HOME 映像 随感録 活動予定 告知板 著書 掲載記録 技と術理 交遊録 リンク集 お問合せ Twitter メルマガ English
2006年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月

2001年 2005年 2009年 2013年
2002年 2006年 2010年 2014年
2003年 2007年 2011年 2016年
2004年 2008年 2012年

2006年12月1日(金)

 ヨーロッパから帰国して1週間になるが、日頃つい朝まで起きて慌てて寝ることが多いせいか、時差ボケらしい時差ボケもほとんどなかった。もっとも一度、人と電車の中で話していて目が開けられないくらいの睡魔に襲われたことがあったが。
 ただ、さすがに2週間ほど留守にしたせいで、さまざまな依頼や郵便物が山積みしているにも関わらず、昨日は朝日カルチャーセンター湘南の講座、今日は午後から夜までずっとアップリンクのドキュメンタリー映画の関連で六社合同のインタビューなどがあり、まだ開封していない手紙が何通もあるありさま。御返事をお待ちの方々には、その事情をなにとぞご了解頂きたい。というのも、明日から新潟入り、そして新潟から帰って2日おいて今度は池袋の講座の後、長野の第4回NAGANO古武術クリニックに出かけるので、なかなか御返事も出せないからもしれないので…。
 それだからという訳もないが、もし私の最近の動きに御関心のある方で長野に近い方は、長野の講座はまだ空きがあるようなのでお越し頂ければと思う。もっとも、わざわざ来て頂く意味があるだろうかという気持ちが、どうも最近しきりにしてならない。ただ、私の動きは極く日常の動作の応用なので、一度直接その感触を確かめられて、私の解説を聞かれたら、かなりの程度出来るようになる方が出られ、その後ドンドン研究が深まる気もするので、一度くらいは来て頂いてもいいかなという気もしている。

以上1日分/掲載日 平成18年12月1日(金)


2006年12月3日(日)

 2日の夜、新潟に介護福祉士で『古武術介護入門』の著者である岡田慎一郎氏と陽紀と3人で到着。3日の新潟県介護福祉会の講習会に講師として臨む。この会は、ヨーロッパ帰国後のほどない時期に5時間の長丁場ということもあり、依頼は私に来たのだが、私が岡田氏にも助っ人を頼んだのである。岡田氏の講師としての手腕は想像以上で、結果として招いて下さった方々には満足して頂けて幸いだった。
 この日、新潟は初雪。雪の中で、フト、パリの街に雪が降ったらどんなだろうかと思った。そんな何とも掴みがたい私自身の気持ちをひととき収めてもらえるのは、1日に送られてきた『風の旅人』の裏表紙の絵。
 この絵は、この雑誌の私の連載のところにもカットとして載っている画家のN女史の絵だが、努力では絶対に書けないセンスそのものの抽象画。こういう絵を見ていると、何ともいえず「ああ、まだこんなセンスを持った人が同じ日本の空の下で暮らしているんだ」と、何か慰められる気持ちになる。
 それにしても、全く意表をつく想像を越えた線や形が、ひとつの必然をもって迫ってくることの不思議さは何とも譬えようがない。こういう絵を観ると人間の才能というものの底知れなさを嫌でも実感させられる。

以上1日分/掲載日 平成18年12月6日(水)


2006年12月6日(水)

 ヨーロッパから帰って、すでにヨーロッパに滞在していた日数と同じくらいの日数が経ったが、帰国後、諸用がたて込んで、まだ留守中に頂いた手紙類に全部目が通せない状態。
 そんな中、今日は気分転換にと、やはり11月中旬に届いていた郵便物のなかから『ナイフマガジン』誌の編集担当である服部氏からの封筒を開いてみたところ、かくまつとむ氏の『日本鍛冶紀行』が出てきた。思わず拾い読みしていると、四国の野鍛冶のO氏が団地で開かれる日曜市に自作の刃物を並べて売っていたところ、O氏の手打ちを「気に入った」と買っていた年配の男性が、その後「錆びた」と言ってクレームをつけてきて呆れたという話が載っていた。この男性は小学校の校長まで務めたということにO氏は余計愕然としたらしいが、この記事を読んだ私は「なんという事だ、気分転換のつもりが全くの逆効果になってしまった…ああ、もう日本はそういう時代に入ったのだ」と、またひとつ生きる意欲の糸が切れた気がした。
 錆びにくいステンレス系統の刃物が広く普及して久しいが、「手打ち」とくれば炭素鋼系の錆びる製品であることは、少しでも刃物に関心を持つ者にとって常識中の常識のはずである。(ステンレス鋼も鍛造できないことはないが、きわめて難しく手間もかかり、もし鍛造でステンレスの刃物を作ったら日曜市などで気安く売れる筈がない)
 もっとも、家に包丁も置いていないような家庭の主婦なら、そんな事も知らないかも知れないが、仮にも小学校の校長まで務めたという人で、「手打ちの包丁は錆びる」ということを知らない人は10年前ならいなかったのではないかと思う。仮にいたとしても、クレームをつける前に少しは考えただろう。こんな恥かしいクレームをつけたという事は、現代がいかにクレーム社会になっているかを表わしていると思う。そういう常識まで崩壊してきているこの国に、まだこの先住み続けるとすると、おそらくもっとショックなことを、これからますます体験せざるを得ないのだろう。そう考えただけで気力が萎えてくる。
 今日は随感録に少しは技のことでも書こうと思っていたのだが、このショックで腰がぬけてしまった。これでますます所方への返信が遅れてしまうが、なにとぞ御容赦いただきたい。

