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2007年5月3日(木)

 連休といっても正月同様、世間が休んでいて依頼や打ち合わせが入って来ない間は片付けが出来る稀れな期間なので、連休にどこかに出かけるということは近年ほとんどしていないのだが、今年は例外的に1日に介護の岡田慎一郎氏と岡田氏のご両親から招いて頂いた筍堀りに家族と共に行く。
 この日、あいにくの雨だったが、竹林の中は気になるほどの降雨ではなく、お言葉に甘え10本ほど掘らせて頂いた。その上、百数十年もかけて本格的に燻された本物の煤竹やら、五葉の松の盆栽まで頂き、御礼の申し様にも窮するほどだったが、何といっても、この日私が最もありがたく心から楽しめたことは、岡田氏に裏の畑に古畳を出してもらって、夕暮れ前のひととき、そこで手裏剣の稽古が出来たことである。
 今から3年前の2004年の8月、筑波山に行った帰りに初めて岡田氏宅に寄らせて頂き、そこで夕暮れまで手裏剣の稽古をした時の思い出は、その後ずっと私の記憶に長く残って、少しでも時間に余裕があったら「また、あの岡田さんの裏の畑で稽古をさせてもらいたいな」と、ずっと思い続けていたのだが、この日、筍掘りの後、夕方近くになって晴れ間が出たので、岡田氏に頼んで稽古をさせてもらったのである。
 筑波山麓の新緑が遠望される典型的な里山の畑で、誰に遠慮も気兼ねもなく心ゆくまで稽古が出来ることの悦びというのは、私の場合、他の何ものにも代えがたいという形容がつくほどの価値をもっており、この日つくづく私は、自分はこういう稽古が心底好きなのだということをあらためて深く実感した。
 何に人生の愉しみを見出すかは、人によっては千差万別だろうが、私の場合、この打剣の稽古の愉しみは仕事と一体化しているので、ありがたい事この上もない。しかも場所さえあれば的の古畳もタダ同然のものであり、その精神の満足度に比べると驚くほど安上がりである。ただ、その稽古が愉しめるかどうかは、かなりの程度以上に技術が必要だというところが、ひとつ難しいといえば難しいところかもしれない。何しろ剣をかなり思い通りに飛ばすことが出来なければ、そこまでの興味を持つことが出来ないだろうから・・・。つまり、これは大変に精妙なハイテク機器を操縦している手応えと似ているのも知れない。
 この日は、四間の距離で下段から苦無型の120グラムほどの剣を、いままでにない低い軌跡から通すことが出来たことも、稽古をこの上なく興味の尽きないものにした。股関節のユルミをなくし、体幹部、特に肋骨の辺りをバラけさせること。最近はそうしたことを心がけて体術も剣術も変わってきている。そして、その妙味を打剣で拓き、研ぎ上げていく。そういう点でも手裏剣術は武術全体に大きく寄与しており、そうであるからこそ、その稽古に自分でも驚くほどの情熱が傾けられるのだろう。
 とにかく今の私は何がしたいかと尋ねられたら、まず第一に緑に囲まれた落ち着いたところで誰にも干渉されず、心ゆくまで打剣の工夫と研究をしたいと答えるだろうということが、この夕暮れの稽古で確信できた。
 そういう、何よりもやりたいと思うことと仕事とが密接に関わっているという私の人生は、いろいろと面倒なこと、特に最近は休むに休めぬことも多々あるが、本当にありがたいことだと思う。

以上1日分/掲載日 平成19年5月4日(金)


2007年5月6日(日)

