2000年9月3日(日)
昨日は9月というのに盛夏も顔負けの猛暑だったが、今日は昼間、銀座で武術稽古研究会草創期の会員の人達との同窓会があり、懐かしい顔を見ることができた。この日は朝から爽やかな風が吹きやまず、秋の気配が感じられたので、深夜その風に吹かれに外に出た。空を見上げると夜空を雲が流れている。
そして風の涼しさに、私が1年のうちで最も昔を思い出す晩夏が訪れたのを全身で感じ、木立の影を慕って走った。
走りながら、私が死んだら、やはり骨は、私にとって最も思い出深い広葉樹の森か渓流に撒いてもらいたいと思った。
散骨は、骨を粉にするのが手間で大変だというが、それは乳鉢やスリ鉢でやるからで、石か金床の上で重い鍛冶の鎚で叩けば、そうたいしたこともないだろう。
葬儀も一切の宗教色も排し、ただ私を通して親しくなった気のあった人達が、私のことを酒の肴にして集まってもらえれば十分というか、それ以外のいわゆる葬式らしいことは一切やって欲しくない。
墓を立てなかったり葬式もやらないと、成仏できないなどという説もあるが、これほど他の生物達に迷惑をかけている人間を一代やってきて、その上成仏したいなどとあつかましいことは、とても言えない。
たとえば散々地球環境を荒らす仕事で富を蓄え、死ぬ前になって、どこかの教団に多額の寄付をして、来世の往生を願うなど、最も醜悪なことだ。
もしそんなことで救われた人がいる極楽浄土に行くくらいなら、地獄にいるほうがよほど気が楽だし、人間が迫害し、滅してきた多くの生物のことを思うと、人間皆、死後地獄で苦しまねばバランスがとれないような気さえする。
このところ絶望感からか、気力が落ちて疲れやすくなっているように思っていたが、いま、このような文章を書いている自分をみて、まだ意外にエネルギーが残っていることに気がついた。
とにかく死ぬ日まで生きつづけなければならないし、生きている以上は、自分で自分の身の始末がつけられる状態でいたい。
そのためにも、その時々の自分にとって少しでも張りのある日々を送りたいとは思う。そういう意味では、桐朋高校が、私の身体運用の原理をとり入れて、今、バスケットボール界から注目されているのは、私の意欲を保たせてもらえる上でもありがたい(さきほど桐朋の金田、長谷川両先生と話し、その熱意にずいぶんこちらが励まされた)。
日本古来の体捌きに注目が集まり、そのことから、少しでも消費し放題の社会機構から、内面に目を向けてくれる若い人達が出てくる兆しや、社会の対応がみえれば、いまの私の精神状態にとって、それが一番救いだろうから。
以上1日分/掲載日 平成12年9月5日(火)
2000年9月7日(木)
昨夕は、桐朋高校のバスケットボール部の監督をされている金田先生が、金田先生を私のところに紹介された同校の同僚である長谷川先生と、同校バスケットボール部のエースS君と3人で来館され、最近の私の動きを体験、稽古していかれた。
最近はラフな体当たりで相手を威圧するような動きが世界の主流になってきているとのことで、私がこのところ研究しているアソビ、ユルミをとって、力を尖らすということにひととおりでない関心を示され、実際に体当たりのやり方と、ガードをどう崩すかなどを体験され、すっかりのめり込まれた様子で、2時間半がそれこそ30分ぐらいにしか感じられないほど盛り上がった。
稽古中、ガードのすり抜けに、抜刀術の逆手抜飛刀打を応用することによって、私自身も驚くほどすみやかな体捌きになることに気づいたり、相撲でガッチリ組みあった時、相手の攻め込みにとりあわず「エッ、何が?」(「クソ、何を!」ではなく)と力まず、さり気ない対応をすると、支点が固定化されず、まったく相手の受ける感じが違うことも、いままでになく明確に感じとれるようになった(この時、私の体はいわゆる脱力状態になっているかというと、ちょっと何とも答えにくい。もちろんこわばってはいないが、ユルミ、アソビはあってはならないから、力が脱けているとはいっても、そう単純なものではない。私が人に、稽古のやり方を訊かれた時、いわゆる脱力を決して勧めないのは、脱力イコール゛だらっとした感じ゛、というのが人々の意識の奥に強く刷り込まれていると思うからである)。
