HOME映像随感録活動予定告知板著書掲載記録技と術理交遊録リンク集お問合せTwitterメルマガ
2005年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月

2001年 2005年 2009年 2013年
2002年 2006年 2010年 2014年
2003年 2007年 2011年 2016年
2004年 2008年 2012年

2005年7月3日(日)

 5月の末からここ約1ヶ月、松聲館道場を建てて以来、かつてこれほど本格的に休業したことはなかったが、この間これほど精神的にさまざまな状況の自分を観たこともなかった。
 6月の初め、夭折したアルト・サックスの天才、阿部薫の本を久しぶりに読んだことから、その激しい生き様が直接奔流のように体内に流れ込んだ気がして、何とも言いようのない悶えが湧いてきた。
 それが6月11日、身体教育研究所の野口裕之先生に体を観ていただき、一切の読み書き禁止を申し渡され、そのことを私の体が自覚するような処置をされたのだろう、それ以後は頭痛やら気力の萎える体となり、足首の痛み、手指の痛みなどが次々に現れて、私の引き籠りを助長した。
 この間、読んでもらった渡辺京二著『江戸という幻景』のなかの、木曾山中の馬子の話には格別心を打たれた。詳しくは前回の随感録に書いたので、ここで再び述べることをしないが、この馬子の素朴で平和な日々には深い深い憧憬をもって、かつての日本を振り返らざるを得ない。この思いは、今これを書いている時もある。
 しかし、武の原点である1つ間違えれば大怪我か命さえも失いかねない厳しい現場に身を置きつつある人から、スポーツ的ルールに縛られた武道に対する疑問から私の武術の存在が希望となっている旨のお便りを頂くと、そういう命がけの中で人間のある純粋さを見ている人に対する激しい共感が湧き起こり、こういう人の為に出来るだけの協力もしたい、という思いも一気に湧いてくる。
 全く何人の甲野善紀がいて、どれが本当の甲野善紀なのかは全く分からない。恐らくその何通りもの甲野善紀は全てそうなのだろう。
 この事は既に何度も何度も述べているが、私の純粋な願望と現実の世の中の動きへの働きかけには大きな溝がある。純粋な願望はプラスチック製品もこの世から一切排除したいが、そのような事はもはや不可能であろう。
 現代という時代に生きている以上、ある程度は時代の雰囲気と共に歩かざるを得ない。その時代の雰囲気の一つの象徴ともいえることに、あと十日ほど後に迫った宇宙船の打ち上げがある。6月30日、私と、今度宇宙飛行をする野口聡一宇宙飛行士とのつながりについて取材のため、朝日新聞のN記者が来館。
 当初、「野口宇宙飛行士の船外活動は、日本の古武術がその基にあった」という記事にしたいというような意向がこのN記者にあったようだったので、そのような誇大宣伝めいた事を書かれては困るので、休業中ではあったが直接事実関係を説明した方がいいと思ってインタビューに応じることにしたのである。
 結局3時間位もいろいろと話をしたが、野口氏に関しては2004年の1月19日に野口氏が私のところに訪ねられ、2,3時間いろいろと技を体験して頂きながら話をした事、その後2度ほどお電話を頂いたり、「帰還後、お会いするのを楽しみにしています」という短いお手紙を頂いた事、それ以外に特に接点はなく、私の技や体の使い方がどの程度野口氏に参考になったかは野口氏御自身に尋ねてみなければ分からないといった事実関係のみを答えた。ただ、N記者が大変好感の持てる方で(私も随分多くのインタビュアーに会ったが、N氏ほど話しやすい人物は数人ぐらいしか記憶にない)、他のさまざまなジャンルのことまで話が及んでしまい、結果として私への過度な関心の持たれ方を修正して鎮火しようと思ってインタビューに応じた筈なのに、インタビュー後は来館時よりもN氏の私への関心を大きくしてしまった感があり、私も内心苦笑いせざるを得なかった。
 そうしたところへもってきて、翌7月1日、学研からのムック本『甲野善紀の身体革命』が届く。幸か不幸か読み書き禁止中でよく見られないから、恥かしさも割引きされたように思うが、まるで私の写真集のような作りには些か参った。
 ただ、このムック本が出たことで日常動作や介護が楽になる方が出れば、それはそれで意味があったと思う。これに関連して思い出したが、このムック本の中でも高橋佳三氏との対談が載っている介護福祉士の岡田慎一郎氏が巻頭インタビューへ大きく出ている医学書院の『看護学雑誌』(ムック本が届く3日ほど前に届いている)のなかの岡田氏の話の巧みさは見事。日本の介護法を大きく変えた人物として永くこの世界の歴史に残る人物となって欲しいと1年前から思っていたが、私の予想をかなり上回る早さで岡田氏の名が広まり始めている。
 岡田氏の場合、このインタビューの中で自称ニートであったという告白まであり、全国何万か何十万かのニートや引き籠りの希望の星ともなるだろう。何しろ技術は確かで、名にその実が伴い、しかも野心のない人物なので、今後ますます多くの人から頼りにされる事だろう。御縁のあった事を心から感謝している。何と言っても武術という事がこれほど直接的に分かりやすい形で社会の役に立った、という例は私の知る限り他にはないと思う。
 私は数十年間、好き勝手な事をしてきた人間であるが、現代社会に生きる一員として自分がやってきた事がハッキリと社会の役に立つと、やはり気持ちが楽になるところがある。
 現在、本の校正は読み手を頼んでやっているが、ようやく手を離れそうなのが仮立舎の『斎(いつき)の舞へ』(これは科学というものの在りようを根本から問い直すもので、日本におけるエイズ研究の草分け的存在である群馬大学の研究者、清水宣明氏との共著)。その次に上げる予定がPHP研究所刊の『古の武術に学ぶ』。これは2003年にNHKの教育テレビで放映した『人間講座』のテキストを大幅に添削して1冊にしたもので、刊行を企画してから1年以上も動かなかったもの。
 それから冬弓舎の『武学探究』の2巻目。もちろん光岡英稔氏との共著。1巻目に比べると内容が遥かに濃くなっていて、『老子』や『荘子』、『梅華集』、『願立剣術物語』、『武禅』 『臨済録』等々の引用が多く、活字離れの多い若い人には読むのは大変かも知れないが、著者としてはやり甲斐のある本。この他、晶文社の内田樹氏との共著、日本実業出版の神田昌典氏との共著が現在原稿進行中。この他にも具体的に動き出している企画が5〜6冊あるから、これからの本作りの在り方はあらためて考えなければならないと思う。