以上1日分/掲載日 平成18年12月7日(木)


2006年12月7日(木)

 5日の夜遅く新潟から帰って、6日7日と家にいたが、まだ11月中に届いた郵便や依頼の対応が終っていない。というのも両日とも10件以上さまざまな依頼や打ち合わせ事項が入ってきたからである。特に7日は某所へ出す履歴書書きにひどく時間を使ってしまった。なにしろ写真入りの履歴書など生まれて初めて書くためひどく苦労した。それにしても自分が出した本の刊行年月日を調べるのに思いの外苦労した。こんなにも出したのかと我ながらあきれる思い。このなかで、出して意味のあった本がどれだけあったのかとフト慙愧の思いにかられた。


2006年12月11日(月)

 9日10日と長野での講座を終え、10日はそのまま横浜へ。身体教育研究所の野口裕之先生から話を伺っていたアイルランド人で薩摩琵琶の奏者であるT氏の演奏を初めて聞く。
 アイルランド人から日本の伝統音楽である琵琶について、流暢な日本語でいろいろな解説を聞くというのは妙な気もするが、物静かで繊細な感覚のT氏の話には深い説得力があった。
 しかし、T氏を観ていると、アイデンティティがどこにあるのかとつくづく思う。思い返せばアイデンティティという言葉が世間で使われ始めた頃、その意味がよくわからない日本人が多く(私もその一人だったが)、「訳の分からない横文字をこれ以上増やすな」という批判も少なからずあったような気もする。あれから何十年経ったか分からないが、今の私はまさにそのアイデンティティを見失った人間の一人のような気がする。というのも、アイデンティティという言葉を使わないと、いまの私の喪失感、自分のよって立つ所が消えてなくなった感覚を言い表すことが出来ないからである。
 相変わらず和装で袴をつけて出かけることが多いが(なにしろ外出着は和服しか持っていないので)、「和の世界」とか「日本的な…」とかいう言葉にたまらない違和感がある。といって、西洋的なものとか中国や東南アジア的な世界の何かが気に入っているわけでもない。要するに精神の居場所がないのである。ヨーロッパに行って何か変わるかもしれないという予感がないことはなかったが、まさかこんな事になろうとは。
 畏友の名越康文氏の言ではないが、「神さんは常に人間のあらゆる予測を上回るものをもたらす」ものだとつくづく思い知らされる。
 こんな風に先が見えなくなった事が今まで一度もなかったから、何がどうなるか分からないが、取り敢えずの用件だけは山積み…。とにかく今はそれらをやるが、その先に何があるのだろう…。

以上2日分/掲載日 平成18年12月12日(火)


2006年12月16日(土)

