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休業に入って約1ヶ月になろうとしているが、休業に入った当初は、休業に入る以前よりも忙しかった。それが漸くここにきて休業に入る以前くらいの忙しさとなってきた。これから、それらを段々に整理して今月の終わり頃からは、本格的な休業に入ろうと思う。
そうなると、当分は手紙や電話を頂いてもお返事出来ない状態となると思われますので、私にかねてから依頼をされている方、返事を待たれている方は申し訳ありませんが、いま一度、御連絡を頂きたくお願い申し上げます。
「手紙を出さなければ」「本を送らなければ」と、何人か気になる方があるのだが、なかでも気になるのはUさん。昨年暮に弘前へ行った折、私が差し出された本へのサインをし損ない、「代わりの本を後日送ります」と約束して、その方から住所を頂きながら、山のような書類のどこかに紛れさせてしまったのである。
Uさん、申し訳ありませんが、再度、御連絡下さい。
技の方は、いまは「瀧潜り」、または「瀧入り」と私が名づけた打剣法のみをほとんど唯一の手がかりに稽古を考えているが、つくづく人間というのは、自分に本来備わっている力を信じきれずに、屋根の上に屋根を重ねる愚行をしがちな生き物だと思う。
臨済禅中興の祖と謳われた白隠和尚が、その著『坐禅和讃』で説いた「衆生近きを知らずして、遠く求むるはかなさよ」「たとえば水の中に居て渇を叫ぶが如きなり」「長者の家の子となりて貧里に迷うに異ならず」は、全くその通りだなあと思う。もっともそう分かったとはいっても、私もまだ身体は貧里に迷う1人だけに、今後自分が長者の家の子を実感すべく稽古をしていくしかない。
とにかく『願立剣術物語』で説くような「伝というは別の儀にあらず。我総体の病筋骨の滞り曲節をけづり立ち、幾度も病をおびき出し、心の偏り怒りを砕き思う処を絶やし、ただ何ともなく無病の本の身となる也」や、『無住心剣術書』で説くような「老子は既に嬰児に帰復せよと教へ給ふなれば、云ふに及ばず、又当流の稽古初めより極意迄、赤子の心と所作とに本づきて修行す、敵に向て太刀打ちするも、早からず遅からず、好き加減と云ふ事もなく、我が自然の常の受用に任せて、つよからず弱からず、能きかげんと云事もなく、此亦自然に任す、勇気俄に張り発す事なく、又憤りを示さず、敵を見ず我を覚えず、畢竟近く取をたとへて云はば、朝夕物喰ふ時に膳に向て箸を取る手之内、太刀を取るに好し、飯に向て箸を取り直して喰ふ心にて、敵に向て太刀を用ふる迄の働の外には、何なりとも一亳もそへたす物なし」などなどが書中の話ではない事を、韓競辰老師に触れて頂いて実感して以来、日々、積み重ねを止め、剥がしに剥がしていっているつもりだが、まだまだ手ごたえのある稽古には出会っていない。
体術は極力やらないようにはしているが、行きがかり上、時折手を合わせこともある。
昨夕も、たまたま行き合わせた某大学合気道部の部員達が集まっている道場で求められるままに、久しぶりに小一時間さまざまな状況下で技を試みた。例えば、いわゆる三教をかけようとした時、受が振り払うのを、その動きを封じて抑えるといった動きに、知らぬ間に進展が出ていて、自分でも少し驚いた。
しかし、今はあくまでも対人の体術を主とせず、動きの質を変えていこうと思う。なぜなら、いま体術を主としては、つい目先の事に捉われて動きの質の脱皮に時間がかかりそうな気がするからである。
この事に関連して思い出したが、ナンバといった昔の歩法に注目が集まって、世の中も変わったものだと思っていたが、これは世界的に見ると当然の成り行きのようだ。何しろ少し前なら現代医学に鼻先で嗤われた"手あて"、"手のひら療治"、つまりただ手を当てたり、かざしたりする最も原初的な療法がイギリスでは既に保険対象となっているとの事だ。(昨日会った医師のK氏からの話)日本でもそのため民間療法と蔑まれていたものが統合医療として包含されはじめていると聞く。願わくば、ウエイト・トレーニングなどで身体を痛めている現状に対しても新しい目で見直しをはかる空気が生まれることを祈りたい。
