2000年11月11日(土)
今週は出かけることが多かった。5日の日曜日は、市ヶ谷の私学会館であった、゛第12回全国龍馬ファンの集い゛で、『往時の真剣勝負争闘の考察』とのタイトルで話と実演。これは國學院大学教授の花輪莞爾先生からの依頼によるもの。時間もなかったのでたいしたことは出来なかったが、演武後多くの方々から質問をいただいた。詳しくお答えしたかったが、40分ほど後に竹芝駅近くでネットワーク事業関係のイベントでも演武と話を依頼されていたので、ざっと答え大急ぎで着がえ、受をつとめてもらったF氏と案内役のTさんと共に次の会場へと向う。そして、ここで演武と話。打ち上げにも出て、翌日は、このイベントの主催者M氏の招きで池袋で食事をしながら話をきく。数年後にはインターネットを通じて現在のテレビのような映像も送れるようになるだろう、とのこと。そうなると情報産業も大きく変わるだろう。「時節には神もかなわん」という(合気道にも多大な影響を与えた)大本開祖出口なおの言葉が浮かんできた。
「なりゆきを愛してゆく」というのは野口裕之先生の名言で、私も基本的にこの生き方だが、さてこれから私はどういうふうに生きてゆくのだろうか?
7日は、立教大学教授の前田英樹氏に久しぶりに電話をする、前田氏とは現在、青土社の『現代思想』で往復書簡による゛剣の思想゛と題した連載を共同で執筆中だが、今回、前田氏から届いた書簡には前田氏の理想とそれに向って進む誠意が感じられ心を打たれた。
前回の書簡は前田氏の上泉伊勢守に対する思い入れの深さに圧倒され、どう返したものかずいぶん悩んだが、今回は、この企画を前田氏と始めてよかったとしみじみ思った。
それにしても前田氏の文は「流石だな」と思わせうるところがしばしばある。ただ、こうした文章に対して背伸びしても仕方がないから、私は私で、私なりに行を埋めてゆこうと思っている。
久しぶりに前田氏と話した翌晩は、最近御著書の『武道』(創言社刊)を送っていただいた合気会宮崎支部長の野中日文先生へ、御礼の電話をする。野中先生との電話はいつも長くなってしまうのだが、この夜は特別、とうとう夜が明けてしまった。電話の中で、私が合気道の段や指導員の審査なども、審査する者が「今どき武道なんてやって何の役に立つんです」と禅の問答のように切込んでゆき、受験者の答えを簡単には認めず、鋭い質問を次々と浴びせかけるようなことをしても、それに潰されず、逆に審査員をもへこますような者なら、高段位なり指導員の資格を認めるようにしたらいいんじゃないでしょうか」と提案したところ、「それは面白い」とおおいに賛意を表わして下さった。
そして昨日10日は銀座のF酒家で、今年の春、新井市であったアライ・フォーラムのメンバーが招かれての盛田英粮氏主宰の夕食会に行く。
子豚の丸焼、仏跳牆、上海ガニ、熊掌、ネズミバタの清蒸、ツバメの巣等々ものの本で読んだ超高級中華料理を生まれて初めていただくが、高級すぎて味の方はいまひとつわからなかった。
ただ、十分満腹したはずなのに、まったく胃がもたれるとか、不快な満腹感がなく、「なるほど、一流の中華料理は薬膳でもあるのだ」と納得した。
又、出席された方々も、養老孟司先生、池田清彦先生、藤森照信先生、佐原真先生、柏木博先生、米原萬里女史、南伸坊氏、荒このみ女史等々、話が面白い方々が揃っていたので、頭の方も気持ち良く満腹させていただいた。
以上1日分/掲載日 平成12年11月13日(月)
2000年11月19日(日)
17日は、都内での稽古会の後、夜行の゛銀河゛でそのまま関西へ行く。
18日の朝日カルチャーセンター大阪での講座は午後1時から始まるので、12時頃には会場入りして欲しいと講座担当のM女史から依頼されていたので、17日の稽古の後、深夜に帰宅し早朝出るのも面倒かと思い、夜行にしたのだが、ちょっといつ以来か記憶にないほど久しぶりの夜行寝台は落ちついて寝られなかった。
朝日カルチャーセンターの講座は50人の定員をはるかに上まわる応募があったとのことで、1時から3時半と、5時から7時半の2部制になり、それぞれ約30分延長となったから、実質はこの日6時間ぐらいやったことになる。ただ、ほとんど疲れを覚えなかったのは多くの方々の関心の強さに私も支えられたからだと思う。
講座が終わったころ、名越クリニックの名越院長も診療を終えて駆けつけて下さり、打ち上げは名越院長を中心に盛り上がった。
その後、深夜の2次会まで院長の御招きで一緒だったが、前夜以来ほとんど寝ていないのに名越氏の話術の見事さにまだまだ聞いていたいと思わせられ、あらためて感じ入る。それは、おそらく度々爆笑を誘う話の面白さでありつつも、人間の心の機微から本質的な人間の在りようを追及して止まない名越氏の真摯な姿勢があふれ出しているからだと思う。
これほどの人物を世の中が放っておく筈もなく、現にその名は上がりつつあるが、今後いつ爆発的に引っぱりだこになるかと思うと今まで以上に名越氏の健康が気になってきた。
19日は、クボタの体育館での稽古会。関西の稽古会を仕切ってもらっている野口一也氏に今回も大変お世話になった。
今回は前日に朝日カルチャーセンターの講座から流れて来て下さった方々もあり、私も稽古会の後、時間があったので打ち上げでは多くの方々と話すことが出来て楽しかった。
