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本年2012年12月6日、私の父、甲野善勇が満96歳で逝去いたしました。ここに、その折りの様子を書きました、私のメールマガジンの「松聲館日乗」に書いた部分を、転載し御報告させていただきます。
12月12日
師走の6日、つまり2012年の12月6日の朝、私の父、甲野善勇が満96才の生涯を閉じる。先月23日に名古屋の講習会に出向く折は、いつもに変わりなく見送られ、その後、家人から体調を崩した旨を聞き、以前から父が企画し、父自身が楽しみにしていた箱根への家族旅行はどうなることかと思ったが、父の生き甲斐のためにも予定通りにという事で、私は25日、名古屋から小田原に出て、箱根湯本で合流し、強羅へ。
父はこの日の夜の食事もあまり進まなかったが、とにかく一泊して翌日の昼食も皆と共に摂ったが、この26日は一足早く帰った我々とは別に、姉ともう一泊した父は、夜中に大汗をかいたようだ。そして、翌27日は腹痛も出たという知らせが姉から届いたので、自宅の最寄駅のホームまで私も迎えに出た。
そして翌日は、近くの医院で点滴を受け、2日間家で過ごしたが、食事をすると腹痛が始まるので、2年半前に2週間ほど入院した病院へ、12月1日に入院となった。2年半前の2010年5月、それまで入院などおよそした事のなかった父が腹痛を訴えて入院。検査の結果、胃ガンが見つかったのだが、高齢でもあり、その事実は伏せて2週間ほど入院の後、退院。担当医の見立てでは年内に食欲が落ちてきて、もっても1年という事だったが、トーダ酵素という酵素の一種がよかったのか、退院後1ヶ月もすると、入院する以前と変わりない日常が送れるようになり、庭の植木の手入れをしたり、郵便を出しに行ったり、時には電車に一人で乗って都内の会合に出かけることもあった。そんなふうに頭も体もシッカリしていたので、しばしば留守番を父に頼んで、家族はそれぞれ用事で出かけることも出来た。そんな時、父は一人で雑炊を作ったり、風呂を沸かしたりして、すべて自分のことは自分でやり、人手を借りるという事もなかった。
ただ、状況からいってガンがおとなしくはしてくれていても、いずれ、それがキッカケで再び症状が出るだろう、という予感はあった。
しかし、2年以上何事もないと、これは百歳近くまで大丈夫かもしれないという気もしてきたのだが、11月のはじめに気分が良くないと、一日寝ていた事があり、翌日は普通にしていたので、あまり気にもとめなかったが、今思えば、これが体調激変の最初の予兆だったのだろう。すでに触れたように、11月の下旬に腹痛や吐き気も出て、12月に入って入院。その後、胃カメラでガンが倍ほどの大きさになって腹膜に浸潤している恐れがあるとの事で、まあ後2ヶ月くらいの命ではないかという診断を4日に受けた。思えば、この4日が、父と会話らしい会話をした最後となった。それは「世話をかけて済まない。入院費は立て替えておいてくれ」といった短いものだった。翌日の5日は痛みのせいか口を開くのも億劫そうだったが、痛み止めで痛みが止まれば、また話も出来ると思っていた。
そして、帰って8時間くらいも経ったかどうかの午前5時頃、病院から血圧が急に下がってきたとの事で連絡が入り、家内とすぐ仕度して病院へ。すでに意識は混濁して何も喋れない状態。その状態が1時間半ほど続いていただろうか。7時をまわった頃から血圧はさらに降下し、父がそれまでの生命活動を終えようとしている事がハッキリと感じられた。計器を付けていたので、それが僅かな脈も拾っていたためだろう、病院側の臨終告知は7時半をまわっていたが、我々の実感としての臨終は7時19分頃だったように思う。
それまで心臓に問題のあるような事は全くなかった父の血圧が一気に降下したというのは、96歳まで生きてきて、身体全体をゆっくりと衰えさせ、日常の生活には負担がなかったのだが、胃から腹膜へと拡がったガンにより、今までにない痛み、苦しみが一気に心臓の負担となり、この世を卒業していったのではないかと思う。この事を身体教育研究所の野口裕之先生に御報告したところ、「ああ、現代ではそれは本当に理想の死に方ですねえ、いや、もう大往生ですよ」と餞の言葉を頂いた。
