2000年3月5日(日)
新しく旗揚げする空手の会、S会の初めての稽古会に招かれて行く。
2月26日の朝日カルチャーセンターの講座に来られた方数名も含め20人近くで稽古を行ない、その後、主宰者のN氏宅で打上げ。
N氏の御人柄のせいであろう、いかにも雰囲気のいい方々がN氏を支えられているのをみて、人は人との出会いで支えたり支えられたりしているのだということをあらためて実感した。
これからのS会の御多幸を心から祈りたい。
2000年3月6日(月)
桐朋中・高等学校のK先生、H先生に招かれて、約70名のバスケットボール部員と10名ほどの保護者の方々を前に、実技の解説を行なう。前後斬応用のターン、膝行応用の走りなどに強い関心を持ってもらう。
その後で、走行時に現代スポーツの常識のような手の振りを行なわない、私の術理を基にしたナンバ応用の部員達の走りをみせてもらう。なかでもS君の走りは、体に浮きがかかっていて見事。見ていて少しの違和感もない。現在、インターネット上でのバスケットボールのファンのなかで最も話題になっているという桐朋高校の代表的選手だけに゛流石゛と思った。
思えば昨年の3月18日、初めて私がここで実演した時は、好奇と疑惑の眼でみられたものだが、あれからやがて1年。よくここまで私の術理を消化して工夫してくれたものだと思う。
なにしろこの1年の間で、私が直接動きを見せ体験してもらった時間は、最も私に触れたS君にしても8時間ぐらいだろう。
情熱とセンスのある者は、キッカケさえあればあとは放っておいてもドンドン変るものだということを、あらためて実感した。
バスケットボールの後は、明日、プロ野球のK選手が来館されることもあって、野球部の監督さんの御好意で、グラウンドでピッチング・マシンを体験させていただく。
時速約140q/hの速球を生まれて初めて体験。想像していたよりは恐ろしくなかったが、唸りをたてて飛んで来る硬球にただバットを当てるだけでもけっこう飛ぶのではないかと思っていたが、結果は球にバットを当てた瞬間、強い衝撃を受けて、右手掌を打撲してしまった。掌に響かないようにするには斬ってゆくべきなのだろう。何事も実地の体験が必要だということを文字どおり痛感した。しかし、いろいろ打法のアイディアも浮んできたので、また機会があったら是非試みてみたい。
帰宅して、初めてインターネットの見方を習う。
パソコンを使いこなせるようになるのは何年先かと思うが、インターネットを覗くぐらいはできねば、とかねてから思っていた。教官は中学1年になる長男。長男も機械のことはさして得意でないようだが、まったく何も知らない私からみると、どうして覚えたのかと驚くほど詳しい。その上、親が言うのも何だが、教え方が親切で上手。
長男の親切はどうやら天性のものらしい。先日、長男と2人で買物に行った折、ある店で店員が不慣れで、私の質問に見当外れの返事をしたのだが、そこで思わず私が「いや、それは私が訊いたものとは違うでしょう」と、やや批難をこめて言ったことがあった。その時、店を出た後で、長男に「父さん、あんな言い方しなくてもいいと思うよ。あの店員の人も慣れてないんだからかわいそうだよ」とたしなめられ、我が子の成長ぶりにしばし感無量だった。
こういう長男の様子をみていると「子どもは育て方次第だ」などとはとても言えない気がする。なにしろ幼稚園の頃は気難しく、これでは13、4歳の思春期の頃はどんなに大変だろう、といささか憂鬱になったこともあったぐらいだからである。
人の子の親になることの、恐さとありがたさをあらためて感じる今日この頃である。
以上2日分/掲載日 平成12年3月9日(木)
2000年3月7日(火)
プロ野球のK選手が、K選手の身体をずっとみてこられたK氏と来館。
K選手の真摯な態度と熱意につい私も動かされ、3時間近く質問に答える形でいろいろと動いた。
2000年3月8日(水)
朝日カルチャーセンターのI女史から電話。4月24日から5回にわたって毎月第2・第4月曜日、6月まで開くことになった、体を動かして具体的な体の使い方を工夫する講座(詳しくは告知板に)を、引き続き7月からも開きたいとの打診。
ますます身動きとれなくなってくるが、まあ、中島氏などに手伝ってもらえばなんとかなるかもしれない。
2000年3月9日(木)
11日に勝浦の国際武道大学である講義用の木刀や杖、袋竹刀などの荷物と、来週から行く仙台の稽古会のための荷物をつくって出したら、この日はよほど荷物に縁があるのか関西学院大学のアメリカンフットボール部からヘルメットが送られてくる。これを装着した動きに慣れて、また指導に来て下さい、という旨の手紙付き。剣術の稽古などに利用させてもらい、このヘルメットに慣れ、御期待に添いたいと思う。