『願立剣術物語』五十二段目に言う
「身の科は大も小も身を破る事は一なり。身の内少しもたるみなく一杯に性の続きたるを生き物と言うぞ。少しにてもたるみ有て継ぎ目の科有るは死身と言う也。其死身の少なきより敵水流入て総てのよき処まで皆打ち敗るる也。たとえば弓鉄砲などにも少しの疵あれば其より裂け入て残りのよき処まで役に立たざるが如し。」
このなかで、「継ぎ目の科有るは死身と言う也」と述べているところは、私には、部分部分を別々に鍛えているウエイト・トレーニングに対する忠告に、そのまま当てはまると思えてならないのである。ウエイト・トレーニングの問題点に関しては、以前から折にふれて書いてきたが、先月、稽古の内容が激変してから一層痛感するようになってきた。
もしどうしてもウエイト・トレーニングをやらずにいられないのなら仕事感覚で、全身協調させて、如何に重いものを軽く持てるかという事を工夫して頂きたいと思う。
既にあちこちで喋っているが、「釣り竿の修理は難しい」という事にウエイト・トレーニングの問題点が端的に表れていると思う。つまり、下手にある部分を強化すると、いままで何でもなかったところに無理がかかり、そこが壊れてくるという事である。ウエイト・トレーニングは効果が無いのではない。効果があるからこそ、ついハマリ薬の服用と同じく習慣性となり、体を壊すほどになっても中々止められなくなるのである。
ここでウエイト・トレーニングに対する韓競辰老師のユーモアあふれるお話を一つ紹介しておきたい。「虎は強い。でも虎がバーベルを挙げている姿を見た人はいない」
ここで注意しなければならないのは、「筋力アップよりもリラックス、脱力が大切」と安易にそちらに傾かないことだ。先に引用した五十二段目の「身の内少しもたるみなく一杯に性の続きたるを生き物と言うぞ。」は、ユルミ、アソビをとることの重要性を説いていると思われるところで、安易な脱力に対する忠告とみて間違いないと思う。「完全に脱力したら立っていられないでしょう」と私は以前から言っていたが、偶然ながら韓老師も全く同じことを説かれていた。
いま、私は休業中で多くの方々に触れる機会がないだけに、せめて縁あって私の随感録を見て下さった方には現在の私の考えをお伝えしておきたいと思う。
以上1日分/掲載日 平成17年5月8日(日)
9日、10日は、ここ数年間の課題のひとつであった自宅の改装を懇意の大工の高田氏と共に家族中で手伝う。26年前に建てた松聲館道場も高田氏とほとんど2人で建てたようなものだが、今回も始めてみると、その時の雰囲気をそのまま思い出した。
ただ、今回は長男が一人前に手伝ってくれて、それのみが違うが、数十年来親しんできた人との仕事というのは気持ちが和らぐ。あと休み中の最大の課題は、道場や居室の片づけであるが、家の改装で自信をつけ、何とか見違えるような環境に整えたいものである。
しかし、休業中とはいっても依頼や問い合わせは途切れずに入ってくるし、やりかけの本のゲラは現在3冊分たまっている。本といえば、私は私自身の変化に精一杯で紹介しそびれていたが、私の畏友である名越康文・名越クリニック院長と内田樹・神戸女学院大学教授との共著『14歳の子を持つ親たちへ』の御紹介をしたいと思う。
この本は、この本を読んで「なるほどな」思える人は、恐らく子育てもそれなりのセンスと見識を持っている人だろうし、子育てについて自信がなく、「とにかく何かにすがりたい」という人は、読んでも「じゃあ一体私はどうしたらいいの?」と困り果ててしまうだろう、という内容で、何らかの子育てマニュアルを期待している人にとっては役に立たない本に仕上がっている。だからこそ勧める価値があるのだと思う。今回のJR西日本の列車事故を見ていても明らかだが、マニュアル教育で育ってきた世代は緊急事態にパニックを起こし、本当に危ない。それでも何かあると事故対策として更にマニュアルを積み重ねる愚行をしていくのではないかとウンザリする。何とかこの辺で社会全体が人間の感覚を鋭く研ぐことに目覚めてもらいたいと思う。