この春、4月の終りに宮崎駿監督のアトリエニ馬力へ行って薪割をした時にもこのホームページに書いたと思うが、人間自分の得手なことをして、それが他人にも喜ばれるということは、最も素朴な「人間の生き甲斐の原点」であろう。6日の夜は、このところずっと背中にへばりついている辛さをしばらくは忘れることができて私も有り難かった。
ところで、このずっと背中にのしかかっている絶望感だが、このことに関連して、私が9月3日付で書いた『交遊録』の内容に対して畏友のG氏から、「あれはあんまりいただけませんな」との意見をいただいた。特に「人類がずっと地球環境を破壊しつづけてきた罪を、生まれたばかりの子も背負わなければならないのか」というのがG氏の意見。これは最近、私もいささか反省している点とも重なっていたので、「流石にG氏だ」と感心してしまった。
私が反省している点とは、最近の私は絶望していることを逆利用して、恐いものなし状態になっているのではないかということである。「どうせ絶望しているから」と言いたい放題言うのは、人間として私自身も、あまり見よい風景ではないな、と思う。
そんなことをG氏と電話で話しているうち、ふと、映画『もののけ姫』のなかで、もののけ姫こと、サンがエボシ御前が率いる゛たたら場゛へ単身挑み、エボシ御前と一騎打ちをしているところへ、アシタカが割って入り、自らの呪われた右腕を皆に示して「憎しみに身を委ねるな」と叫んだ時、凄まじく過酷な過去を持っているらしいエボシ御前が、そのアシタカの言葉に対し「わずかな不運をみせびらかすな。その右腕斬り落としてやろう」と鋭く応じ返した場面を思い出した。まさに、このあたりのセリフが、宮崎駿監督が天才と呼ばれる所以でもあろう。
『もののけ姫』のタイトルは、宮崎監督御自身は『アシタカせん記』(せんの字は草冠に耳ふたつで、宮崎監督の作字)にしたかった、という話からも想像がつくが、宮崎監督はアシタカという若者に本来大変な愛情を感じられているらしい。しかし、その愛情をストレートに出さず、わざと突き放すところがいかにも宮崎監督である。
『願立剣術物語』に、「正直ということたちがたきものなり」とあったが、大人の正直の立て方とはどうあるべきなのか、一般的正解のない問題ばかりをこの頃は考えている。
昔、整体協会の創始者、野口晴哉先生が、「『正直なよい子』というが、人への配慮や気づかいがあるからこそつく嘘もあるのだ」ということを言われていたことを思い出し、当たり前といえば当たり前だが、こういう言葉がその場、その時の人との対応で自在に繰り出されていた野口先生を想い出し、あらためて「ああ、ただ漫然と年を重ねてはいなかった人だったなあ」と在りし日の野口先生の面影を偲んだ。
以上1日分/掲載日 平成12年9月11日(月)
2000年9月18日(月)
大阪の精神科医、名越康文氏が初めて整体協会・身体教育研究所の野口裕之先生に体を観ていただくということになって、16日から上京。昨日17日は野口先生のところへ伺うため名越氏がアドバイザーとして関わっている漫画家Y氏との打ち合わせの後、夕方新宿で待ち合わせた。
午後5時に待ち合わせ場所の新宿の瀧沢に行ってみると、名越氏の他、その漫画家のY氏、編集者のK氏、名越氏と私の共通の友人のI氏などがにぎやかに話の輪を広げている最中で、名越氏からY氏、K氏の紹介を受けたりしている最中、T美大のI教授に関西大学の植島啓司先生もやってこられた。
そこで30分ほど紹介をしたりされたりしてから、漫画家のY氏らと別れ、我々は渋谷に出てから二子玉川駅に向かう。
