1999年6月2日(水)
東北へ原稿を書きに行った帰り道、Bボクシング・ジムへ寄る。ガードは上げず、摺り足主体という変わったジム。動きに井桁術理を取り入れているとのことで、以前からお招きを受けていたところ。元大相撲力士で50s体重を絞ってヘビー級挑戦、というY氏ら、数人のジムのメンバーと手を交える。
このユニークなジムのDトレーナーに晩食のお誘いを受け、今後の指導の要請を受ける。
ボクシングの指導などできるかどうかわからないが、私としても勉強させていただくつもりで、4日(金)、恵比寿の稽古会に来ていただくことにする。
この日は、昼は炭焼の佐藤一家とタニウツギやノリウツギの咲き乱れる、新緑のなかを歩いたことと、遠間の打剣、直打法で自己新の16m70p、約九間一尺が通ったことが何より嬉しかった。
直打法の打剣では、信州の江崎氏が17m通しているが、私もそこまで届く感触は得られた。
以上1日分/掲載日 平成11年6月10日(木)
1999年6月6日(日)
今日はハードな1日だった。
なにしろ昨夜8時近く、大阪から上京中の精神科医・名越康文氏を糸井重里氏と引き合わせるため、六本木から歩いて、鼠穴ビルの東京糸井重里事務所へ行く。同行者は、名越氏が゛日本の宝゛と呼んだ科学者の岩渕輝氏、と、技の話になった時「こんな人もいます」という証明のための吉田健三氏。
すぐわかるだろうと思った鼠穴は、けっこう探して、途中2度も電話。マネージャーの斎藤さんに迎えに来ていただく。
とにかく、迷ったけれど8時前には着いたはず。
それから一気に8時間。はじめは私の技の話なども実演付きでやっていたが、中盤以後は、糸井・名越両氏の言葉が空中で大炸裂。凄まじく濃い会話になった。
漸く4時半過ぎ、「そろそろ電車も動くでしょう」ということになって、糸井氏に新宿駅まで送っていただいて散会。
あまりにも濃い会話になりすぎたせいか、名越氏は「僕のことが『ほぼ日』(糸井氏のホームページ。『ほぼ日刊イトイ新聞』)に載ることはないと思います」との感想。
この名越氏の予測通り『ほぼ日』には「鼠穴に甲野善紀さんがいらっしゃいました。」という記事のみ載る(しかし、6月8日に糸井さんから私のところに来たFAXを読むと、名越氏のことを高く評価され、とても気軽には紹介できなかった旨のことが書いてあった)。
その道の者は、その道に達した者を相識る、ということであろう。
名越氏が『ほぼ日』にデビュー以後、どのような展開となるのか、今の私にはまったく想像つかないが、大きな渦が生まれそうだ。
6日は朝帰りで昼近くまで寝て名越氏を見送り、午後は稽古、夜は文字どおり泥のように寝た。
以上1日分/掲載日 平成11年6月15日(火)
1999年6月18日(金)
都内の稽古会にバスケットボールのK先生が今回もバスケット関係者2人を新しく誘われて来場。
この日は、私も体を反転させることなく、左へ行く体を途中からスウーッと、ちょうど積み上げてある本が崩れるように、床を蹴らずに移動させることで相手のガードを抜けることが出来るようになり、自分でも驚いた(翌日、この動きを太刀取り技に応用したところ、いままでよりもずっと余裕を持って打太刀の手許に入ることが出来るようになっており、スポーツとの交流は武術の技も進展させるということを改めて確認した)。
この日は、この稽古会のあと、会場からさほど遠くない鼠穴ビル・東京糸井重里事務所へ行く。
『ほぼ日刊イトイ新聞』のアクセス件数がこのところ凄まじく(何日か前は、なんと1日8万3千件とか)、その対応に糸井氏をはじめスタッフもだいぶお疲れの様子で、「是非、陣中見舞に行って差し上げて下さい」と大阪の名越クリニックの名越院長からの電話要請もあり、稽古終了後10時をまわっていたが伺わせていただく。
ちょっと伺って終電には間に合うように、と思っていたのに、あっという間に1時をまわってしまい、2時近くにお開きになる。
これはタクシーにするか、あるいは誰かのところに転がり込もうかと考えていたら、なんと糸井氏が「甲野さん、お送りしますから」と、車のドアを開けて待っていてくださる。それから小1時間、家に着くまでずいぶんと贅沢で貴重な時間を過させていただいた。これでは御見舞に行ったのか、見舞われたのかわからない。
送っていただいてから気づいたが、糸井氏と今年3月に初めて出会って以来、もう6回ほどお目にかからせていただいたが、2人だけで話をしたのはこの時が初めて。そのため私もかなり踏み込んだところまで話をさせていただいたが、2、3度、糸井重里という人物の深さと恐ろしさを思い知らされる場面があり、舌を巻いた。
以上1日分/掲載日 平成11年6月26日(土)