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2007年4月2日(月)

 ここ数日、岡山できわめて密度の濃い日々を過ごし、多くの(といっても量よりも、その質に於いての話であるが、それが多岐にわたって結びついているので「多くの」という表現を使ったのだが)学びを得たが、帰りの"のぞみ"では、さすがに疲れが身に沁みる。
 しかし、いつの間にか(といっても、ここ10日ぐらいの間だが)『願立剣術物語』や『前集』『中集』が読めるようになってきて、ちょうどそれと入れ替わるように、ここ3ヶ月ほど、しょっちゅう読まずにはいられなかった檀一雄の『夕日と拳銃』が、「昔読んだ小説」という感じになってきた。『夕日と拳銃』が私のなかで記憶に残る「読んだことのある小説」といった状態に落ち着いてきた最大の理由は、先月半ば、編集者のO氏が私の依頼で探し出してきて、13日に手渡してもらった『灼熱』の影響であることは確かだろう。
 『灼熱』は、小説『夕日と拳銃』の主人公、伊達麟之介のモデルとして広く、その世界では知られている伊達順之助の実録ノンフィクションで、伊達順之助の長男にあたる伊達宗義氏の著作である。「中国ヲ救ワントシテ中国に刑セラルルハ命ナリ」と自分の運命を受け入れ刑死に臨んだ際、些かも動揺なく、飲酒を望んで許可され、飲んで興を覚え、諧謔をとばして満場を笑わせたという。刑場の椅子に座って刑死の直前高らかに笑い、その笑いのうちに後頭部をモーゼルで打ち抜かれ、57歳の生涯を終えたということだ。
 伊達順之助は昭和6年中国に帰化するが、当時「おれは中国を最もよく知る日本人たらんことを望んでいたが、中国に帰化したことによって、日本を最もよく知る中国人になることができたと思う。−中略−わざわざ中国に帰化しなくてもという人がいるが、一人くらいこういう男がいてもいいじゃないか」と、よく語っていたと『灼熱』に出ている。持ち前の明るさと勇猛さ、そして神技ともいえる拳銃射撃の腕で多くの中国人の尊敬も集めたようだ。ただ、帰化しつつも祖国であった日本の為にも様々に働き、そのため中国からも、また、日本からも疑心暗鬼で見られていたようであるが、本人が東亜の同盟を深く望んでいた事は事実であったようだ。そのことは石原莞爾将軍と大変親しかったという事からも伺えよう。石原莞爾という名で、私は大倭の矢追日聖法主も思い出し、不思議な思いがした。何にしても人の縁というのは不思議なものだ。私が大きな影響を受けた小説といえば、『夕日と拳銃』の他に、松聲館道場建設に際して、最後に背中を押してもらった感のある『大地の母』があるが、この小説の主人公の一人ともいえる出口王仁三郎は、伊達順之助が義兄弟となった張宗昌と順之助の間を取り持ったという話である。順之助は張宗援の名で中国に帰化したのであるが、戦後の裁判の際、蒋介石は日本人の中国帰化を認めず、伊達順之助は日本人戦犯の一人として処刑されたという。
 『灼熱』本を読んで、私が伊達順之助のことが、まるで他人事とは思えなかったのは、現在中国では、関心を持つ人すら稀であるのに、日本では制限してもなお求める人、関心を持つ人が増えている韓氏意拳と私がより深い縁を結びつつあることが、どこかで重なったからかもしれない。
 まあ、それにしても帰宅してみると、また様々な依頼が山積していた上、電話も入ってくる。本当に何とか交通整理を考えないと…。

 そういえば『風の旅人』25号が刊行になりました。野口紘子女史とのコラボレーションです。御関心のある方は御覧下さい。それとMCプレスのDVD付きのムック本も刊行したようです。
 さて、明日はまた恐ろしい人との対談!! その事についてはまた近々書く予定ですが…。

以上1日分/掲載日 平成19年4月3日(火)


2007年4月4日(水)