 最後に話はまるで変わるが、昨日半月ぶりくらいにガビチョウの鳴き声を聞く。5月中旬、いままで一度も聞いたことのない鳥の鳴き声に驚いて、庭に出てその姿を求めて記憶し、こうした事に詳しい人に聞こうと思っていた矢先、この鳥がブラックバスなどと共に今後日本での生存を許されない外来生物であった事を知って驚いた。ガビチョウの声は絵に描いたような「小鳥の声」で、6月の中旬校正を手伝ってもらったKさんが「スピーカーから流れる小鳥の声かと思った」というほど流麗な鳴声である。他の鳥を喰う肉食性の鳥でもないこの鳥が、一体なぜ名指しされるほど排除の対象になるのかよく分からない。
 外来生物といえば、あと1ヶ月と少しくらいしたら鳴き出すと思われるアオマツムシも、この声を初めて鎌倉で聞いた約30年前、街路樹の上で鳴いていることもあり、私はてっきり商店街のスピーカーで放送している虫の声だと思った。それから数年して、私の家のまわりでも鳴くようになり、いまは晩夏の象徴的な存在として私の中にある種の思いを呼び起こしている。このように時代と共に生物も変わるので、ガビチョウくらいはいてもいいのではないかと思うが、この鳥が排除される明確な理由を御存知の方は、私のサイトの管理人宛メールを頂ければ幸いです。

以上1日分/掲載日 平成17年7月4日(月)


2005年7月6日(水)

 前回のこの随感録でガビチョウの事について書いたところ、何人もの方々から「何故ガビチョウが、今回排除の対象となった特定外来生物に選ばれたか」についての理由や感想等々をメールで送って頂き、概要は理解することができた。お知らせ頂いた方々にはこの場を借りて御礼を申し上げたい。
 排除の主な理由は、他の似たような環境に棲む在来の鳥との競合で優占種になる恐れがあるという事らしい。現にハワイではその傾向が見られるという。また、ガビチョウは他の鳥の声を巧みに真似るので、鳥好きな人も騙され「クロツグミが最近多くなった」と錯覚させられたりもするという。何やらコピー文化が花盛りの現代を象徴しているようだ。このガビチョウに関しては、異文化の移入による在来文化の変化という社会現象についてもいろいろ考えさせられた。
 ただ、そうした情報に触れたためか、昨日庭であまりにもよくウグイスが鳴くので、「ヒョッとしてガビチョウが真似ているのか」と気になって確かめてみたが、これは正真正銘のウグイスだった。「ホーホケキョ」のケキョの部分をケキョケキョケキョ…と長く繰り返す夏特有のウグイスの「谷渡り」と呼ばれる鳴き声は、子供の頃、夏に山奥へ入った時の事を思い起こさせる。
 現在休業中で稽古も全く休んでいるが、本の制作に関わることをはじめ、何かと用件があってしばしば人と会って話すことが多い。体調がまだ本調子ではないのか、人と会った後、かなりグッタリ…。ただ身長は一時期より少し伸びて170cm弱にまで回復。(足裏の垂直離陸をしていないので、縦方向の圧縮が減ったからだろうか?)体重は58kgで、これは約4キロ減。足のふくらはぎなど目に見えて細くなった。

