2004年1月4日(日)
新年おめでとうございます。
正月といっても私にとっては企画の打ち合せや問い合わせの電話がないという事だけが正月を感じさせるだけで、この時とばかり暮れから続いている片付けを続行で、まさに正月もない状態である。2日の夜は午前2時頃から鋸で棚板を切ったり古い手紙を整理し直したりして、結局寝たのは2日の午前6時過ぎ。
暮れのクリスマスプレゼントは大量の資源ゴミだったが、正月休みは海外や温泉ならぬ片付けで出来た書庫、物置の「秘境探検」。随分懐かしいものや思いがけぬものを見つけたりして片付けもしばしば中断したが、とにかく正月の休み明けからは一気に過激な日々が始まるので、とにかく片付けられる時に片づけねばと山積みする依頼稿には目を瞑り、三ヶ日は片付け中心の日々を過ごした。
とはいっても今年は正月から波乱含み。昨日は近くで火事。正月初の稽古を何人かの人とやっていた時、ポンポンと何かが爆発する音。窓を開けると火柱が立っていた。この焼けたすぐ隣の土地は、“将門の首塚”ではないが昔からいろいろいわくのある所で、なかなか人が住みきれない場所。そこに巨大マンションを作る計画が現実化し、暮れに多くの木が伐られたので、これは只では済まないだろうと暗い気持ちになっていたところだった。
似たような暗い気持ちといえば、元旦に高畠のデジタルスポーツ射撃連盟の藤井優監督からかかってきた電話もそうだった。こちらの話は暮れにも少し書いたが、歌手の、さだまさし氏も「とてもいい所」と評価していた「有機農業の里」、自然環境の良さが売り物の山形県の東置賜郡の高畠町に工場のような大規模豚舎の建築が強行されそうだという話である。
最近のBSE(狂牛病)の拡がりから豚肉の値が上がっているというが、その需要に経済性最優先で豚を育てれば、結局またBSEのような問題が出てくるだろうし、何よりも大量の糞尿で水源地が汚染されればその地の水がすっかりダメになってしまう。産業廃棄物ほどの毒性がないと言っても、大量糞尿による亜硝酸塩は人間の体にきわめて悪影響を及ぼす。こうした問題は、単に豚の飼い方というより安い肉を手に入れたいという消費者の姿勢からして問い直さなければならないし、人間にとって動物性蛋白がそれほど必要なのかという問題にまで遡ってよく考えられなければならないと思う。しかし、厚生労働省も文部科学省もこういう事にはきわめて反応は鈍いし、高畠町の行政機関も水質汚染等の問題に対する認識はまったく甘いようである。
藤井監督はシドニーオリンピックで日本の射撃チームを率い、今年のアテネオリンピックでも日本チームを率いることになるかもしれない方だが、オリンピックよりも高畠の町の水源地汚染の方が気になるようで、藤井氏の人としての純真さには深く心を打たれた。
大体スポーツにのめり込んでいる人、しかもそこで責任の重い立場にいる人は殆どそのスポーツの勝敗で頭が一杯なものだが、藤井監督のように射撃に深く心を傾けつつも現代に生きる人間として今の社会の在りよう、人間の在りようにここまで心を痛めている人は極めて極めて稀であろう。藤井氏のような人物が他のスポーツ、例えば少年野球やサッカー、バスケットボール等の指導者に何人もいれば、現代の日本は今よりずっとマシな社会になると思う。
藤井氏を支援すべく私も自分に出来ることはやりたいと思ってますが(例えば今月7日に行なう予定の養老孟司先生との対談の折にも話題にして、より多くの人の関心を喚起したいと考えています)、大規模豚舎がどのような問題を発生させたか詳しく実情を知っておられる方は、高畠町の行政機関である下記まで資料や手紙を送って、行政関係者の目を覚まして頂けるよう切望しています。
〒992-0351
山形県東置賜郡高畠町高畠436
高畠町役場
年頭に当って、『沈黙の春』や『センス・オブ・ワンダー』の著者で私が深く尊敬しているレイチェル・カーソン女史には及びもつかぬまでも、私なりにこの我々が住んでいる時代の環境が少しでも良い方向に向かうよう努力していきたいと決心しましたので、お気持ちのある方はなにとぞ御協力をお願い致します。
以上1日分/掲載日 平成16年1月4日(日)
2004年1月6日(火)
正月の休みも明けて、昨日5日からは私も又家の中で走り回るような日々がやってきた。昨日は、昨年の11月末頃に撮ったIACのビデオの出来上がり具合のチェックと、NHKの海外向けラジオ番組の収録という用件が午後から夜にかけてあり、その後打ち合せ等で同席した人やちょうど来合わせた、昨年の暮、岡山の三輪刃物工場から送られてきた特注の折刀風(というか巨大肥後守風)の鉈の柄の製作を依頼したY氏らと研究稽古。
正月の3日に気づいた、切込入身等に有効な分離した二力の瞬間合成をあらためて試みる。その結果、切込入身はかつてなかった威力が出ていることを確認する。
技の力をより有効に発揮させるためには、その技が出る寸前まで合成する力の成分は別々に持っていた方が良いようだ。つまり、混ぜて持っていられるようなものは、それほど威力がないという事も言える。混ぜた(合成した)その瞬間、激しい反応を起こすようなものが技としてはより有効なのだろう。「混ぜるな危険」の要素をどれだけ育て、その混合がどれほど巧みになるかが技の利きを決めるように思うが、恐らく出来てしまえばそれこそが"自然"となるのだろう。