 昨日は、私がヨーロッパから帰国後、誰よりもお会いしたいと一番待ち望んでいた身体教育研究所の野口裕之先生の許に伺うことができた。とにかく、いま私が陥っているアイデンティティ喪失症について、野口先生が一体どのような見解を示されるのか、そのことが何よりも知りたかったし、同時にこのことに関して野口先生に、何か縋るような思いもあったのだと思う。
 したがって、お会いしてすぐその話になった。すると野口先生は言下に「ああ、それは甲野さんも近代に生まれた日本人だったということですよ」と一言で答えられた。
 それから約2時間、同行の名越氏共々、本当に唸らされる卓絶したお話に、時に息をするのも忘れるほどだった。
 まず、私が近代に生まれた日本人だということがあらためて証明された、ということは、日本が本来持っていた日本文化の土壌が崩壊した後に生まれた日本人だということがハッキリしたという事である。つまり私なりに整理して言えば、もはや日本文化の炎は消え、僅かに炎の消えた後のマッチの軸木が赤くなっている程度のものを日本文化だと思っていたのが、外国に出て、それが炎の消えた後だということが分かってしまった、という事のようである。(野口先生も訪欧後、同じような感覚を持たれたことがあったらしい)いってみれば、いまの日本的なものはすべて和風もどきといった程度だということに気づいてしまったために、どうしようもない情けなさを感じるようになったのだろうという事である。
 つまり、これはヨーロッパに行って、そこにまだ確実に遺っているように思えた伝統に触れたことで、内心気がついてはいたが知らぬふりをして押し込めていたもののフタが開いてしまったということらしい。フランスは革命によって王政が倒されたが、文化そのものを否定はしなかった。しかし、日本は明治維新後、自らの手で過去を否定する欧化啓蒙運動を行ない、中国でも文化大革命によって徹底した過去の否定が行なわれた。これをみると東洋は西洋に、というか西洋の科学文明に根深いコンプレックスを持っているのかもしれない。そういった自国の在来文化否定の事実に深く気づいてしまったということは実に辛い気づきであるが、気づいてしまった以上どうしようもない。昨夜このことに気づいてから、あらためて思い返してみると、フランスで私の講座終了後、何人もの人達が、この後日本に行けば私の武術を学ぶことが出来るのか質問してきた時に、私は当惑し、何とか思いとどまってもらえるよう断ったのは、すでに崩壊している日本文化、いわば残像でしかない日本的なものを外国人に紹介することに潜在的な抵抗があったのかもしれない。
 「何が日本そのものが育んできた文化か」という問いに正確に答えることは難しいが、封建社会によって育まれた文化が、その社会機構が消滅した後も、そのまま遺ることはあり得ない。封建社会には理不尽な差別やさまざな問題があったことは事実だろうが、同時に封建社会が人生に物語を抱かせたことも事実である。現代でも「白馬の王子様」という言葉が生きているのは、人々がそういう物語を心の中で期待しているからだろう。「冬のソナタ」に主演したペン・ヨンジュン氏がなぜヨン様と呼ばれるかも、そうしたことの現れだろう。
 「現代の日本には、もはや物語がない」というのは、今年9月に私が出会った出色のライター兼編集者K女史の名言であるが、何でも科学的に解明することを善とし、民主主義を善とし、その問題点については考えてみようともしなくなった近代の流れが、いまここに来て様々な問題を露呈しているように思われてならない。
 先日、招かれて行った新潟や長野でも、学校での"いじめ"等の問題について尋ねられたが、その根本原因は「日本が見かけ上世界のどの国々よりも安全で豊かになったからでしょう」と答えるしかなかった。日々の生活の糧を得るということそのものに、あまり労力をとられなくなれば自然とエネルギーは余り、その余ったエネルギーの向けどころが外敵からの防禦にも使う必要がなければ、身近な者同士の関係で消費するしかない。
 生物は本来生きているということは、それだけでリスクを伴うものである。江戸時代後期、日本は世界でも稀な平和を保っていたようだが、家電製品などない時代は、ただ日々を過ごすにしても少なからず体を使い、エネルギーを消費しなければならなかっただろう。現代からみれば日々圧倒的に不便な生活をしていたと思う。しかし、生きて五体を動かすということが生物の自然な形態と考えれば、その時代の方が遥かに生活に根ざした頭と体の使い方をしており、その方が生き物の生理に適っていたといえるだろう。
 しかし、だからといって時代を逆行させることは出来ない。いまの、この環境のなかでこれからどのように生きていったらいいのか、私自身あらためて様々な角度から深く検討し直さねばならなくなった。もちろん、その方向性がすぐに見えてくるとは思えないから、これは長期戦となりそうだ。その間、どこまで私の根気と熱意が続くか分からないが、この問題が現代に生きている私自身の意味と、より直結していれば、放り出すわけにもいかないだろう。
 しかし、今回のアイデンティティ喪失症も、まったく思ってもみなかった出来事なだけに、今後私に何が起こるか、今はまったく想像もつかない。ただ、少しでも日々自分の納得のいく方向に歩いていきたいと思う。

以上1日分/掲載日 平成18年12月16日(土)


2006年12月19日(火)