 昨日は、最近『シーソーの「真ん中」に立つ方法』(竹書房)を刊行され、ますます世の中から求められている桜井章一雀鬼会会長と、講談社で約6時間、その後新宿の台湾料理店で約2時間半、移動も含めれば計9時間ずっと対談をさせて頂く。前回、2月の末にやはり講談社で対談させて頂いた時も同じくらいの時間だったから、桜井会長と私とで話した量は文字にしたら相当の量だろう。
 それにしても桜井会長は随分と優しくなられた。それは、新刊の、『シーソーの「真ん中」に立つ方法』にも現れているが、私が初めてお会いした約12年前の頃は、現役時代の鋭さとはずいぶん変わられていたのかもしれないが、まだまだ抜き身の刀の雰囲気が常に漂っていた。まあ、ここまでまるく優しくなられたので、私も、過度に緊張する事なく、半日もご一緒していられるようになったのだと思う。しかし「もういい。もう十分生きたよ」と言われるのに対して、「いえいえ、まだまだ世の中が桜井会長を必要としていますから」などと応ずるのも酷な気がするし、さりとて「そうですね」とも答えられず返答に窮したが、近頃は学校の先生や警察官からまで礼状が来るそうである。そして、もちろん人生の行方を見失った少年や若者が、どれほど桜井章一という人物を心の支えにしているだろうか。それは何よりも桜井会長が数少ない見栄で世の中を渡ってはいない大人だからであろう。
 したがって、これほどの人に「いやあ不思議だよね。この間もそうだったんだけど、先生と一緒にいると普段見えない細かい字も見えて来るんだよ。まあ自然のなかに行くとそうなんだけどね。なんか、やっぱり感性で合うものがあるんだろうね」と、フト洩らして頂いただけで、私には十分過ぎるほど有り難かった。

 桜井会長ほどではないが、私のところにもいろいろな取材や講演、執筆の依頼が来る。そうしたなか、最近はテレビの取材要請がいくつもあるが、その際、決まって私が出す条件のひとつは、「現在の科学的トレーニングに対する疑問について、私の意見をちゃんと説得力のある形で放映して貰えますか」という事である。そして、それに関してスタッフの人達に少なからぬ時間をとって説明するのだが、出来てくる企画書は「あれだけ時間を傾けて説明したのは何だったのか」とガッカリさせられるものがある。どういうことかというと、「甲野善紀 科学を大否定」「科学では解き明かせない神秘の力」といった形になっていたりするからだ。
 私が現在の科学的トレーニングの問題点を指摘するのは、そういった「科学的トレーニングが科学的以前の、きわめて常識的、論理的にみておかしい所が多々あり、中学生でもある程度思考力がある者なら気づく筈である」という事であって、神秘の力云々とは全く違うことを言っているのだが、どうにもその程度のことも理解出来ない人が多いらしい。
 現在の科学では量れない"気"の力といった表現で、いままでいくつもの団体(戦前なら"霊術団体"と分類されたようなものも含め、武道的色合いの濃いものもいくつもあるが)が世に出たが、その"気"ということを粋に使ったものは別にして、"気の力"ということを、あたかも何か特別なエネルギーや能力として売り出して、世間にちゃんと根付いた例は皆無である。
 なかには"気"といわず"霊子"という概念を造って一世を風靡した、"大霊道"などは現在広く知られている中国の気功にも多大な影響を与えているが、中国の気功関係者が来日して、現代の日本人で大霊道の名を知る者が、よほどその道の研究者でもなければ知らない事に驚くことからもわかるように、壊滅している。因みに大霊道の講師の一人として、創始者田中守平大霊道院主よりも、その能力が高いと評判だった油井真砂尼は、かの今東光和尚が「油井さんは一種の魔女で…」と、その印象を述べているほど凄まじい能力を発揮し(たとえば、親指と人さし指の2本だけで、屈強な安房の漁師2,3人が全力で引く手拭を撚って作った綱を平然と持ち続けたという)、また、仏教界の知名の人々を集めて原始仏教の原典を原語で講話を行なうなどの異能もみせ、仏教界各宗にまで影響を与えたが、数年でここを去り、曹洞宗の尼僧として知るひとぞ知る存在で生涯を終えている。
 つまり、このような霊術的方向性で社会の意識を根本的に変えることは不可能なのである。その大きな理由のひとつは、そうした団体の創始者は術者としての実力はあっても、結局、名誉欲や支配欲がどうしてもかなり残っているからだろう。
 私が現在の科学的トレーニングに異を唱えるのは、それがまともな思考力を持った人なら誰でも分かる、極めて常識的な理由からであって、それを「ビックリショー」的に扱う媒体には出ない事を、あらためてここで申し上げておきたい。