私に縁のある方の本といえば、少し前になるが、講談社から長辻象平氏が『元禄いわし侍』を刊行されたので、これを紹介しておきたい。長辻氏はサンケイ新聞社の論説委員を勤められていて、知り合ったキッカケは時代小説作家の多田容子女史からの縁であったが、電話でお話ししてみて驚嘆した。というのも長辻氏は江戸期の釣りの歴史に関しては日本でもトップクラスの研究者で、刀剣に関する知識も豊富であり、電話で話し始めると、いつも話は簡単には終らなくなってしまうのである。ただ、最初に電話でお話しして以来、ずっとここ数年、電話以外は一度もお会いした事がなかったが、先月の下旬、「お会いしませんか」と電話を頂いた翌日、ちょうど近くに出かける予定があったので、初めて長辻氏とお会いし、パレスホテルのロビーで暫くの間さまざまな話をすることが出来た。
『元禄いわし侍』は、元禄期の手厚い犬の保護政策は、鰯の大豊漁に支えられていたという長辻氏長年の主張を題材にされた歴史小説で、鰯を獲る網の染めの難題をどう解決したか、といった話は、そういう事が好きな私にとっては大変興味深いものだった。
以上2冊は既に親しくしている方々のものだが、9日に送られてきた『構造構成主義とは何か』−次世代人間科学の原理−は、西條剛央という全く未知の方の本。
ただ、2日後の昨日11日は、この西條剛央・立教大学講師(他に東洋大学等の講師も兼任)からのお誘いで、約3年ぶりに池田清彦・早稲田大学教授(3年前は山梨大学教授)に、そして初めて竹田青嗣・同大学教授、高橋順一・同大学教授の他、若手の研究者、講師の方々10人近くと早稲田大学でお話しする機会を持つことができた。今回、若手の方々と話してみて得ることがあったのは、私が以前から主張していた理系と人文系を繋ぐような学問の手探りが、こうした若い方々の間で、どうやら始まり出しているらしい雰囲気が感じられたことだった。
そうした流れに、今後私がどう関わっていくかは分からないが、いま自らの裡にある自然をみつめて、「人間にとっての自然とは何か」という事に焦点を絞って稽古してゆこうと思っている。そして今、約7年半の落ち込み期間を経てそう心を決めている事をはっきりと感じる自分が、何やら私でも手の届かない存在(というか手に負えない状態)になっていきそうで怖くもある。(これは今月に入って徐々に自覚してきた)
『スプリット』(カルメン・マキ女史、名越康文氏との共著 新曜社刊)のなかで名越氏がコメントしていた私の思い入れの強さ、尋常のなさを私もようやく最近になって他人事のように実感しつつある。今後私に関わる人達への被害を出来るだけ少なくするために、休業期間に、この私の普通ではないエネルギーをどう使うか、その使い方をゆっくり考えようと思う。
以上1日分/掲載日 平成17年5月13日(金)
5月7日のこの随感録で、イギリスでは既に手当て・手かざし療法に対して保険が適用されている旨を書いたところ、岩手県のO氏から「もし、それらが本当なら大変画期的な事です」との前置きがあって、このO氏があるサイトの「近代医学医療掲示板」に尋ねられたところ、「『その可能性は少ないのではないか』との返答がありました」とのお便りを寄せられた。この件に関して、同様にこの事実の実否に疑問を持たれている方も少なくないように思われるので、私がこの事実を確認した『治療』増刊号Vol.87、2005の「日本は相補(補完)代替医療の後進国」と題された論文を引用紹介することにする。