整体協会本部道場のほぼ向かいにある身体教育研究所に到着したのは、午後6時半頃だったろうか。野口先生の手が空くまでしばらく待ってから、野口裕之先生に3階のロビーに招じ入れていただいた。植島先生も名越氏も、野口先生とは昨年の1月の京都以来約1年半ぶりだが、そのような月日の隔たりをまったく感じさせない雰囲気で、しばらくいろいろな話に花が咲いた。
その後、名越氏がいよいよ野口先生の操法を受けることになった。
30分ほどで野口先生が終わって出てこられ、「いやさすがに立派なものですよ」と名越氏の身体を観た感想を微笑みを含みながら話されていた。しばらくして、名越氏も漸く起き上がれたのか我々のところへ戻って話の輪に加わったが、野口先生の操法は名越氏に今まで1度も体験したことのない不思議な身体感覚を生じさせたらしく、どこか雲の上を漂っているような様子だった。
それでも滅多に集まれない顔ぶれであったからだろう、ひとしきり話に花が咲いたが、時間も11時になっていたので我々5人は辞去した。
それから、I教授の案内で入った二子玉川駅近くの店で生ビールで打ち上げ(もっとも操法後の名越氏はウーロン茶しか飲めないので、私もそれにつき合った)。
この夜、私は、名越氏をからかったり冗談を言ったりされている植島啓司先生をみていて、つくづく大変な才能に恵まれた人というのは、その才能に自分が潰されないようにするために、いかに苦労されているかを初めて知らされた気がした。
ふつうは、どうすれば自分の能力がより発揮できるかに苦労するものだが、才能がありすぎる人は、その才能・能力にうっかり身を委ねると、たちまち自分が煮つまって焦げてしまうのだろう。
植島先生が競馬をはじめ麻雀やさまざまなスポーツ観戦、それに選挙にまでなみなみならぬ関心を持たれているのは有名な話だが、これは゛運゛というギャンブル性があるものに興味を向けることで、なんとか御自身の才能から発する能力、集中力のバランスをとられているのだと思う。あらためて人間というのは業の深い生きものだと思った。
この夜は名越氏を伴って深夜帰宅。最近はお互いに忙しく電話でも以前のように話す機会が以前の何分の一かに減ってきていたが、久しぶりに2人で話してみて、あらためて名越氏が、私が心のヒダの奥で感じていることを言葉にしても、そのまま真っ直ぐに話の通る人物であることを確認できたのは何よりありがたかった。
今朝は10時頃、名越氏を駅まで見送り、その後、家の郵便受を造り上げる。やらねばならないことは山積みしているが、数年前から傷みのひどい郵便受の損傷がこのところ一層ひどく、みかねた妻が焼杉の板を買ってきて造りはじめていたため、あとを引き受けたのである。やり始めれば、もともとこういう仕事は嫌いではないから、ついついのめり込み、はじめは何日かかけて少しづつ造っていくつもりが、今日1日で造り上げてしまったのである。
このため、またいくつもの用事が先送りになってしまった。しかし、人間自らの暮しに直接関係している仕事をしているのが精神的にも最も健全な気がする。
こういう仕事をしていると、また東北の山の空気が恋しくなってきた。
以上1日分/掲載日 平成12年9月24日(日)
2000年10月29日(日)
10月はじめの精神的な落ち込み状態からぬけてきたら、待っていたように次々と気のぬけない用件やら、興味深い読み物やらが私を待ちぶせしていたように起ったり届いたりする。
まず、昨日郵送されてきたのは、神奈川リハビリテーション病院の理学療法士、北村啓氏の論文「『受け継ぐべきもの』−日本文化の底流に学ぶ理学療法の未来−」。
今の医療現場の荒廃の元に、感覚の喪失があることを指摘し、体力回復の目安に安易に筋力ということが指標となっていることの問題提起を皮切りに、私(甲野)との出会いで、体を捻らないこと、ナンバといった動きを研究しはじめたことにより、実際臨床でも成果が上がりつつあることが述べられている。
