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2日は、陽紀と昼頃に家を発って、神戸の国際展示場で開かれている日本集中治療医学会学術集会での講演のため、神戸のポートピアホテルに入り、夜は学術集会の全員懇親会に出る。その後、神戸女学院大学の内田樹先生が訪ねて来て下さったので、ホテルのラウンジで医学書院の鳥居氏らも交えて、私が招かれている神戸女学院での授業等について相談など…。
3日は11時から1時間講演を行い、終って感謝状を頂く。賞状とはほとんど縁のない人生を送ってきた私は、何だか大人になってママゴトをしているようで気恥ずかしかったが、同時に童心に返った気分がして何だか微笑ましかった。
その後、かなりの方々が「添え立ち」「浮き取り」などの介護技の体験を希望され、予想以上に積極的関心を示して頂いたのには少し驚いた。
いろいろと話を続けて聞きたそうな方もいらしたが、私はこの日の夜、熊本で渡辺京二先生との対談予定が入っていたので、その後、ホテルから荷物等を送って、すぐに新神戸の駅に向かう。今回私を招いて下り、いろいろとお気遣いいただいた兵庫医科大学の丸川征四郎先生にここで御礼を申し上げておきたい。
新神戸からは熊本に直行。熊本駅に迎えに来て下さった熊本の講習会の世話人であるK氏の車で渡辺先生の御自宅に伺う。名著『逝きし世の面影』を読んで感嘆したことがキッカケで御縁の出来た渡辺先生だが、ハッキリとした形での対談は今回が初めて。
元々はマルクスに憧れ、いわば左翼文化人とも分類されていた渡辺先生が、その後世相を見ていくなかで、また、幕末や明治の初めに来日した外国人の日本に対する印象について研究されていくうちに、近代化に対する疑問というより嘆きが深まり、独特の見解を育ててこられた。それは、かつての左翼の人間にみられたような転向による右傾化とは全く違った、極めて理智的な日本への再評価であり、多くの共感を呼んで、『逝きし世の面影』は他に類のない稀有な「日本」を考える本となったのである。
渡辺先生の許で3時間ほど話を伺い、再びK氏の車でホテルに入った。そしてフトつけたBSのテレビで昔々観ていたアメリカのテレビドラマ『逃亡者』に遭遇。"逝きし世の面影"ではないが、"逝きしアメリカの良心"を観たような気がした。このドラマは妻殺しの無実の罪で追われている医師リチャード・キンブルをめぐる物語である。我が身の危険を顧みず、人を助けずにはおれない、キンブルだが、全くヒーローの匂いのない、こんなに地味で実直な人間を主人公にした、観ていてなんとも辛くなるようなドラマは、現代ではもはや決して作れないな、と思った。特に私が観た回は、自分を執拗に追うジェラード警部を、キンブルに命を助けられた殺し屋が、その礼として殺そうとするのを助けに行くという話で、こういう話が作られ共感した人達が大勢いた時代というものが、もはや逝ってしまったなあと思った。
現代、このドラマを観て、「キンブルって馬鹿だなあ。自分は全く手を汚さず、自分をしつこく追い回す警部を始末してもらえるのに…」と思う人間は、このドラマが作られた頃よりも遥かに多いだろう。なかには「こんなお人好しなんてリアリティないよ」と白ける者もいるかもしれない。しかし、これが日本で最初に放映されていた頃は、自分の心で密かにそういう思いを抱くことに良心の痛みを感じる人間が少なからずいたと思う。
何だかそのことが無情にせつなく、渡辺京二先生と約3時間ずっといろいろお話ししたことと、この『逃亡者』の印象がかぶってきて、恐らくは連日の疲れで体が相当に参っていたと思うのだが、どうしても寝つけず、今これを書いている。
以上1日分/掲載日 平成19年3月5日(月)
3月2日に東京を発ってから、神戸、熊本、博多、福山とまわって7日に帰京。そのまま毎日新聞社のビルに行き、追い込みのMCプレスのムック本の校正ゲラを受け取ってから帰宅。8日は午前中に上智大、夕方から東大、その間本郷の喫茶店でムック本の校正。東大では、現在、人口知能の第一人者といわれるチューリッヒ大学のロルフ・ファイファー教授に私の動きを実演し、それに関する考え方を解説。そして、9日は千葉で講演して、その後すぐに池袋のコミュニティカレッジへ。
疲れで、お世辞にも体調がいいとはいえないが、そういう時は、迎え酒ならぬ、迎え用事、をしようと、喫茶店で、久しぶりに古くからの馴染みの人達としばらく話しをして帰る。そして、今日は横浜の朝日カルチャーセンターへ。その後、ダブルブッキングしていて誠に申し訳ないことになってしまった大船の空手道場に少しだけ伺い、すぐに二子玉川にとって返して身体教育研究所の野口裕之先生のところへ。そして、明日も明後日も15日まで出ずっぱり。