以上1日分/掲載日 平成19年4月4日(水)


2007年4月8日(日)

 6日に新潟入りをして、7日には帰る予定だったが、あまりに濃密な時間となったので、一日延長して8日に帰ることにしたが、7日の夜思いがけないものを見てしまった。
 そしてそれを見た時思い出したのは、昔、桁違いに傑出した武術家は、自らが達し得た技を公開する時、それがあまりにも常識を超えた場合は人々に敬服されるよりもむしろ気味悪がられる可能性があるため、あるレベルまでは見せても、それ以上は、容易に見せなかったという話である。
 三月末の岡山の時も、今回も、具体的なことを何も書かないので、これを読んでも歯がゆい思いをされている方々も多いと思うが、今述べたような事情もあって、私も何があったかを大変書きづらい。ただ、私の随感録をずっと読まれている方は、お察しの方も少なくないと思うが、これが最近、スキージャーナル社から刊行された『韓氏意拳−拳の学としての意味−』とつながっていることについては「お察しの通りです」とだけ申し上げておきたい。
 江戸時代は生まれてから死ぬまで、十里四方を出なかった人も少なくなかったらしい。
 そういう時代の中で山里にいた人が、何かの縁で旅に出て、初めて海を見た時の驚きは、とうてい現代人では想像はつかないだろう。
 どんな山里といっても江戸時代にも塩はあった。そして日本の塩は海で造られている。したがって成人になれば、見たことはなくても海の存在は、誰もが知識として知っており、その存在を疑う者はいなかったと思う。だが、その存在を知識として知っていることと、実際に目の当たりに見ることとの差は比較出来ないほど大きい。
 かつて日本にも、常識ではとても理解し難い動きをする武術家が、たしかに存在していたということを、私はあらゆる角度から検討して、毛先ほども疑ってはいなかった。
 しかしそのような動きが出来る人間が存在したことを、100パーセント信じてはいても、「信じている」ということと、現実にそういう動きをする人間を「ナマで見る」こととは、やはり海を信じていても見たことのなかった人が、初めて海を見た時のように驚くのではないかと思う。
 ただ、私は「ああ、やっぱり」と思うと同時に「何か今見てはいけないものを見てしまった」という感じが入り乱れた。
 しかし、こういう非日常空間を実見出来たのは、6日に非日常空間を二十年以上造りつづけ、生きながら伝説となっている人物と、この驚くべき動きを体現出来る人物との出会いがあったからのように思う。そして、そうした出会いの場に縁を結んだ人間が自分だと思うと、生まれて初めて自分が自分で気味悪く感じた。
 こんな動きを見てしまうと「もういい」「もう十分やることはやった」とどこかで思い始めている私だが、同時に「ここまでやって、今さら投げ出す訳にはいかないだろう」と誰かに言われているようにも思う。そのため、昨秋初めて渡欧した時に起こった得体の知れないような精神の漂流状態とは、また違った何かが私を襲うかもしれない。
 「事実は小説よりも奇なり」というが、そして、今まで何度もこの言葉を実感してきたが、今回は今までとは違った重さで、これを味わっている。「真に驚嘆に価する小説に出てくるような動きなど、あるものか」と思っていた人が、「そういう動き」に接したら、ショックは受けてもまだ単純なショックで済むような気がする。しかし、そうした驚くべき技の存在を完全に予想していながら、初めて見た人間の心理というのは(私の場合は特別なのかもしれないが)想像を超えた複雑さである。
 とにかく、今はただ私自身の中に何が起こるのか事態を見守っているしかないようだ。