まず最初に、「相補(補完)・代替医療(Complementary&Alternative Medicine:CAM)とは」という書き出しがあって、「CAMに厳密な定義はなく、近代西洋医学以外のすべての医療をCAMとして話を進めても問題あるまい」との解説が載っている。そして、CAMの種類の多さに触れ、次いで「先進国におけるCAMの現状」が紹介されている。まずアメリカ、次にイギリス、そしてドイツ、フランスなどの現状に触れている。ここではO氏の御質問もあったので、イギリスとドイツの項を引用しておく。
イギリス
チャールズ皇太子の支援のもとに、国をあげてCAMと取り組んでいる。1年間に1,000〜1,200万人がCAMをうけている。なかでもホメオパシーについては王立専門病院研究機関が複数あり、さらには医療保険の対象である。鍼も盛んであり、実際に行なわれているCAMの45%を占めている。1994年に発表された研究では、病院医師の70%、開業医の93%がCAMを推薦している。またイギリス厚生省は正式な医学教育をうけていない補完医療の治療家を開業医が雇うことを認めている。
CAMの中で"スピリチュアル・ヒーリング"という、手かざし療法が公的保険の対象とされていることは驚きの一語に尽きる。
ドイツ
ドイツでは、伝統医学を自然療法と呼ぶ。それは治療法がほとんど天然の材料(水、光、植物など)を応用しているためである。最近の調査によればドイツ人口の約90%は近代西洋医学よりむしろ自然療法を選びたいと答えた。またCAMを近代西洋医学と同等あるいはそれ以上と考える医師は63%にものぼり、70%の一般開業医はもっと頻繁にCAMを利用すべきと考えている。
CAMを専門的に行なう"ハイルプラクティカー"という医師以外の公的資格が1939年より導入され、CAMでは大きな役割を果たしている。
1993年より自然療法は全国の医学部で必須となり、国家試験にまで取り入れられている。自然療法専門医制度も確立されている。
(引用終わり)
ここに出てくるホメオパシーは、まだ日本では御存知の方も少ないと思われるが、「症状を起こすものは症状をとる」という発想による療法で、英国王室がホメオパシーを医療の主としていることは、関係者には広く知られている。ただ、ホメオパシーは近代医学が到底容認できないと思われる錬金術的側面があり、ホメオパシーの拡がりは現代医学に凝り固まった頭の人には苦々しく映るだろう。というのも、ホメオパシー治療に用いられる薬が、それを薄めるほどに効き目が強力になるという「無限少の法則」という奇妙な事実があるからである。とにかく常識では信じがたい10の300乗というような薄め方は、その薄められた液に、元になる物質の分子の一かけらも見出すことは出来ない状態の筈なのだが、現実に身体に効果を著し、しかも単に気のせいではないことは動物に対しても有効なことで証明されると思う。
かつて、迷信と嘲笑された伝統医学や民間医療が先進国で再評価されているというのも、科学の進展がさまざまな歪みを生みつつある"現代"を象徴しているように思う。こうした事実を事実として受け入れ、ひとつの学問体系を構築するには、今後思いきった発想の転換に耐え得る柔軟で天才的な頭脳とセンスを備えた人材を少なからず必要とするだろう。 もちろん私はとてもその任に耐えられないが、そうした人達の成長に僅かなりとも手を貸すことは出来るかもしれない。
4月に韓競辰先生に直接触れさせていただき、テンセグリティについて梶川泰司シナジェティクス研究所所長から教示を受け、また長きにわたっての身体教育研究所の野口裕之先生の天才的才に触れ、そうしたなかでいま私の裡に育ちつつある、ある微妙な感覚の成長を守り育てながら、今は私自身の果たすべき役目が果たせるように感覚と技を磨いていきたいと思う。
松聲館道場を建てて26年。今ほど他への憧れも焦りもなく、自分のなかに生まれてくる気づきを大切にして技を探究できるような状況はなかったと思う。今後、私自身と私を取り巻く環境がどのような展開をみせるか、まるで想像がつかないが、今はこの流れに乗っていきたいと思う。
