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一週間ほど前、私のメールマガジン『風の先・風の跡』の中で、「狭霧の彼方に」と題して私が往復書簡を行なっている京都の大学院生、田口慎也氏の文章にひどく心を動かされたので、これを私のサイトの「随感録」に引用したいとツイートしたが、今回「夜間飛行」の了解も得られたので、ここに全文を紹介し、併せてその後この田口氏の文章に関わった森田真生氏からメールが入ったので、これも森田氏の了解を得て掲載する事とした。併せてお読みいただきたいと思う。
甲野善紀先生
新年、あけましておめでとうございます。また前回は、年度末のお忙しい時期にもかかわらず、ご返信をいただきありがとうございました。本年度も、この場をお借りして私の考えを述べさせていただきますが、何卒よろしくお願いいたします。
◆「事実は小説より奇なり」が最も「自然」なこと
◆岡潔が生涯尊敬した人
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この松原があと微分幾何の単位だけ取れば卒業というとき、その試験期日を間違えてしまい、来てみると、もう前日すんでいた。それを聞いて私は、そのときは講師をしていたのだが、出題者の同僚に、すぐに追試験をしてやってほしいとずいぶん頼んでみた。しかしそれには教授会の承認がいるなどという余計な規則を知っていて、いっかな聞いてくれない。そのときである。松原はこういい切ったものだ。
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この松原氏を、岡潔は生涯、尊敬し続けていたそうです。
◆「降りて」いった人たち
◆「願い」や「祈り」が尽きると「任せる」
◆ただ「信じる」ということ
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2013/12/20
「信じる」とは、いかにして可能になる行為なのでしょう。
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以前、ピダハンに関する文章を書かせていただいた際、私は「疑うことは信じることの消滅を意味しない」と書かせていただきました。おそらくこれは、南氏が仰る矛盾を回避する方法のひとつめ、「賭ける」ということについて考えたことだと思うのです。もっとも、私は以前から南氏や他の信仰者の方が書かれたものを読んでいましたので、そういった方々の言説に引っ張られ、いつの間にかそのようなことを考えていたのかもしれません。いずれにせよ、「信じたいけれど信じきれない」という矛盾した状態を共存させるためには、その「信じきれない」を「信じる」の一部にしてしまわない限り無理だということが、ピダハンに関する文章を書かせていただきながら、自分のなかで鮮明になってきたのだと思います。
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浄土真宗には「妙好人」と呼ばれる在野の念仏者がいる。僧侶でも仏教学者でもない一般人だが、親鸞の核心をつかんでいるひとのことだ。幕末の妙好人である讃岐の庄松が有名だ。彼のところに信者ひとが訪ねてきて、こういう疑問を述べた。
「私は往生の一段にどうも安心ができませぬ、どうしたらよかろう」と。それに対して庄松は「それは極楽まいりをやめにしたらよい」と答えた。(『庄松ありのままの記』)
質問者は、自分は阿弥陀さんにおまかせしてお浄土へ往生するという教えがどうしても信じられないと質問している。庄松の答えは明快だ。
庄松は質問者がどこにつまずいているのかを知っている。浄土へ往生したいというあなたの思いは、突きつめれば損得根性ではないかと。なぜ浄土へ往生したいのかといえば、それは、安心安楽な世界を手に入れたい欲にすぎない。結局、自分にとって都合のよい未来を欲望し、都合の悪い未来を恐れているのだ。だから、損得根性で信仰することをやめなさいと指摘している。質問者の心には、信じなければならない、信じることができるという倣慢が潜んでいる。
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この逸話から考えれば、妙好人の信仰というものは、「疑うことを信じることの一部とする」ということではなく、「信じる何かを消去する」という境地、「あるものが存在すること」「ある考えが正しいこと」を無視して「ただ信じる」という境地に至った人々の信仰なのだと思います。
今回は、甲野先生が書かれていた刑務所での僧侶の逸話を読ませていただきながら、「自然な行為」ということについて、「降りる」ということについて、「○○を」を消し去るということについて、「任せる」ということについて書かせていただきました。これらは全て、我々が常に意識してしまう「意図」や「目的」を突き抜けたところにある問題だと思うのです。そうであれば、これらも皆、「人間の運命は完璧に決まっていて同時に完璧に自由である」ということと関わる問題だと私は思うのです。そして私はやはり、甲野先生が武術やさまざまな経験を通して得られた気付きが、常に私自身の信仰に対する問いと、どこかで繋がっていると考え続けているのだと思います。それは、甲野先生が常に仰っている「人間にとっての自然とはなにか」ということでもあると思いますし、「矛盾」をいかに矛盾なく扱うか、ということでもあると、改めて思うのです。
田口慎也
附記
この「狭霧の彼方に」に関して、森田真生氏から、次のようなメールをいただいたので、ここに紹介しておきたい。
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今回の件がきっかけで、あらためて松原隆一さんのことを調べてみました。
そうしましたら、かつて高瀬先生が調べられたいろいろな事実が出てきまして、ますます松原さんという人間の魅力がありありとして心に迫ってきましたので、少しここで共有させていただきたいと思います。
まず、そもそも松原さんが試験日を間違えたことで単位を取りそびれ退学をした、という話ですが、実はそれ以前にすでに二年卒業が遅れていたそうです。それはなぜかというと...