 5月4日はアップリンクでasasan氏とトークショー。翌5日はNHKラジオで林家彦いち氏の番組に出てトークと、連日仕事でトークをする。
 asasan氏とのトークはasasan氏の質問に答えて、日頃あまり言わない整体協会の野口先生(晴哉先生、裕之先生)関連のことについて話したので、あるいは関心を持っていただいた方もあったかもしれないし、NHKラジオも、まあ何とかこなせたかなと思ったが、打ちひしがれる思いは、5日NHKの後、恵比寿に出て味わった。
 この日、精神科医の名越康文氏と植島啓司先生(元関西大学教授、現・人間総合科学大学教授)が、5月14日に朝日カルチャーセンター大阪で、御二方共演で開かれる講座の打ち合わせのため一緒に話をされているとの事だったので、途中から参加させて頂いたのである。
 話題は点々としたが、途中で植島啓司という人がとてつもなく頭の切れる人だということに今更のように気がついてしまい、ちょっとうろたえてしまった。いまさらのように気づいたというのは、その頭の良さを全開したら殆どその話についていける人がいなくなるので、普段は周囲に合わせてその気配を消されているからだったのだと覚ったからである。どんな頭のいい人でも周囲の人が遠巻きにしていて近寄って来なかったら、やはり人間として大変淋しいだろうから、そういう事にならないように日頃はその鋭すぎる頭脳を曖昧にボカして日々を過ごされているのだろう。
 身体教育研究所の野口裕之先生は、植島先生に対してひとかたならぬ思い入れを持たれているが、それは「達人は達人を知る」というような事だったのだなとあらためて思い知る。しかし、野口先生は具体的な人間の身体という待ったなしの課題が絶えず降り注いで来ている点、ある面では常に向き合わねばならないことがあるから(もちろん、これはこれで大変だが)まだ集中してその能力を傾けられるが、植島先生のような一応は宗教学というものの、広範なテリトリーを持たれている状態では、おそらく私などとても想像出来ないような内面の葛藤を背負われているのではないかと思い、帰り道は呆然としてしまった。
 この恐ろしい人と7月末に大阪の朝日カルチャーセンターで対談!! 
 企画の依頼を大阪の朝日カルチャーセンターの担当者Mさんから受けた時は気軽にOKしたのだが、いまさらのように空恐ろしい気がしてきた。といって、どうぞお手柔らかにというのも変だし(十分お手柔らかにして頂いているから、お付き合いできていたのだから)、この際、「とても付いていけないほどの凄味を見せて下さい。とお願いした方が正解かもしれないなあ」と思いつつ、何とも「どう言っていいのやら」という妙な気分。
 したがって7月30日はどうなるか全く予想がつかない。畏友名越氏は当初からこの凄さを見抜いていたのだということにあらためて思い至り、この夜は名越康文という人の凄さもあらためて思い知った。

以上1日分/掲載日 平成19年5月6日(日)


2007年5月7日(月)

 連休が明けたら予想通りどころではない激烈な仕事の日々となる。予想を超えた事態となったのは、本棚と戸棚の間に落ちていた本が、開くと白蟻まみれになって喰い荒らされているのを見つけ、「こりゃ大変だ」となったこと。幸いというかミステリアスなことに、床の上の本まで白蟻に喰われながら、懇意の大工のT氏と床板を剥がし縁の下に入ってみると、土台等の食害は僅かで、しかも一匹もいなかった。
 とはいえ、放置は出来ないから、喰われた材木を取り替えることになったのだが、そのためには長年手もつかぬまま積み重なってきた大量の本、資料、道具等々を一時どこかへ避難させ、処分できるものは出来る限り処分する必要に迫られてしまった。これが積年の課題であった根本的な片付けのひとつのキッカケになったとはいえ、ただでさえ時間のないなか、この仕事は大変キツイ。
 なにしろ、目前に〆切の迫った中央公論誌から依頼のあった渡辺京二先生との往復書簡、連載を続けている『風の旅人』の原稿、いま気になっている体の使い方の検討、やっと動き出した何年か越しの宝島社の本。しかも、今月は出かける予定が目白押し、こうまで予定に迫られていると、萎縮しそうな精神を何とかしようと、つい本を読んでしまう。
 その、つい読んでしまう本のひとつは、『大地の母』。そういえば先日、植島先生と会って植島ショックを受けた後、帰宅してから読んで、何とも印象深かった『大地の母』の11巻目の、宮飼正慶が初めて出口王仁三郎のことを知る場面は、なんというか、とても助かった。ここで王仁三郎のことを語っている岡田播陽の王仁三郎評は、いかにも大阪人らしい言い方だが、これはある面きわめて公平で健全な新宗教観でもあろう。『大地の母』が他にかけがえのない新宗教に対する教科書となっているのは、新宗教を褒めるのでも貶すのでもなく、ただただ客観的に書いているのではなくて、事実を思い入れをもって(褒めも貶しもしながら)書いていながら不思議な客観性が生じていることである。
 その妙味を私やこれを読んだ人達だけが味わうのはあまりにも勿体ないので、いま述べた岡田播陽登場の場面を少し引用して紹介しておきたい。