以上1日分/掲載日 平成17年5月15日(日)
休業を宣言して1ヶ月以上になるが、忙しさは休業以前と少しも変わらない。休業前は、取り敢えずその日暮しで、どうしてもやらなければならないものと取り組んでいたが、休業に入って溜まっているものに少し手をつけたら、それが余りにも多くて収拾がつかないほどある事に気づき愕然としている。とにかくこれでは体ももたないし、来週から当分、体のメンテナンスも兼ねて完全に世間から潜ることにしているが、結局は潜る際にも、かなりの宿題を持たされそうだし、潜る直前まで本やら、どうしても受けざるを得なかったインタビューなどで忙殺されそうである。
そうしたなかでも技の方は、どうやら今までにない変わり方をしているようだ。ただ、それがどういうものか語るには、今はどうも言葉少なにならざるを得ない。惜しんで言わないのではなく、感覚的なことはうまく言葉にならないからである。ただ、感覚が際立ってくると、いろいろな面で好き嫌いがハッキリしてきて困る。食べ物も別に特に菜食を心がけているわけではないのが、どうしてもその傾向が出始めている。
先日も、ホテル・オークラであったある会合に招かれ、招待して下さった方はオークラのレストランでいろいろ御馳走をして下さるつもりだったようだが、「なんでもお好きなものを・・」という先方の御好意を素直に受け入れて、コースは取らず、ただ一品料理の野菜の煮物、筍とワカメの煮物に湯葉、そして野菜粥といったものを御馳走になった。
翌日は、お世話になった蕎麦好きの方を食事にお誘いしたので、畏友のG氏に蕎麦店の情報を聞き、白金の三合菴を目指したが臨時休業との事で、昔から私の袴を縫ってもらっているF女史に電話をかけ、新たに店を教わって、結局神田の一茶庵に行く。もう十数年前になるが、畏友の加藤晴之氏が出張蕎麦打をされていた時に、食べることが出来た椎葉村の焼畑の蕎麦で打った蕎麦は別格としても、久しぶりにわざわざ出かけていって食べるに値する蕎麦を賞味して、身体はますますその方向(植物系)に傾いているような気がする。
そのせいだろうか。今日も妻が泊りがけで出かけているので私が食事を作ったが、キビ、麦などを混ぜた雑穀飯を炊けば、後は小松菜やニラを茹でたぐらいで、それに在り合わせの納豆とワカメの酢の物など。肉も魚も欲しいとは思わない。
今後、状況によれば又いろいろと食べるだろうが、少なくとも私自身の身体で動物性の食べ物が不可欠だとは全く思わない。もっとも、かつての日本では牛の肉を食べると聞いただけで顔色が変わった人が大勢いたのだから、米国との交渉で政府も頭が痛いBSE問題なども、「我国の国民は牛を食べないので」と言えば、これ以上問題のない断り方もないと思うのだが・・・。
ほんの百数十年前、家畜家禽を家族同様に接してきた日本では、幕末に来た欧米人が鶏を食べようとしても、産卵用ならと快く譲ろうとした日本人が、その鶏を食べると聞いてどうしても売らなかったり、食用にする牛を日本人から騙して買い取ったという話が欧米人の側の記録として残っている。馬の去勢も行なわず、そのため荒れて噛み付く馬に手こずったという話も多いが、去勢などという不仁な行為は日本では馴染まなかったのだろう。
最初の米国の駐日大使ハリスの通訳官ヒュースケンが日本に来て、その国土の豊かさと、至る所に満ちている子供たちの愉しそうな笑い声といった幸福な情景がいまや終わりを迎え、西洋の人々が彼らの重大な悪徳を持ち込もうとしているように思えてならない、と日記の中で神に向かって嘆いているが、今の日本をみていると、事はまさしくヒュースケンの予測通りに進行したとしか言えないように思う。