なかでも驚いたのは、何年も前から私の稽古会に来て下さっている兵庫県のT氏が、私の手裏剣術に関心を持たれ、私が使っているような八角先太横手入りの剣を何本も作られていたことである。しかも、これをSK鋼、つまり炭素工具鋼の4番の丸棒からヤスリだけで削り出されたというから、その労力を惜しまぬ熱意には感動するというよりむしろ呆然としてしまった。
手裏剣術は、やはり、はまる人ははまるようだ。今回の稽古会でも他に数人、手裏剣術に対して目の輝きが違ってきた人が出てきたし、その中の一人の女性は、今まで手裏剣術に関心を持った女性のなかで初めて剣を造ることに強い関心を持ったようで、私が使っている剣の作者である信州の江崎氏の許へ弟子入りしたいとまで思い始められているようだったし、同行の女性漫画家も手裏剣術の他、杖や体術にもただならぬ関心があるようだった。
その他、今回は、こんなに情熱的に体術の稽古をする女性を見たことがない、と思ったほどの手応えのある稽古をしていた京大生やら、独特な動きの中国武術を使われる方やら稽古をして張り合いがあった。
もちろん常連の方々と色々と技を試みたり話が出来たことも楽しかった。
なかでも翌日が医学部の試験で、すでに30時間以上寝ていないという関西四大奇人(名越氏命名による)の一人、医学生S君の存在感は独特。それに作家の多田女史他、多士済々。
これも稽古会主宰者の野口一也氏が、吉本でも十分務まると思うほど、口を開ければ冗談の連続という関西のノリで場を仕切っているからだろう。野口氏の話を聞いていて、フト私の畏友で会社社長のG氏が、「僕は代表取り締られ役ですから」と言われていたことを思い出し、私も「野口氏に仕切られているなあ」と思わず笑いがこみ上げてきた。
しかし、どうも関西ではこうしたノリの人に仕切られている方が諸事うまくいくようだ。それに冗談にボカされてつい気づかなくなっているが、よく考えてみれば野口氏にはとても口では言い表せないほどお世話になっている。
ここであらためて御礼を申し上げておきたい。
私はどこにも支部を作っていないし、今後作る気もないが、実質的に私の稽古法も参考にして下さっているのは、関西ではこの野口氏の尚志会と、石田氏の遊武会がある。御関心のある方は、このホームページともリンクしているので御覧いただきたい。
以上1日分/掲載日 平成12年11月21日(火)
2000年11月22日(水)
17日の都内での稽古会を皮切りに20日まで毎日講座や稽古会で体を動かし続けたが、今回最も得るところがあったのは、21日、大阪の視覚情報センターの田村所長に、心道会の宇城憲治先生を御紹介させていただいた時だった。
宇城先生とは2月20日の池袋コミュニティ・カレッジの講座以来9ヶ月ぶりだが、技の練度はさらに上がっておられ、初めて人間技とは思えないほどの現象を見せていただいた。
具体的にどういうことかというと、相手の突きに対し、ほんの僅かに動くだけで、相手の突きが当たらずに流れてしまうものである。ただ、通常の状態でのこの技は既に何回か見せていただいている。今回驚いたのは、相手が目をつぶって、しゃにむに突いても、僅かに動いて術を施されると相手の突きが流れてしまうというものである。いままで私は、宇城先生へ突きを入れてもその拳が外れるのは、宇城先生の動きが同時多発で、動きの脈絡がないせいだと思っていたが、どうももっと感応的なもののようだ。といっていわゆる暗示レベルではない。実際に突かれたのは素人の田村所長であり、私よりずっと感応しにくい方だからだ。この所長の田村氏とは、もうかれこれ5年のおつき合いとなるが、情熱はあるが冷静な田村氏があれほど興奮された姿をいままで見たことがなかった。
この日は岡山から小森先生が私と一緒に大阪入りされ、またアメリカに渡って投手として試したいという野球選手とやはり野球関係の友人2人がたまたま目の能力の測定のために、この研究所を訪れていたのだが、その3人に対しても宇城先生はさまざまな妙技を試みられたり、姿勢を変えることでどれほど動きが違ってくるかを実地で示され、その場を盛り上げて下さった。そのため田村所長の感動もさらに深まったようで、夜は近くの地鶏の店「車」に宇城先生と私、それに小森先生を招待して下さった。この日は、忙しさに超がつく宇城先生なので、おそらく時間をとってくださっても2,3時間だろうと思っていたのだが、どれほど無理をされたのか分からないが、ウイークデーの午後3時から後をすべて空けてくださったため、結局「車」の閉店まで話が尽きず、店が終わった時は御堂筋線の終電も出た後だった。
そのため、当初この日の夜には帰京するつもりだったのだが、途中で名越氏に連絡をとり、この夜は名越氏宅に泊めていただくことになってしまった。
ビールのジョッキが空くごとに宇城先生も上機嫌でいろいろな話をして下さったが、話の間に何度も宇城先生と私との絆がいかに固いかを、田村所長に強調され、例えば「甲野先生、何かあったらいつでも呼んで下さい…」、「甲野先生のためなら…」この先はとても面映くて書くに忍びない御厚情あふれる言葉を、まるでプロ野球の優勝チームの祝勝会のビールかけさながらに浴びせかけて下さり、有り難いやら恐縮するやらで身の置所に窮してしまった。
あらためて宇城憲治先生に御縁をいただいたことに心から感謝したい。
以上1日分/掲載日 平成12年11月26日(日)