 宮飼は、天下の奇人・反骨の新聞人といわれた宮武外骨の小さな新聞社で働いていたのだが、その新聞が廃刊して街路に放り出された。食うに困って友人に連れて行かれたのが岡田播陽という男のところで、何かの職業を紹介してもらうためであった。岡田は贅六町人と名乗り、人間研究者と称し、<<明けんとする夜の叫び>>、<<天颱怒号三都生活>>などという妙な本を出していた。
 初対面の岡田の印象は良くなかった。異名<<海坊主>>そっくりの人相も不快であったし、人の用件などそっちのけの傍若無人な饒舌も小癪にさわった。もちろん宮飼のどもり相手では流暢な会話は無理かも知れぬが、午後三時に訪問してからずっと絶えることのない饒舌を聞かされ続け、夕飯時に牡蠣船で食事する間から、さらにカッフェ<<パウリスタ>>に席を移して午前三時に別れるまで、一方的に拝聴するばかりであった。
 「たしかに、人間研究者としての血のしたたるような観察経験はすごいなあ。『人間の中でも、最も美しく最も醜い、最も賢く最も馬鹿な、最も必要な、神と悪魔との共同製品である』という女性についての解剖分析なんか、どうして<<丸善>>あたりで仕入れられる薀蓄やないで」と紹介した友人はほめた。牡蠣船やらカッフェをおごってもらったことを恩にきてやがると、宮飼は思った。宮飼の求めていたものはパンの保証であり、俗人の俗論・愚人の愚論・哲学商人の言説なんかではなかった。
 氷雨が激しく降っていた。友人と相合傘で深更の街を歩き、難波の火の気のない停車場に入り、天下茶屋行きの一番電車を待つ。氷雨がいつか雪と変わった。オーバーの襟を立てても、なお襲いかかる寒さに震える。
 「畜生、ひどい目にあわせやがったな」
 ぶつぶつ言い続けた。口の中で言う限りは、どもらないのである。
 就職依頼の手紙は、その後二度出したが、返事はこなかった。
 今年になって、岡田播陽の家の近くを通ったので、ふと立ち寄る気になった。相変わらずの饒舌を聞かされたが、その中で、宮飼の尊敬する宮武外骨の人格をほめられた時だけは、海坊主の饒舌を許す気になった。宮飼は、まるで自分がほめられたように、顔を火照らせた。
 外骨の下で働いた期間は短かったが、さほど豊かではない財嚢を割き、宮飼の家計を助けてくれた恩義は忘れない。高潔な人格を反骨の衣に包んで世間に誤解され勝ちだが、この人間研究家は、さすがに正当に宮武外骨を評価している。宮飼の心は、この醜い海坊主にぐっと接近した。
 海坊主は、分厚い、脂でぬれたような唇を開いて続けた。
 「わてな、最近、おもろい人間を見つけたで。丹波の大本教の出口王仁三郎という男や。どうおもろいかって?あれはな、阿呆や、偉大なる阿呆や。鰐いうもんは、陸にある時は、おとなしおまっしゃろ。王仁(おに三郎が本当だが、世間ではわに三郎と呼び慣わし、通称となっていた)はなあ、元亀天正の頃に出るべき人間やのに、造物主が出し忘れよったんやろ。もっとも当人はどっちゃが幸福や知らんが・・・」
 煙管の雁首をポンと火鉢のふちに叩きつき、目をむいた。
 「人間は、ただ上へ上へと上りたがってるうちは、地上へ墜ちることだけが恐ろしいから、その恐ろしさはたかが知れてま。けど宮飼はん、この人間が、きりのない天上へ堕ちるものと信じてくると、恐ろして楽しおっしゃろなあ。耶蘇坊主は天へ墜落し、印度坊主は浄土へ墜落し、鬼(王仁)は天地の中心に半病人になってぶら下がっとる。つまりは時を得ぬ悲しさや。あいつなら、天国へ墜ちたらエスの首をとり、地獄へ墜ちたらエンマ征伐ぐらいしよる男や」
 海坊主がそうほざくぐらいだから、出口王仁三郎という男、よっぽど変わった人物らしいと、ちょっと興味をそそられた。
 「よ、よ、よっぽど、そ、その王仁三郎はんとは、お親しいんですか」
 「親しことあらへん。遠くで見かけたぐらいや」
 「・・・・・・・・」
 「わしの友人で、海軍中佐の飯森正芳という思想遍歴屋がおる。そいつから聞いた噂だけだす。飯森には王仁の偉さは分からんが、わしには噂だけで分かる。王仁のやっとる大本教も、けったいな団体らしおっせ」
 海坊主は、大本について喋り出した。すべて聞きかじりの知識らしいが、話半分にしても、そこに宮飼の知らなかった別の社会があるらしい。ふと憧れるように、その社会を恋うた。

 ついつい、私の精神を落ち着けるためにこれを書いてしまい、続けてこの他にも書きたいことはいろいろあるが、さすがに今日はこれだけにしておきたい。

以上1日分/掲載日 平成19年5月8日(火)


2007年5月9日(水)