それにしても、かつての日本という国は、大人たちが本当に子供を可愛がる国だったらしい。(だったらしいと書かざるを得ないのが悲しいが)諸外国を広く廻って日本に来た欧米人が最も驚いた事の一つが、日本が子供たちにとって天国だったという事のようである。
現代の多くの日本人は、昔はもっと子供は厳しく躾けられていたように考えているが、当時の欧米人の眼には、日本では大人は子供たちに対して信じがたいほど寛容だったようである。実際のところ、一体何が真実だったのかは今となってはどうにも分からないが、どうも当時子供を可愛がるというのは、父親も母親もただひたすら可愛いから可愛いという素朴な感情に支えられていたようで、子供たちもそれに応えて素直な子が多かったようである。
よくフェミニストなどと論じられている「子育ては父親も参加すべきだ」「いや、男は仕事が第一だ」などという議論が拍子抜けするほどに、かつての日本の庶民の父親は子供と遊びたくて仕方がなかったようだ。その事をみても、歴史というのは本当に僅かの間に記憶を消され、すり替えられてしまうのだという事をあらためて思い知らされる。
以上1日分/掲載日 平成17年5月21日(土)
「三千世界一度に開く梅の花・・・」 これは大本開祖出口なおの筆先によく出てきた言葉だが、毎年若葉の薫る季節になると、必ずこの大本草創期を描いた大河小説『大地の母』の世界を独特な感慨と共に思い起こす。
あれは今から28年前になるだろうか。合気道や鹿島神流の先輩で、今も交流が続いている畏友の伊藤峯夫氏が結婚して間もない頃、泊りがけで伊藤氏の新居に遊びに言った事がある。その時、伊藤家の本棚に『大地の母11 東雲の風』出口和明(でぐち やすあき)という背表紙の本が目に付いた。気になって、この本について尋ねると、伊藤氏から「ああ、それは甲野さんが言っていた大本教のことが書いてあって、この近くの古本屋で見つけたんだよ。読んでみる? その本書いた人は、あの出口王仁三郎の孫らしいよ」という返事が返ってきた。
その夜、いろいろと話をした後、伊藤氏夫妻も寝静まったなかで、私はこの『大地の母』を開いた。はじめはどのような事が書いてあるのか拾い読みしてすぐ寝るつもりだったが、読み始めてすぐ寝ることなど忘れて没入してしまった。
この巻は全12巻のなかの11巻目ということで、それまでのいきさつが分からないことも多かったが、著者の筆力とそこに展開されている人間ドラマの凄まじさに、ただただ時を忘れた。殆ど一睡もせぬまま伊藤家を後にした私が、なぜその時、この『大地の母』全巻を最初から読んでみたいと思わなかったのか、その理由はどうしても思い出せないのだが、一年経って、私が武術の道場を建てようと思い始めた頃、なぜか猛烈にこの『大地の母』を読みたくなり、伊藤氏に頼んで11巻目を借りると共に、手を尽くして他の巻を探した。
しかし、すでに絶版との事で、どの書店にも無かったし、当時まわった古書店でも見つけることは出来なかった。思い余った私は、版元の毎日新聞社に電話をし、絶版ということは聞いているけれども「どこか倉庫に隅にでも残っていないでしょうか」と捜索を懇願した。すると、全12巻のうち4巻分は欠けているが、8冊ならあるとの知らせが届いた。「送りましょうか」という先方に、「いや、なくなったら大変ですから、すぐ取りに伺います。そこに置いておいて下さい」と頼み、大きな手製の革袋を持って毎日新聞社まで『大地の母』8冊を受け取りに行った。
本を受け取った帰り道から4日の間、私は寝る事と食事との時間を除いたすべての時間を、この本を読むことに充てた。後にも先にも数日間連続してあれほど集中して本を読んだことはない。おそらくこの先もないだろうと思う。
読み終わってすぐ著者の出口和明先生に手紙を出した。すると、驚いた事に和明先生から電話を頂いたのである。「欠けている4巻分は在庫のあるものは差し上げるし、ないものはコピーをとりましょう」という破格な御厚意に大感激した。その後、私がこの『大地の母』の感動について語ったことから、この本を読んだ人達は、私からの再伝、再々伝等の拡がりを入れれば、恐らく数百人以上にも及ぶと思う。