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松原の卒業が遅れたのは講義に出なくなったためであった。松原は二年生のとき幾何の西内貞吉のヘルムホルツ、リーの自由運動論の講義を聴いて感動し、リーの著作『変換群の理論』を読み上げるのだと言って、ドイツ語で書かれた一冊六、七百ページ、全三巻の本を小脇に抱え、かすりの着物に小倉のはかまをはいて、講義を休んで大学の図書館に通った。図書室ではみんなが勉強していて、その空気が好きだから、と松原は言っていたという。(『評伝岡潔星の章』)
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この『変換群の理論』というのは大変な大作でして、いまだに邦訳書が出ていないのですが、「これを読破したのは松原の後にも先にもおそらく皆無なのではないか」と高瀬先生は書かれているほどです。
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岡潔も西内先生の講義をおもしろく聴講した口だが、松原のような破天荒なことはせず、まじめに講義に出席し続けた。講義に通う途中でいつも、図書館に向かう松原と決まった地点で出会った。岡潔が「松原!」と声をかけると、松原もまた「おお!」と朗らかに返してくるのが常であった。(同上)
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熱心に数学を学ぶ二人が、一方は教室へ向い、一方は図書館へ向かう。
それにしても、授業にろくに出席せずに、数学に耽っていた松原は、よほど世間を超越したところを生きていたのでしょう。とうとう、卒業の「ラストチャンス」を逃してしまうことになります。
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松原隆一は卒業が二年遅れていたから、昭和二年度にはどうしても必要な科目の試験を受けて合格しなければならなかった。松原も苦心を重ねたのであろう、残るはあと微分幾何の試験のみというところにこぎつけた。ところがどうしたことかその試験期日を間違えてしまい、試験を受けに来てみると、一日前にもうすんでいたのであった。(同上)
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その後の展開は先日のメールでさし上げた通りです。
「まじめ」で極めて順当な人生を歩んでいた岡が、
今回の件であらためてそのことに気づくことができました。
お二人の往復書簡に導かれたかたちでの発見です。
森田
前回、甲野先生は、刑務所での僧侶の逸話について書かれていました。それを読ませていただきながら改めて感じたことは、深い確信、本当に心の底からの確信を持った人間の行動は、決して真似することができないということです。よく「かたちだけ」を真似ると言いますが、「かたちだけ」すらも真似できないことも、あるのだと思います。特に、ある行動が咄嗟に、あるいは自然に行われる場合はそうだと思います。そこには計算が働く余地がないからです。あらかじめ何らかの逸話を知った後に、「いつか同じ行動を取ってやろう」という計算によってある行動がなされても、そこには嘘くささや、ぎこちなさが必ず伴うと思います。「間に合わない」と思うのです。そのような行動では、刑務所で僧侶が起こしたような現象は起こせないでしょう。更に、それが後世に伝えられて、甲野先生が心を動かされるということはないと思います。仮に、何らかの「仕掛け」によってその現象が意図的に起こされたとしたならば、その場にいる人間を泣かすことは出来たとしても、あとからその話を伝え聞いた人間が、どことなく、不自然な印象を受け取ることになる気がするのです。ある行動や現象が、本当に「自然に」なされたことか否かが、実はその現場にいた人間以上に、その話を後から伝え聞いた人間にわかってしまうということもあるのではないか、ということを、さきの逸話を読ませていただきながら考えました。「事実は小説より奇なり」ということは、あまりにも突飛で不自然な事象を指すというよりも、あまりにも「自然」な事象や行動を指すのかもしれません。それがあまりに「自然」なため、非意図的に起こったがために、かえって人が意図的に思いつくことが出来ないということなのかもしれません。甲野先生が良く仰る禅の高僧の行動なども、そうした行動のひとつなのかもしれないと思うのですが、甲野先生はいかがお考えでしょうか。またいずれ、禅の高僧の逸話と、さきの刑務所の僧侶の逸話について、ご意見を伺えますと幸いです。