約29年前に道場を建てて、この道に入ってから、今月ほど毎日休みなく仕事で出歩いたことは記憶にない。もちろん世の中には、もっと忙しい人もいるとは思うが、私の場合、この連日の忙しさがこたえるのは、私の人生が仕事とプライベートの区別がつきにくく、個人的な用件が削られることが、人に不義理を重ねて心の負担になると同時に、発想に居つきが生じて武術の研究そのものが停滞することにストレスを感じるからのようである。なにしろ私は時間ができればやりたいと思っていることは、すべて武術と関連したことになっているような人間だからである。
博多で見た刀のこと。福山で光岡師と光岡師の御母堂に、お会いしたこと。岡崎女史に大変お世話になったこと。上智大で「目から鱗が5枚も6枚も落ちました」と体育指導の先生方から感想を頂いたこと。東大で刺激的な会話が交わせ、ファイファー教授から「大変興味深かった」との御感想を頂いたこと。また、この日、私を招いて下さった横井助教授とも、今後の展開について、かなり突っ込んだ話ができたこと、などなど、あらためて書いて、私もその時の内容を整理したいことは山々なのだが、なにしろ時間がないので今日はここまでにしておきたい。
以上1日分/掲載日 平成19年3月10日(土)
今月の2日以来、1日の休みもなく出歩いていたのが、今日の読売文化センターの講座でようやく一段落する。稽古会を始めて29年、これほど途切れずに出歩いたことはない。しかも急ぎの校正もあり、移動の車中や待ち時間もゲラを拡げて赤入れをしていたから、さまざまな用件が溜まりに溜まっている。
そうした忙しさでも、とにかく体を壊さずにもったのは、10日に身体教育研究所で野口裕之先生の個別稽古を受けられたことと興味深いスリリングな出会いや対談等ができたためであろう。
なかでも13日のPHP研究所での名越康文氏との対談、昨日14日、市ヶ谷の私の馴染みの旅館で行なった茂木健一郎氏との対談は、どちらの方も話の通りが大変よくて、3時間、4時間があっという間に過ぎ、仕事というよりむしろ日頃のストレスを解消させてもらった有り難いひと時だった。
しかし、この先これらの対談原稿が上がってきて、又さまざまな企画が既に待ち受けていて、一体これからどうなるかと思う・・・などとここで嘆いている暇もない。
すでに期限切れの『三洋化成ニュース』の連載原稿の最後の仕上げと、〆切間近な『風の旅人』の原稿を書かねばならない。いろいろとここで書きたい話もあるのだが、又の機会としたい。
以上1日分/掲載日 平成19年3月15日(木)
18日、19日と珍しく都内での公開講習会が続いたが、熱心な受講者の方々の質問に答えて技の説明をしていると、思わず自分でも納得のいくような譬えを思いつくことがある。
今回は、19日綾瀬の東京武道館でIAC主催の講習会をしていた時、体全体を同時に使うという事を説明していて、「同時に使うといっても、ただ身体の各部を同時に同方向に動かせばいいというものじゃありません。そう、譬えていうと、何かイベントがあって、その会場に向って多くの人が歩いていても、ただ多くの人が歩いているというのと、極めて親しい人達の集団が歩いているのとでは、何かあった時の助け合い、協力し合う体勢の良さが全然違うでしょう。つまり、誰かに何かあった時、我が事のように、その何かあった人の為に行動できる緊密なネットワークが築けているのが、体全体が使えているという事です」というような事を言ったのだが、言いながら、恐らくそう言った私自身が一番「そうか、なるほどなぁ」と感心していたのではないかと思う。
この身体全体に張り巡らされた、いわばテンセグリティ構造ともいえるネットワークの重要さに対する認識は、今年の1月に入ってすぐ「両手重ね当て浪之上」が出来た時以来、ずっと私の中で大きく育ってきた。この今年に入ってすぐ出来た「両手重ね当て浪之上」という技は、"玄人泣かせ"の技でもある。何しろ武道を何十年とやってきた人であっても、素人相手にこの技を容易にやってみせられる人は少ないだろうから。