以上1日分/掲載日 平成17年7月6日(水)


2005年7月12日(火)

 今日初めてミンミンゼミの声を耳にし、最初は何か工事で出た音かと思った。そう思ったのは、今自宅の回りはあちこちで工事をしていて様々な音がするし、その鳴き声もミンミンゼミの典型的な鳴き声からすると、かなり調子が外れていたからである。しかし、気がついてみれば7月ももう中旬、盛夏に入ろうとしている。とはいえ、ニイニイゼミの声もアブラゼミの声もヒグラシの声も聞かず、いきなりミンミンゼミの声を聞いたことなど私の記憶にある限り今年が初めてである事だけは確かだ。それほどに自然の運行とその季節々々の生物の生態も変わってきてしまったのだろう。
 私の体調の方は自覚的にはかなり普通なのだが、先日の9日うかがった身体教育研究所の野口裕之先生の見立てでは、「まだ日常動作ならいいですけれど、稽古の方は、ちょっとね・・」という事らしい。野口先生の見立ては、最近いっそう恐ろしく鋭くなられていて、野口先生からのアドバイスはこれを守らざるを得ない、ある独特の力がある。思うに整体協会の整体操法と普通の治療との大きな違いは、整体操法の場合、人としての力量とセンスというものが、その基盤をなしているからだと思う。名越氏もほとんど同じ感想を持っていたが、このような時代にあってファン心理的な憧れではなく、ある人物に推服するということは滅多にないが、野口裕之という人物はその類稀れな人間の1人であり、今後二度と現れない人物だと思う。
 それというのも大天才野口晴哉を父に、そして戦前の公家の雰囲気と環境が残っていたなかで、その公家のなかでも高い地位にあった近衛家の当主・近衛文麿元首相の長女を母に持ち、経済的な苦労はなかったかもしれないが、現代医学とは常に戦わねばならない事も含め、さまざまな差別やいじめの中で凄まじい葛藤を抱えて成人され、三十歳を過ぎてから独自の整体指導の道を打ち立てられたからである。表裏さまざまな場面に稲妻が走るようなその発想の自在さは、四半世紀に及ぶお付き合いをさせて頂いても、とても対応しきれるものではない。
 私が今まで出会った人達の中には記憶に深く残っている驚くべき才能を持った人は何人か存在するが、人としてその存在そのものに天才を感じることにおいては野口裕之先生ほどのインパクトを受けた人は殆ど記憶にない。この事は以前何かに書いたと思うが、『アマデウス』のなかでモーツァルトの才能に嫉妬したサリエリは「神は私に天才と凡才を見分ける能力だけをお与えになった」と言って嘆くが、我々(名越氏と私)は野口裕之という人物が恐るべき天才であるという事が分かるだけで十分で、この天才と肩を並べようなどとは全く思わない。というか、そんな事など空想するだけで恐ろしい。それほど力量不足の我々であるが、野口先生ほどの天才となってしまうと、なかなか話の通る人も少ないのか、先日も「僕の通夜は京都の焼肉屋で甲野さんと名越さんとIさん…とでやってもらいたいなあ」と仰って下さって恐縮のきわみである。もっとも、その数人しか入らないというきわめて無愛想な老婆が1人でやっていたという焼肉屋は、その後何度探してもみつからないとの事で、当分そうした状況が現出しないだろうと我々は一安心なのだが…。
 いずれにせよ、この世に生まれて、まさに天才と呼べる人と親しくお目にかからせていただける事は他に例えるものがない喜びである。ただ、野口裕之先生の場合、人によっては副作用がきつく、その場にいたたまれない恐れもある上、身体教育研究所の物理的容量もほぼ限界に来ているので、よほど縁のある方以外にはその出会いはお勧め出来ない。

以上1日分/掲載日 平成17年7月13日(水)


2005年7月15日(金)

