2001年8月15日(水)
8月も半分過ぎた。本当にアッという間だった。今まで50回以上も8月を経験してきてこれほど日が経つのを早く感じたことはない。その一番の理由は、秋の刊行に向けて『現代思想』誌に連載していた前田英樹氏との往復書簡『剣の思想』の見直しの添削と注釈の執筆に追われていたからである。延び延びになっていたゲラが7月の末に突如来て、2週間ほどのうちにみて欲しいとの注文である。
私の方は「遅れる」という知らせがあって、その後何の音沙汰もないので、今年中に刊行することはあるまいと多寡をくくって他の予定を入れてしまっていたので「サァ大変」、一時はもうとても無理だと諦めたが、やはり気になるのか頭痛に見舞われ、何とかかんとか無我夢中で昨日というか今日の夜明け前にようやく書き終えた。いま思ってもなぜ一時は諦めたこの大変な仕事(何と言っても日本の歴史に残る著名な剣客25人ほどのプロフィールを書いたのだから)が数日のうちに出来たのか不思議なほどだが、書き終えた時はやり遂げた達成感よりも、どうしてもやらねばならない用件の間を縫わせて、こんな無茶な仕事を依頼してきた編集者に抑えようもない怒りがこみあげてきて(何しろ8月前半の予定が大幅に狂ってしまったのだから)、思わず、今後は二度とこのような無茶な依頼はしないで欲しい、というキツイ内容の手紙を書いてしまった。
ところが夜明けに寝ついて午前9時少し前頃に実に不思議な夢をみて目が覚めた。目が覚めた頭で考えると、まるで意味不明な辻褄の合わない話なのだが、夢の中ではとにかく深く納得して目が覚めたのである。結論を言えば、「怒りや恨みによって一方的に相手を責めたてる態度からは建設的な結果は何も生まれないし、導き出せない」ということである。
夢の内容は支離滅裂だったが、とにかく『剣の思想』の編集者に出そうと思って、寝る前に書いた手紙は出さないことにハッキリ心は決まっていた。
ああ、こんな夢もあるんだなあ、と思った時、その昔、弘法大師空海が入唐して恵果和尚の法を嗣ぐことが決まった時、以前からいた弟子が不満を持ち、中でも空海の嗣法反対の旗頭だった僧が、ある日突然、それまでの自分の行動が間違っていたと言い出した話が思い浮かんだ。その僧が前言を翻した理由は、「夢に増長天、多聞天などの仏法の守護神である四天王が出てきて、その僧が不心得を手荒い方法で諭されたからだ」という話は聞いたことがあったが、まさか私自身、自分の見た夢で自分の行動の未熟さを指摘されることがあろうとは思ってもみなかった。まさに「夢中で教えを授かる」である。「不思議なこともあればあるものだなあ」と思っていると電話がかかってきた。出てみると以前NHK教育テレビで「こころの時間」とか「こころの時代」とかいうタイトルの番組で聞き手をつとめられていた金光寿郎氏である。先日放映になったETV2001で竹内敏晴先生と私との対談を御覧になって、私に関心を持たれたらしい。金光氏が担当されているラジオの「こころの時代」というタイトルのインタビュー番組に「出て戴けないでしょうか?」という依頼である。ちょうど、しみじみと人の心とは不思議なものだと思っていた時である。あまりのタイミングの良さに一も二もなく承諾してしまった。
本当に人の心というのは自分でいろいろと勝手に「ああ思ったり」「こう思ったり」しているようだが、その実,微妙な関連を持ちつつ様々な事柄と連動して動いているのだということをあらためて深く思い知らされた。
夕方からPHP研究所の編集者のO氏と新宿で会って打ち合わせ。その後久しぶり(約4ヶ月ぶり)に関西大学の植島啓司先生ともお会いする。それにしてもお若く見える。30代後半と言っても通るだろう。とてもではないが私より年上には見えない。同席している名越康文氏と同世代といっても誰も不思議に思わないだろう。
喧騒な酒場の片隅に、植島・名越といった二大才人が並んで談笑している図は、「それにしても絵になるなあ」とあらためて思った。
色々な気づきや思いを胸に深夜帰宅。この1日の気づきが技に活きないかと少し稽古をする。
今の課題は「消せるか、その肉の感触を!」ということだろうか。そして、そのためには体が割れて浮いていることは不可欠だ。あらためて気づいてみれば、今日8月15日は終戦記念日であり私が敬愛していた大倭紫陽花邑の矢追日聖先生が大倭教を立教した記念日でもある。
今回不思議な夢によって気づきが得られたことをキッカケとして、人との交流も技の気づきも密接な関係があり分けられないと感じたので、今日以後は今まで分けていた「交遊録」と「技と術理」を1つにまとめ、「随感録」として書く事にしたので御了解いただきたい。