ところで、前回頂戴したお手紙の最後に、甲野先生は「この刑務所で話をした僧侶のエピソードと同じような話を御存知でしたら教えて頂きたい」と書かれていました。刑務所の僧侶の逸話と少し趣が異なるかもしれませんが、私が思い起こしたのは、数学者の岡潔と、岡潔が生涯尊敬し続けたという彼の友人のことです。昨年の10月ごろ、久しぶりに森田真生さんとお話しさせていただく機会があったのですが、そのときに、岡潔が生涯尊敬し続けたという彼の大学時代の同級生について教えていただきました。松原隆一という方のお話です。松原氏は、大学の卒業がかかった試験を受けられなかったため、卒業することが出来なかったそうです。その卒業試験のときの逸話を、岡潔が書き残しているそうです。
「自分はこの講義はみな聞いた。(ノートはみなうずめたという意味である)これで試験の準備もちゃんとすませた。自分のなすべきことはもう残っていない。学校の規則がどうなっていようと、自分の関しないことだ」
そしてそのままさっさと家へ帰ってしまった。このため当然、卒業証書はもらわずじまいだった。
理路整然とした行為とはこのことではないだろうか。もちろん私など遠く及ばない。私はその後いく度この畏友の姿を思い浮かべ、愚かな自分をそのつど、どうにか梶取ってきたことかわからない。
(岡潔「日本的情緒」より引用)
もちろん岡潔自身も、社会的な名誉とは異なる次元で、私などが想像もつかないような「純粋さ」と「真摯さ」を持って学問をしていた人なのだと思います。森田さんが、岡潔のような、純粋な情熱をもって学問を続けた人間が「生き残った」ということ自体が、奇跡であると仰っていました。岡潔自身も、「私のような生き方をしていたら夭折する」と語っていたと言います。あれだけの純粋な情熱を、一切ごまかさずに自らの内側に集中させれば、普通は持たないということです。
しかし、その岡潔が尊敬せずにはいられなかった人が上記の松原氏であった。この逸話が、私のなかでは刑務所の僧侶の逸話と繋がるのです。刑務所の僧侶の逸話を読ませていただきながら、私が岡潔と松原氏のことを思い起こしたのは、さきに書かせていただいた「かたちだけを真似ることすらできない」という点で、同じだけの凄みを各々の逸話から感じたからだと思います。学問的な、あるいは社会的な名誉に対して、本当に全く無欲でなければ、岡潔や、彼の同級生のような生き方はできないと思います。「そういう生き方の方が格好いい」と思っているだけでは、とてもそのような生き方を貫くことは出来ないでしょう。
この岡潔と彼の友人の話をされながら森田さんは、「純粋」な想いを持って何かに取り組んでいる人ほど、何も語らず、何も残さないまま、去って行ってしまうものなのかもしれない、と仰っていました。この言葉が、非常に印象深く、私の心に刻まれています。
たとえば、ピタゴラスのような、歴史上に名を残す偉大な学者がいるのと同時に、その背後に、学問に対して真摯に取り組みながら、何も残さずに去って行った人たちがいたのではないか。学問的な業績を残すこと自体に執着することがない人間は、自らの学問の成果を残すために多大なエネルギーを使うことをしなくなるからです。そういう行為自体に意味を見出さなくなり、何も言わずにその場を去って行った人間も沢山いたのではないかということです。「何も語らず、何も残さず去って行った人たちの想いは、どこに行ってしまったんだろうか。それはどこにも受け継がれないまま、どこかに消え去ってしまったのだろうか」と、森田さんは仰っていました。
「純粋」な人ほど「降りて」しまう。「降りて」しまった人たちほど、何も語らず、何も残さない。このようなことは、信仰者の間でも起こることなのかもしれません。たとえば、妙好人のような境地に至った信仰者の言葉や彼らについての記録は、残されている数の方が少ないのではないかと思うのです。おそらく、記録に残されていない妙好人の人々、もしくは、妙好人と同じような境地の信仰を持たれた方は、人類の歴史上、様々な時代、様々な地域に存在したのではないかと思うのです。しかし、そうした人であればあるほど、「疑う」といった状況とは全く異なる境地に至った人ほど、書物などを記すこともなく、「疑い」に端を発する自らの思索を書き留めることなく、その時代その時代の「世の中」や「常識」の世界から「降りて」、日々の生活を営んでいたのではないかと思うのです。