 野口裕之先生からの読み書き禁止が徐々に解けてくるにつれ、「確か今まだ休業中だった筈だがなあ…」と自分であらためて考えてしまうほど、ここ数日いろいろな電話や宅配便や郵便が届く上、何人もの人と会った。その殆どはこの秋からの休業明けの仕事の打ち合わせだが、こうまでいろいろあると休業とは言えなくなる。今はどうかこれ以上仕事の話が来ないようにと願うだけである。
 そんな中、たまたま尋ねたいことがあって13日に久しぶりにI氏に電話。声だけで顔は見えなかったが、現代では稀な自分の仕事に命を張っている人の声はやはり心を打つものがあった。ちょうどディスカバリーの打ち上げで野口聡一宇宙飛行士の画像がTVに映ることが多く、その笑顔で手を振っている野口氏の顔にも、先に2度宇宙飛行士全員死亡の事故を承知で行く命懸けの人間が見せる独特の晴れやかさがあった。打ち上げは延期になったが無事に戻られお会い出来る折を楽しみにしている。
 このような顔を見るにつけ、何でも「安全」「安全」で、それが至上の優先事項の現代が、人間から覚悟の決まったいい顔をなくしてしまったのではないかと複雑な思いにかられた。昔なら「一将功成って万骨枯る」、今ならさしずめ「手術は成功しました。しかし患者は死にました」といった目先の成果を優先して本質が消えてしまうような事が明快に愚行と言い切れぬところに現代の人間社会の難しさがある。
 それにしても命を恐れず果敢に物事と取り組む気風が年ごとに失われていく気がするのは何とも足許が崩れていくような虚しさを感ずる。4月末のJR西日本福知山線の事故で、各マスコミはJR西日本をサンドバッグのように叩き放題叩いていたが、救助隊が一両目に入るのに、なぜあんなにも長時間かかったのか、その事について疑問を呈し詳しく調べて発表した所が、私の知る限りまったく無かったのは私としては何とも不可解だった。(別にJR西日本をかばうつもりはないが、叩きやすいところを叩くというのは、どうも卑怯な気がする)
 それというのも事故直後マンションの駐車場にめり込んだ車両から自力で逃げ出して来た人がいたのに、救助隊が中に入ったのは確か翌日である。もしも救助隊の中に戦争など極限の状況下で沈没する船から人を救うといった経験を少なからずしてきたような人がいたら、あんなにも時間がかからなかったのではないだろうか。もちろん困難な状況であった事は事実だろうが、すべての作業がマニュアル優先で、「科学的」を金看板に勘を働かせるような場面を排除してゆく方針が幅を利かせていたとしたら、何か非常に大きな間違いを犯しているような気がする。
 野生動物が時に気高く美しく見えるのは、生命の安全保障などない命懸けの日々を送っているからだと思う。安全と豊かさの追求がある程度満たされ、満たされた程度に応じて人間の生きる意欲を失わせ、生きる姿の美しさを損なうのは何とも皮肉な話だ。しかし、そのもはや止めるに止められなくなった便利さや安全保障に科学が深く関わっているとしたら、科学の在り様をあらためて考える必要があると思う。
 かねてから私の中には科学に対する現代人の過度な信仰について「一度立ち止まって、よく見直しをして頂きたい」という思いがあったが、近々、日本のエイズ研究の草分け的研究者で現役の科学者である清水宣明群馬大学講師との共著『斎の舞へ』(いつきのまいへ)が仮立舎(けりゅうしゃ)から刊行される予定なので、御関心のある方には読んで頂きたいと思う。(恐らく限定2000部以内で、一部大型書店以外は直販になると思われます)
 この本は見方によれば私が今まで出した本の中で最も過激な本かも知れない。もっとも、私が担当しているのは3分の1ほどで、そこは従来から言っている事をまとめている程度なので大した事はないが、清水氏の執筆部分の過激さは普通ではない。(この先、研究を続けていけるのかと心配になるほどである)しかし、二度とない今生の人生で周囲の思惑にビクビクして生きるより、狂っていると言われようともそのまま狂い死にした方が「生きた」という実感はあるかも知れない。
 社会の安全保障が行き渡るにつれ、日々、人は「生きている」という実感から遠くなりつつある。このところ頻発する少年の殺人傷害事件の度に「命の尊さを教えるように」と文部科学省は通達を出すが、校長、教頭といった人がおざなりな「人間の命は大切で…」といった話をしても爪の先ほども効果がない事は誰もが感じていると思う。もし本気で命の大切さを教えるなら、ひとつ間違えば命を落としかねない岩場を渡らせるとか、無人島で僅かな食料で一週間か十日過ごさせるとか、本当に体感で「生きる」という事の凄まじさ、厳しさを感じさせるべきであろう。
 少なくとも企業などの採用条件の一つに生きていることが如何に苛烈な事であるかを体感・実感した者という一条を加えただけでも社会の雰囲気は違ってくると思う。「普通ではない人」は、時に社会の人々と問題も起こすが、その普通では無さがエネルギー源なのだから、それはそれで仕方がないと思う。