『大地の母』は、これを読む人によっては大感動するだろうが、合わない人には全く合わないと思う。なにしろ全てかつて大本の中で起こった事実の集積なのだが、それがあまりにも常識からかけ離れていることばかりだからである。しかし、それをここまで魅力ある作品に仕上げたのは、やはり故出口和明先生の筆力だと思う。
今回、月刊『文藝春秋』誌から6月刊行予定の同誌に「人生の危機に読む本」という特集タイトルで、いろいろな分野の方々三十人ほどに、推薦する本を挙げて欲しいという企画への執筆依頼が、どういう訳か私のところにも来たので、少し他の本も考えたが、やはり今回はこれしかないと思って『大地の母』を挙げ、その理由も原稿に書いて送り、ここしばらく開いていなかった『大地の母』を開いてみた。殆ど暗記するほど読み込んだところも、あらためて読んでみると、そこに展開されている人間の心理描写の迫力に唸らされた。そして著者の出口和明先生の許に伺った時、「あの本は、とても自分が書いたとは思えない。書かされたとしか言い様がない」と私に話して下さったことを懐かしく思い出した。
本書によって、私は人間というのは潜在的に常に何かに打ち込みたいと願っており、その打ち込む対象を得た時、恐ろしいほどの力が出ること、そしてそれが外れた時どのように自分を保とうとするのかという人間としての業の深さを見せつけられた思いがした。
いつの間にか私も見ず知らずの人達に噂される身となってしまったが、『大地の母』を読み返してみて、あらためて毀誉褒貶には動じないといったレベルを遥かに超えた大本開祖出口なおの人間として到達し得る殆ど限界点に達していたと思われる精神の透明度に深く打たれた。
大化物といわれ、時に泣き、喚き、人間としての振幅の大きかった出口王仁三郎には確かに人としてのスケールの大きさと、その度量の深さを感じるが・・・。例えば、海軍機関学校英語教官の職を捨てて大本入りし、ナンバー2の地位にまで登りつめた後、大本を出て心霊科学協会を興し、王仁三郎批判を行なった浅野和三郎や、やはり一時大本の大幹部として激烈な立て替え立て直しを宣伝しながら、その後大本を出て、度を越えた王仁三郎批判を行なった友清九吾などを、彼らのそうした裏切り行為を予知しつつ、その時期に必要な役者として彼らのやりたいように思う存分その手腕を揮わせるなどという事は、今日、よほど度量の大きな者でも真似の出来ないことだと思う。
私自身の好み、人間としての風景の良さという点で、私個人は、やはり出口なお大本開祖の方に魅力を感じる。
いずれにせよ、人間の生き甲斐の根本に関わる宗教の問題は、今日の日本では人々の教育過程で殆ど抜け落ちているが、何らかの形でこの事について深く向き合う場をつくるべきだと思う。私が「人間にとっての自然」を宗教によらず武術という体感を通して探究したいと思ったのも、数年間にわたって宗教に対して少なからず突き詰めて考え、多くの気づきとヒントを得たからであり、宗教を毛嫌いしたからでも馬鹿にしたからでもなく、私が知り得た宗教的世界を、より純度の高い所で体感したいと思ったからに他ならない。
この事に関しては、いままで私があまり書いたことがないので誤解している方も少なくないように思われるので、あらためてここに書いておきたいのだが、過去何万年か何十万年の積み重ねの上にある我々にとって、この我々を生んだ文化の中でも少なからぬ比重を占めていた宗教を無視して人間そのものを考えることは大変な無理があると思う。
もちろん、どういう形態で宗教と向き合うべきかなどという事は、私には言えないが、人間の本質を掘り下げて考えようとしている人達にとって、宗教とどう向き合うかという点に、その人のセンスが問われることは間違いないと思う。
以上1日分/掲載日 平成17年6月1日(水)