2000年3月10日(金)
池袋コミュニティ・カレッジの講座へ。
呼吸ということを考えるようになって初めての講座。いままでで話が一番抽象的だったかもしれないが、技の感触が先月までのものとは違うことが受をとってもらった人達には伝わったようだ。
今後この池袋コミュニティ・カレッジの講座では、いままでどおり私の最新の発見の発表を主とし、私の術理の段階的なある程度系統だった実習は朝日カルチャーセンターでやろうかと思っている。
この日は、池袋コミュニティ・カレッジで私の講座の世話をして下さった大沢邦子さんが退職されるとのことで、わざわざ菓子を持って挨拶に来られた。大沢さんは、最初に池袋コミュニティ・カレッジで私の世話をして下さった保坂和志氏が芥川賞を受賞して作家に専念されるため退職された後、ずっと世話をして下さった。ここであらためてお世話になった御礼を申し上げると共に、大沢さんの新しい人生の門出を祝したい。
2000年3月11日(土)
日本武道館主宰の国際武道文化セミナーでの講義のため勝浦にある国際武道大学へ、中島章夫氏、ジャン・ミシェル・モリエ氏と共に行く。
かつての日本人は手を振らず、体を捻って歩かなかった、ということから一連の話と実技を行なう。実技は剣術、杖術、抜刀術、手裏剣術、体術など。
通訳が入った関係で、ほぼ予定原稿通りの話をするという、私としてはいまだかつてやったことのない講義内容。どんなにやりにくいかと思ったが、通訳の間、ゆとりがとれて、「これはこれでその波に乗ってしまえばやりにくいということもないなあ」と感じたのが私としては何より意外だった。
講義の後、一休みしてすぐ東京へ引き返す。そして名和弓雄先生の稽古場へ伺い、十数年ぶりに私の手裏剣術を見ていただく。
古武術界の長老的存在で、根岸流手裏剣術に関しては私の師匠であった前田勇四代宗家をはじめ、成瀬関次三代宗家の演武も御覧になられている名和先生の眼から、私の演武がどう映るか御感想をうかがうためである。
これは将来、私が手裏剣術に関して一冊まとめる予定があるので、その折に跋文を寄せていただきたいとかねてからお願いしていたからであり、そのためには一度よく私の演武を御覧になっていただかなければならないと思っていたからである。
演武は稽古に来られていた門下の方々の熱心な質問等もあり、つい大幅に御稽古時間に割り込んでしまい申し訳ないことをしてしまったが、演武が終って名和先生からは過分な御評価をいただき二重に恐縮してしまった。
御稽古が終り、名和先生が着替えられる横で、名和先生の袴を畳ませていただいたが、いまハッキリと恩師と呼べる方を持たない私にとって、32年前、手裏剣術について初めて具体的にいろいろと教えて下さり、また前田勇先生に紹介の労をとって下さった名和先生は、師弟として正式に門下に入ったわけではないが、実質的には私にとって最初の武術の師匠ともいえる方であり、その方の袴を畳ませていただくということに不意に涙が出るほど何とも言えぬ懐かしさと感謝の思いがこみ上げて来て、私自身うろたえてしまった。
以前、整体協会の野口裕之先生が私に師匠を持つということの大切さとありがたみを話して下さったことがあったが、その意味が初めて実感をもってわかった気がした。
たしかに、私が今も深く思いを傾けて稽古をしている手裏剣術といい、体に固定的な支点をつくらず、捻らず、うねらせない井桁術理からの一連の気づきにしても、かつての日本人は手を現代人のようには振って歩かないということを名和先生からうかがっていたことが私の記憶の奥底にずっとあったからのように思う。ここで長年の御厚情に心より感謝の意を表わしたい。
それにしても今年になって毎週のように、この先も私に影響を与えそうな方々との出会いがある。体調の方はいいのだが、頭がパンクして突然やる気をなくさないかと、それが少し心配。もっとも、忙しくないと、またすぐ虚無感が湧き上ってきそうで、我が性格ながらこれと付き合うのはホントに苦労する。
以上5日分/掲載日 平成12年3月13日(月)
2000年3月16日(木)
14日、15日と仙台の稽古会へ。
呼吸ということを体の使い方のなかで意識しはじめて初めての仙台での稽古。いままでにない技の利き方に、多くの方々に新たな関心を持ってもらった。
