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※2001年8月1日(水)以降については、「随感録」を御覧ください。

2001年3月9日(金)

2月24日の稽古で、小手返に今までにない感覚を覚えた。私の稽古会では小手返を受ける側は、拳を強く握って手首を固め、容易に崩れにくく抵抗することが当然という状況でやっており、それに対して私は今まで何十通りもの攻略法を工夫してきたが(この小手返ほど様々な工夫をした技は他にない)、24日の土曜日、この日稽古に来ていたなかでは、体の浮きや割れが最も進み、私の技に対する抵抗力も最もあるY氏に、この小手返をかけてみた。するとY氏も、とにかく私の技にかからぬように研究しているため粘ってきた。
その時、なぜそう思いついたのか、今でも分からないが、「ああ、外から何とか攻めようとしても、いたずらに相手の殻を閉じさせるだけだ。これは相手の内側に入らなければな」と思い浮かんだ。それで、「なかに入るということは?」と、Y氏の腕に触れている私の手之内で探るように、Y氏のその前腕の裡の動きを感じとろうとした。
すると何かスーッと筒状に穴があくところがある。それで、その穴を見失わないようにと動いていると、つい今しがたまで粘って抵抗していたY氏がサーッと崩れる。
「あれっ、これは何だ」と思って、この日来合わせていた他の人達にも試みてみたが、今までになくスムーズで、相手によっては「本当にこんなんで崩れているのかな」と思うほどの僅かな接点圧力で崩れる。
しかし、私自身は全くよく分からない。確かに今までも何度か「あれっ、これは?」と思うほど、突然いままでは難しかった状況下で技が出来るようになることはあったが(最近では昨年11月、剣術の右下段籠手留の動きの応用で、切込入身に入る際、受が取と右と左の手刀を切り合わせる状況から、いきなり左手で取の右手を上から下に払い落したり、逆に下から上に払い上げたりといった、いわば乱取、自由組手的対応をしてきても、そのことによって取の正中面が歪まず、そのまま直入身に入ってゆける切込直入身などがこの例に当たる)、1日2日考えていれば、何故その技が利いたのか、その理由らしきものが思い当たった。しかし、今回の小手返に関しては、出来た当初から全く感覚的なもの以外何もなかっただけに、1週間経ってもその術理は全然思いつかない。
この間、都内での稽古会もあり、20人ぐらいの人に試みたが、粘っこい人に左手も添えて思いっきり粘られると流石にやりにくかったが、片手の場合は今まで最も粘っていたO氏への利き方もハッキリと違っていた。
とにかく何と言ったらいいのか分からないが、言葉では相手の内側へ入るというしかない。
この際、私のイメージとしては、昔雑学的知識で頭をひねったトポロジー(位相幾何学)の゛クラインの瓶゛のことなどを思い出したりした。゛クラインの瓶゛とは、トラースというゴムホース状のものが、ドーナツ型になっているものの逆で内側と外側がひと続きになる四次元空間でのみ成立すると云われるものである。
この他、昨年の11月、久しぶりに大阪でお会いした心道会の宇城憲治先生が、しきりと「芯に当る」と口にされていたことなども思い出された。
ただ、そうしたことが思い出されたというだけの話で、このような抽象的概念が果たして今回の技の気づきに役に立ったのかどうかも全く分からない。とにかく私も何か狐につままれているような心持ちで、この先一体どうなるのか、むしろ不安があるくらいであるが、3月3日から始まった九州や岡山での稽古会や講座でも今までとの違いをハッキリと感じたから、何か新しい感覚が育ち始めているのかも知れない。

以上1日分/掲載日 平成13年3月11日(日)


2001年3月30日(金)

今年の桜は例年になく早く、道場の屋根にかかっているソメイヨシノも満開の昨日が冷雨に打たれるという有様で、花曇りの今日はすでに散りはじめている。お蔭で花見らしい花見も出来ないでいるが、精神的にはここ何年間のなかで忙しくはしているが、珍しく落ち着いた日々を送っている。

その理由のひとつは、2月以来今も家にいる時は続けている生の葉菜根菜すり潰し食のおかげだろうが、もうひとつは肩のヌケと下腹丹田の連動に何となくこの3月末頃進展がみられたからかもしれない。
下腹に力の集約が可能になってくると、精神的にも対応力が育ち、心の揺れが静まってくると古来から言い伝えられているが、確かに最近、何件か崩壊しかけている家庭に関する相談やら、ある組織内のギクシャクぶりの相談というか愚痴を聞かされたりと、心を塞ぐような話題が多いのだが、聞いていて「まあ大変だろうし、そういう目に遭うのはそれなりの業を背負っているのだろうな」と思いながら、どこかそれらを通りぬけた所に青い空を見ているような心持ちなのである。
別に積極的に希望があるというわけでもないが、「自然の法則というのは全くよく出来ているなあ」という自然の理法そのものへの信頼感に、ある確信が持てたからであろうか。この信頼感というのは、とてつもなく巨大な自然法則に対する信頼感だけに、誰か特定の個人に対する信頼感の表現によく使われる゛熱い゛とか゛暖かい゛というものと違って、諦観に近いクールさを持っている。

例えば、その生い立ちの淋しさ精神的貧しさから愛情に飢え、自分の方を向いてもらおうと様々ないたずらをする子供は可哀相であるが、そのいたずらがある一線を越えた瞬間、その子の足許が崩れ去り、そうなると、もう落ちてゆくその子を救うのは不可能となる(これを無理に助けようとしたら二重遭難になるばかりである)。ひとつの例だが、何故かそういうことが見えるというか感じられるのである。

肥田春充翁(肥田式強健術創始者)は晩年、「私は恐怖を感じたくても自動的に横隔膜が押し下がって心臓を圧迫しないため恐怖を感じることが出来ない身体の状態になってしまった」、と述懐されているが、私のこのような感覚も身体が変わったからだと思う。
すでに述べたように、古来から身体が変わるということは、精神的にも多大な影響をもたらすと云われているが、これからは最も身近にいる観察者として私自身の精神の在りようと身体の関連についても研究を進めていきたいと思っている。

以上1日分/掲載日 平成13年4月1日(日)


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