 私が「普通ではない人」と縁があるのは、何も今に始まった事ではなく、私が武術稽古研究会を立ち上げた直後から二十七年来の付き合いで今も何かと世話をかけている中島章夫氏(現在、恵比寿で半身動作研究会主宰)には、「甲野先生はどうしてもそういう人を引き寄せちゃうんですよね」と、よく苦笑される。
 しかし、そうした普通ではない人物の中でも清水氏は会えばきわめて物静かなだけにウッカリ油断してしまうが、内側にはドロドロに溶けたマグマが噴出孔を求めてたぎっているような方である。私も初対面の物静かさから、迂闊にもこれほどの強烈さをお持ちとは思わなかったが、最近その情熱の凄まじさをあらためて知り、自分の人を見る目の甘さを思い知った。(もっとも、畏友の精神科医名越氏によれば、私の「普通じゃない人」に対する適応力は普通じゃないほどあるらしく、私は大丈夫だがこれほど普通ではない情熱のある方とのお付き合いはあまり一般の方にはお勧めできない)
 この情熱に真っ向ぶつかって一歩も退かない人と言えば、すぐ思い浮かぶのは木彫彩漆作家の渡部誠一翁だろう。先日も、たまたま野口先生の所でお目にかかったが、その情熱と誠意の真直ぐさは凄まじかった。渡部翁はある陶芸作家に「我々にとって一番大事な事はいい作品を作ることですよね」と話しかけられたのに対して、「あなたは本当に何も分かっていませんね。我々にとって一番大事なのは『どう生きるか』という事なのです。そして、その生き方が作品に表れるのです」と説かれたそうだが、あらためてその言行一致ぶりに頭が下がった。
 会津出身の渡部翁は、維新から既に百数十年も過ぎているが、戊辰戦争で官軍がいかに道義のない戦の仕方をしたかについて語り出すと、目に涙が浮かぶほど純粋な方であり、現代では奇跡とも思える見事な彫りと彩漆の技術をもって作られる作品は息を呑むほど見事だが(私も常に渡部翁の作品を持ち歩き、折々眺めて自らを戒めている)、その価格がまた驚くほど高くないのである。
 先日も仕上がった見事な箱を見せて頂いたが、その時に野口先生が「これ、まさか八万円なんていう(安い)値段をつけたりはしてないでしょうね」と言われると、「いや、これは六万五千円でお引き受けしましたので、それでお願いしております」と答えられていたので、その場に居合わせた一同呆れてしまった。とにかく渡部翁は、その作品の出来に依頼者が感激して、その感激から渡部翁が申し出られた価格以上のものをほとんど拝み倒すようにして渡そうとしても、丁重かつ厳然として受け取られた事がない。私の知る限り例外的には四国で私の稽古会の世話人をしてもらっている守氏から送られた代金を遠距離の事もあり、「次の作品の内金という事で何とか受け取って頂きました」という話を守氏から聞いたぐらいである。
 失礼ながら経済的に余裕のある方では全くない渡部翁のこの態度は、戦前、道具鍛冶として名人と謳われた千代鶴是秀翁とも通ずるところがあると思うが、渡部翁の徹底ぶりは千代鶴翁以上だと思う。しかし、こうした頑ななまでの生き方、自らの律し方があってこそ、あの類稀な余人の追随を許さぬ作品が生まれるのだと思う。(ご関心のある方は私のホームページとリンクしている渡部翁のサイトにある作品群を御覧頂きたい)
 こうした方こそ真に「人間国宝」に値すると思うのだが、3年前私が出会う頃は理解する人も殆どなく、道路工事にでも出ようかという日々だったというから、何という世の中だろうかと思う。(渡部翁と初めて出会った時のことは、この随感録の2002年7月24日付けに出ている。この原稿を書いてから気づいたが、渡部翁と出会ったのは3年前の今これを書いている7月15日であった)しかし、縁あって野口先生やO女史、四国の守氏など渡部翁の真価を理解し、これを多くの人達に紹介して下さる方々との橋渡しが出来て私としてもホッとしている。
 この事で渡部翁は私に多大な恩を感じておられるようで、その事は私にとってはやや荷が重いが、現代にあって今や小説の中にしか存在しないような情宜に厚く、自らを律するのに頑なな名人肌の職人というか芸術家に直にお会い出来た事はかけがえのない貴重な事であり、渡部翁との縁を結んでもらった私のサイトの管理人である柴崎氏には深く感謝している。
 渡部翁のような方と出会う事も滅多にないと思うが、それでもこの先またどんな稀有な方とお会い出来るかも知れず、それは未熟な私が恥を忍んで本など出して世に知られるようになった事のメリットかも知れない。しかし、最近は外出すると、誰からかに声をかけられ挨拶をされる事が日常化し、日によっては2回も3回もそうした事があるので、世に知られる度合も何とか今ぐらいを限度にして欲しいと願っている。