以上1日分/掲載日 平成19年4月9日(月)


2007年4月10日(日)

 今年の桜は例年より早かったため、すでに東京では多くは散っているが、家の近くの山桜は、ちょうど見頃なものが、まだかなり残っていて、花曇の空に何ともいえない風情を漂わせている。
 江戸期以前、桜といえば、この山桜だったらしいが、私も一面に花だけを咲かせるソメイヨシノよりも葉と花が調和した山桜に、何ともいえない郷愁をおぼえる。
 そして足元に黄色い山吹の花。山吹の花を観ると『大地の母』の11巻目の「山吹の花」の章に出てくる参綾(初めて綾部に来た)したばかりの鶴殿親子(大正皇后の叔母に当たる女性)ら、10人を連れて、出口王仁三郎が吉野の山深くに古い八幡の社を訪ねた時の描写が鮮やかに思い出される。
 以下、この思い出深い『大地の母』(現在刊行されているみいづ舎版)を抜粋、引用してみたい。

 実は、単身綾部へ参るのでさえ(注:鶴殿親子が)、周囲の人目を忍ばねばならなかった。もともと信仰心の強い親子は、夫・兄・父と続いた身内の死を悼んで本願寺に足繁く通っていたのだ。王仁三郎の噂をここで耳にした時、同時に大本妖教説も聞かされていた。
 「大本へ行ったらただでは帰れない。みんな怪しい催眠術でやられてしまう」とおどかされ足どめされた。現人神であられる天皇一族に加わる親子の振舞いは、厳しく律せられなければならない。それが、軽々しくも邪教大本に自ら出向いてとりことなり、即日入信を誓うなど、一族の者が聞いたら何と謗ろう。しかし親子は踏み切ったのだ。貴族としての体面も、姻戚本願寺への義理もかなぐり捨てて。
 その夜、教祖直に会い、すすめられるままに親子は統務閣に泊まることにした。一汁一菜の食事も大本家族と共にして、嬉しげにくつろいだ。
 その座で、王仁三郎はふいに言い出した。
 「浅野さん、明日から三泊ほどの予定で旅行や。同行しとくれやす。なんなら奥さんも連れて行きなはれ。梅田はん・星野はん・牧はん・村野はんにも電報しといた。やがて現れるやろ」
 「何事です」
 「大事な御神業や。行先は吉野山、目的は…山吹の花見とでもしておこう」

(中略)