また今回の稽古会には、仙台市立A小学校のT校長以下5名ほどの教員の方々もみえ、私が取り組んでいる日本人のかつての身体の使い方への考察(ナンバの歩法や走法、膝行、膝退、そしてそこから導き出される体を捻らない体捌き)を、興味深く観られたり体験したりされた。
この方々は狂言を稽古されているとのことで、かつての日本人の体の使い方に関心を持たれているようだった。小学校の教職員の方々がこうしたことに関心を持たれるのは、私としても意味のあることだと思う。
昔の日本人の体の使い方の研究など、考えようによってはどこかの郷土芸能の保存程度の軽い話題で済むが、すでにこうした動きの研究を行なって、いままでより遥かに有効なトレーニング法を開発しつつある桐朋中・高等学校のバスケットボール部の存在などを考えると、今後こうした動きへの取り組みが増えてくるかもしれず、そうなると文部省の体育の指導要綱との齟齬なども出てくるかもしれない。
稽古会にみえた校長先生も私の動きを見、解説を聞かれて、この先、子ども達にどう教えたらいいのかという悩みが深くなられたようでもあった。ただ、今回みえた方々は頭がずいぶんと柔軟な方々が多いように思えたので、体育においては幅のある、さまざまな可能性を子ども達に抱かせる教え方を工夫して下さるのではないかと思っている。
稽古の後は4ヶ月ぶりに炭焼の佐藤家へ。東北本線の白石駅まで佐藤円さん、遍ちゃん母子に迎えに来てもらう。
4ヶ月ぶりに会った円さんは山の精のような神秘的美しさに一層磨きがかかっていて息を呑んだ。円さんは「自然の中で自然に沿った暮しをしたい」という思いが骨の髄までしみ込んでいるのだろう。時に「どこのモデルさんか」と思うほど凄まじく美しく見える時があるが、普段はその美しさが周囲の人や風景に溶け込んでほとんど目立たなかったりする。私がこの女性を深く尊敬しているのは、このように、生きるに必要な分以外の余分な自己愛をほとんど持っていないからであろう。
この円さんの夫である佐藤光夫氏は、私が『縁の森』(合気ニュース刊)等、2、3の本で、これほど息の合った夫婦は滅多にない、と書いたぐらいであるから、その人柄のほどは自ずとわかると思う。
佐藤ファミリーが地道で幸せな生活が送れるうちは、なんだかんだいっても、まだ日本で私も生きていけるような気がするが、この一家が山で暮していけないような状況になったとしたら、私の絶望感も行くところまで行ってしまうような気がしている。佐藤一家にずっと健やかな日々が続くことを心の底から祈っている。
佐藤家で一泊した翌16日は朝から雪。
夕方、早めに新幹線の白石蔵王駅まで一家で送ってもらったが、途中下りの坂道で突然前の車がS字型に蛇行して反対車線に突っ込んだり、登り坂でトラックが立往生していて通れず回り道をしたり、と緊張の連続だった。そのお陰か、いつもこの地を発つ時に強弱の差はあっても必ず襲われる虚しさにとりつかれずに済んだ。
東北新幹線の車中でこれを書きつつ、ただただ帰路の車の無事を祈っている。
〈追記〉帰宅後、電話で無事を確認、ホッとした。
以上1日分/掲載日 平成12年3月17日(金)
2000年3月20日(月)
この日、多田容子女史の新刊が講談社から送られてくる。
タイトルは『柳影(やなぎかげ)』。陰間茶屋で色を鬻ぐ柳次を主人公とする大胆な小説。主人公・柳次は手裏剣の名手という設定だが、私が話したり書いたりしたことを見事に自分の文章に消化されているのには感嘆した。
それにしても不思議に思ったのは、主人公・柳次と、柳次に手裏剣術を教えた槍九郎との出会いの場面が、私が昨年から試験的に書いている物語と似ていること(無論、『柳影』の方がよく描かれているが)。多田女史と私はどこか感覚的に似ているところがあるのかもしれない。
しかし、これで作家・多田容子は確立。もはや後戻りは出来ないだろう。今後益々の活躍を祈りたい。
2000年3月21日(火)
整体協会・身体教育研究所にうかがい、野口裕之先生に数ヶ月ぶりに言葉や身体を通して数時間お相手していただく。
今回の何よりの驚きと発見は、野口先生がやって下さったいくつかのテスト(たとえばノートを、垂直に立てたペンで下へ押す、等)の結果、私がどうやら生来左利きで、私の意識が芽生えるかどうかの頃、右利き用に矯正されたらしい、ということである。
いままで私は生まれついての右利きだと信じていたが、そう指摘されてみて、いくつか納得のいくことがある。たとえば酒にはきわめて弱い私だが、それでも少しは飲むことがある。そうした折、ふと気づくと左手で箸を使っていること、などだ。ただこれは、以前稽古のためにも左右両利きにした方がいいだろうと思って、左手で箸を持つ訓練をしたことがあるからだと思っていた。しかし、よく考えてみれば酔えば心の抑制がとれて本音が出るといわれているから、そうした時に自然と左手を使おうとするのは、本来この方が得意だったからと考えた方が納得がいく。