そして、あくまで彼らの逸話から私が判断したことですが、妙好人の人々や岡潔の同級生は、意識的に、考えに考え抜いたうえで彼らの生き方を選択したのではないと思うのです。彼等にとっては当たり前のことを、「疑い」を挟むことなく、純粋に、自らの心の赴くままに行っただけなのではないかと思うのです。もちろん、彼らに何の悩みも苦しみも葛藤もなかった、仙人のような超越者であったと神格化したいわけではありません。しかし、意識的に、考えに考え抜いて「突き抜けた」人と、意識せずにいつの間にか「ある境地」に達した人がいるような気がするのです。おそらく、親鸞は前者であったのではないでしょうか。逆に、妙好人や、岡潔の同級生は後者だったような気がするのです。刑務所の僧侶や岡潔はどうだったのでしょうか。
また、以前頂戴したお手紙のなかで、甲野先生は梅路老師の「真の親切」と妙好人の親切と思われる行為は、別の種類のものではないかと仰っていました。「梅路老師は禅の師でもあり、そのエピソードを記した『武禅』を読んでみても、しばしば門下の人々を厳しく叱責して指導していた」と。甲野先生は、考え抜いて突き抜けたか、意識せずにそうなったかという違いが、この二つの親切の相違に関係すると思われますか。もし、何か思われることがあれば、また後日お教えいただけますと幸いです。よろしくお願いいたします。
前回、私がお送りしたお手紙のなかで、私は「掴む」のではなく、「触れる」ということが信仰においても存在するのか、と書かせていただきましたが、今の私は、この「触れる」という行為は、ある面では「任せる」ということでもあると考えています。「掴む」と異なり、「触れる」は自分の意志で、力ずくで何かを「させる」行為ではないからです。
たとえば、「祈る」という行為を考えた場合、何を「祈る」のか。ありきたりな例かもしれませんが、たとえば「私が○○を得られますように」、「○○に合格しますように」という「祈り」があったとします。しかし、それが実現されれば、他の誰かが○○を得られない、という事態が生じる可能性があります。この、ある面では自己中心的ともいえる「祈り」が持つ側面に、「疑い」を持つ人間もいるのではないか、と私は思うのです。
もちろん、私も含めて、辛い現実を前にただ黙って「祈る」ことすらも放棄するということは、多くの人間にはできません。已むに已まれず、何らかの「結果」を求めて祈らざるを得ないときも、我々にはあると思うのです。
しかしそれでも、信仰者の方のなかには、何かを願ったり、何かを祈ったりすること自体に「疑い」を持つ人もいるのではないでしょうか。そして、何かを願ったり、祈ったり、「掴もう」とすること自体ができなくなったとき、最後に「任せる」という境地が出てくるものなのかもしれません。「任せる」ということは、「何もしない」ということとも違うと思います。「意識的に」何もしないのであれば、何もしないことを意識的に、積極的にしていることになるからです。
以前甲野先生にお送りいただいた武田住職の文章の中に、「八十五歳の親鸞は、もはや人間から起こす信仰を放擲した。『放擲した』と能動形で語れば嘘になる。『放擲せしめられた』と受動形でいわなければ親鸞の本意にはそぐわないだろう」というものがありました。この「放擲せしめられた」という、まさに受身のかたちでしか表現できない境地のひとつが、「願い」や「祈り」が「任せる」に変わっていく過程なのかもしれないと、私は思うのです。
ところで、この返信を書かせていただいている時に、恐山菩提寺院代である南直哉氏のブログが更新されました。そしてそこには、この往復書簡で私が書かせていただいたことや、ここ最近の甲野先生とのお話のテーマと深く関わることが書かれていました。そこまで長い文章ではないので、以下に、その全文を引用させていただきます。
「信じる」困難
もし、ある存在や考えをそのまま受容すると言うなら、それは「了解」とか「理解」であって、「信じる」ことではないでしょう。