 8日は身体教育研究所の野口裕之先生のところへ。野口先生が何人もの人々を個別稽古される間々に話。そこへ木彫彩漆作家の渡部誠一翁が来られたので、この渡部翁とも話をしたりして、結局昼に行って日が暮れるまでお邪魔してしまった。
 その間、野口先生がフト「競い合うってなんですかね」と口にされたことが深く胸に入ってきた。そして思い出されたのは夢想願立の伝書『願立剣術物語』。その21段目にいう「たとえば上より強くもの撃ちひしがんと落ちかかるを押し退かんとかせぎ、うけ留めんと敵に取りつき、我が剣体を崩し、却って一ひしぎに成るべし。重き物落ちかかるとも他をかせぐことなくただそのままの剣体我独り立ちあがれば重きも独り落ち我も独り行く道也」(ここにこうして引用できるようになったのだから、昨秋の渡欧で落ち込んでいたアイデンティティ喪失症からは、かなり回復したようだ)
 そして昨夜は「今日は体をバラしておきましたから、また組み直して下さい」との野口先生の言葉通り、ひとつの気づきがあり、寝たのは結局午前3時をまわっていた。
 12日は願立の流祖松林左馬助の故郷の文武学校で講座があり、初めての試みとして戦後の日本刀剣界を引っ張って来られた重要無形文化財保持者、故宮入行平刀匠の御子息で、現在小左衛門行平を名乗られている宮入恵刀匠と公開トーク。翌日、私の技の実演実習も兼ねた講座もあるので、御関心のある方はエコール・ド・まつしろ倶楽部までお問い合わせ頂きたい。

以上1日分/掲載日 平成19年5月10日(木)


2007年5月13日(日)

 12日は、松代の文武学校で宮入小左衛門行平刀匠と公開トーク。かつて『刀匠一代』という小左衛門行平刀匠の父君に当たる重要無形文化財保持者、宮入昭平(当時:晩年に行平を名乗られる)刀匠の著書を読み、「ああ、こういう人がいたからこそ戦後の日本刀の復興はあったのだな」と思った頃、まさかその御子息と公開トークをすることになろうなどとは夢にも考えたことはなかった。それから35年ほど経って、場所も刀剣愛好者の間では有名な松代藩の刀の荒試し(刀で巻藁以外ににも古鉄や鹿角などの堅い物を斬って、その切れ味と丈夫さを試したというもので、その過酷な荒試しでは、山浦真雄の刀が驚異的粘り強さを発揮したことで知られている)が行なわれたという、まさにその場所で、きわめて実のあるトークが出来たのだから、人生というのは本当に不思議なものである。
 宮入刀匠の御人柄は、事前情報がほとんどなかっただけに想像のしようもなかったが、それでも何となく働いてしまう無意識下での、いわゆる伝統工芸の伝承者としての刀匠のイメージというのは拭えなかったと思う。しかし、いざ対談が始まってみると、初対面であったことなど忘れてしまうほど話の通りのいい方だった。思うに、このセンスは賢夫人の誉れも高かった御母堂の影響が少なくないのではないかと思う。
 トークのなかで宮入刀匠は、後継者の育成について最近の入門志願者の常識の無さに相当悩まされているようだったが、これは日本社会全体が抱えている非常に大きな根本問題の一つだろう。
 このことに関して、私はつい数日前に起きた大変憂慮に堪えない北海道での事件について、この会場で話をした。この事件については10日の木曜日の夜、テレビ朝日の報道ステーションで放映していたので観た人も少なくないと思うが、9日(たぶん9日だったと思うが)の朝、北海道のあるローカル線で、朝の通勤通学の時間帯に、ある駅から高校生が通学のため大勢列車に乗るのに、乗った順にドンドン奥の方に詰めなかったため、発車時刻を4分過ぎてもなおホームに20人以上の乗客が残ってしまい、しびれを切らせた運転士がドアを閉めて列車を発車させたという珍事があったのである。ホームに残した乗客については、運転士から事情の報告を受けたJR側が急いでタクシー7台を手配して乗客を輸送したというが、前代未聞の出来事である。
 これは妹殺しとか、家に放火して家族を殺したといった凶悪事件に比べれば、その罪の程度はごく軽いかもしれないが、状況を見て、いま何をしたらいいのかという判断が出来なくなっている人間が大量に発生してしまった病んでいる日本社会の実情をハッキリとあらわしたという点で、見過ごすことが出来ない重要な事件であると言ってもいいと思う。
 もちろん一番良くないのは高校生だろう。そして次は「その高校生は悪くない」と平然と言い切った高校の教師。そして、その次は運転士だと思う。奥に詰めるように2度にわたって放送したというが、こういう時は状況が状況なのだから、もっと肉声で切実感をもって言うべきだろう。場合が場合だから感情的になってもいいと思う。単にマニュアル通りに切迫感なく繰り返し「お詰め下さい」と言っただけというのでは、あまりにも能がなさ過ぎる。そして次によくないのは他の乗客である。そして、そういう生徒を育てた親も同罪であろう。とにかく自分のこと以外見えなくなっている人間が大量に出てきているこの問題は、高校野球の特待生がどうのこうのという問題や、『あるある大事典』で「捏造がけしからん」などと言っているどころではない、国民全体が真に関心を持たなければならない大問題だと思う。このニュースを見た後、久しぶりにいまの時代に日本に生きていることに心底ウンザリした。
 とにかく、これからの時代は学校の成績などよりも状況判断力、コミュニケーション力、責任感を身につけた者のほうが遥かに大切だということを社会全体が認識し、そうした能力を養う方策を立てないと、この国は本当に住むに堪えない国になり果ててしまうだろう。
 以前にも何度か述べたが、私が武術ということを一つの焦点として社会活動をしているのは、それが私の仕事ということもあるが、少しでも話の通じる人と交流し、また若い人で私の話をよく理解してくれる人を見つけ援助して、「ああ、まだ話が通じる人達がいる」ということを実感しないと、現代の日本に生き続けようという意欲がなくなるからである。
 今回の信州松代での2日間は、そんなふうに気持ちが落ち込んだ直後であっただけに、宮入刀匠はじめ和太鼓の奏者の佐藤氏、炭焼きの原氏、なんと女性でプロの狩人という原氏夫人、その他熱心な方々に多数来て頂き、その上、宏壮な木組みの旧藩校文武学校の槍術場という場で過ごせたことで、かなり気力を回復することが出来てありがたかった。「エコール・ド・まつしろ」のスタッフの方々には、この場を借りて深く御礼を申し上げておきたい。
 それにしても私の講習会にテレビ局2社のカメラが入ったというのは今回が初めて。いまの私の思いとしては、いま私が思っていることをより多くの方々に伝えたいとは思うものの、それで風に乗ったタンポポの種が広がるように、私に関心を持って下さる方が増えて様々な依頼が来るとなると「どうしたものかな」と、フトその荷の重さに途方に暮れてしまう。しかし、とにかくやるだけのことはやらねばと思う。
 明日はPHP研究所で、元プロ野球投手の岩本勉氏のインタビューがある。翌々日は茂木健一郎氏との共著のための2回目の対談。18日は朝日カルチャーセンター新宿。終って雑誌のインタビュー。20日は仙台、22日は岩手…。その間、家の床下修繕のため荷物の整理と引越し。今年の5月はかつてない忙しさになりそうだ。