しかし齢五十を越えて、生まれて初めて自分は本来左利きだったのだと知らされた気分は、ちょっと興奮する。大袈裟に言えばいままで知らなかった自分の出生の秘密を明かされたような気分。そうなると妙なもので、こうして整体協会からの帰りの車中で、この交遊録を右手で書いているのにも違和感を覚える。そのためだろう、野口先生の許を辞しての最初の買物が東急ハンズでの左利き用の鋏である。
生来右利きだと思っていた人が野口先生に「本来は左利きですよ」と指摘され、「食べ物の味も変った」と感想を述べる人もいるというが成程とも思える。これから左利きということを意識するようになると、さまざまな面で変ってくるだろう。
またこの日は、私の左眼が昨日から瞼の上から押さえるとかなり痛み、午前中に視覚情報センターの田村知則氏に電話で問い合せたところ「眼圧が高くなっているのでしょう」とのことだったが、そのことを野口先生に話すとスッと私の左手親指の爪のところを軽くおさえて、「ああ、ひどく鈍っていますねえ」と言われる。
確かにこの場所は、先月1日、樫の木の枝降しをして木の枝が撥ね、強打したところで、いまでも指先で何かつまむと多少の違和感が残っている。「爪の先だから、身体に影響出るだろうな」と思ってはいたが「こういう形で出たのか」と、あらためて野口先生の指摘の確かさに驚く。2、3分軽くおさえていただいただけだったが、帰り道は昨日から気になっていた痛みが9割方なくなっていた。
これほど敏感な野口先生だから、先日、池袋コミュニティ・カレッジであった宇城先生の公開演武の折は、見ているだけで感応して、我が身が直接打たれているほどの衝撃を受けられたようだ。
「凄い人ですね。後で自分の身体、調整するの苦労しましたよ。よく前に出て技を受けてみようなんて気になる人がいますね」と感想を述べられていた。
以上2日分/掲載日 平成12年3月23日(木)
2000年3月22日(水)
昨日Oさんから贈られた藤原新也著『メメント・モリ』(情報センター出版局刊)を、今日になって初めて開いて読んだ。
驚いた。気持が激しくゆさぶられた。いままで本を開いて2分と経たないうちにこんなにも衝撃を受けた記憶はない。
14年前、私にとって初めての著書である『表の体育・裏の体育』(壮神社刊)を書いた時、当時印象深く読んだ藤原新也著『東京漂流』(情報センター出版局刊)を参考文献として巻末に載せておいたが、当時から噂としては耳にしていた姉妹編ともいえる『メメント・モリ』は読んでみたいと思いつつ、なぜか今日まで縁がなかった。
『もののけ姫』で人間の営みに根本的な不信感と絶望感が深く私の心に刻み込まれて以来、その荷物をずっと背負ってきているが、この本『メメント・モリ』はその重荷をさらに重くするようでもあるし、同時にその重さそのものを肯定し、人間が生きていることをもっと味わい尽くせと勇気づけるような、なんともいえない感動を生み出してくれる。
「よくもまあ、こんなカッコイイ本が出来たものだ」と嘆息しているところへ合気ニュースの木村編集員から「校正は済みましたか」と電話が入ったので、ついこの本のなかの一節を電話で朗読してしまった。それに対して付き合いで仕方なく相槌を打ったりしないのが、木村さんのいいところ。
その後、畏友のG氏に電話で「『メメント・モリ』知ってますか」と尋ねたところ、「ああ、『メメント・モリ』ですか。あれ出たのずいぶん前でしょう。僕も数ヶ月持ち歩いてましたよ。ピアノの板橋文夫の『グッド・バイ』聴きながらあの本読むと、もう、たまらないですよ。あの頃しばらくはホントはまってました」とのことだった。そうと聞いたからには板橋文夫『グッド・バイ』も是非聴かねばなるまい。
自分が感動すると、すぐ人に言いたがるのが私の癖。さっそく午後稽古に来たスポーツ関係者のK氏にもこの本を推薦してしまった。
現在、私の忙しさはやや一段落しているとはいえ、また道場は書類・資料の山。諸用に追われ出したいと思っている人への手紙も容易に出せない。最近このホームページの更新回数が多いのはそうした方々への返事が遅れている罪滅ぼしの意味も含めての近況報告をしておかねば、という気持もあるためだと思う。御手紙を下さった方々にはあらためて御容赦を乞う次第である。
以上1日分/掲載日 平成12年3月24日(金)