以上1日分/掲載日 平成13年8月18日(土)
2001年8月19日(日)
15日は、野口裕之先生の操法を受ける、精神家医の名越康文氏に同行して、整体協会・身体教育研究所に行く。
私は9日に野口先生にお会いしたばかりだったから、まだ1週間も経っていないが、それでもまたいろいろと耳を驚かす話を伺うことが出来た。
そうした貴重なお話の中で今回最も印象に残ったのは、先代の野口晴哉先生が「仕事(人の身体を観るという)を5日休んだら元の感覚を取り戻すのが大変だ」と述懐されていたということである。
この話が出たキッカケは、名越氏が「もう2年ほど仕事休んで、読みたい本を読む生活がしたいんです」と忙しさをぼやいたからである。この名越氏のぼやきに対して、「名越さん、2年どころか2ヶ月休んだらもう仕事に戻ったってダメだし、そうなった名越さんの事もう僕観ませんから」と悪戯っぽく笑いながら野口先生が返事をされたのだが、その時に、「5日休んだら…大変」の話が出たのである。
あの稀代の天才・野口晴哉が5日休んだらもうダメだと言われていたとは…。
野口裕之先生と親しくお話しさせていただいて20年以上、数百時間お話しを伺ってきたが、この事は今まで1度も聞いたことがなかった。思いがけない話に驚くと共に、何か私も言い様のない重圧を受けた気がした。
そしてその2日後、私は家族と今夏殆ど唯一の遠出で谷川岳付近に出かけたのだが、そこで訪れた裏見(うらみ)の瀧を観る際の急峻な階段を昇り降りしながら「急とはいえ、この程度の階段」で、僅かだがキツサを感じる自分に情けなさを覚えると共に、2日前の「5日休んだら取り戻すのが大変」という野口先生のお話を思い出し、「これは今後忙しくなるとはいえ、やはり身体は練っておかねばならない」としみじみ思ったのである。
そしてその翌日(すなわち昨日)と今日続けて稽古をしながら、体の浮きのかけ方と脚腰の鍛え方について種々思いをめぐらしているうち、先ほど半座で打剣をしていて、その剣の飛びが立って打つよりも鋭いような気がした時、俄かに、抜刀術がなぜ居合と称して座した姿勢から刀を抜く稽古をするかが瞭然とした気がした。
座した姿勢から大刀を抜く居合の稽古法に関しては、「昔、座った時には大刀は差していないのだがら、あんな稽古はナンセンスだ」というものから、「抜きにくい座居で稽古するから、立ってはより自由に抜けるのだ」という説までいろいろとあるが、私自身その理由についてハッキリと納得出来るものは何もなかったし、私が最も親しんだ抜刀術は鹿島神流の抜刀術で、これは全て立ち抜刀であったから、以前、黒田鉄山先生に民弥流の手ほどきをしていただいたものの、何となく坐して抜くものに対しては疎遠であった。
ただ、坐して抜くのには何か重大な意味があるような気がしてはいた。そのため、今年になって仙台の稽古会で、弘前在住のT氏からT氏の家に伝わっていたが今は殆ど失伝しかかっている神夢想林崎流の居合の再興に向けての助力を依頼されたのをキッカケにして、手探りながらも私の稽古会の吉田氏などと「坐して抜く」ことの検討を始めていたのである。
林崎流の基本となる趺踞は、左踵は尻に、右踵は左膝の内側に少し入った脛に密着させる、という古色のある蹲踞の姿勢で、左右いずれの膝も床に着けないから、現代人にはなかなか決めにくい坐法である。
そして、この動きづらい趺踞からの抜刀の意味が、今夜半、半坐姿勢から剣を打つことによって私の中で突然明らかになってきたのである。
この気づきは5月の末、膝は抜くが、上体はなるべく浮かせて保つという事の気づきを江崎氏のお蔭で得たことに端を発し、その後、上体の浮きは腕が出る時に胸を蹴って出ないようにするため一層必要であることを痛感した。
そして更にそれらをまとめて「仕事は宙でしろ」という気づきとなったのである。
それが8月に入って野口裕之先生に内観のお話をうかがってから、体の部位によって、そこの力を抜くというより消すことの工夫を始め、そうした工夫・気づきから、今夜、坐して抜刀の稽古をする居合の意味が私自身の中で明瞭になったのである。
すなわち、坐り方の工夫によって、坐るということはすでに満月に引き絞った弓にあたるということである。
ただ微妙な姿勢の在り様で、膝、足首等に過大な負担を強いることになりかねないので、稽古にあたっては感覚を研ぎ身体を壊さぬように十分な注意が必要となりそうだ。
以上1日分/掲載日 平成13年8月22日(水)