 翌四月二十四日朝、綾部駅を立った十一名の男女一行は、京都駅の人ごみで、たちまち衆目を集めてしまった。一行中女性は三人、細面に気品のただよう鶴殿親子(大宮守子)、三十余のすらりと伸びたなよ竹の風情の浅野多慶、五十近い肉づきのよい小柄な婦人は星田悦子、それぞれ華やいだ若い時代は過ぎながら、まだ振り返って見られるほどの残り香は持っている。しかし、人々の奇異の目は、女性を離れて、どうやら一行中の八人の男性、そのうちでも長髪連に向って、より凝らされる。わざわざ小走りに前へ出て、振り返って眺める者もいる。つい四、五十年前まではいがぐり坊主やザンギリ髪が話題を呼んだことなどけろっと忘れて、伸びるべき髪を素直に伸ばしただけの頭を、さも奇妙そうに盗み見るのだから世の中は分からない。
 肩に広がる天与の豊かな黒髪、どっしりとした頑丈な体格、美男とは言わぬまでも人品卑しからぬ異相の持主出口王仁三郎、容貌も口髭もハイカラ、金縁眼鏡もインテリ風だが、半のびにのびて襟をうずめる頭髪ばかりが非現代式な浅野和三郎、肩先近くまで伸びそろった頭の毛を後へなでつけ、若旦那然と懐手、のべつ幕なし巻煙草の煙を吐いている梅田信之、あご髭・頭髪共に春風にそよがせた力士小常陸を更に小型にしたような村野龍州、のびかけの髪をようやくつまんで、チョコンと結んだ後ろ姿は可愛らしいが、前に回れば角型面長八文字髭、四十余りの屈強の大男秋岡亀久雄、その脇には小粒でぴりりとさびの効く半白頭の豊本景介、村長然とした着流し姿の牧寛次郎、只一人の洋服男は洋行帰りの採鉱技師金谷謹松、しかしズボンの上には脚絆草鞋という物々しいスタイルである。
 京都駅の二階の食堂で昼食をとり、午後二時再び車中の人となって、日暮れ近く吉野駅に下車、桜吹雪の吉野山を横に見て、上市まで車(注:原文は人偏に車、以下同じ)を走らせる。上市の旅亭で一夜を明かし、翌二十五日朝から吉野川沿いに奥深く進み入った。
 五台の車には三人の女性、二人の長髪族、あとは徒歩連で車上組を柔弱党と称して嘲った。先頭の車には道案内の王仁三郎、次の車が鶴殿親子、一里また一里と深まる山河、屈曲した清らかな流れの上を岩々の間を縫って、長さ一丁にも及ぶ筏が巧みに筏夫にあやつられて下ってくる。杉と桧のほの暗い密林を抜ければ、散りかかる八重桜、岩山に点々と紅を彩る山つつじ、今を盛りの山吹の花、峰峰の傾斜地を開いて思いもよらぬ天辺に現れる鳥の巣のような人家など…時折、車上に振り向く王仁三郎と親子は微笑み交わす。
 初めて逢うたなりで、行く先も定かならぬ旅に出た。今までの親子にはなかったはしたなさであり、冒険であろう。それでもいい、どんな非難をも甘受して、親子はこのまま地の果てまでもついていきたいと願った。
 七里の山道を走り続けて、夕方柏木の旭月旅館に着く。怪気炎を上げて強がった徒歩連も、さすがに山道に慣れた車夫たちには差をつけられ、ほぼ一時間おくれて辿りつく。
 王仁三郎は礼儀正しく親子を立て、自分は一段下がって親子に仕えた。それは、親子の知っている、よそよそしい儀礼ではなかった。情の通ったさりげない心遣い、細かくゆきとどいた神経が、親子の心を暖めてくれる。
 けれども親子は人目のある公の場と、二人きり、あるいは内輪の者だけの場とを、おかしいぐらい立て分けていた。私的な時に、決して王仁三郎の上には坐らなかった。熾仁親王の御子に接する態度で、親子は侍女のように振舞った。その方がずっと嬉しそうに。王仁三郎もそれを受ける。ごく自然に、鮮やかに立場がすりかわった。
 暗黙のうちの約束ごとが、楽しい芝居のように、この二人の関係は最初から最後まで守り続けられていくのだ。
 柏木の宿で一夜の安眠を買って、一行は日の出と共に出発した。車も入らぬ細道を吉野川の左岸にとって更に深くわけ上がっていく。地図一つなく、案内人一人雇わずに、王仁三郎は先頭に立つ。吉野川の奥深くにひっそりと鎮まる八幡の社が、二十年も昔から王仁三郎の霊眼に映って仕方なかったのだ。山吹の黄金色に咲き乱れるその神域を、一度実地に踏んでみたかった。
 左右は岩山、数十丈の断崖が、谷川をはさんで屹立する。人家は絶えていた。種々の岩窟が、あたりに散在していた。吉野行者の古い行場、役の小角の伝説を持つと言う。(中略)南朝の恨みも深い吉野山は、また金峯山の名もあるように、金鉱脈の花ざかりなのかも知れぬ。
 王仁三郎は、親子の手を曳いて崖をよじり、野蕗の茂った細道を伝い歩いた。一里半、ようやく目的の地八幡社につく。寂莫とした境内には、ところ狭いばかりに山吹のみが咲き溢れ、草深い石垣下を蛇が這っている。
 一行は谷川で口をすすぎ、手足を清めて神前に祝詞を奏上、更に浅野が石笛を吹き鳴らし鎮魂に入った。王仁三郎・梅田信之・村野龍州は、たちまち感合して何事かの神示を得る。もう一人、鶴殿親子が初めての鎮魂で早くも霊眼を授けられていた。恍惚として流れる涙をも拭わず、親子は忘我の境をさまよった。
 ここでの神示の内容は、いずれも伏せられたまま伝えられてはいない。その夜は再び上市の宿で夢を結び、翌二十七日、京都着、四泊を重ねたこの旅と別れを惜しんで親子は一人、西加茂の邸へ戻って行った。