それにしても二力の合成などという言葉は30年近く前から使っているのに、今年になって得られた感覚は30年前とは桁違いだ。まったく人間の感覚というのは果てしなく深く、そして微妙かつ捉えがたいものだ。
それにしても休み明けの2日目なのに問い合わせや打ち合せが今日1日で15件もあって、片付けかけの道場が再び書類の山となってしまった。
FAXだけで御電話のない方には、とても手がまわりませんので必ず電話で確認を取って頂くようお願い致します。又、お約束のある方は出来るだけ前日か前々日あたりに再度御確認頂けますようお願い致します。
以上1日分/掲載日 平成16年1月7日(水)
2004年1月9日(金)
昨日は7日の新潮社の仕事で養老孟司先生の鎌倉の御自宅に伺って対談。養老先生とは御縁が出来てから今年の秋に満14年目を迎えるが、御自宅に伺ったのは初めてである。写真などで想像はしていたが、想像以上に典型的な鎌倉らしい風景の中の御自宅だった。
この日、養老先生が最近「参勤交代」という言葉で提唱されている、都会人の田舎暮らし体験のためにも山林で働く上で不可欠な鉈について、何種類かの鉈を持参し、実際に木を伐るところをお目にかける事になった。到着後、直に先生は我々を裏山に案内して下さったのだが、こちらがお願いをしてから養老先生が立ち上がられるまでが間がなかったので、着替えもままならぬまま先生の後に従ったが、その裏山への入り口は太い篠竹が密生していて20メートル歩くのに5分ぐらいもかかる状態だった。ただ、そこを抜けると椿や柊などの照葉樹を主とした薄暗い林。しかも、その柊の中には脚部ほどの太さのものがあり(恐らくこの太さになるには100年近くかかっているだろう)、思わず「先生、この木を伐らせて頂いてもいいですか?」とお願いしてしまった。
柊の材は何といっても刀の柄材として私が今まで試した50種くらいの木材の中で最も優れたものであり、養老先生に快く了解して頂いたので、今年の11月頃是非伐らせて頂きに伺おうと思っている。
そこで、腕ぐらいの太さの椿を見つけ、携えてきた岡山の三輪欽二氏作の肥後守を巨大にしたような別注鉈でこれを伐り、枝をさばくところを様々な方法で御覧にいれた。
いくつもに伐った材は、その場に積み上げておくと魚床ならぬ恰好の虫床となるようで、「こうしておくといろいろな虫が集まってくるんですよ」と養老先生は嬉しそうな表情で木々を積み上げられていた。
養老先生との対談は、殊の外話題があちことに飛んだが、先生は終始楽しそうにされていらして、あらためて感じたのだが、私が知り合った14年前とその口調も表情もまったくお変わりなく、あらためて世の多くの人が年齢を重ねると共にその精神的風景も老いるのだという事に気づかされた。
昨日は、その前日寝るのが遅く、しかも翌朝早く起きたためあまり寝ておらず、対談後疲労がドッと押し寄せてきたので早めに帰宅したのだが、家に帰りついてみると手紙やらFAXやらがいくつも来ており、風呂に入ってそれらを見ていると目が覚めてしまい、その上いままで漠然と思っていた事が俄かに具体的プランとして頭の中に浮かんできたので、この日養老先生の所へ案内して下さった新潮社の足立女史に電話をして思わず話し込んでしまった。
話しているうちに様々に企画構想は拡がったが、その数時間前に相当疲れた様子だった私が俄かに熱を入れて話すので、「先生、本当に大丈夫ですか?伺っていると、ちょっとあまりにきついスケジュールで過労が心配ですから・・」と足立女史に気を使わせてしまった。
実際、私も「これは疲れのセンサーが壊れたかな?」と思うほど、対談直後に比べ、帰宅後妙に元気で不気味に思ったので、あまり調子に乗らず2時過ぎには寝た。
そして昨日、又いくつもの問い合わせや予定の調整で、電話につぐ電話。ところが午後10時頃、電話が妙な鳴り方をして、受話器を取ると全く繋がらない状態になっていた。驚いて、もう1本の電話で故障対応の113番に電話するが、これが留守電。まだ何本もかけたり受けたりしなければならないのに、これには参った。
20分ほどして故障係から電話。この人が親切な人でいろいろアドバイスをもらって、あれこれ試みた結果、親子電話になっている4台の受話器のうち1台が故障している事が原因という事が分かり、これを切り離して漸く復旧した。
しかし、これに1時間以上かかり、精神的にもグッタリ、その上まったなしの仕事の山に寝付いたのは午前3時。今朝は起きた時からグッタリであった。ただ、気持ちは寝ているどころではないと私を追い立てる。何しろ最新の意拳情報を持って光岡氏が上京されるのだから。
片付けも儘ならぬまま、道場に光岡氏を迎え、半ば朦朧とした頭ではあったが、きわめて貴重な教示を得ることが出来、体調も気分も悪いのに剣術で今までにない遠間から打ち込めそうな感覚が突然生まれてきたのには驚いた。
さて、これから池袋の講座に行く。会場にはまた何かの企画の相談の人が来場の筈だ。その後、再び光岡氏とおちあって帰宅。明日は稽古。その後、身体教育研究所の野口先生の所へ。帰りはどうみても午前1時前はあり得ないだろう。
そして、11日は講演。12日は入れ替わり立ち替わり4組計10数人の人たちが来館の予定。
さすがにこのままでは殺人的スケジュールを超えて、年中通夜の準備のような「取り込み中」のスケジュールになりそうだ。何とかしなければ・・・。