以上1日分/掲載日 平成19年5月14日(月)


2007年5月20日(日)

 朝日新聞社主催の出張授業オーサービジッドで御縁の出来た高等学校のM先生から、星野道夫著『旅をする木』(文春文庫)を送って頂いた。現在ロクロク座って昼食も食べられないほどの忙しさに追われているが、何気なく開いた所でも、つい惹きつけられてしまう。
 アラスカなど厳しい気候に住む狩猟民が命がけで狩りをするところなど、かつて私が深く心を揺さぶられた『イシ−北米最後の野生インディアン−』(岩波書店)を読んだ時の哀切さを思い起こしてしまう。
 獲物がなければ飢えねばならない。そうなれば自然と生きていることや他の生命に対して敬虔にならざるを得ないだろう。そうした環境に生きていれば、先日この随感録にも書いた北海道のローカル線で起こった、高校生がなかなか奥へ詰めなかったので、痺れを切らした運転士がホームに乗客を残したまま発車するような、全体の状況把握に鈍感な人間など、まず発生のしようがないだろう。
 この件に関して私が驚いたのは、私がこの珍事を嘆いた事に対して、「ニュース報道では分からない不可抗力的状況があったかもしれず、一方的に高校生のマナーが悪かったとするのはどうかと思う」という意見が寄せられたことである。
 私は『報道ステーション』で、その時いた高校生へのインタビューを見たが、確かに悪気があったとは思えないが、それだけに一層問題の深刻さを覚えたのである。私に意見を寄せられたM氏は「集団心理的な、個人の意志ではどうしようもない状況があったかもしれない」と書かれていたが、M氏は集団心理でなら万引きをしても許されるというのだろうか。
 あの随感録では、JRの運転士の単にマニュアル的であったのではないかと思われる対応にも問題があったのではないかと、私はむしろ運転士の対応の問題について字数を多く割いた。しかし、どう考えても最も問題なのは、やはり高校生だろうと、いわば喧嘩両成敗的に書いたつもりである。ところが、そうした書き方でもM氏は「ジュースをこぼさず飲めなかった子供を怒鳴る母親と同じこと」というふうに、私が高校生の配慮の足りなさを嘆いたことを捉えたらしい。M氏は高校生を幼児並みとみて、教え導くにはまだ幼すぎるとでも考えているのだろうか。私にはまったく不可解だった。
 世の中には、やはりいくら言葉を尽くしても、その思いを共有できない人がいるようだ。しかし、そうした事を嘆いている暇もないほど次々と用件が入ってくる。急ぎの用件といっても、次々入る電話やメール、ファックスに対応しているうち、気づけば午前2時ということが、このところ少なくない。
 お急ぎの方はどうぞ直接電話を頂きたい。情けない話だが、今の私の「あとで電話しますから」という言葉は、きわめて当てにならない。何しろ次々に違う用件で連絡が入るのだから、そのことを思い出している暇もないからである。
 お急ぎの方は何度もでも電話でご催促下さい。一度受けた仕事であれば、さすがによほどの理由でもない限り、途中で投げ出したりはしませんから。

