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2009年3月1日(日)

 このところ人が生きているという事をあらためて考えさせられる事が多い。先日、二十三日は静岡で、最近は滅多に出会う事がなくなった、近頃の年をとった女性とは全く別種の人間の観のある、「昔の日本のお婆さん」という雰囲気の方にお目にかかり、つくづく最近のアンチエイジングなるものとは別の年の重ね方があったのだと思った。
 近代では、大本の出口なお開祖、油井真砂禅尼といった先人は、その人間としての迫力はなまじの、いや相当力量のある男であっても、まともにその正面に対座しておれぬほどのものがあった女性だと思うが、そうした人間としての力量を磨くという事が、現代のように男女共、浮世の仕事に追われている時代では大変難しくなっているような気がする。
 私は、人間が生きる事、人間にとっての自然とは何か、という事を体感をもって把握したいと武術の道に入ったのだが、その当時、武術の道を選ぶ事と、もう一つ少なからず心惹かれたのが社団法人整体協会の専門職、つまり整体指導者になる事であった。結局、私はその方面には自分で才能がそれほどない事を知って、武術の道を選んだが(武術にも、それほど才能があるとは思えないが、まだいろいろ自分で拓いてゆく可能性を感じられた)、どの道に進んだにしても整体協会の創設者、野口晴哉先生から受けた影響は測り知れないほど大きい。
 そして昨日の26日、その整体協会に御縁が出来た最初の一歩であり、私が三十年以上前、本当にいろいろお世話になった整体指導者、堅田俊逸先生が逝去された。昨日、お別れに伺ったが、御線香のための燭台が、かつて私が鍛って造った物が置かれてあり胸がつまった。
 思い返せば昭和50年の6月に、環七通りを走っていたバスから、当時私が道場守りをしていた下北沢の道場(合気道と鹿島神流を稽古していた山口清吾先生の、ごく個人的な道場)に帰ろうとしてバス停を一つ間違えて早く降りてしまい、当てずっぽうに道を歩いていて偶々整体協会世田谷指導室の表札を見つけた事がすべての始まりで、この世田谷指導室で整体指導をされていたのが堅田先生だったのである。
 そして、私が武術稽古研究会を始める少し前まで、一時は内弟子のようにして、本当にいろいろお世話になった。
 思い出は尽きないが、心から御冥福をお祈りしたい。

 それにしても、ここ数日、差し迫った校正を大量に抱えているのに、何だか呆然と日を送ってしまった。その間、とても両手の指を折っても数え切れないほどの、かなり切迫した用件が次々と入っていた気がするが、何だか心ここに在らずで、そうした事がすべて止まっている。
 お急ぎの方は申し訳ありませんが、再度御連絡をお願い致します。

以上1日分/掲載日 平成21年3月1日(日)


2009年3月5日(木)

 先月末からずっと風邪気味で、これが抜けきらない。しかし風邪よりも何よりも気力が落ちて、3月2日辺りは地を這うようだった。ただ、そういう時はそういう時で、技への気づきがそれなりにあるから妙と言えば妙。
 世の中の方はどうしようもない話題ばかりで、それとも気分はリンクしているような気がする。それでも技の工夫に気づきがあるというのは、技の工夫がわたしが生きる意欲を支えているのだろう。
 人間が科学文明を発展させてきた事が、人間を本質的に幸せにしたかどうかは極めて疑問だが、すでに人間の営み自体が自転車操業になっているのだから、もはや走り続けることを止められないのだろう。それでも"万に一つ"というか"億に一つ"というか、人間がこの身体を通して、人間に本来備わっている感覚と能力を味わい工夫する事に喜びを見出すという方向に社会がこの先進んでいくとしたら、自然環境と共に再生の方向は見つかるかもしれない。まあ、それが"億に一つ"でも、その可能性にかけて自分自身の心身を工夫する事に生き甲斐を見つける方向を、縁のある人に伝えるしかないだろう。
 私もいま、様々な試行錯誤で、言ってみれば初心者といえる状況でもありますから、この大恐慌時代の始まりに、経費も場所もかからない自分の身体をもって自分自身の生きる手応えを追求できる「武術の実践的研究稽古」に御関心のある方は、講座か講習会へどうぞ。今月は13日は池袋で17日は新宿の朝日カルチャーセンターで予定があります。