 12月17日、約2ヶ月半ぶりに千代田区の体育館で稽古会。渡欧帰国後、カメレオンのように変わる自分自身の変化にすっかり振り回されているが、17日の、この千代田区での稽古の後、フト何かずいぶんと懐かしい感情が湧いてきた気がしたので、あらためて記憶を探ると15年か20年近く前、つまり井桁の術理などにも気づく前のこうした一般公開の稽古会を行った後に感じた心の状態の断片に重なったように思われた。

 ただ、相変わらず『願立剣術物語』も無住心剣術関係の『前集』や『中集』も読む気にならない。
 しかし、ものは考えようでそうした古人の伝書を読んで、それに似せよう、あやかろう、何かそこに書いてあることと自分のやっていることを結びつけようとするよりは、むしろある期間そうしたものを読まない方がいいのかもしれないと思ったりした。
 とはいうものの、話していると、ついついそうした書物のなかの話を技の説明に引用する自分にも気がついてしまう。こんなにも揺れ動いていると、この私を「古武術の権威」などという人の気が知れなくなってくる。(最近はメディアへの露出度が増えてるにつけ、何かと、そうした形容をつけたがる傾向があってウンザリしている)

 そして今日19日、なぜか突然弘法大師空海の著作が無性に読みたくなって、諸用が山積みしていたが、つい『弘法大師著作全集』を開いてしまった。そして『遍照発揮性霊集』といった書簡集にしても『三教指帰』といった初期の戯曲形式のものにしても、ついつい活字を追ってしまうのは、その韻律に何かひどく惹かれるものがあるからかもしれないと思った。

 そんな中、とにかく右を向いても左を向いてもやらねばならない事が何十もあって、そのどれかをやりかけていると「ああ、あれも、これも」と次々に思い出し、はかがいかないこと夥しかったが、誰か話が通る人と電話で話をすると、そんな事も、もう何もかも吹っ飛んで話にのめり込んでしまう。お陰で、いま願立や無住心剣術の伝書が読めないことはそれなりに意味があるという事を、17日に感じた印象から一歩進んで思うようになった。つまり、借り物の言葉ではない、本当に私の実感から出てくる言葉を得るということにの大切さに関連して「香嚴(きょうげん)撃竹」の話を思い出していた。

 このことについて詳しく書きたいが、さすがに明日からの関西行きの用意もしなければならないし、その他用件が山積みなので今日はここで筆を置く。関西で、あるいは帰京後、年内に思いがけない気づきでもあったら、その時、香嚴智閑の話も、あらためてすることが出来るかもしれない。

以上1日分/掲載日 平成18年12月20日(水)


2006年12月22日(金)