以上1日分/掲載日 平成17年7月16日(土)


2005年7月22日(金)

 昨日21日、身体教育研究所に伺って、野口裕之先生に体を観て頂き、漸く身体を使っての稽古が解禁となる。ただ、ここ2ヶ月稽古を止められていた間にも、軽く体を使った稽古もどきはやっていた。しかし、稽古禁止期間なだけに頑張ったりすることを極度に警戒していたので、かなり体の使い方は変った気がする。(身体の芯の方に力むことに対し、強く拒否する感覚が芽生えてきている感じがする)
 今後どのような身体の使い方になるかは、まだ何とも分からないが、そのリハビリも兼ねて明日は明星大学での講演。来週末は仙台で講演を行なって試運転をしてみたい。仙台での講演は公開講座なので、もし御関心のある方は「アクティブ・マザー・コミュニティ」022−711−6114にお問い合わせ頂きたい。
 身体の動きは解禁になったが、実はさまざまな用件の対応は数日前から休業以前に変わらなくなっていて、いま最も急を要する『武学探究 U』の校正というメインの仕事に取り組んだのが19日の26時半、つまり20日の午前2時半(19日の朝からやりたいやりたいと思いつつ、この日だけで12件ほどの返事を要する案件があって、電話での話しが合計5時間半に及び、結局やっと落ち着けたのがこの時間だった)。それで、それに一区切りつけて5時に寝て、8時に起きて(というより工事の騒音で起こされて)19日中に出来なかった事をやったがやり切れず、21日は2人来客があって、夜は野口先生の所に伺ったので、この日は終日ほかの用件はほとんど何も出来ず。これでは9月に入って休業明けとなっても、昔、台風の日などで見られた、商店が大戸は下ろしてくぐり戸を開けるという半開店状態にしておかないと、どうしようもなくなるかもしれない。
 このような状態ですので私に御用のある方(原稿依頼やインタビューその他、日時を約束されている方)は締切日や面会当日の数日前に必ず確認をとって頂きたい。
 今日もまたすぐにでも返事を出したい用件が4,5件発生。ただ状況が状況ですので今週初めから返事をお待ちの方はもう少しお待ち頂くか、直接お電話を頂きたい。

以上1日分/掲載日 平成17年7月23日(土)


2005年7月27日(水)

 昨日26日は台風の影響が危ぶまれたが、劇団クナウカの御招きを受けて『王女メディア』を東京国立博物館に観に行く。十分に練られた宮城聰氏の演出のためもあるのだろうが久しぶりに人間の業の深さを傷口に塩を揉み込むようにして見せられた気がした。
 「人間が仮に国と国との戦争を無くすことに成功したとしても、嫉妬により殺人は無くならない」と誰かが言っていたが、浄土真宗を開いた親鸞が自らを「罪悪重業の凡夫」と自称した気持ちが今までになく分かった気がした。
 劇を観終わって表に出ると、博物館の本館前の夜空をバックにユリの木の巨木がそびえており、「ああ、木はいいなあ」とつくづく思った。

 23日は明星大学で(人前で話すのは2ヶ月ぶりの)講演と実演を行なったが、翌日、体の後背面が全身弱い筋肉痛となった。ただ、今まで経験したことがなかったのは、首の付け根、両肩から背中、腰、更にアキレス腱の辺りまでまんべんなく、ちょっとだるいような痛みがあり、「ああ、単なる形容ではなく、体全体を使うようになっていたのだな」と、ちょっと感慨深かった。
 技に関しては、この日2ヶ月ぶりに浮き取りなど、ずっとやっていなかった本格的な体の使い方も行なって、それなりに利いたが、あらためて感じたのは精神内面の事。『王女メディア』で人間の業の深さをあらためて感じたから言うわけではないが、精神の在り様の質的転換という事は、動きの質を変える事とも密接に関わっていると思う。
 江戸期の剣術指導書として有名な『天狗芸術論』には、「心体開悟したりとて禅僧に政を執らしめ一方の大将として敵を攻むに、豈よくその功を立てんや、その心は塵労妄想の蓄へなしと雖も、その事に熟せざるが故に用をなさず」という有名な一句があるが、心の深いところまで執着を取り去り、「素直」になった人は、相当の力持ちに組みつかれても、居つき捉われがなければ抑え込まれないのではないかと思うようになってきた。
 「武道は精神だ」と言って術を軽んじ、未熟な技倆を誤魔化したりするような事はしたくないと思って、私は「武道」より「武術」の語を用いるようしたのだが、実際の場面で有効な技が精神と無関係な筈はなく、妙な深入りはしないようにと思いつつも、今までに禅や神道やいくつかの宗教や荘子に心惹かれるままに関わり、いくつかの体験もしてきた。しかし、いま思うのは文字通り素直になるという事の意味である。
 新宗教に取り込まれた人間を我に返らせるディプログラマー(逆洗脳家、ある種のカルト的新宗教に深入りして家族や周囲を困らせているような人物と、宗教や哲学の話をして、その思い込みを解きほぐし、社会復帰させる専門家)を、昔、人に頼まれてやった事もあったが、ディプログラミングされる程度の信仰ではなく、体の動きの質まで変わるほどの信仰を持った者の力というのは「人としての本質的な何か!」に確かに触れているのだと思う。
 体感主体の技とそれを使う人間の精神内面との間には、何か目に見えぬ、しかし、しっかりとした糸が繋がっている気がする。動きの質という事について、これからは精神内面の事も視界におさめつつ工夫検討してゆきたいと思う。
 私の休業は9月まで続くが、7月30日、リハビリを兼ねての仙台での公開講演(詳しくはメールにてお問合せください)の後、8月7日はリハビリの段階を進めるというより、あらたな登山道を探るため名古屋で術理説明会(実技入りの講座)を行なう事になった。御関心のある方は私のサイトとリンクしている山口氏のサイトを御覧頂きたい。