この技は、どういう状況設定の技かというと、私が作った技である「浪之上」の一種であるが、いままでの浪之上が合気道等にもみられる"取り"の片手手首の辺りの前腕を"受け"が両手でシッカリと掴んでくるのを、上方にその前腕を挙げて"受け"を崩すものだが、この"両手重ね当て"の浪之上は、"受け"が"取り"の片手の手首の辺に広げた左右両掌を重ね合わせて載せ、そこに全体重をかけて"取り"が、その腕を上方へ挙げるのに抵抗するのを挙げるというものである。
この際、"受け"が"取り"の手首をシッカリと握った通常の「浪之上」であれば、かなりの人が"受け"を完全には崩せないまでも、ある程度は"受け"をぐらつかせたり、少しは挙げることは出来る。しかし、開いた掌を、ただ手首の辺りに重ねて載せるだけとなると、抑えている相手がとても同じ人だとは思えないほどやりにくいものである。
この技が生まれたことによって、反復稽古を行い「易から難へ」という次第々々に難度を上げていくという稽古体系では、どうしても及ばない技の世界があることが、いままでで一番実感できた。同時に、論文に書けるような原理の説明では絶対に表記不可能な技の世界があることが(すでに何回もこの事は書いてきたが)、あらためてハッキリと自覚出来てきた。
こういう事は気がついてしまうと、私はどうしても黙っていられなくて、つい言ってしまったり書いてしまう。なぜなら世の中を見てみれば、見当外れなトレーニングをして体を壊したり、伸び悩んでいる人達があまりに多いので、同じ人間として見ているに忍びないからである。ただ、そうした私の言葉や技に関心を持ち、本格的に習いたいと私に訴えて来る人が、いざ目の前に現れて来ると困惑し、何とも申し訳ない気持ちになってしまう。
以前は私の道場でも、たまに私の技の研究のため少数の人と稽古をすることがあったが、現在はそうしたことも本当に稀になってきている。特に3月はずっと月の半ばまで出歩いていたので、用件は溜まりに溜まり、自分一人の稽古ですら思うに任せない。そのような有様なので、とても私の道場に希望者を招いて稽古をすることなどおぼつかないのだが、そうした今の私がおかれている状況から来る理由の他に、私が本格的に人に教えなくなったのは、いま私がやっていることが、現在一般的に広く知られ、行なわれているトレーニング法や稽古法よりも、技の上達や体を養っていく上で確かに有効だという自信はあるものの、「これが正しい」とか「素晴らしい」などという気は起こらないからである。
現在の私は、あくまでも縁のあった人達に、現代の常識として広まっているトレーニング法や稽古法を見直し、発想を転換してもらうことを促すために活動しているのであって、"正しい"稽古法を広めているわけではないのである。
また、私のこうした立場の堅持は、かつて「これが正しい」とか「最高」と言って絶対化して人々に普及させようとした大小のカリスマ達が繰り返してきた結末の惨状が、あまりにも明確に目に浮かぶからかもしれない。
「俺がこの世を変えてやる」という意気込みは、いつの間にか支配欲に呑み込まれ、名誉欲に転がされ、権力欲に乗っ取られ、"世の為""人の為"と言いながら、そうした諸欲の泥沼から抜けられなくなって、周りを見回せば自分の顔色をうかがうイエスマンばかりに取り巻かれているという事になっていたりする。
そういう事が万に一つも起こらないように、私は2003年に会を解散し、講座の度毎に「私のやることは、ただの一例に過ぎないので、皆さんはこれを参考にするというぐらいにして下さい」と言っているのである。
今年は、これから何冊か本も出るだろうし、講演会や講習会等もいろいろあると思いますが、私に関心を持って下さる方は、どうかこのことをあらためて理解して頂いた上で、本を読まれるなり講習会に参加するなりして頂きたいと思います。
以上1日分/掲載日 平成19年3月22日(木)
24日、朝日カルチャーセンター新宿で玄侑宗久師と公開対談を行なって、その後同行していたK女史らと本の企画などでいろいろと話しているうちに、さまざまなことに話が展開した。
しかし、そのことが結局、現代という人が人として生きていくには辛い時代の総括になったのか、25日はいろいろとやらなければならないこともあったのだが、何とも気力を無くして呆然と時を過ごしてしまった。
26日は筑波大学で開かれたスポーツ方法学会へ。体育関係者は、あまり私の話を聴きたがらない傾向があるので、当初この話を頂いた時お断りしたのだが、私に要請をされた筑波大学の谷川聡選手(現役の選手でもあり指導もされている100メートルハードルの日本記録保持者)が熱心に私を口説かれたので伺うことにしたのである。
