや床に坐っている人を起こす"添え立ち"、椅子に座っている人を抱き上げる"浮取"等を解説しながら実演する。
 ここでも岡田氏は、現在の介護技術がいかに現場の人間、つまり介護者と被介護者にとって無理を強いるものであるかに熱弁を揮う。この介護の際、上手く体が使えれば介護で逆に足腰を養成する事が出来そうなのだから、こんなうまい話はないわけだが、今はまだそこに、実質的には疑問だらけの"正しい介護の基本"なるものが立ちはだかっているようだ。
 それが、この『婦人公論』の記事や、このところ、しばしば寄せられる講座や本の企画要請により、風穴を開けられるのなら私も無理をしてでもその穴開けを手伝わねばならないかという気になってくる。
 しかし、数十万かあるいは百万人規模の人達の間で正しいとされている(疑問を感じている人はいるだろうが)介護の基本を根底からくつがえすような試みなのだから、私への返りもキツかろうと思う。しかし、誰かがやらなければならない事だから反動を恐れてもいられない。主役は岡田氏で、私は手伝う立場で進めたいと思っているが、志のある方が研究されることを切に望みたい。
 それにしても、神奈川リハビリテーション病院からの帰路が直線距離で25キロぐらいであるにも関わらず、ハイヤーが迷いに迷って五角形の四辺をいく形で1度都内に出てから回り、結局3時間半かかったというのは、もう既に大仕事のための人生の税金を支払わされている気がして「ヤレヤレ」という、うんざりさと諦めの混じった複雑な思いである。

 明日は、まず『アエラ』誌の担当者と会い、次いで漸く出来てきた新潮社の本のゲラを見ての打ち合わせ、そして講演会と三段構えの用件を超えて、なお深夜のゲラ読み等々の仕事が待っている。
 それにしても、この他に今私が抱えている差し迫ったゲラ読みや校正など、いくつかの用件が殆ど進まないのは何とも心苦しい。関係者の方々にお許しを乞う次第である。

以上1日分/掲載日 平成16年9月9日(木)


2004年9月14日・15日

 本来なら、この時間は、もう新宿からJRに乗って、蔵前の公開稽古会に向かっていなければならないのだが、両手両足に頭を動員しても支えきれない用件に、文字通り手足をとられギリギリで家を飛び出しかけて、一昨日から今朝の5時半まで、そして今日午前中から赤入れをやっていた新潮社の原稿を置き忘れた事に気づき、慌てて戻ってバッグに収容。そこで駅に向かったのだが、10秒ほどの違いで信号待ちでバスを逃しタクシーも逃し、結局20分遅れの電車に乗って車中で続きの校正をしようとしたらメガネがない。今までにもメガネを忘れて困った事があったので、バッグには予備を入れているのだが、数日前この予備を使うことがあり、それを懐に入れて帰ったのでバッグに戻し忘れていたのだ。
 よりにもよって必要度の高い時に忘れるとは、「なんだか最近、人生の税率があがった気がするなあ」と思ったが、仕方がないので、いま車中でこの随感録を大きな字で書いているのだが、とにかく9日からのここ数日感の忙しさは正気の沙汰ではなかった。その渦中で最も印象に残っているのは、今夜新潮社の足立女史に渡す予定の田中聡氏との共著原稿だろう。これは共著とはいえ、私の発言と下書きを随所に織り込んで、全文田中氏の手になるもの。
 9日、市ヶ谷の旅館で足立女史からこれを手渡されて目を通し、その見事さに鳥肌が立った。あまりにもよく書けていて、自分の事について書かれているという気がしないほどであった。(ここまでを蔵前に向かう車中で書き、その後は蔵前での会を終わって、渋谷の松見坂近くで浅野忠信氏の作品『トーリ』のメイキングビデオで名越康文氏と対談。これが夜11時頃から始まって、家に着いた時は午前3時すぎ)