以上1日分/掲載日 平成19年5月20日(日)


2007年5月25日(金)

 引越し前後の忙しさが日常となってから、もう何年か経つと思うが、22日の夜遅く東北から帰ってきてから今日までの多忙さは、ちょっと記録的だった。
 10日ほど前は、22日の夜に帰って26日に新潟に行くまで3日あり、その間『アントレ』の取材とアメリカから一時帰国されているD女史来館の予定があるが、いずれも夕方に来てもらうことにしていたので、23日は、新潟への荷物を作ったりなどして、24日はO君に片づけを手伝ってもらい、その後で『アントレ』のインタビューを受けて…などと多少は余裕がある筈だったのだが、まったくその予定が狂ってしまった。
 計算外だったのは、すでに受けていた取材の原稿が出来てきて、急いで校正をしなければならなかったり、講演会のためのプロフィールを送って欲しいという依頼を受けたりという事が、いくつも重なってしまったことである。
 おまけにショックだったのは、「この人なら、ちゃんと書いてもらえそうだ」と思った、ある雑誌のインタビュー記事の原稿が、「えっ、何これ」という出来で血の気が引いたことである。いままで、インタビューを受けていた時は、ずいぶん話が通るので、「これなら大丈夫だろう」と思って、出来てきた原稿にビックリということは一度ならずあって、十分用心はしていたのだが、今回はそれなりの経歴も実績もある方だったので、それはないだろうと思ったのだが…。
 困ったのは、無名のライターなら私が大幅に書き換えることも出来るが、この場合、ライターのプロフィールも入るような連載ものなので、その人の持ち味を全く変えるわけにもいかない。といって、まるで私を現代の救世主のように書かれても困ってしまうので、まあ何とか頭を絞って直しを入れたが、追い打ちをかけるように関西電力のメルマガの原稿、中央公論の渡辺京二先生との往復書簡と、続けざまに急ぎの校正原稿が入ってきた。
 お陰で24日の夕方5時にと約束しておいた『アントレ』の取材の方々を門前で15分くらいも待っていただくハメに、というのもO君に手伝ってもらい荷づくりや片づけしているうちに電話をどこかへ忘れ、先方に連絡がとれなかったからである。もっとも、たかが15分で片づけが終るわけもなく、とても人を迎え入れられる状態ではなかったが入って頂いたのである。とにかく「片づけたい」というのが、ここ何年もの間私の最も切実な願いであるがどうしようもない。そういう状況のため、23日付の朝日新聞に載った出張授業オーサービジッドの応募記事の私のプロフィールは、私が東北旅行中、電話が届かないところにいたため、確認の電話をとることが出来ず、校正できないまま載ってしまった。(何回もすでにこの随感録でお願いしているが、ファックスやメールで依頼をされても、必ず電話でも依頼をして頂きたい。〆切ギリギリで連絡を頂いても、今回のように電波の圏外に居ることもあるので)
 そうしたなか、開催中の世界卓球選手権に関連して平野早矢香選手を私の稽古会に連れて来られた山田先生と電話。そうすると、何だかんだで1時間以上話しをしてしまった。
 また、中国から帰られた光岡師とも久しぶりなので、やはり1時間以上話したりと、結局22日も23日、24日も、すべて夜が明けてから寝る始末。ただ、折々久しぶりに見た東北の山々の新緑が、目の奥に蘇って来るのには救われる思い。
 20日の仙台での稽古の後、峠田の炭焼き職人佐藤光夫氏宅に伺い、佐藤夫妻と深夜というか夜明け近くまで話をして寝たが、3時間ほどしてフト目覚めて窓の外を見ると、新緑があまりにきれいだったので結局そのまま起きてしまい、午後は山形県との県境辺りの峡谷に佐藤氏に連れていってもらう。
 その時の美しさ!東北には「春紅葉」という言葉があるそうだが、木々の種類によって鮮やかな黄緑色があるかと思えば銀色のウブ毛に包まれた萌え出したばかりの色(これをこの地方では「かすが色」というそうだ)、杉の濃い緑、それとは若干違う松の緑、カエデの種類だろうか赤い新芽、それらが真っ青な初夏の空をバックに競っているさまは言葉を失うほどだった。
 そして戻ってからは、佐藤家の近くで夕方まで打剣。十年以上変わることのない心の籠った佐藤光夫、まどか夫妻にもてなして頂いて心から感謝である。
 22日は朝、まどかさんに白石蔵王の駅まで30キロ以上の道を陽紀共々送って頂いて新幹線に乗り、日本一乗降客が少ない新幹線の駅という"いわて沼宮内"に向う。ここで、かねてからの知り合いのT先生に迎えられ、そこからやはり30キロほど走って葛巻高校に向う。途中、満開の山桜が山を彩り、その下に敷きつめられたような黄色い山吹の花。そして時折見かける豪華満開の梨の花。岩手はさすがに宮城県より一段と春は遅いようだ。それにしても5月も下旬に入って、まさか桜の花を見るとは思わなかった。「狭いようでも日本は結構広いんだなあ」と、思わずつぶやいてしまった。