以上1日分/掲載日 平成16年1月10日(土)
2004年1月13日(火)
1月9日から昨日12日までの4日間、連続して睡眠時間が2時間半から3時間、この間我ながらよく身体がもったものだと思う。
9日の池袋の講座は、いつもスタッフとして入ってもらっている、もう20年来の付き合いのI氏に「終わりの方は本当に先生、声に力がなくて大丈夫ですか?」と言われたが、1月3日の気づきのせいか、技の方は"切込入身"などはかつてなく利いた。帰路、光岡英稔氏と合流。光岡氏も疲れをかくせぬ様子だったし、翌日光岡氏は8時半には出なければならない予定だったので1時過ぎには寝るモードだったが、2人でちょっと稽古をしてあっという間に3時過ぎ。その後諸々の用事をして私が寝たのが10日の午前5時。起きたのが7時半。さすがに光岡氏を送った後、午後からの稽古の前に仮眠しようと思いつつも、ついいろいろ仕事をして稽古に突入。その後、身体教育研究所へ。途中で名越氏、岩渕氏に植島啓司先生も合流。
身体教育研究所では久しぶりの植島先生を迎えて野口裕之先生との話が弾み、すべて終わって二子玉川から私がタクシーに乗った直後に午前3時の時報。
家に帰ってすぐ寝るつもりが、ついついいろいろやって寝たのは11日の朝6時。起きたのが9時で、溜まっている様々な用事をやっているうちに午後2時近くになり、私の家から少し離れた所であった或る会合で約1時間半の講演。終わって直ぐに帰宅。仙台から新年の挨拶に来館した藤田氏らと少し稽古。その後、吉田氏らと稽古。
12日は朝から夕方まで約8時間いろいろな方が出たり入ったり・・。まず剣道6段のM女史とその縁者で私がいろいろと世話になっているY氏を皮切りに、群大医学部の研究者S氏やT氏、ある映画会社から、ある時代劇の中での歩行その他の相談にディレクターのI氏と殺陣師のK氏、それから、これも歩き等で或る制作会社からの撮影陣一行が来館。カメラ担当の女性は剣道でインターハイにも出場との事だったので、少し手合わせをした。
全て終わった時は直ぐにでも寝たいほどだったが、風呂に入って持ち直し、結局寝たのは12時をまわっていた。
この日は剣道6段のM女史と竹刀を合わせたことで、抜かれても抜かれぬ技の理合にあらためて気づいたり(これは竹刀は手許、特に左手を頂点とした三角錐を描きつつ、体を正対させることで威力を出すため、相手の竹刀を払うという働きが手で行なわれていないため、手の動きが相手の変化に即応出来たからだと思う)するなどいくつかの気づきもあったが、何よりも印象深かったのは、久しぶりに打剣をしてみたら、(ここしばらく凄まじい忙しさで殆ど剣を打っていなかった)恐ろしく下手になっていたことである。今の私を見たら、とてものこと、先月山形のDSSFで一間から七間までの間、60打中59打を通した者と同じ人物とは思えないだろう。
その決定的理由は、先月末に打法を変えて掌が前腕よりも後ろにテイクバックをとらないようにしたからである。これにより打剣はよりうねり系の動きから離れたのだが、そのため恐ろしく距離が利かなくなり、二間程度をウロウロするぐらいになってしまったのである。
もちろん嫌々ながら以前のように少し掌を返して打てば剣を以前のように遠間も利かせることができるのだが、そのわずかに掌を返した動きにも"うねり"を感じてしまった現在、それによって如何に剣がよく飛び、よく刺さろうとも、そういう打法を行なうこと自体"嫌"なのである。(こんな事を書くと、先月山形で遠近さまざまな距離に対応して剣を通せた事が作り話のように思われる向きもあるかもしれないが、その当時の打剣状況は"まるみつ"の小関氏にビデオ撮影してもらっているので、どうしてもそうした遠近さまざまな対応を知りたいという方は、このホームページとリンクしている"まるみつ"にお問い合わせ頂きたい。ただ、まったく参考のための映像で、画像も悪く何も編集作業を行なっていないものであるが、直打法の手裏剣術が実際に遠近さまざまに距離を変えても即応出来るという事実の証明にはなると思う)
他人の目には手首が少々後ろに反っていようと、うねりがあろうと「よく刺さるのなら、それでいいではないか」と思われるかもしれないが、やっている私自身気持ち悪くて仕方がないのである。
先月は「自分にもこういう日が来たか」と感動したほど遠近さまざまな距離を通せた事が喜びだったのに、それから僅か1ヶ月で、その打法が嫌になるのだから、我ながらその飽きっぽさ(言葉を換えて言えば向上心?)には、「もう君にはついていけないよ」と言いたいほどだ。だが、この私の性向が恐らく今までの私の技を拓いてきたのだろう。我ながら呆れつつも付き合っていくしかなさそうだ。
その飽きっぽい私の講習会というか術理説明会が、私のビデオを出しているIACの世話でこの16日に蔵前である。(告知板で告知中) 平日の午後5時スタート、8時までとの事で、現在まだ比較的空いているらしい。5時には間に合わない方でも入れますので関心のある方はいらして下さい。
以上1日分/掲載日 平成16年1月14日(水)
2004年1月14日(水)
「本当に忙しいと、『忙しい、忙しい』とは言わないものだ」という話を以前どこかで聞いたことがあるが、ここ最近の自分自身をみていると「なるほど、そうだな」と思う。