 今日9月15日は、終日17日の名古屋大学から始まる一連の旅の準備やら荷造りやら、新潮社とは別の本の校正・原稿書き、打ち合せ等々で暮れる。しかし、やればやるほど用件が思い出されてきて果てしもない。また新しい企画もあるが、先日10日池袋で受けた、ある健康雑誌のインタビューのような前代未聞の経験もあるから、新企画はどうも気乗りがしない。
 10日のインタビューというのは、ある健康雑誌から是非と言われ、時間がないため池袋の講座に出てもらい、その前に私の本にも目を通し、補足的にインタビューをして記事になるという事で受けたのだが、いざインタビューとなっても、どうにも質問が散発的で盛り上がらない。私も前夜新潮社本の校正で3時間ほどしか寝ておらず、その上、午後からは中国から帰ったばかりで宿に訪ねて来てもらった光岡師に桑田氏も招いて話を聞いたりしていたから、喫茶店の椅子に座ると眠気が襲ってくる。これでは相手にも失礼と思い、あらためて「どういう企画で、具体的にどういう記事にするのですか?」と聞いたが、「ナンバの効用は?」などと漠然とした質問から一向進まない。それでも「まあ、階段を上がる時楽でしょう」などと一応答えるのだが、それに対して話が続かない。段々空しくなってきて、「私もインタビューは随分受けましたけど、こんなの初めてですよ。これで記事になるんですか?インタビューで、こんな事を言っていてはまずいでしょう」と言うと、「私も初めてです」と、私より年配と思われる女性の編集者は思いっきりスネた顔をしている。そのうち、「わかりました。出直してきます」と、バタバタ本やノートを仕舞い、横にいて当惑顔の編集長をせき立てるようにして帰ってしまった。
 思うに健康雑誌の取材というのは、取材を受ける側が「こんなにいいんです」とか、「こんな効果があります」という事を一々聞かなくてもドンドン喋ってくれるのだろう。私の場合は、質問がいいところにくれば一晩中でも喋るのだが、ただ漠然と「ナンバの効用は」などと聞かれても答えにつまる。先方は先方で、「何て思い上がっているんだ」と思ったかも知れないが、ここまで価値観が違っていると何とも致し方ない。お互いの平和のためにも場違いな取材は受けないようにしようと改めて心に言い聞かせた。
 もっとも現状は、よほど私の気持ちが動く企画であっても、到底受ける余地はありませんので(受けてもきっとご迷惑をおかけしますから)、どうか御理解のほど宜しくお願い申し上げます。

以上1日分/掲載日 平成16年9月16日(木)


2004年9月19日(日)

 17日に東京を発ち、この日午後1時から4時まで名古屋大学で講演。名古屋駅までは山口氏と名大のM氏に迎えに来ていただいた。まだ名大は夏休み中という事もあってか、学生諸氏よりも一般参加の方が多かったような感触だった。中には武術を専門とされている方(武術雑誌でお顔を見た記憶があった)も見えられていて、会の終了後、御挨拶にみえられたので、ちょっとだけだったが武術談義が出来た。
 なにしろこの日のうちに佐世保に向かう為、まず5時34分名古屋駅発の博多行きの"のぞみ"に乗らなければならない状況だったが、何人もの方が荷物を持って見送って下さったお陰で助かった。駅に着いて少し時間があったので、改札口近くの人通りの少なめの所で質問に答えて、多少技を展開する。
 少し前から丹田への工夫を始めていたが、ごく最近そこから又、全身協調を考えていて、本当に試行錯誤の日々。そんな状況だったが、18日の佐世保での講習会も熱心な方々が、打ち上げでもいろいろ質問して下さり、喜んで頂けたようだったので、私としては、もうこの「多少まし」な技も、「お役に立つのならどうぞ」という感じである。
 数日前に、フト私は私なりの新しい流儀というか、技の世界を打ち立てるという方向ではなく、死後、骨を散骨するように、様々な分野に、それがごく当たり前のように使われるよう、その技や理論を拡散し私を消してゆくのが私本来の在り様なのではないかと思うようになった。
 1年前、武術稽古研究会を解散したのも、結局はそういう事なのだと思う。勿論、状況状況では私が発表する事が誰か他の人に盗用ではない事をハッキリさせねばならない事もあるかも知れないし、この考えを他の人にも勧める気はないが、発表されてからは(c)マークなどをつけて、自分の権利を主張する事なく、多くの人に活用して頂ければ幸いだと思う。そういえば整体協会の野口晴哉先生も、昔自らの著作権などを放棄されていたという事を野口裕之先生から伺った事があった。
 佐世保では、今回も平田整骨院長をはじめ、平田整骨院のスタッフ、友人の方々にひとかたならぬお世話になった。佐世保は最近人心を暗くするニュースで全国的に知られてしまったが、人情味のある方々が多く在られる事を、ここでつけ加えておきたい。そうでなければ私も日本最西端のこの地に年に何度も行きたいとは思わないだろう。