 20日、21日と関西で講座をして、動きについてあらためて気づくこともあった為か、どうやら技は以前より利くようになってきたようだ。しかし、私自身の気持ちとしては、本当に日常の、例えば台所で洗い物をして、それを食器棚に片づけているような動きや、手に刺さった小さなトゲを抜くような動き、人に呼ばれて何気なく振り返る動き、そうしたことの応用に過ぎないものを仰々しく人を集めて教えているというか解説している自分に、かつて感じたことのない違和感というか申し訳なさがある。「あんな技なんて別に大したことがない。目くらましに過ぎないさ」と批判、批難されたら、本当に「そう、そう」と同意したい気持ちである。
 しかし、「波之上」の変形バージョンというか、やりにくさの難度を上げた、こちらの片手の手首の上に相手が両掌を重ねて、そこに体重をのしかからせるのを上げるという形での試技が、自分でも驚くほど容易に出来たのは不思議だった。このような形で試みることが今までなかったのは、それが今までの実感としてとても出来る気がしなかったからだろう。
 実際やってみて、相手の手を掴んでやらせないようにするという事と、ただ当てがっているだけでは、当てがっているだけの方が遥かに抑えやすい。つまり相手はやりにくい。これは相手の手を掴むという行為は全方向的に相手の行動を束縛してはいるが、それだけに相手の動きに過敏に反応してしまい、抑えている方の人間の重心がもって行かれやすいからだろう。その点、ただ相手の手首の辺りに手を当てがっているだけでは、相手の動きにずっと誘われにくくなる。(もちろん掴まれていないから外すことは簡単だが、この試技の場合、"取り"の側が外れぬように気を使いながらやるということが大前提である)この状況の下、手を繊細に使うことで、力んでも全く力を抜いた状態でもないある微妙な緊張が出来ることで、背や腰や脚足の力を腕を通して相手に伝えることが可能となるようである。
 その他、受講された方から、ロックをかけて威力を出すという事について質問を受けたことがキッカケで、いままで自分で自分の動きにロックをかけて威力を出すという事ばかりに目が行っていたが、何気なく出した手を相手に防がれた瞬間に、その動きが止められたことで自動的にロックがかかった状態になって威力が出るのではないか、という事に突然気がついた。
 これは、釘を木材に玄能で打ち込んでいて、その釘の先端が硬い節か、前に打ってあった釘などに当たって入っていかなくなった時、釘の頭がゆっくりと強い力を受けて潰れたのと同じように変形するという現象に、私の技が心の中でハッと重なったからのように思う。
 11月末から『願立剣術物語』も『前集』も『中集』も読めないでいることが、そうした古典にあやかろうとしていた自分を見直すキッカケになるのかもしれないと最近思い始めていたが、そこから少し何か変化の兆しが出てきたように思う。つまり、アイデンティティの喪失感に呆然としていたが、「殺せ殺せ殺し尽くして初めて安居」の禅語ではないが、よって立とうとするところをドンドン奪い去ることで新しい道が見えてきたのかもしれない。
 前回、「香厳撃竹」のエピソードについて触れかけたが、この話とは百丈慧海の許にあって俊才の誉れ高かった僧香厳が、百丈没後、い山(「い」は、さんずいに、為という字)霊祐の許に教えを受けに来たことから始まる禅の世界では有名な話である。い山の許に来た香厳に対して、い山は「おまえは大層賢いそうだが何か気の利いた一言を言ってみてくれ」と注文を出す。そこで香厳はそれまで学んだ名言格言等を次々に披露するが、その度にい山は、それはお前○○の本に書いてある。それは○○が言ったことだ。そうではなくてお前の一言、つまり香厳のオリジナルの一句を求めて香厳が何を答えようと追及の手をゆるめない。そのため香厳は一言も言えなくなってしまって、すべての自信を失い、今まで学び書き溜めたものをすべて焼き捨て、ただ墓守でもしていようと慧忠国師の墓所に庵を結び、平凡な僧として暮らし始めたのである。しかし、そうしたなかでも常に己自身から出た一句を求め続けていたのであろう。ある日、掃除をしてゴミを竹林に棄てたところ、そのゴミの中に混じっていた小石か瓦のカケラのようなものがたまたま竹に当たったらしく「カーン」と音がした。その瞬間、香厳智閑は飛び上がるほどの感銘を受け、この言葉にならないその音に感動した自分の中に、まさにオリジナルな言葉を発見。遥かにい山が住む山の方向を伏し拝み感動の涙に包まれたという。
 この話は数十年も前から私が好きな禅のエピソードの一つだが、今回のヨーロッパ行きでアイデンティティ喪失を実感したお陰で、今までにない深さで私の心の中に落ちてきた。
 それにしても本当に何と言っていいのか分からない、どうしようもない日々を過ごしてきた。この間、ドイツから持ち帰った檀一雄の『夕日と拳銃』にはずいぶん救われた。この冒険ロマン小説のどこにどうハマッタのか定かではないが、とにかくヨーロッパ土産で何が一番かと聞かれたら躊躇なく既に絶版となった河出文庫の『夕日と拳銃』を挙げるだろう。ドイツのR氏には深く感謝している。
 そして、この約1ヶ月の間、諸方から頂き物や私を気遣って下さるお便りを頂いたが、その御礼も殆ど滞ったままである。今後それぞれの方に御礼を申し上げるつもりだが、取り敢えずここで御厚情をお寄せ頂いた方々に深く御礼を申し上げたい。

以上1日分/掲載日 平成18年12月23日(土)


2006年12月27日(水)

 2日ほど前から何とかこの随感録を書きたいと思いながら、さすがに次々と押し寄せる優先順位を考える暇もない急ぎの用件の数々に書くに書けないでいた。今年はとうとう道場の大掃除どころか掃除らしい掃除も出来ないで終りそうだ。
 その暮も押し詰まった23日にドキュメンタリー映画『甲野善紀身体操作術』が封切りに…。生まれて初めて舞台挨拶なるものをした。それに関連して様々な媒体に私のことが出ている。なかには私がゲラの段階で目を通していないものもあって、かなり不正確な情報も出ているようだが何とも致し方ない。この映画を撮る時は、完全なドキュメンタリーのため、全く苦労しなかったが、公開直前にインタビューやら、そのゲラの校正やらでこんなに大変になるとは思わなかった。
 それにしても僅かに椅子席40程度の超ミニシアターの作品がハリウッドの大作と同じ扱いで年末年始の映画のインフォメーションに出ていることは何とも可笑しい。ただ、ある人が「ハリウッドの大作は見終わって『ああ、面白かった』で終るものが多いけれど、このドキュメンタリー映画はいろいろ考える材料が提供されているので、見終わってからがスタートという珍しい映画です」と言って下さったのは有り難かった。
 1月26日まで渋谷の東急本店からNHK放送センターの方向へ300メートルほどのところにあるアップリンクで放映中。お時間のある方はお越し下さい。
 今日は他に技のことなども書きたかったが、諸々の用件が山積みで流石にもうこれ以上ここに書いている時間はないようだ。