とにかくやらねばならない事があまりにも多く、しかも急を要するものが少なくないので、動きが救急活動的になるので「忙しい」と言っているどころではないからである。
今日も目前に〆切の迫った『表の体育 裏の体育』の文庫化のための読みと「まえがき」の執筆がある。したがって、この随感録など書いている時間もないのだが、書いておかねばならない事態が出来てしまった。
それは1月9日付けのスポーツニッポン紙に、柔道100キロ級のチャンピオン井上康生選手が私のところに短期入門を決意した、という記事が出てしまったからである。井上氏が私に関心を持っているという話は、昨年の夏頃から耳にしていたし、ある雑誌の企画で対談する予定もあるが、入門などというものではない。(既に会を解散している私のところに入門も何もないが・・)
まあ、スポーツ紙の記事というのは話を膨らませる傾向があるので、井上選手が私に関心を持っている事、そして会いに行くらしいという事から、そうした表現になったのだと思われる。
ただ、この記事で、井上選手の事以上に問題なのは、私が陸上の200メートル走の銅メダリスト末續選手を指導した、と書かれていることである。既に昨年、末續選手が200メートルで銅メダルを獲得した時、私は直接末續選手を指導したわけではない事を、このホームページでも明言し、もしその件で取材をされる方は末續選手が、なぜナンバを取り入れたのか、よく調べてからにして頂きたいと述べた。(随感録
2003年8月29日、
9月2日の2を参照して頂きたい)
その後、末續選手のコーチである高野氏が、ナンバは自分が独自に研究をしたと話されているとの事を耳にし、私との関係は一応ないことになった。ただ、私の影響が全くない事は無いとは思う。それは約2年前の2001年の暮れ、末續選手もよく知っているシドニーオリンピック110メートルハードルの谷川選手が、私の所に来て一緒に走ったし、約10年前の1993年9月に高野氏と親しい白石宏トレーナーが初めて来館された時、ナンバの話を出し、それまでかつての日本人はナンバだったから走れなかったと言われているが、ナンバは工夫次第では恐ろしく潜在能力を発揮出来る走り方のように思う、といった事を白石氏に伝えたからである。(この事は拙著『稽古の日々から』に書いてある)
そうした話がいろいろな形となって拡がり、桐朋高校バスケットボール部の活躍などでナンバ走りの有効性に気づく人が出てきた、という事が、今日ナンバが広く世間の話題となった原因のひとつだとは思う。
ただ、そうした影響があったとしても、高野コーチが私との関係を否定されているのに、私が末續選手に関してどうこう言う事など出来る筈もない。ただ、先日もあるテレビ番組の担当の方で執拗に末續選手との関係を尋ねられたので、「私が話した事に納得出来ないのでしたら高野コーチに綿密取材をされ、いつ、どこで、どういう形でナンバの情報を得たのか、桐朋のバスケットボール部の事は知らなかったのか、白石トレーナーからナンバの話を耳にした事はなかったのか等々をお聞きになって下さい」と言っておいた。
本当はこのような、まったく建設的ではない事に時間を使いたくないのだが、ある程度ハッキリした形で書いておかないと、又この先同じような質問を受け、同じような説明をしなければならないので、今回の井上選手の記事に関連して、ここに末續選手と私との関連について、あらためて明言しておくことにしたのである。
どうか今後は高野コーチへの綿密取材なしに、この問題について私に話を持ち込んで来られないよう、メディアの方々にお願いしたい。
以上1日分/掲載日 平成16年1月15日(木)
2004年1月16日(金)
昨夜、淡路島の山田先生から電話。受話器をとると、「山田です。先生やりました。あの平野が勝ちました。優勝です」との事。俄かには何がなんだか分からなかったが、山田先生が続けて「先生に御指導頂いて、あの子もよう頑張って誰からも文句つけられん勝ちでした」と嬉しさがあふれ出すようなお声に漸く事態は呑み込めてきた。
数日前から卓球の全日本選手権大会が開かれているらしい事は新聞やテレビ等で知っていたが、連日、福原、福原で、福原愛選手のことしか報道されず、平野選手のことなど知ろうにも知りようがなかったのである。
「えーっ、あの早矢香さんが、本当ですか。でも別に私何もしてませんよ」と答えると、「いやあ、先生に教えてもろうた体幹を使う工夫を、あの子なりにして、よう頑張りました」と山田先生。「そうですか。とにかく平野さんには"おめでとう"と伝えておいて下さい」と言って電話を切った。
山田先生から電話を頂いたものの、あの卓球選手にしては不器用そうで、普段は小学生と間違えかねないほど可愛らしいのに、いざ球を打ちはじめると鬼のような顔で必死に頑張っていた平野選手の顔を思い浮かべ、あの早矢香ちゃん(どうしても"ちゃん"と呼びたくなる)が全日本を制したなど、ちょっと信じがたいと思い、テレビのスポーツニュースを観たが、私の見たものはどれも福原愛選手が梅原礼選手に負けたという事しか報道していない。
そのため今朝の朝刊を見るまで確認のしようがなかった。福原選手がいかに人気があるとはいえ、実力がすべてに優先するはずのスポーツを報道するのに優勝者の映像は勿論その名前すら言わないというのはどう考えてもおかしなことである。