以上1日分/掲載日 平成21年3月6日(金)


2009年3月19日(木)

 昨日18日、大幅な増補を加えた改訂版『剣の精神誌』(版元はちくま学芸文庫)の著者校正をすべて終え、後は4月上旬の見本本が出来てくるのを待つばかりとなった。
 2月の初めから体調があまりおもわしくなく、とりわけ再校を検討した3月の上旬は絶不調のなかでの作業であったから、かなり苦労をしたが、とにかく私がいままで出した本の中で、最もメインとなる本であるだけに、その後発見した新事実も盛り込むことが出来た上、文庫本という上製本にくらべて多くの人が入手しやすい形で世に出せた事に、なんとなくホッとしている。
 それにしても今回の増補版は宇田川敦氏の協力がなかったら、とても不可能であったろう。新資料の発見はもとより、それらをまとめ、また本のゲラの綿密な校正に至るまで、実にお世話になった。あらためて深く感謝の意を表したい。
 この本は4月10日頃、書店に並ぶ予定との事である。御関心のある方はどうぞ!
 3月は、この『剣の精神誌』のゲラの校正の他、昨年秋の講演のまとめに大幅な加筆をして3万字近くになったものを手がけた他、インタビュー原稿などがいくつかあったので、校正と原稿書きが仕事の中心となった。
 ただ、そうしたなかでも技の気づきはあった。というより体調がほとんど底にあった3月のはじめ、前々回の随感録でも少し触れたが、稽古でもしたら気力も出るかと、たまたま私の家の近くに用があったという知人を招いて稽古した。その時は手を上げるのも大変であったのだが、そのお陰で体調のいい時には決して気づかなかったなと思える発見があった。それは手を上げるために体全体が協力するのと、手だけが他の身体の部位の状況に構わず上げるのとの相違で、「こんなにも違うのか」という事が分かった事である。
 ただ、そうした発見があると程度の差はあれ心は高揚するものだが、この発見に関しては、心は相変わらず低空飛行のままで、その事にも驚いてしまった。
 とにかく漸く体調が浮上してきたと思ったのは、3月12日にアーティストのアレキサンダー・ゲルマン氏が刊行予定の本のなかに私の事を書きたいということで来館されてからであろうか。特に話が盛り上がったというほどでもなかったが、ある程度は興味を持って頂けたらしい。その時の何がキッカケになったのか分からないが、とにかくこの日を境に漸く体調が上向いてきて、翌日の池袋の講座では、その前後に打ち合わせやインタビューを入れたため、5時間ぐらい喋りづめだったが何とかもったし、15日は市ヶ谷で京都大学のO准教授との共著の企画の相談と、その後深夜に及んだ予定もこなせるようになってきた。
 しかし、体調が悪い時というのは明らかに食べることもいい加減になっている。昨年5月に離糖状態になって甘い物を受けつけなくなり、一時はリンゴを食べても一口か二口以上は食べたくないほどだったが、その後、果物はそれほど抵抗なくなってきていた。ただ、菓子は和洋を問わず何かで少し口にする事があっても、基本的にまず食べなかったし、甘い味付けの副食も好まなかったのだが、体調が悪くなると、欲しいという訳ではないが、気分転換に妙に甘辛い味付けでも食べてしまったりしていた。それが、体調が良くなってくると、ただサッと茹でた野菜に醤油を少しかけただけ、といったものが美味く感じられ、菓子はもちろん、甘い味付けや甘辛い味付けもウンザリしてくる。
 今回の体調の悪さは何が原因だったか分からないが(もっとも、いまもまだ引きずっているので過去形では語れないが)、どうもいままでとは違う地平が見えて来た気もする。もちろん、それが何だか今は分からないが、いま言える事は、どんな事からでも学べることはあるという事だ。

以上1日分/掲載日 平成21年3月19日(木)


2009年3月25日(水)