以上1日分/掲載日 平成18年12月28日(木)


2006年12月31日(日)

 気づけばいつのまにか大晦日。
 山積みする用件に今年を振り返るという暇もないが、いま印象に残っていることをいくつか書いてみたい。
 29日の夜、テレビ東京であった『心理分析ドキュメント』は、畏友の名越康文、名越クリニック院長の久しぶりに見た名越医師らしい姿。名越氏の、人の本質を見抜く能力の凄さは、いままで何度も思い知っているが、やはり一番印象に残っているのは、今から10年近く前、関西で女子大生に大人気のK教授を名越宅に御迎えした時のこと。甘いマスクとにこやかで丁寧な物言いのK教授に会って数秒以内に、名越氏が「生き残っていたのか、アラスカ狼のような人が」と背筋が凍るほどの驚きを得たという有名なエピソードである。(もっとも有名といっても我々十数人の間で共有されている話だが)当時、私など、いくら名越氏にK教授の迫力のことを言われてもサッパリ実感がなかったが、その後、このK教授のなかにある凄まじい迫力は段々と分かってきて、あらためて名越氏の直感力の鋭さに舌を巻いた。
 これからはワイドショーなどでお茶を濁らせていないで、もっと本領が発揮できる場で活躍していただきたい。又、テレビ局も熊狩りの猟犬に普通の家庭の番犬をさせるようなもったいない事は止めて、縦横に名越氏の能力が発揮できる場を提供して頂きたい。

 それと私自身に関していま思い浮かぶことは、暮れギリギリに気づいた厚板に釘を打って、もうちょっとで釘が打ち込めるという時に、その釘の先端が硬い物に当たって入っていかなくなった時、その釘の頭が強い力を受けるという現象から気づいた術理の展開。これは、この釘の話と大きな岩を竹竿で支える時、その竹よりも少し太めの鉄パイプか何かでその竹の撓りを抑えてやれば、竹繊維の縦方向に対する抗力は相当に丈夫なので、かなりの巨岩も支えられるという話と結び付き、相手に対して触れた腕なり肩なりが相手の防禦でロックされると、そこに自然に力が立ち上がってくるというもの。
 ずっと以前、合気ニュースで刊行した術理シリーズの本の4冊目辺りに「そこに生まれる力」というようなことを書いたことがあったが、あの当時の例とは違うが、言葉にするとどうしても同じ「そこに生まれる力」ということになる。言葉というのは、やはり便利で不便なものだ。
 この術理は、暮れも押し詰まった28日、今年最後の会となった綾瀬で、いろいろな人を相手に、いくつかの技で確認できたが、その時来てもらったT大のM君から現在のロボットの世界が「Aの時にB」というような論理的記述では同時並行に様々な情報を処理できないので、現にすぐれた能力のロボットを作るということで論理的記述は不可能な世界を扱うことに入り始めているという話を聞き、来年は工学関係の人達との交流を深め、こうした論理的記述では限界がある科学的表現を乗り越えようとしている方々から刺激を受けたいと思っている。幸い、そうした先端ロボット研究者の方のなかに、私に興味を持って下さっている方々が少なからずいらっしゃるようなので、かなり面白い気づきが得られるかもしれない。ただ、そのような展開となれば、今でさえ、はち切れている予定に新しい企画を受け入れる余地は殆どなさそうである。

 このような状況ですので、新規の御依頼は、その多くをお断りすることになってしまうと思いますが、現状をお察しいただき御理解いただけますようよろしくお願い致します。本年も多くの出会いがあり、たくさんの方々に助けて頂きました。ここにあらためて御礼を申し上げます。来年も何卒よろしくお願い申し上げます。

以上1日分/掲載日 平成18年12月31日(日)


このページの上へ戻る