新聞はさすがに新女王の平野選手の写真を大きく載せていたが、試合が行なわれた当日に速報性のあるテレビ、しかもNHKで優勝者を報道しないというのは報道の原則にも反していると思うし、スポーツをショー化し人気選手をタレント化しているとしか思えない。(まったくその通りなのだろうが)まあ青少年の健全育成が建前にしかすぎない事は誰もが感じているだろうが、こうまで露骨にワイドショー化したテレビ報道の仕方には大きな疑問を感じた。
それにしても、あの平野早矢香選手が優勝とは本当に驚いた。
昨年の4月、四国であった私の稽古会に、かねてから強い関心があったという山田先生やミキハウスの大嶋監督と共に初めて参加された平野選手を、当初私は中学生かひょっとしたら小学生かなと思い、四国のどこかの県で少し名を挙げている程度の選手だろうと思い込んでいた。
会が終わってからミキハウスの選手であることを知り驚いたのだが、普段の可愛らしい顔と、私の動きを真似しようとして上手く出来ず、難しい顔で考え込んでいた様子が、昔の映画に出てきた子供のようで今でもよく記憶している。
その後、2度ほどミキハウスに招かれて、私の動きをそこの女子選手や卓球指導者に解説したことがあったが、平野選手は一番最初から知っていたこともあって、最もよく話もしたし私の中でも印象が誰よりも強かった。
ただ、ここで念を入れて述べておきたいが、桐朋高校のバスケットボールの時と同じく、私はただ質問に答えて私の動きを見せ、トレーニング法についての提案をしたに過ぎない。つまり、種は蒔いたが全くの自然農法で、あとは本人や本人を囲む指導者の方々にお任せしたのである。したがって。私の蒔いた種がどの程度役にたったのかは分からない。
それにしても私を取り巻く状況が奇妙な特殊空間を作りつつあることは嫌でも感じられる。昨日はこの他にも阪神タイガースの新人選手がナンバの動きを行なっているという関西版のスポーツ新聞がFAXされてくるし、テレビ局2社からの出演依頼はあるしで、ますます身動きが取れなくなってきている。
やがて2月になるが、ちょうど1年前の2月、体を壊し半月完全に仕事を休んだようなことになる前に、新しい依頼はすべて断るようにしようかと思っている。(もっとも既に受けているだけでも、とても消化しきれないほどだが)
現状が以上のような次第ですので、なにとぞ御理解のほど宜しくお願い致します。
以上1日分/掲載日 平成16年1月16日(金)
2004年1月20日(火)
16日は初めてIACの世話で講習会を開く。場所が蔵前で、開始時間が早かったせいか、最近になく空いていたし、体験希望の方とは全て手を合わせられた。そのためか、この日は私自身もいくつか気づくことが出来たが、その気づきがハッキリと自覚出来たのは、講習が終わって、会の受付などを手伝ってもらった人達と喫茶店に寄って話していた時である。
この時、言葉になったのは、体幹に比べ、手などの末端部はつい早く動いてしまうが、この早く動いてしまいがちな手をブレーキをかけて調整しながらゆっくり動かしたのでは意味がないという事と、ともすると動きはじめは、つい脱力によって動こうとするが、この脱力によって動くということは、もちろん力んで動かすよりはマシかもしれないが、本質的に動きを向上させようとする時、とても障害になる体の運用法であることが実感された。
もちろん、こうした言葉は各人の主観による体内感覚であるから、脱力といいつつ、それが程よい身体の状態になっている可能性もあるが、脱力を強調しすぎるのは、やはり問題があるように思う。
翌17日は、横浜の朝日カルチャーセンターでの講座があり、18日は手裏剣の打法で、上からのかぶせと下からの力のぶつかりによる打法という新打法へのキッカケをみつけたが、大変体の使い方が難しい。
19日は、今までにちょっと例がないほど多くのジャンルの人達が来館。まず車のラリーのドライバーのM氏。フルート奏者のS女史。ドイツ通信の特派員N氏。NASAで宇宙飛行士の身体運用法を研究しているというN氏。20年以上前から私の所で稽古をしている歯科医のI氏。その他、空手や剣道の人達がみえた。
この日は動きはじめの気配のなさの重要性さと、足裏の垂直離陸が膝のヌキとほぼ同時に離陸を行ない、それによる体全体の沈みの、より細かい連続化による沈身力の増大という文字にすると大変ややこしい事が体感的には直覚された。この動きがどの程度のレベルかわからないが、次の段階を拓くための手掛かりにはなると思う。
そして、今日はMISCO 三井情報システム協議会での講演。明日は東京都保健局・病院経営本部主宰の専門性向上研修の講師として同本部研修センターへ行く予定。
以上1日分/掲載日 平成16年1月20日(火)
2004年1月21日(水)
今日、「平成15年度健康局・病院経営本部専門性向上研修パワーアップ研修」(舌を噛みそうな長い名前だ)の講師として家を出るまでの自分のあたふたした様子をビデオででも撮ったらさぞおかしかっただろうと、家の中を走り回りながら苦笑する。
とにかく同時進行でやらねばならない事がいくつもある上、なぜか今日はまだ10時だというのにやけに電話が多い。なかには、ある高校から試験の小論文に、養老先生との共著の中から私の発言部分を使わせて欲しいというものまであった。そんな事をしているうちに予定の電車に乗り遅れ、20分遅刻して新宿に到着。待っていたPHP編集部の太田氏とタクシーに乗って茗荷谷駅近くの会場まで向かう車中、文庫版『表の体育 裏の体育』のゲラの校正と打ち合わせ。