蓋を開けてみると、この学会の実行委員長を務められた村木征人教授はじめ、熱心に聴いて下さった先生方が何人もいらっしゃったのは意外だったが、それだけに伺ってよかったと思った。終始私の面倒をみて頂いた谷川聡選手にあらためて御礼を申し上げておきたい。また、この学会は、私個人にとっても相撲についての質問で、四つに組んだ状態から実演で苦戦したことから探究癖が刺激され、思いがけぬ気づきを得て、技のレベルが一段上がったことは幸いだった。相手をして頂いたT氏、O氏、I氏に感謝したい。
翌日は私が『禅という名の日本丸』の御著書を拝見したことがキッカケで御縁の出来た山田奨治先生の講演。阿波研造を師として弓を学び、世界的に日本の禅を広めた大きなキッカケを作った『弓と禅』の著者オイケン・ヘリゲルの有名な阿波研造に関するエピソードの真相について具体的資料を元に詳しい検証を行なわれた。私は山田先生の御著書で既に承知していたことであるが(それ以前にも私は薄々噂で耳にしてもいた)、この有名な神秘的で感動的なエピソードに感銘を受けていた方々には少なからずショックだったようである。
しかし、私にとっては、この山田先生のお話を伺う前に相談を受けた、ある企画の追っかけ取材をこの会場のすぐ近くで受けた内容の方がショックだった。それは「お母さんと赤ちゃん」についての企画だったのだが、私はそこで現代の母親が6キロ程度の幼児を背負っているだけで肩や腰の負担が大変だという事を知り愕然としてしまった。数十年前なら10歳くらいの子が5〜6キロ程度の大きさの子を背負って面倒をみながら遊んだり家事も手伝ってたことは、ごく普通だった。それを思うと、この国で育つ人間はどうなってしまうのかと暗然とした気分になってしまった。
そういえば最近は幼児を乗せたベビーカーごと電車に乗ってくる親をしばしば見かけるようになった。これも親の体力というか体の使い方の低下が一因だろう。まあ、子連れで出かけるのは大変だろうと思うから時に手を貸すこともあるが、20年ほど前は全くといっていいほど見られない光景だった。(当時はベビーカーを折り畳んで乗ってきていた)人は楽をしはじめると限りなく楽に楽にと流れやすい。そして、さまざまな機器の発達は益々それを助長する。
しかし、そうやって我が子を抱く力も、背負う力もなくなってくるようにすることが、人として幸せなのかどうか、機器は発達しても体力というか体の操作法のレベルが落ち、何でも機械頼りになることに人としての本来の姿があるのか、つくづく考えてしまう。
そして、それ以上に便利さが生む心の闇。最近はいろいろな人に相談を受ける立場だが、この、だれに尋ねても満足のいく答えが得られない問いを抱えて、これから先、生きていくのはきつい。
しかし、だからといって安易なプラス思考万歳論者には、なれる筈もない。(そういう人はたしかに幸せだろうと思うが)このような時は、私が武術に志した原点である人間の運命の定・不定の追求という一生のテーマとあらためて向き合う以外にないような気がする。
自分が現に、いまここに存在するということは、人間の主義主張や科学技術で造り出したわけではなく、まさに自然によって生み出されたことであり、そのことだけが全ての原点であり、最も確かな手がかりだという事を、あらためて噛みしめ直してみたいと思う。
以上1日分/掲載日 平成19年3月29日(木)
今日からまた東京を離れ、西や東に飛び回る日々。その上、すでにもう十分過ぎるほど本の企画やテレビやラジオの出演依頼を頂いている。
昨年10月の初めに、テレビで全く私の意としたところが伝わらない番組が放映されて以来、ワイドショー系の番組依頼はすべて断り続けているが、私の伝えたいことを出来るだけ私も納得のいくように伝えたいから、と口説かれている企画も2,3あって検討中である。
ただ、現在あまりにいろいろなことを抱えていて諸事手が回らない。
28日も陽紀と親しいO君にバイトで来てもらって約5時間片付けをしたが、帰りに、そのO君が「いやぁー、これで片づいたんでしょうか」と何とも申し訳なさそうな顔をしたくらい。何しろその5時間は、取り敢えずO君と2人で溜まりに溜まっていた書類の整理をしただけで、本格的片付けに入れなかったからである。
この片付けが出来れば気分もかなり変わると思うのだが、決壊した堤防から水が流れ込んでくる様にいろいろな依頼が来るので、断るにも時間を使うし、どうにもならないのである。
このような状況ですので、これから依頼を考えられている方は、その辺りをどうか御理解頂きたいと思います。
以上1日分/掲載日 平成19年3月31日(土)