以上1日分/掲載日 平成16年9月20日(月)


2004年9月22日(水)

 17日に家を出て、17,18,19、20日と、連日講座で体を動かし続け、その上睡眠時間がずっと3~4時間だったが、体を動かし始めると不思議と動けた。これも自分にとって興味のある事をやっているからこそだろう。
 19日、岡山大学で主に医学関係の方々(そのなかでも武道好きの方が多かった)約60名の前で講座。この日は夜、意拳の光岡師範宅に泊めて頂いたため、深夜に話がすこぶる熱を帯び、寝た時はすっかり夜が明けてからだったが、2時間半ほどで起き、諸方に連絡を入れる。
 光岡師との話で、身体の用法について、ごく最近考えていた全身での動き、無住心剣術的表現でいえば「よく調養すること」、夢想願立的なら「五体よく流通すること」の大切さにあらためて気づき、丹田は在ったとしても、ここを強調する事の問題を再び考えさせられた。
 この時の話は、翌日の四国多度津での講座の折、ここでも60人ほども集まられた方々の前で質問に答え、さまざまな動きを展開した際も、ずっと意識の底にあったようで、この講座の世話人である守氏にホテルまで送って頂いた時、ホテルの部屋で守氏を相手に技を試しつつ術理を検討し、暫し時を忘れた。そのお陰か、技が一歩前へ進めたように思う。守氏は全く呉服屋の若旦那だけにしておくには惜しい人物である。
 21日は京都で光岡師との共著『武学探究』の校正や写真をどう使うかについて、冬弓舎の内浦氏と打ち合わせ。その後、名越氏のマンションに向かい、I先生も交えて食事。食事といってもソバ粉やモロヘイヤ、納豆等を近くのスーパーで買い集め、野菜は湯をくぐらせ、ソバ粉はソバガキにした実に簡単なものだったが、予想以上に好評だった。

 それにしても、あと1週間くらいしかない今月の予定の混みようは、全部こなせるかちょっと不安である。なにしろ3冊の本の仕上がりが重なってきていて、その上稽古会や講座、写真撮影2件、JAXAの的川先生との面会がある。そして10月は早々から東北へ。帰って数日して甲府、中旬からは鳥取・愛媛・大分と回ることになっている。
 しかし、何といっても技の検討は急務だし、それが今の私を支えているから揺るがせには出来ない。ただ、これで来年4月頃からの休業約3ヶ月間を、必ず実現させる決心が益々固まってきた。もっとも休業明けで、どういう心持ちになっているかはまるで見当がつかない。

以上1日分/掲載日 平成16年9月23日(木)


2004年9月24日(金)

 22日、大阪から上京する名越氏と大阪駅で待ち合わせ。約10年ぶりに一緒に新幹線に乗って帰京。東京駅で、この先縁が深くなりそうな思いがけぬ人と出会い、しばらく話をして帰る。帰ってみると手紙やFAX等々が手提げの紙袋いっぱい。
 23、24日は、この2日間が半日ぐらいにしか感じなかったほど。しかし、仕事の量が減った気が全くしない。来週は写真撮りが2件あるが、この分では忽ち東北行きとなりそうである。とにかく帰れば本職は雑用という生活は何とかしなければ。そして加うるに、これは絶対に気の抜けない相談事まで重なり、そうなれば時間を忘れてしまう。
 そして、これを書いていて明日の黒鉄会へ行く準備を全く忘れていた事に気づく。すぐやらねば、と言っても午後10時現在で、これから電話で連絡しなければならないところが20件近くあり(当然半分は断念せざるを得ないが、もう1週間もしそびれ続けている人もいる)、『婦人公論』の校正、新潮社本のあとがき、冬弓舎本のまえがきの書き足し、日大歯学部への手紙、その他急を要する手紙が3通ほどある。
 しかし、稽古は確かめたい事がいくつかあり、僅かな時間でもどうしてもやりたい。こうなると最早「それでも朝は来る」という心境。
 以上のような状況ですので、私への依頼を何か企画されている方はお考え直し下さい。

以上1日分/掲載日 平成16年9月25日(土)


2004年9月30日(木)