そして、会場のビルを確認してから、このビルのほぼ前にある喫茶店に入り、約80分校正の続きを行なう。いちおう最後まで終わったのが研修会開始の7分前。事後の打ち合わせをしつつ会場のオフィスまで太田氏を同道。この続きは明日私が山形へ向かう前に東京駅あたりで会う事にして別れる。
今はこの忙しさを笑えるから、まだ体は大丈夫かもしれないが、今後制作中の本の校正や原稿書きが波状攻撃というより瀧のようにやってきそうだから、講演やインタビューだけでこの有様なのに、一体どうやってこなしてゆくのか、まるで分からない。
本日の講座は、後半の2時間半近くを介護の起こし方を主とした実技を行なったが、かなりベテランの理学療法士の方も熱心に聴かれたり体験されていて、予定時間をかなり超過してしまった。
その後は、まだ話したそうな方もいらしたが、金沢工業大学の田上先生との打ち合わせのため、池袋のメトロポリタンホテルへ。
さて、明日は山形だ。その用意やら片づけやらで、いろいろあるが何とか今夜は早めに寝たいものだ。と思っていたところ、そこへ知友から思いがけぬFAX。なんと月刊ゴルフダイジェストに私の大特集が出ているとのこと。たしかに先月山形で取材は受けたがゲラも何も確認していないうちに雑誌が出るとは?以前、週間ゴルフダイジェストでも同じようなトラブルが起きたのに、「またか」と本当にガックリ来る。
以上1日分/掲載日 平成16年1月22日(木)
2004年1月24日(土)
1月22日は、11時36分発の"つばさ111号"で山形県高畠へ。偶然にも同じ列車に黒鉄会の朝吹美恵子女史(朝吹女史については、2003年11月14日の、この随感録で紹介)が乗り合わせられている事が分かり、宇都宮を過ぎた辺りで私が乗っていた13号車に来て頂き、空いていた席に移って高畠までお話しする、というか、90%は朝吹女史の話を伺う。話を聞いていて、あらためてこの人物の行動力、洞察力、鑑定力の凄さを思い知らされた。
高畠でひとまず車中で別れ、朝吹女史は山形へ。ただ、夕方に今度は朝吹女史の方からDSSF(デジタル・スポーツ射撃連盟)に来て頂くことにして、私は下車。歩いて駅前のDSSFへ。DSSFに着いてみると、皆さん忙しく壁塗りで立ち働かれている真最中。驚いたことに、この壁塗りの主役が藤井優監督が私に引き合わせたいと言われていた、ブルガリアから招かれている射撃のエミールコーチ。聞けば、是非壁をキレイにしたいという事で、自ら先頭に立って塗料の買出しから壁塗りまでをされているという。私は後片付けを手伝ったが、エミール氏の純粋なボランティア精神には深く頭が下がった。
夕方からは、例によって高畠の素晴らしい食材での夕食会となったが、その少し前に福島大学の白石豊教授が来場されたので、私の最近の動きの進展状況について、実技も交えていくつか解説させて頂き体験もして頂いたところ、体の内側から堪えきれぬ笑いが湧き出してきたような、何とも言えぬお顔で何度も頷かれていた。
やがて食事会となり、神山英昭氏、菊池良一氏、まるみつの小関勲氏、山村モータースの山村氏といった、このDSSFを支える主要な柱となられている方々、それに吹雪をついて山形から朝吹女史と92歳の祖母の方、この方をケアされている佐藤女史とお嬢さんなども見えられ、この方々を藤井監督、スタッフの足立女史はじめDSSFを支える柱となられている方々に紹介する事で、実に賑やかな展開となったが、このDSSFの場がスポーツ界の流れを変える、何か水先案内のボートとなるような実に不思議な予感がして、自分自身がそこにいるにも拘わらず、まるで映画かテレビの画面を覗いているような不思議な感覚に襲われた。
この感覚は、翌朝スポーツ報知の一面に大きく巨人の桑田投手がピストル射撃をトレーニングに取り入れているという事が載ったこと(先月私の誘いで一緒に来た、このDSSFで射撃に関心を持ったらしい)と、白石豊教授から、サッカーのプロの選手、コーチに私が実技を交えた解説をして欲しいと具体的な依頼を受けた事で、より実感が出てきた。
スポーツ関係からの依頼といえば、先日、全日本の卓球選手権で女子シングルスのチャンピオンとなった平野選手を伴って稽古会に参加された淡路島の山田先生から、来月はじめ私が四国に向かう前にミキハウスに寄って欲しいという話があり、その他すでに決まっているバスケットボール、柔道等からの依頼と合わせると、2月3月の私の時間的余裕はもう完全に手一杯となってきている。したがって、新しい企画のご相談は私自身受けたい気持ちがあって、私が依頼される方の熱心さに負けて引き受けたとしても、結局は物理的な時間がないので出来なくなってしまい、関係各方面の方々に御迷惑をおかけすることになる可能性がきわめて高いので、今、近々の予定を考えられている方は、どうか、どうか思い留まって頂きたい。
それにしても、日本のこれからのスポーツ界を変える発信基地になるかも知れないという、このDSSFが殆ど藤井監督の個人的な力で成立しており、本年4月以後の存続に黄信号が灯っているという事が皮肉といえば何とも皮肉なことである。
以上1日分/掲載日 平成16年1月26日(月)
2004年1月26日(月)