 葛巻高校では、いろいろ歓待して頂き、熱心な生徒諸君の質問もあったので、「もっと時間をとって、ゆっくり話が出来ればよかったなあ」と、そのことが惜しまれた。
 いま日本中、地方の市町村はいろいろと特産品などで観光客を呼ぼうとしているようだが、抜群の身体能力を育てる施設などを作れば、まったく違った展開になるのではないかとフト思ったりした。しかし、何事も科学科学の時代に、現代の科学的トレーニングの常識とはまったく違ったトレーニング法を世に問うには、よほど抜群の能力を身につけた者を複数育てなければ難しいだろう。
 ただ、そうした人間を育てるには、現在の常識とは異なる人間の身体の自然に対する深い理解が必要で、それを現代人に求める困難さは私自身、身に沁みている。「いや、有効ならやりますよ」という人がいるかもしれないが、それは簡単なことではない。どう簡単ではないかと言うと、例えば、いま流行の"はしか"に対して、故人となられた整体協会の野口晴哉先生が説かれた、「"はしか"にちゃんとかかる事で呼吸器を丈夫にする」という教えを忠実に実践できる親が現実には数少ないという事に重なってくるからである。つまり、それほどの根本的な発想の転換が必要なのである。
 "はしか"を、医薬品を使わず周囲の雑音に動揺せずキッチリと経過させる事は、現代では容易なことではない。以前聞いた話では、ある整体協会の会員は、親や親戚が医者なので、我が子が"はしか"になった時はそうした周囲からの干渉を避けるため、旅行に出かけた事にして家を閉め切り、子供を風に当てぬよう冷やさぬよう細心の注意をもって無事に経過させたという。こうしておけば予防接種のような擬似感染とは違った本物の抵抗力が育つので、二度と"はしか"になることもなく、呼吸器も丈夫になるのだろうが、こうした考えを医学界が公に認めることは今のところ朝日が西から出ることよりも無さそうである。(むろん億万に一つの発想の大転換を期待しないわけではないが)
 しかし、思いやりとか忍耐や気配り、そうした事も"はしか"、水疱瘡、おたふく風邪などの病気にちゃんとかかって経過することで育つのではないかと思う。「美しい日本」を口にする政治家が、もし本気でそれを願うなら、こういう事から変えてゆかねばならないと思うのだが、そうなることは奇蹟のようなことだと思う。
 以前ここにも書いたが、新潮社の『考える人』2006年夏号で、『戦後日本の「考える人」100人100冊』という特集があり、そのなかで公刊雑誌としては初めてと言っていいほど高い評価で野口晴哉先生を取り上げてあったから、確かに時代は変わってきたのだと思う。いわゆる知識人のなかに、野口晴哉を評価することは、その人のセンスの良さを表しているという雰囲気があることも確かだと思うが、生身の自分や自分の子供の病に直面した時、ごく当たり前のように野口先生の教えを実践できる覚悟の坐った人物は、やはり僅かであろう。というのも、整体協会の方法は単なる神頼み的なものではなく、人間の自然さに対する深い理解(少なくとも理解しようとする謙虚さ)と十分な注意力、観察力が必要であり、それらは直面した病によって育てられるのであって、およそ「〜を制圧する」とか「〜を撲滅する」などという単純で能天気な発想ではないからである。
 したがって、野口先生の教えに触れ、これをいい事だと思って感動してもらうことは結構だが、不特定多数の人に自分が得た情報を詳しく紹介するという人は、もうその事で既に現在の整体協会の立ち位置が分かっていないと言えると思う。
 はじめの方に書いたが、私が今回ある雑誌でインタビューを受け、そこで私のことを現代の救世主のように書かれて強い異和感を持ったのは、いま述べた整体協会の野口先生の教えが素晴らしいからと、相手構わず言ったり書いたりする事に対する異和感と重なってくるように思う。
 もの書きを主とする人は、どうしても何か自分が強く刺激を受けたものに出会うと、そのことに思い入れを持って詳しく書きたくなるらしいが(その気持ちも分かるが)、昔から「人を見て法を説け」という言葉もある。ある事が素晴らしいからと、そのことに好意をもって詳しく書いても、それが結果として思いがけないマイナスの結果を招くことは少なくない。ものを書くという事を専門にされている方は、是非そのあたりをよく考えて頂きたいと思う。
 気がついてみると、私が出会ったすぐれた書き手は、いまバジリコの茂木健一郎氏との対談をまとめてもらっているT氏も、宝島の本をまとめてもらっているK女史も、名越氏との本をまとめてもらっているI氏なども、卓球や乗馬に少なからぬ情熱を傾けられている。これから先、身体感覚の重要さに世の中の指導的立場にある人達が、あらためて眼を開かれることを心から願ってやまない。