以上1日分/掲載日 平成17年7月28日(木)


2005年7月31日(日)

 28日に家を出て、28日午後から29日の夜近くまで郡山で『武学探究』の2巻目の校正と不足原稿の書き足しをほぼ終え、30日は午前中から仙台でサイン会やら講座、そしてその打ち上げがあって、又その後何人かの集まりに招かれた。
 そして翌日は5時起きして合気道有志の方々に最近の技の解説をしたりと、28日から従来と変わらぬ、あるいはそれ以上に詰まった予定のスケジュールをこなしてきたが、帰路は別に疲労を覚えなかったから体調も本復してきたような気もする。ただ28日は8時頃から、30日は6時頃から猛烈な疲労感と眠気に襲われたから、体の芯は相当にくたびれているのかもしれない。2日は、日本体育協会のラグビーの公認コーチの方々の講習会に招かれているので、又早朝起きで行かねばならないから明日は1日ゆっくり休んでいようと思う。
 こうした日程もあったので、今回は東北に行っていながら私が一番行きたいと思っていた炭焼きの佐藤家行きを断念したのである。(予定に急かされずゆっくり行きたいと思っているので)炭焼きといえば、この佐藤家の佐藤光夫氏の炭焼きの師匠である佐藤石太郎翁の著作が装いを新たにして、河北新報出版センターから『ダム湖に沈んだ山村の知恵』−山中七ヶ宿・原集落風土記−A5判並列2300円税込として刊行されたのでここに御紹介しておきたい。
 本書は私が東北に出かける前日、諸々の用件に追い回されている最中に届いたのだが、思わず30分ほども読みふけってしまったほど魅力的な内容。本書の注文と問い合わせは「石太郎さんを囲む炭焼きの会・星野憲」宮城県刈田郡蔵王町遠刈田字八山1−119 TEL&FAX 0224-34-2825まで。