 昨日はJAXA相模原へ。今年の6月、浜松町のJAXAで的川泰宣先生とお会いした時の印象が格別だったので、またいつかお会い出来ればと願っていた。ただ願っていただけだったが、JAXAと私を繋いで下さった未来工学研究所の光盛氏が、再び橋渡しをして下さり、1ヶ月ほど前に光盛氏からお電話があって、9月29日なら何とか、という感じでお約束した。しかし、日が接近するにつれて、これはとても無理なお約束をしてしまったな、と内心思ったが、私以上にお忙しい的川先生ではあるし、その的川先生の方でも楽しみにして下さっているというので、まあこうなれば成り行き次第と思ったものの、一昨日(つまり前日の28日)午前11時からの新潮社本の写真撮影を松聲館で行なっている時、少し目まいもして考え込んでいた。すると、そこへ的川先生からお電話があり、「文部科学省からの急用で、どうしても明日は都合がつかなくなったのですが、楽しみにしている人達が何人かいるので、どうぞ」との事。電話で的川先生の御都合が悪いと、まず伺った時、「私もちょっと用件がつまっていますので、又にしましょう」と言おうとしたのだが、的川先生の温かみのあるお声で丁重に謝って頂いた上、あらためてお誘いを受けると断り切れず、伺うことにしたのである。
 ところが、この日(28日)の夜は杉の伐根(伐採した時の根本の部分)を積み重ねた手裏剣の的の中の1つが8年近くの歳月で消耗し割れてきたのを、Y氏に依頼して取り換える予定も入っていたのである。6時過ぎにY氏来館。まあ取り換える時間は1時間、長くて2時間かなと思っていたし、私は1日からの東北行きの荷造りをはじめ、いろいろと用件があるので殆どY氏にやってもらおうと考えていたのだが、いざ積み重ねてあった10個ほどの伐根を解体してみると、真ん中の、もういくつかに割れた伐根以外もかなり減っており、それらを削り落としてあらためて組み直すのは、とても1時間やそこいらでは終わらない事が分かった。
 といって、稽古が半日でも出来ない状況は困るし、私1人で組み直すのは益々時間を食うので、何が何でも今夜のうちにやってしまわねばと、私も優先順位を変えてY氏を手伝う事にした。はじめ幅広のノミやナタを使ってやったが、そういう仕事が好きで一般人以上の腕もある筈のY氏と私でも、かなり時間がかかりそうである。そこでチェーン・ソーを何ヶ月かぶりに出してきた。エンジンが掛かるかどうか不安だったが、何とかかかり一気に整形。ただ、深夜の騒音と籠る排気ガスで気分が悪くなったので、3回ほどで止め、再びナタ、ノミ、手斧で作業再開。全てが終わった時、時計は12時に近かった。
 それから東北行きの用意やら何やらで寝たのは3時過ぎ。そして翌29日1時に相模原のJAXAへ。既に出かけられていると思った的川先生は出発時間ギリギリまで私を待っていて下さったようで御挨拶する。そこでJAXAの平林久・宇宙情報エネルギー工学研究系教授と、黒谷明美・宇宙環境利用科学研究系助教授、そして浅野眞広・広報部教育グループ主任研究員といった方々を紹介される。
 平林先生は剣道六段との事だったので、持参した竹刀で私の動きを体験して頂いたりした後、JAXAの施設の見学をさせて頂き、さまざまに意見交換し、当初は4時までと思っていたのが気づけば7時近くになっていた。
 ただ、話の通りのいい方々に話をさせて頂くと体調も良くなるのか、何とか体ももち、帰宅後、東北行きの用意をして3時前には寝た。ただ寝る前の稽古で太刀を振り、これにひとつの気づきがあった。
 今日30日は、29日に用意した荷物を宅配便で出したり、さまざまな整理をしたりで6,7時間は忽ち消える。夕方5時からは蔵前で稽古。27日に気づいて言葉になった体全体の部分部分の追い越し禁止、乗り上げ禁止で技を説明し、特に上腕部のつまりを無くすことを解説しながら動く。
 面白かったのは、ボートのコーチをされている方の質問に答えて、その場で思いつき実演した事。そこで感じたのは、現在のボートでは、どうも腰をかけているシートに自重を逃すような勿体無い体の使い方をしているのではないかという事。
 これからの私の稽古のひとつの鍵となりそうなのは、昨夜寝る前に振った太刀。太刀の重さのあと追いをせず、といって自力で振り回さず、真に微妙な、持たず持たされぬ関係で太刀を振れないかという事。ここに何かが見つかれば私にとっては今後思わぬ進展が望めるかもしれない。

以上1日分/掲載日 平成16年10月1日(金)


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