11年前、転倒して大腿骨を骨折した母が、リンゴの細片を喉に詰まらせて急逝した時、その突然の死に対して「風の来て 連れて行きけり 秋の蝶」という亀渓の句が浮かび、寝ついて間なしにこの世を卒業していった母を偲んだが、父もまた、この母と同じように、ほんの数日、我々の手を少し借りただけで、この世を旅立っていった。人に迷惑をかける事を何より気にしていた父だっただけに、この引き際は父自身の本意でもあったと思う。
つい10日前までは、それまでと変わりなく過ごしていただけに、父が亡くなったという実感がまるで湧かず、姿が見えなくても「あれ、郵便でも出しに行ったのかな」という感じしかしない。それに不思議だったのは、6日の朝息を引きとり、すぐ葬儀の準備に入ったのだが、12月になると世の中も亡くなる人が多いらしく、斎場が混んでいて、どうしても11日までは空かないという。そこで7日から10日までビッシリ入れていた関西方面での講座や講習会も予定通り行なう事とし、家人やら陽紀たちに葬儀の準備を託して、私は関西に赴き、予定していた講習会を行なった。大阪の大手前高校や春日丘高校、福井での講習会などで、「この人とは縁があったのだなあ」と思う人々と会うことが出来る度に、父が葬儀の日まで私の仕事に影響しないようにと配慮してくれた気がして、何とも不思議な思いに包まれた。
思えば父は妙な才能があった。それはまったく無意識のうちだろうが、トイレや洗面所、台所など、我々家族がまさにそこに入ろうとする直前に、父がスゥーッとそこに現れて入ってしまうという事である。とにかく他の家族と鉢合わせするよりも、遥かに高い確率でそれが起こり、陽紀なども「また、ジッチャンにやられた」などと苦笑いしていた。父は、家族の間でそうした苦笑いのネタを提供する以外は、極めて真面目実直な人物で、これといった能力があったわけでもないが、戦時中は中尉で南方を転戦、マラリヤに罹るなどの苦労もしたようだが、部下を殴った事は一度もないという思いやりのあった上官だったようだ。そのためであろう、戦後の食糧難の時なども、かつて部下だった人達から鮭が届いたり、いろいろと便宜を図ってもらったようだ。
私は父から何か特別に教わったという事も、大きな援助をしてもらったという事もなかったが、私のやる事に反対せず、やりたいようにやらせてもらい、ただ長い間、頭も体も60代の頃とあまり変わらず生きていてもらったというだけで、どれほど助かったか分からない。父が亡くなった事で、相続など面倒な問題がこれからいろいろとあるが、それでも父の死去が10年前、20年前であれば、そういった問題がもっと大変になったと思う。とにかく今は、ただただ冥福を祈って深く感謝しているだけである。
12月15日:追記
父の葬儀は生前の父に言われていたとおり、家族と父が親しくしていた数名の近親者のみで、12月11日に故郷の石川県の菩提寺の住職、副住職に来ていただいて、松聲館道場で済ませました。斎場で火葬に付した後、骨を拾いましたが、骨壷に骨を納めるにあたって、骨量が多く、骨盤、股関節などは標本のように原形をとどめ、砕いて骨壷に納めなければならず、担当の方の話では、とても96歳とは思えない、50代か60代の骨のような感じであるとの事。また、頭蓋骨もかなり原形をとどめ、特に顔面の額の辺りから目、鼻と、まさしく"しゃれこうべ"を正面から見た形で残る例は、きわめて異例で、5000人に1人か2人程度との話しでした。こうした事も何か父が大往生をとげた証しのような感じがして、私達家族は有難いことだと思っております。
このように、ほとんど思い残すところなく今生を旅立って行った父ですので、今回の「松聲館日乗」を読まれて、もし父に香華をと思われる方がいらっしゃいましたら、そのお志を東日本大震災の被災者の方々の救援にでも向けて頂けましたら父も喜ぶと思いますので、どうかそうなさって下さい。
(メールマガジン『風の先・風の跡』2012年12月17日 Vol.042「松聲館日乗」より転載)
以上2日分/掲載日 平成24年12月18日(火)