むろん、それは「あるものが存在してほしい」とか「ある考えが正しくあってほしい」と「願う」ことでもありません。「信じる」のはあくまで、「存在する」ことであり「正しい」ことなのです。
すると問題なのは、「信じる」ことは、「疑う」ことがない限り、不可能だということでです。そもそも、「存在しないかもしれない」「間違っているかもしれない」と思う余地がなければ、「信じる」ことは成り立ちません。疑いがまったくないなら、「理解」「承認」するだけでしょう。ならば、「信じる」とは即、「疑いの排除」として以外に現実化しません。
だとすると、われわれは決して純粋に「信じる」ことはできないことになります。つまり、「信じている」限り、「疑っている」ことになってしまうからです(同時に、「疑っている」人間は、常に「信じる」ことを欲望しているのです。「信じる」何かを求めないなら、「疑う」必要はありません)。
この矛盾を回避する方法は、私が思うに二つです。一つは、「疑い」を排除することをやめて、「信じる」ことに取り込んでしまうのです。これを称して、「賭ける」といいます。すなわち、「信じる」ときに、最初から「存在しないかもしれない」「間違っているかもしれない」ことを当然の前提とするわけです。
もう一つは、「信じる」何かを消去することです。「あるものが存在すること」「ある考えが正しいこと」を無視して、「ただ信じる」。他動詞の「信じる」を自動詞化してしまうのです。
ということはつまり、それまで「信じる」方法であった行為、あるいは「信じる」ことを表現していた行為それ自体を、目的化することになります。たとえば、「ただ坐禅する」「ただ念仏する」。
このとき、「信じる」対象は失われ、「信じる」主体は「信じる」行為に融解して、「信じる」行為は無意味と化して、ただの「行為」になるのです。そうなれば、もはや「疑う」ことも不可能です。
結局、「信じる」行為の極限には、「信じる」何事もない。「宗教」もない。
私は『正法眼蔵』や『教行信証』を読むたび、いつも「信じる」困難さを思わされ、こんなことを考えるのです。
(http://indai.blog.ocn.ne.jp/osorezan/2013/12/post_c875.html)
それに対して、武田住職が書かれていた妙好人の逸話は異なる趣のものです。
(中日新聞における武田定光氏の連載「親鸞を生きる」より引用)
そして、私が今回の書簡で書かせていただいている「任せる」ということは、南氏の矛盾回避の方法のふたつめ、「信じる何かを消去する」ということ、「ただ信じる」ということと、近いものではないかと思うのです。ただ「任せる」。「○○に○○を」という目的語を排除した、自動詞化した「任せる」のことです。もしくは、自動詞化された「祈る」のことです。「何か」を祈るということではなく、「祈る」という行為自体が、信仰のかたちとなるということです。自分が「こうあってほしい」と思う何かを、目的語を消去した「ただ祈る」ということは、「任せる」ということでもある。自分が望む「結果」を神仏に要求するということではなくなるからです。ある面では、自分の意図を消し去るということでもあるからです。もちろん、自らのことについて、自らの親しい人について已むに已まれず「祈る」という行為が「程度が低い」などと私が考えているわけではありません。私自身、「ただ祈る」という信仰を持っているわけでもありません。ただ、信仰を突き詰めていった人のなかには、さきの南氏の「ただ座禅する」「ただ念仏する」と同じように、「祈り」そのものが目的となった「ただ祈る」「ただ任せる」というところを志向した人もいるのではないか、ということです。そこまでいって、「疑い」を消化、消去してしまおうとした人がいるのではないかと、私は思うのです。
とにかく、松原は一心にこの著作の内容を解明することに夢中になり、二年の留年を重ねていたということです。
「破天荒」な松原と、「まじめ」な岡の運命の交錯。
のちの岡潔の破天荒ぶりを考えると、実に印象的な場面です。
最終的に咽頭癌で亡くなったのは昭和32年、松原57歳のことだったといいます。
やがて紀見村で狂ったように数学にふけるようになっていく背景には、
松原隆一のような友人が彼の心に遺した強烈な印象もあったのでしょう。
ありがとうございました。
以上1日分/掲載日 平成26年1月19日(日)