 それにしても今回久しぶりに技をいろいろ試みて、動きも解説も休業前とはハッキリと変わっている事に気がついた。ひとことで言えば、解説が具体的・論理的でなくなっている。いま、以前よりも明らかに実感しているのは、技の解説中に何度も引用した『願立剣術物語』の47段目:
 中央と言う事有り。心の中央也。右へもよらず左へもよらず、上へも下へも付かず、本より敵にも付かず、太刀にもたれず十方を放れて心の中道を行く事也。像有る処を計るは心の中道にてはなし。敵味方の間太刀を打ち合わする間也。間は空中なれば像なし。此の像なき所を推量才覚を以って積む事成るまじきぞ。一尺の間或いは一分一毛微塵の内にも其大小に随て中央有り。一刹那の内にも中有り。「ちりちり草の露にまで」と言う歌の如く也。ただ中央を取る事肝要也。六韜に曰く「勝は両軍の間に在り。」
に対する親しみが増している事。
 そして暮に気づいた「三元同立」の術理が結果としては意外に役立っている。しかし、実際に技を行なう時、もちろんその事を意識的に心がけているわけではない。意識的に心がけようとしたら、その瞬間に動きは2次元的平板なものになってしまう。
 今回、5段、6段といった合気道の指導者の方々もかなりおられたが、合気道のいわゆる呼吸技、座技の両手持ちで、通常は受けの立場となる相手の両手首をこちらが持ち、相手方の攻め込み、いなしOKという状況下で、解説する声の調子を変えず(つまり力むことなく)相手方に全て入って行くことが出来たが、これが休業前の4月であったら、そして術理を意識して努めて行なおうとしている状況だったら、こうした事は無理だったと思う。
 ただ、興味深い事は、自分が意識的にやっている感じが以前よりも遥かに無いから、相手が崩れても「どうですか、この技は!」という自信のようなものがずっと薄く、「あっ、崩れましたね」と相手と共に驚く感じがあることだ。
 これも韓競辰老師との出会いが決定的に大きく働いている事は間違いないだろう。あらためて韓競辰老師と韓老師との間を丁寧に繋いで頂いた光岡英稔韓氏意拳日本分館代表に感謝の意を表したい。光岡師といえば、28日から29日にかけては光岡師との共著『武学探究U』の校正を行なっていたのだが、よくぞここまで『老子』を初めとする中国の古典に深い理解を示されるようになったものだとホトホト感心した。というのも、光岡師は物心つくかどうかの幼い頃から思春期直前までアメリカで過ごされ19歳で再びハワイに渡られているから、日本語の読み書きは決して得意ではないのである。現に1冊目の共著『武学探究』の原稿は誤字当て字が少なからずあったし、話していて古典に対するズレも時々あった。それがまるで同じ人物とは思えないほど見事な例えや、私も唸ってしまうほど見事な解釈を述べられるのである。以前から光岡師の武術に対する天性の才には敬服していたが、失礼ながら術理や思索がここまで深いものを持たれるようになろうとは(しかも、ここ1年ほどの間に)予想出来なかった。あらためて私の不明を恥じ入ると共に、このような思いを持っていた事をお詫び申し上げたい。
 『武学探究』の2巻目は、武術の術理について述べた本としては、『願立剣術物語』などの古典を別にすれば、私にとって、今まで接してきた本の中では最も貴重な本となりそうである。ただ、具体的な個々の技や体の使い方のコツといったものではなく、あくまでも根本的な技の原理を説いているので、参考になる方とならない方の差が大きく隔たる恐れはある。いずれにしても、このような本に共著者として参加出来たことは私にとって大変光栄であった。

−あわてて追記−

 ここまでの原稿を仙台からの帰りの新幹線の車中で書き、さて今夜と明日はのんびりしようと家に帰ってすぐ例によってその走り書きの東北旅行の随感録用の原稿をI氏にFAXした後、30日(土曜日)の朝日新聞の夕刊に野口聡一宇宙飛行士関連で私の事が写真入りで出ていた事が判明。
 確かにちょうど一月前、朝日新聞のN記者が来館し、この事に関してインタビューを受けた。(7月3日の随感録に書いてある)ただ、そこにも書いたが、どこまで私の武術が野口氏の参考になったかは全く分からない。
 昨年1月に私の道場に来られて、大変熱心に話を聞かれ技を体験され、その後何度か電話をかけてきてくださった事も事実だし、4月に宇宙飛行を目前にして(当時は5月の打ち上げ予定だった)私に「帰還後お会いすることを楽しみにしています」と短い御手紙を下さったから、確かに私の事が印象には残ったのだとは思うが…。しかし、「・・・・という」という記事の書き方からみて、野口氏本人に確認を取らずに記事となったのだと思う。(まあ打ち上げ直前は、よほどの人でなければ会えなかっただろうから)
 まあ記事本体は誇大な表現はないが、写真入りで野口氏関連の紙面の3分の1を占めているという事自体が「何とも参ったなあ」というのが正直なところ。まあ、朝日新聞も記者1人を打ち上げの現地まで派遣し、他紙とは一味違った野口聡一氏関連の記事を書きたいという意向もあって私のことを載せる事にしたのだろうが…。
 ちょうど電話がかかってきた知人の一人にこの事を嘆くと、「それが時代の波に巻き込まれるという事ですよ。あきらめて下さい」と言われてしまった。そうしたら、以前畏友のN氏に「時代に呼ばれるというのは恐いもので、もし甲野さんが今、山の中か何かに引き籠ったとしても、甲野さんが出ないと収まりのつかない事が起こって、必ず連れ戻されますから、もう逃げちゃダメですよ。逃げたらその分誰かに余計な迷惑がかかって、かえってややこしい事になりますから」と言われた事まで思い出してしまった。思い出した以上逃げることも出来ないが(というのも、今までの経験ではこのN氏の忠告はきわめて的確なのである)、まあ、もう少し休ませて欲しいというのが正直切実なところである。

以上1日分/掲載日 平成17年8月1日(月)


このページの上へ戻る