山形県高畠のDSSFで、あるいは行き帰りの車中で書こうと思って用意してきた原稿は何種類もあったが、結局書けたのは1月24日付の随感録ぐらいで、後は今自宅に帰るために乗った20時02分高畠発の"つばさ128号"の車中でこれを書いているだけで、高畠町滞在中にはハガキ1枚書く余裕はなかった。
23日は、DSSFの防寒用のシート張り。前日、エミール・コーチのペンキ塗りを見ているだけに、今日は私が主役とならねば、とつい熱が入ってしまった。そして23日の夜から24日の夕方にかけては、かねてからの約束であったPHP研究所の大久保氏の聞き取りでの本作りのため、高畠のログハウス風の貸切り山荘一棟に2人で籠るという完全なカンヅメ。(カンヅメとは言っても、山里の雪景色に囲まれ、とてもいい雰囲気だったが、まさか他の仕事をここでやるわけにもいかない)
24日の夕刻、菊地良一氏に迎えに来て頂き、又DSSFで食事会。午後11時に全ての方が帰られてからは私の稽古時間となるが、大阪の名越氏からの電話。聞いていて肌が粟立つほど凄い。名越氏は自らの事を「アホがアホをかこって・・」と自嘲されていたが、この人くらい見た目の軽さと中身の重さのギャップがある人物を私は他に知らない。あらためて恐ろしい人だと思った。特に、つい最近某所で行なったという講演の前置きの凄さ!その前置きが発せられた時は、恐らく参加者全員が息を呑んだことであろうし、講演中ほとんどの人達が身じろぎも出来なかっただろう。
名越氏は、最近テレビに出る機会もしばしばあるようだが、この講演を聴いた人がテレビの中での名越氏を見たら恐らく余計恐ろしさが募ることだろう。
名越氏との電話を終えてから打剣稽古。打剣の稽古は22日の夜も行ない、信州の江崎氏に重心調整をしてもらったものを各剣の距離の対応を試射して確かめたのだが、24日の夜はフト思い立って左手での打剣を本格的に試み、初めて五間まで通す。もともとは薄いが左利きの素質が私にあったせいか、左手で行なうと何やら内臓の位置もグルグルと動く気がして、どうもこの方が身体のためにはいいような気がする。しかし、翌日は9時前には起きねばならないし、と思って、2時過ぎには稽古を終える。
25日は、午前午後、そして夜まで殆どぶっ通しで講座と稽古。まず午前10時から正午までは介護に関わる理学療法士の方やら、歯科医院に勤務していて車椅子の患者さんの世話が必要な方などが集まられる。いつものように捨身技を利用した寝た人の起こし方などを実演したが、この日集まった方々から、「これは楽だ、使えそうだ」との声があがったものに、車椅子に乗っていた人を抱き取って他の椅子やベッドに座らせる方法、ベッドで下方にズリ下がった人を枕の方向に戻す方法、床の上にいる人の半身を起こしてからこれを立たせる方法などがあった。
このなかで、車椅子の人の移動のさせ方は、グニャグニャした物は容器ごと移せ、というごく当たり前なことをその場で思いつき、これを行なっただけなのだが、参加者の方々の目には新鮮にうつったようだ。これは専門家というのは時として今までの習慣に捉われ、他の発想が浮かばないという具体例のひとつだろう。
又、床の上に半身を起こしている人を立ち上がらせる方法は、以前も試みたことがあるが、今回は原理がハッキリと分かって、以前よりずっと技がスムーズになった。その原理に気づけたのは、相手を抱き上げるのに、今までの常識的な方法では、抱き起こす側は抱き起こすべき相手の体重と、抱き起こそうとする自分の体重の両方を自分の脚部にかけてしまっている事に格別疑問を感じていなかった事の迂闊さを自覚した事による。つまり、人間は工夫次第で自分の体重の落下を利用して(自分の体重を釣瓶のように使って)、相手を抱き起こすのに必要なかなりの部分のエネルギーが得られるのである。
ただ、この技は寝ている人の半身を起こす技よりは修得がかなり難しく(といっても自転車に乗る程度の技術だと思うが)、誰もがすぐに出来るようにはならないかもしれない。
その他、雪国らしく効率のいい雪かきの方法なども尋ねられたので、早速外へ出て実地で工夫。私自身もそれまで考えもしなかった方法を案出して実演した。
そうした事を講座の後の食事会の間も行なっていたから、午後3時半からの武術を中心とした稽古会も結局いつ始まったのかわからない状態だった。
この武術中心の会では、私の体の沈め方が、先日気づいた膝のヌキと足裏の垂直離陸がより細かく、ちょうど円周率を計算するのに円に内接する多角形の辺の数をより増やすことで円に近づくような感じで、ちょうど細かいビールの泡がプチプチとはぜていくような感覚で行なうことにより、より虚の瞬間をなくしていくことに気づいた。
このビールの泡の譬えは、前夜の食事会の折、誤って赤ワインをセーターに浴びた人のシミ抜きに炭酸水を使うことを、私が思い出して実地に試した事による。
その原理とは、「炭酸の泡の微振動が汚れを立たせるのでしょう」と解説した言葉を私自身がかなり印象深く聴いていたからのように思う。
人間とかく初歩的な緊張から一歩進むと、動きはじめを脱力に頼りがちだが、これでは更なる動きの質の転換には入っていけないということが、これによってもいっそう実感された。
5日間にわたり、いろいろとお世話をおかけしたDSSFの藤井優監督はじめスタッフの足立・栗田両女史に、菊地氏、神山夫妻、山村夫妻、小関氏といった、DSSFを影に陽に支えられている方々にはあらためて感謝の意を表したい。