(引用終る)

 三十年前、この『大地の母』に背中を押され、武術稽古研究会を立ち上げ、松聲館道場の建設を決めたのが、ちょうどいま頃だった。その頃、この道場で古の、いまは亡びた精妙な武術の術理と動きがどういうものであったかを、子供のような(いまから思い返すと夢中になるという意味でも、幼いという意味でも)情熱を傾けて探究しようとしていた。
 あの当時の私が、いま私が得ている情報を手にしたら、おそらくは狂ったように稽古をしただろうと思う。
 いろいろな事がなぜか懐かしく思い出されてくる。
 しかし、そうした気持ちに浸る暇も僅か。新潟に一泊の予定が二泊したため、おびただしい量の仕事が積み重なっている。

 用件があふれ、緊急に返事をしなければならない事も滞りがちですので、御返事をお急ぎの方は、再度、再々度、御連絡下さい。

以上1日分/掲載日 平成19年4月10日(月)


2007年4月13日(金)

 昨日は一日中家にいて、溜りに溜まった用件や書類の整理をしていたが、その間、合計7時間ぐらいは電話で話をしてたと思う。
 ずいぶん久しぶりに、市民でたたら製鉄を行っている朝吹美恵子女史と話し、『風の旅人』の佐伯編集長と今後の展開について、いくつか提案したり相談したり…。その関連で、この日、目を見張るような『千代鶴是秀写真集1』を送って頂いたワールドフォトプレスの『ナイフマガジン』編集部、服部氏とも、かなり長く話し、『逝きし世の面影』の著者渡辺京二先生との往復書簡の件で、中央公論新社の井之上氏と相談。そして、桜井章一雀鬼会会長から電話を頂いて、これもかなり話に熱が入った。
 夜はT高校のH先生との話もかなり長くなっていたが、最後はそこにキャッチで入ってきた名越康文・名越クリニック院長との話で終わった。
 名越氏の話は、最近対談したアメリカの映画監督との対談が熱く盛り上がった様子や、その毀誉褒貶の激しい過激な映画『ブリッジ』についての解説と分析だったが、例によって一人で聴くのが惜しいほど、見事な名越ワールドが展開していたので、結局午前2時過ぎまで聴きほれてしまった。
 もちろん、この他に新しく来た仕事の依頼や打ち合わせなどで電話が何本かあったから、実際は8時間を超えていたかもしれない。
 今は何だかひどく忙しくして、あまり今の自分の状態について考えないようにしているのかもしれない。
 それにしても、写真集の千代鶴是秀の作品群の見事さ、美しさには、あらためて深く感じ入った。

以上1日分/掲載日 平成19年4月14日(土)


2007年4月20日(金)