 WBCで日本が優勝し、歓喜する選手やファンを見ていて、いままで何故スポーツ界には桜井章一雀鬼会会長のような桁違いな実力を持った人間が出現しないのか、ずっと考えていた事の答えを見た気がした。
 それは、勝って、その喜びを爆発させたいという思いで、その事をやっている、つまり勝つことで喜びという報酬(金銭的なものはないにしても精神的満足感)を得たいという目的がある場合と、そのやっている事そのものに本当に自分を没入させているかどうかの間には、非常に大きな違いがあるという事である。
 それは桜井会長が大勝負に勝ち切った直後、接待も莫大な謝礼も断って、夜明けの町を一人歩いてクールダウンさせていく姿や、50メートル近く離れた直径10センチにも満たない的に向って「もし射外したら明日から弓を捨てる」と宣言し、その宣言通りに2本の矢を的の中央に並べて射込み、それを見ていた者が「人間業ではない」と感嘆するのを、「もちろん」と答えて平然と常と変わらぬ様子だった(自分を越えた自然の働きそのものが自分を通してそれを行ったのだから、それは当たり前という事なのだろう)という無影心月流の開祖梅路見鸞老師の姿と、優勝を喜ぶ野球選手の姿との間には、あまりにも違いがあるからである。
 もちろんスポーツはファンと共に喜ぶというところに、その存在意義があり、どれほどの殊勲打を打っても、いつもと変わらずインタビューに対して、ただ「いえ、自分はこれが仕事ですから」と少しも嬉しそうにしていない選手では、周りを白けさせてしまうだろうから、スポーツはスポーツとして、その存在する意味があるのだろうし、私自身多少なりとも、この世界と関わっているから否定するつもりもないが、スポーツは人間としての能力、力量の極限と向き合うという世界とは、世界が違うのだろう。
 もちろん私自身、いま挙げた桜井会長や梅路老師、そして歴史に残る武術や芸道の先達の人々に比べれば、あまりに甘く、私がよく講演会や講座などで「私程度のレベルの人間がわざわざこのような特別な時間をとって頂いて招かれるということ自体、いかに現代人のレベルが下がったかという事で、これは大変嘆かわしい事なのです」と挨拶しているのが現状で、とても偉そうなことは書けないのだが、今日はとにかく昨日の野球を見ていて、長い間の疑問がひとつの形で解けた気がしたので、思わず桜井会長に電話を入れさせて頂き、小一時間ほどいろいろと話を伺ったり、させて頂いたりした。
 それにしても、まさに生きる伝説となられている桜井会長ほどの方になると、なかなか話し応えのある人は見当たらないのだろう。私程度の者からの電話でも、私が電話を切り難く感ずるほどいろいろと話しをして下さる事に、何か痛々しいものを感ぜずにはいられなかった。

以上1日分/掲載日 平成21年3月26日(木)


2009年3月28日(土)

 今年の春は乱調である。私の記憶にある限り、桜が咲きかけてから、これほどその開花が進まなかったことは初めてである。私の家の屋根の上に拡がるソメイヨシノも山桜も2,3輪ほころび始めたのを見てから1週間くらいになるが、まだ三分咲きにも至っていない。
 ただ、桜は遅いというのに、驚いたことに数日前に気づいたのだが、庭にその地下茎を伸ばしてきている孟宗竹の筍が、その先端をのぞかせ始めている。このことは以前にも書いた記憶があるが、数十年前、百メートル近く離れていた孟宗竹の竹やぶは、いまは大きなマンションとなっているが、辛うじて残っていた地下茎が数十年かけて、この道場のすぐ近くまで延びて来たのである。年月というのは思いもかけなかった事も、ごく当たり前のように実現させるものである。
 そして技の方も思いもかけないというか、段々言葉にしにくい事に気がついてきている。
 今月は、ここ何年かの間では珍しいほどに遠出をしなかった。ひとつには体調があまり思わしくなかったからと、どうにもやらなければならない本の校正などが重なったためであるが、この一ヶ月間、講演会や講座もすべて東京都内で、泊りがけの用事で一度も出なかったのは2005年の初夏にしばらく休業して以来かもしれない。これは、何かいま私のなかで様々なことを見直したいと思っているからかもしれない。それにしても、キャンセルした遠出もあったにはあったが、不思議なほど今月はなぜか泊りがけの用件を入れていなかった。
 しかし、4月からは3ヶ月先まで、ほぼビッシリと予定は埋まりつつある。とはいえ、今までのような忙しさに流されるような日の送り方はしたくないし、そういう日々とは違った環境が私に巡ってきているような気もしている。それが実際は、どういうことになるのか、実際に春から初夏にかけての日々が始まってみなければ分からないが、いままで見落としていた何かに気づけるような日々でありたいと思う。

以上1日分/掲載日 平成21年3月29日(日)


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