そして、私を通じて知った心道会の宇城憲治先生や整体協会、身体教育研究所の野口裕之先生の言葉なども引用されており、北村氏のリハビリ現場、医療現場たて直しの熱意がひしひしと伝わってきた。
それから、やはり昨日、稽古に来たU氏に頼んで購入してきてもらった本『リストカットシンドローム』(ロブ@大月著、ワニブックス刊)を読む。
この本は、リストカット、つまり手首切りの自傷に関して何人かのリストカット常習者に詳しいインタビューをしてまとめたもので、巻末近くに私の畏友である大阪の精神科医、名越康文・名越クリニック院長に、著者が話を聞きながらまとめた章がある。
その章の最後のあたりで、著者は「僕が取材をお願いした精神科医で僕自身が『診療を受けてもよいな』と思ったのは名越院長の他には片手で数えられるくらいしかいない」という記述があるが、これはやや控え目な表現ながら、現在の精神医学界の寒々とした状況を実感をもって表わした言葉だろう。おそらく著者は名越院長のことについてもっともっと紹介したかったのだろうが、総ページで190ページほどのため、かなり編集段階で削られたり、強引にまとめられた気配があり、日頃名越氏の考えをよく聞いている私でもちょっと理解しがたいほどに内容が圧縮、コンデンスされていたのは残念だった。
ただ、それでも多少アンテナの働く人は名越康文という人物が、並の医師とは一味も二味も違った、ただならぬ精神科医であることはハッキリと感じとれるだろう。それに、本の構成が十二分に読み手の胸をしめつけるほど、凄まじいリストカッター(こういう言葉があるかどうか知らないが)告白の連続の後に名越院長の話が載っているので、対応のまずい教師や精神科医が多いなか、「ああ、こういうお医者さんもいるのか」と読者をホッとさせ共感を呼ぶだろう。著者の大月氏がこの本の刊行に傾けたエネルギーには圧倒される。
しかし、この本がもし評判になったら(すでにその気配はあるようだが)、著者の大月氏以上に名越院長の許に救いを求める人が押しかけ、現在すでに、診きれないほどのクライアントを抱えているのに、いったいどうなってしまうのだろうと、私としては思わず名越氏の健康が心配になってしまった。
だが、まあこれも名越氏の宿命であろう。時代に呼ばれている人は、好むと好まざるとに拘らず、多くの人達の前に出ていかざるを得ないのだから。
来年の2月17日、名越氏と、新宿の朝日カルチャーセンターでトークショーを行なう予定だが、その頃名越氏の周辺がどうなっているのかまったく想像もつかない。
最後に読みごたえのある雑誌をひとつ紹介したい。それは゛材料開発ジャーナル゛『バウンダリー』である。
これは゛材料開発ジャーナル゛というように、主に金属やセラミック関係の材質に関する研究報告の専門誌であるが、私のようにまったくの素人ながら多少こうしたことに関心のあるような者でも十分に楽しみながら学べる、きわめて秀逸な雑誌である。
その理由は、何よりこの雑誌の編集長であり、オーナーでもある、小林文武氏のユニークさであろう。そのユニークさの現れのひとつは、物価高の日本から、2年ほど前タイに移住、この地で『バウンダリー』誌を発行されていることにも現れている。
もちろんタイ移住の理由は日本の物価高ばかりではない。以前から、かの地に憧れがあったようだ。
そのため「珪素鋼単結晶およびステンレス鋼板にTiをコーティングしたあと、180°曲げ変形したときのTi膜のクラック」などの専門的写真解説のページのすぐ前に、小林編集長が、タイで食用に子供達が蝉とりをしているところへ行って、生のまま一つ口に入れ、子供達にまで呆れられた話などが載っているし、「子育てと仕事のバウンダリー」とか「SF映画に見る未来社会の提言」その他、これほど理系から文系に至る興味深い記事をうまく配合している雑誌を、私は他に知らない。
この雑誌と出会ったキッカケは、岡安鋼材の岡安一男社長にタングステンの粉末の入手方法をたずねたことだが、好奇心旺盛な小林編集長は、一度私の都内での稽古会にも見学に来られたことがある。