多くの方が他にかけがえのない高畠のDSSFの価値を認められ、4月以降存続することを心から祈らずにはいられない。
以上1日分/掲載日 平成16年1月28日(水)
2004年1月29日(木)
昨日の夜、「山形から帰って、まだ2日しか経っていないんだ」と驚く感覚と、「もう2日も経ったのか」という思いが混在している奇妙な感覚を味わった。それほどに時間の経つのが早く、また、その2日間に様々な事があった。
全くさまざまだ。まずはガックリくること、腹の立つこと。これは主に活字媒体が多いが、それが一つや二つではないから、それらの媒体にクレームを言う暇もない。
とにかく次から次へと取材や企画の問い合わせや依頼が来る。しかし、とてもとても今は引き受けられない。何しろここへ来て、昨年に先の事もあまり考えずに受けた対談やインダビューの原稿や校正ゲラが次々と来ていて、それらを見ているだけでも時間が足りないのだから。そうしたゲラや原稿以外にも、実にさまざまな用件がある。
まず忘れないうちに書いておけねばならないのが、1月31日(土)三軒茶屋でダンサーの山田うん女史とトークがある。まだ席に余裕があるようなので(28日夜の段階で)、御関心のある方は告知板をご覧になってお問い合わせ頂きたい。
昨日は蔵前でIACの世話で2度目の講習会。前回来られた方も若干いらしたお蔭で、今回の方がやりやすかった。技の進展は、一昨日の27日入れ替わり立ち代り、いろいろな人が来て、体を動かした折に気づいた兎ワナ、というか、カラクリ屋敷のような仕掛けを体じゅうに作っておく、という事の気づきで、28日の蔵前でも今までになく抑え技等に有効な動きが出来た。
それにしても、もう正気の沙汰とは思えない毎日になってきた。昨日は産経新聞の論説委員の方が取材にみえたが、申し訳ないことにさまざまな用件で再三中断。一緒に蔵前の講習会場に向かう車中、四谷の駅でPHPの編集者の太田氏に乗り込んで来てもらって、浅草橋までの間はPHP刊の文庫本のゲラの校正。
蔵前の講習会の後、手伝ってもらった人達と食事の最中も再三携帯が鳴る。帰ればファックスが何枚も待っていて、今日は終日頭痛。
依頼の企画書や校正のゲラなど溜まる一方である。そうした中でも技への気づきがあるから、ついそれを確かめたくなるし、今自分がどこにいるのか段々分からなくなりつつある。
以上1日分/掲載日 平成16年1月30日(金)
2004年1月31日(土)
非常状態の多忙さは益々きつくなってきた。それでもなお依頼が来るのには困った。期限があまりないものは例外なくお断りしているが、なかには向こうの受話器に必死でぶら下がっているような雰囲気の方もあって、これには参る。まるで私が、その人が崖から落ちるのを見殺しにしているような感じになってしまうからだ。
しかし、昨日も或るJリーグのチームに招かれて、監督、コーチ、トレーナー、選手、総勢40人ほどを対象に、体コンタクトの際の相手の崩し方、抜き方、走り方を実技を通して解説。なかにはユニフォームの背中を掴まれた際の対処法などの質問もあり、前腕で沈みをかける方法を案出して行なったが、どの場合も私自身が想像していたより技が利いて選手達も驚いたようだったが、私の方も驚いた。
その後、アシスタントに来てもらったT氏と軽く食事をして、東京を横断し藤沢の朝日カルチャーセンターへ。東海道線に揺られていると、つい眠り込みそうになるほど体は疲れていたが、何とか寝過ごさずに講座開始ギリギリに会場に滑り込む。(藤沢駅の改札口で、私の講座を受講されるという女性に案内をしてもらったので間に合ったが、私1人だったら確実に遅れていたと思う)
ひどく疲れていた筈だが、いざ動いて喋り始めると、体もよく動き、2時間はたちまち経って、後2時間延長でも全く問題はなさそうだったが、電車の時間もあるので手伝いに入ってもらった何人もの人達とお茶を飲む事もなく帰路につく。
家に着くと又いくつものFAX。翌日、翌々日のこともあるので2時過ぎには布団に入ったが、ちょうど話し中だった名越氏との電話が記憶の途中で消えていて、今日、名越氏から「昨日、先生話してる途中で寝はったでしょう。いや突然話が切れるんで大丈夫かなと思ったのですが・・」と見舞いの電話をもらう有様。名越氏と話し中のダウンは、これで3度目ぐらいだったが、今回は切れる直前まで、それほど眠さを自覚していなかったから、潜在的にかなり疲れが溜まっていたのだと思う。
しかし、稽古が覚醒剤なのか、動けばよく体が動いて気づきはいろいろある。昨日サッカーの選手に実技を解説していて、いわゆるナンバの走法を解説していた時、身体を手を振るヒマがないほどの切迫した状態に置けば、身体が必然性を感じて自然と手を振らなくなるだろうというトレーニングの設計を思いついた。
そして今日は三軒茶屋で宝島編集部の田村氏や制作会社の神埼氏と、来月とりかかる本の企画の打ち合わせ。これは4ヶ月前から田村氏の熱意で決めた企画で、本になったらかなりの反響がありそうなもの。
その後、すぐ近くのシアタートラムで山田うん女史のソロダンスを観、その後山田女史とトーク。前日、腰を痛めて救急車で運ばれたとの事だが、そうした事を全く感じさせない動きは見事。様々な肉体的トラブルが、彼女の天才性を開花させたのだろう。今後の活躍を心から祈りたい。
以上1日分/掲載日 平成16年2月2日(月)