 暖冬といわれながら、桜が散ってからも冬に戻ったような気温に下がったりと、不順な天候。そして、それに呼応するかのように、世の中も凶事が続発している。そのせいでもなかろうが、自宅のコンピューターの調子も変動が激しく、メールが受けられたり受けられなかったりしているので、重要な連絡をメールで下さった方は、必ず電話で御確認頂きたい。
 そんな空気のなか、私自身も気持ちの変動が激しい。「人間にとっての自然とは何か」を宗教によらず、自分自身の身体感覚で探究し、納得したいと思って「武の道」を選んだのだが、最近フト自分の目指していることを考えると、傑出した力量を持った宗教家のエピソードがいろいろと浮かんできて圧倒される気がする。
 なかでも最近しきりに思い出されるのは、以前どこかで書いたと思うが、大正時代に、ある僧が刑務所で大勢の囚人を前に、ただ一言「皆さん、みんな仏の子だ。浄土で逢おうよ」とだけ話して合掌してその場を引き上げたところ、その場に居た囚人のほとんどがその後約1時間、その場で涙を流して嗚咽していた、という話である。
 この人物は名前も宗派も分かっていないが、その精神の透明度を思うと、同じ人間として空気を吸っているのが憚られるほど本当に頭が下がる。
 さまざまに用件も多く、いまさら断れない依頼もあるからやらないわけにいかないが、今は何もせずに自分の内側と向き合っていたい、というのが本心のようだ。

以上1日分/掲載日 平成19年4月21日(土)


2007年4月22日(日)

 21日は名古屋で講習会。ここで、細身の女性で介護の「添え立ち」など軽々とやる人に遭遇。私の本やDVDで予習をしていたのかもしれないが、私よりも明らかに軽量な女性で、私を「添え立ち」で軽々と立たせた人は今まで一人も居なかったから驚いた。体の使い方については、いろいろと研究している方のようだったが、それにしても教えたら、その情報がそのまま染み込むように伝わって、すぐに出来るということがあり得るのだという事が分かったのは、快感だった。
 相変わらず一人になると気持ちは塞ぐが、稽古していれば自然と気持ちもそちらに向くから、時を忘れて没入できる。ただ、まあこの状況下で、その事がいいかどうかはよく分からない。
 それにしても、17日、身体教育研究所で野口裕之先生に体を観ていただいた時、もうずっと1年数ヶ月も続いている右上腕の痛みの根本原因が、40年以上も前に噛まれたマムシの影響だという事がわかったのには驚いた。
 野口先生に体を観ていただくと、古傷が疼いて体が変わろうとすることはよくある事のようだが、それにしても40年以上前にマムシに噛まれた事が、ここまで影響しているとは!野口先生に抑えられた腹部の一点により、動かさねば普段は決して痛まぬ右腕が指先から胸までしびれるように痛み、「ああ、以前どこかでこれと同じ痛みを経験したなあ」と思った時、突然、高校生の時、右人さし指の先あたりをマムシに噛まれ(噛まれたというより、一瞬その牙に刺された程度だったが)、その晩は右腕全体から、腕の付け根あたりの、胸まで腫れて、ひどく痛み、一晩中寝られなかった時のことをまざまざと思い出したのである。
 今回は、野口先生の手が離れると、ほどなく痛みは、おさまったが、それにしても人間の体というのは不思議な働きがあるものである。

以上1日分/掲載日 平成19年4月23日(月)


2007年4月29日(日)