 ホンの少し書くつもりが、筆が止まらなくなり思わぬ長文となってしまいました。最後に業務連絡です。来月6月11日、この日はすでに前から予定が入っているのですが、誰かと何か約束したような記憶があります。ただ、それが誰と何だったのか、どうしても思い出せません。お心当たりのある方は御連絡下さい。

以上1日分/掲載日 平成19年5月26日(土)


2007年5月29日(火)

 28日は、午後5時半から綾瀬の東京武道館で講習会。その5時間前は、まだ佐渡の両津の港にいて、その24時間前は新潟での講習会を始めた時刻という流れだったため、さすがに綾瀬の帰りは車中で眠気というより気を失いそうな感覚に襲われた。
 しかし今日29日は、3日間留守にしていた間に溜まった書類に問い合わせの電話の応対で、気がつけばたちまち夜に。
 明日はみずほ総研主宰の講演会。その後、「のぞみ」で西へ。
 しかし、目を閉じると佐渡へ渡る高速船ジェットフォイルで見た海の色が銀鼠と青に分かれていた光景や、新緑の佐渡の山々に囲まれた佐渡国分寺と隣接した国分寺跡のなんともいえない抜け切った空気が鮮やかに思い出される。
 佐渡での講習会は初めてという事もあって、はじまりは乗りがいまひとつだったが、終盤になっていろいろな質問も出て盛り上がり、打ち上げは大いに盛り上がった。佐渡はなんともいえない日本の昔の雰囲気が残っていて、私の心の中の何かが揺さぶられた。
 今回、新潟から佐渡という一連の講習会を企画して頂いた視覚行動研究所の野澤康所長と、佐渡でいろいろ面倒を見て頂いた真楽寺の三浦良廣住職には、この場を借りてあらためて御礼を申し上げたい。
 また、新潟ではスキーの指導者の間では知らない人はないと言われているH先生が大変熱心に受講して下さり、新しい展開が予感出来た。御紹介頂いたのはY女史だが、打ち上げでいろいろとお話ししているうち、つい先だって松代で公開対談を行なった宮入小左衛門行平刀匠が、ここ4〜5年親しくされているというプロスキーヤーで、私とは旧知のS氏の仲人をされていたことが分かり(S氏とも宮入刀匠のことが縁で1週間ほど前、何年かぶりで電話で話をしたばかりである)、人の縁の不思議さを思わずにはいられなかった。
 松代で御縁の出来た宮入刀匠からも、また和太鼓奏者の佐藤健作氏からも御手紙を頂いているが、こちらからの手紙がなかなか書けずにいる。この場を借りて、取り敢えず御礼を申し述べさせて頂きたい。

以上1日分/掲載日 平成19年5月30日(水)


2007年5月30日(水)

 九段下のホテルで、みずほ総合研究所から依頼のあった講演会を終え、慌ただしく 東京駅に駆け付け、18時13分発の「のぞみ」で一路西へ。 すっかり日が長くなったせいか、暮れ泥む初夏の景色は浜松辺りでも、空の雲や、街並みを浮き立たせ続けていた。今月は松代に行き、 宮城に行き、岩手に行き、新潟に行き、佐渡へと行ったせいか身体の内側で何か変化が起きているらしい。31日は朝日カルチャーセンター大阪で、2日は香川で講座や講習会があるが、そこで、いままでとどう違うか私自身体感してみたいと思っている。

 朝日カルチャーセンター大阪は、すでに30人くらいのキャンセル待ちが出ているそうで申し訳なく思っています。香川は、まだ余裕があるようですので、かなり遠いですが、よろしかったらどうぞ!

以上1日分/掲載日 平成19年5月31日(木)


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