よく、日本が世界に誇る技術力は、町工場で生み出されているというが、雑誌の方も、いわゆる研究書や教科書より、この『バウンダリー』誌の方が格段によく出来ている(おそらくユニークな人材のネットワークも凄いのだろう)。
あらためて小林編集長の柔軟な対応力とセンスのよさに敬意を表したい。
『バウンダリー』誌問い合わせは次のとおり、
横浜市旭区東希望ヶ丘237 FAX045−364−4426
以上1日分/掲載日 平成12年11月1日(水)
2000年9月29日(金)
2ヶ月に1度の仙台での稽古会に26日から行く。今回はF県警の鑑識に勤務されているM氏が初参加。仙台駅で森氏と並んで私を迎えて下さった。自然農法の田んぼに見学に行かれたこともあるというM氏は、飄々としたなんともいえぬ味わいある人物で、珍しい話を沢山聞くことができた。
27日は、午前中の稽古を終えてから榊女史の車で山形の県境近くの炭焼きの佐藤宅へ。まだ山々は夏の緑とほとんど変わっていないが、空気はいかにも秋。
28日は、間もなくダムのため湖底に沈むという新潟県の奥三面(おくみおもて)に、佐藤光夫氏・円さん夫妻と長女の遍ちゃんの佐藤ファミリーと共に行く。
石器時代から縄文、弥生そして平家の落人とずっとその地に人が住みつづけてきた証しが色濃く残っていたという三面は、独特の土地の雰囲気を持っており、そうしたことに若干感じやすい私は何ともいえぬ疲れが出てしまったが、翌日は佐藤家のまわりでのキノコ獲りに2時間ほど山を歩きまわり、すっかり元気になった。
私はキノコにはそれほど関心がないが、佐藤光夫氏と一緒に歩いて木の名称を教えてもらえるのが何よりありがたい。今回はリョウブとコシアブラとタカノツメの違いを十分学べたし、刀の柄木に手頃な太さのマンサクやアズサの枝、それに何か細工物を、そのうちこの木の皮で造ろうと思っているウリハダカエデにも目をつけた。また、今回初めて日本で最も比重の重い木といわれているオノオレカンバも見ることができた。その、まるで鎧を着ているような樹皮は目に焼きついたから、もう忘れることはないだろう。
佐藤家に一度戻って昼食の後、一人でまた森の中を歩きまわったり稽古したりした。
山は光の加減で同じ場所でもさまざまに表情を変え、その度に私の心の中の思いを刺激する。こういう時は、絶対に連れがあっては駄目だとあらためて思った。
私にとって何ものにも代えがたい思い入れ深い山の木々に囲まれ、私自身の心を分解掃除している時は、どんなに親しい人といえどもそばにいてもらいたくはない。その思いがどれほど徹底しているかは、たとえ犬であっても自分の連れとしての生きものの気配がしてはいやなのである。
そして、奇妙なことだが、刀などは普段よりもはるかに身近に感じる。というか、自分が持っている刀を通して行う自然との対話が、何ともいえぬ不思議な感覚を私にもたらしてくれるのである。
ひとしきり山中を歩きまわり、木を観、空を観、渓流を観、所々で剣を打ったりして過ごした。
夜は東京で人と会う約束がある。それがなくてもやらねばならないことは山積み。だが、とにかくひとときでも一切それらを忘れて、こうした山の木々の間に身を置けるから、現在なんとか自分を保っていられるのだろう。
最近も動きの質はよくなっているが、体力は以前にくらべて明らかに落ちてきて、人生のカウントダウンに入ってきているのは実感する。
さて、どう人生の幕を引くか、そのことを本気で考えるべき時に来ていることを、今回ほどこの東北の山中にきて感じさせられたことはなかったように思う。
例によってほんとうに居心地のいい時を過ごさせていただいた佐藤ファミリーに白石蔵王の駅に送っていただき、東北新幹線の車中でいまこれを書き終えるところである。
あらためて佐藤光夫氏と円さんに、この場を借りて御礼を申し上げさせていただきたい。
以上1日分/掲載日 平成12年10月4日(水)