 今年は寒暖の変化が激しいので、「また冷え込む日がいつ来るか分からないなあ」と思っているうちに、ふと気づけば連休に入っている。
 連休に入って、少し庭を見まわってみると、ケヤキの高い梢にからみついている野生の藤の花が満開である。今日のように晴れればウグイスがしきりに鳴き、時折ガビチョウの出来すぎなくらいに流麗な声も聞こえるが、日が落ちると結構冷えてきて、日が落ちても暖かな「ああ、初夏だなあ」という感じのする日はまだ殆どないようだ。
 しかし、もうすぐ5月。5月といえば「五月病」というように、新しく入った学校や仕事に張り切っていた人に揺り返しがきて、フト無気力感に襲われることがあるようだ。そして、そういう時、カルト教団の勧誘に乗って大変な目に遭う若者が必ず出る。
 私も以前ある人に頼まれて、そうしたカルト教団に入った若者を覚ますディプログラミング(脱洗脳)を頼まれてやったことがあるが、その時ほど激しく本格的なものではないが、そういう世界に引き込まれている人をどうやって覚ましたらいいのかについて相談を受けることは今も時々ある。というのも宗教ではなくても武道関係の団体のなかに、そうした傾向のものがあって、そのような団体に夢中になっている若者の目をどうしたら覚ますことが出来るかについて相談されることがあるからである。
 もっとも最近は時間もないので詳しい相談には乗れないため、そうした舞い上がり気味の人に対しては『大地の母』(出口和明著 みいづ舎 全12巻)を読むことを勧めている。特に『大地の母』の十一巻目「東京大地震」の章などは、日露戦争の英雄で連合艦隊の参謀として神算鬼謀天下無比と謳われた秋山真之海軍少将が大本入りして一気に暴走。東京大地震の予言をして大騒動を起こす顛末が実に見事に描かれている。以前私はオウム事件を起こした人間が、オウム入信前にこの『大地の母』を読んでいれば、ああいう暴走をしないで済んだかもしれないと書いたのは、そのためである。
 もっとも『大地の母』の説得力は秋山真之のような人間が大本から生まれることも無理はないという立場で、非常に冷静かつ深い思い入れをもって書いてあるため、この本を読んだ人間のセンスによっては、逆にカルト集団に魅力を感じる者も出るかもしれないが、それはそれで仕方がないことだと思う。
 人は何かに身を委ねようとするものである。その委ねるものがどういう種類の"確かさ"を持っているかを判断するのは、その人のセンスという他はないが、そのセンスの具体的育成法など学校での教科のように教えて教えられるものではない。しかし、センスがあっても、そのセンスを発揮するキッカケとなる情報に接することが出来るかどうかは大きな問題なので、私は『大地の母』を勧めているのである。
 『大地の母』の十一巻目は、この「東京大地震」の他に大本の布教師として一時活躍しながら、自殺や背教者として教団を出て行く者たち、例えば小沢惣祐や宇佐美武吉、飯森正芳、宮飼正慶などの屈折した内面心理を詳細に描いている。そしてまた『大地の母』では、そうした人物とさまざまなやり取りをしつつ、海軍機関学校英語教官という当時花形の職を捨てて大本信仰に奔り、すぐに教団の大幹部となって「立て替え立て直し」を呼号していく浅野和三郎の姿が何とも痛ましく描かれている。(もっとも、痛ましくというのは私の感想で、それはこの教団の実質ナンバー2の位置で教団を引っ張っていく浅野が、やがて離反して心霊科学研究会(現在の日本心霊科学協会)を立ち上げ、尊敬してやまなかった筈の出口王仁三郎の悪口を言い散らすという後日談があるからである)
 カルトと言わぬまでも、昨今のスピリチュアルブームで前世療法などさまざまな療法やカウンセリングが盛んな今日、新宗教等に何の免疫もないまま、新しい環境での生活に入っていく若い人達は是非『大地の母』を読んでおかれることをお勧めしたい。
 いまの時期、このようなことを私が書くのは、そう遠くない時期に何か言いようのない社会全体に関わる変動をどこかで感じていて、ひとつは私が自分自身をよく見つめるために書いているのかもしれない。そうでなければ依頼稿や校正、素読みなど、やらねばならない事が山積みしているいま、このようなことを書いてなどいられないだろうから。
 災害、事故、事件といったさまざまなトラブルに対する何よりの備えは、自分自身を失わず、何がいま一番自分にとってなすべきことかを判断できる能力を養っておくことだという事を、私自身の自戒の意味も含めてあらためてここに確認しておきたいと思う。

以上1日分/掲載日 平成19年5月1日(火)


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