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1月30日に佐世保でニホンミツバチの研究で知られる久志冨士男先生の葬儀があったが、その時、野元浩二氏の三女の麻有ちゃん(小学校5年生)が、以下のような弔辞を読み、多くの人が涙したという。なかには号泣した人もいたらしい。ミツバチたすけ隊のパンフレットで、分蜂したニホンミツバチの群れに頬を寄せてた少女の写真が載っているが、その少女が野元麻有ちゃん。葬儀(お別れ会)の様子はユーストリームで観ることが出来る。
(下記 お別れの会2の2:43辺り。お別れ会1の33分辺りでは野元浩二氏の傑作な挨拶の様子を観ることが出来る。)
久志冨士男 お別れの会 1
久志冨士男 お別れの会 2
私が、始めて、久志先生に出あったのは、小学校2年生の冬に先生が、私の家にミツバチの巣箱を持って来た時でした。先生が、「麻有ちゃん。巣箱の出入り口に、しばらく手をかざしてごらん。ミツバチと友達になれるよ。」と言いました。最初は、すごく恐かったけど、やってみたら本当にミツバチと仲良くなれました。ミツバチは、私を覚えていて通学中でも体に、とまってきます。次の年の春の、巣分かれの時に、木にぶらさがったミツバチの群れに、顔をつけても大丈夫でした。先生が、私にハチのことを、たくさん教えてくれたので、夏休みの自由研究に、まとめたら、ノーベル賞の下村おさむ先生からジュニア科学賞をもらいました。とても嬉しかったです。それから、久志先生や、お父さん、ふみちゃんたちと名古屋の生物多様性国際会議に行った時も楽しかったです。
五年生、野元麻有
あと、久志先生は、毎年、クリスマスには、クリスマスケーキをわざわざ家に持って来てくれました。私を、かわいがってくれてありがとうございました!私の家族も久志先生が、大好きでした。
久志先生は、ハチをとても好きだったので、家で飼っているハチを大事に育てていきたいです。久志先生、時々、私の家に、ハチを見に来てください。
以上1日分/掲載日 平成25年2月4日(月)
『虫がいない 鳥がいない』序文(跋文)
今年(2012年)7月4日付けの読売新聞の夕刊の一面トップに「トキ幼鳥飢える夏」の見出しが大きく出ていた。これは今春38年ぶりに佐渡の自然の中で孵化し、育っているトキの幼鳥が、この夏、田の稲が伸びた状態になると水田に入ってドジョウやカエルなどの主食を摂ることが難しくなるという報道であった。この記事を読んで私は慄然とした。夏といえば本来、水生の生物が最も増える季節である。記事では、護岸工事で水田に代わる浅瀬がなくなっているので飢えるのだろうと解説してあったが、何よりの根本原因は農薬の使用で生物が激減しているためだろう。佐渡では減農薬でトキの生育環境を整備しているというが、無農薬とはいかないところが何とももどかしい。
歴史を振り返ってみると、江戸時代、田んぼの農薬は鯨油と石灰だった。現在の農薬と比べれば、まるで夢のような話だが、それでもある藩の藩主は「それは人には害がないのか」と、くどいほどに家臣に念を押して確かめたという。我々は明治維新後の近代国家となった政府によって、江戸時代というと、まるで非人道的な事ばかりの社会であったかのような洗脳をされてしまっているが、当時日本に来た西欧人は日本の風景の美しさ、農民や町人など武士より身分の低い者達が明るく伸び伸びと暮らしている事に驚きをもって数々の手記を残している。それらは渡辺京二氏の名著『逝きし世の面影』に詳しく採録されているが、それを読むと、当時の人たちが人間以外の生物をも人と同様に愛しみ、自然と共に暮らしていた風景が浮かび上がってくる。
それがいつしか明治の近代国家から、戦後の高度経済成長期に入り、自然を改変し、ひたすら金儲けに走る経済優先の国家となり、水俣病やカネミ油症など、企業の論理を優先した公害病が問題となった。そして、いつの間にか農薬は全国に広がり、これによって国土は荒らされ、水も空気も汚染され、人の心も、もはや洗濯しても、とても元には戻らないほど汚れが染みついてしまった。生き物を扱っているはずの畜産は、とにかく経済最優先で草食動物の牛に肉骨粉という同じ哺乳類のクズ肉や骨を原料とした高タンパク食を食べさせて、早く大きくさせるという悪魔のような事をやり出した。これはBSE(牛海綿状脳症、一般には狂牛病)という問題が出て、さすがに中止となったようだが、生まれた牛に穀類などのカロリーの高い飼料を与え、「肥育牛」として育て、この牛が栄養過剰で病気となる前に肉牛として出荷するといった事は当たり前のように行なわれている。
私は以前、九州のある所で講習会を行なった時、その打ち上げの席で、ある獣医師から、こうした現代の畜産の問題点について苦しい胸の内を告白されたことがある。獣医師を志した当初は動物好きがキッカケであったのに、その動物が病気に罹るような育て方をして、病気直前に出荷するという行為に手を貸しているという事に、良心の痛みを感ずるのは人としてむしろ当然の事だと思う。以下引用する『逝きし世の面影』を見れば、日本人として、この心の痛みに共感する人は潜在的に少なくない筈である。
明治政府の招きで1868(明治元)年来日し、灯台建設に携わった英人ブラントン(Richard Henry Brunton 1841〜1901)は、紀伊の大島で荷役に使われている黒い牡牛を一頭購入した。値段はすぐ折合いがついたのだが、やがて牛が食用に供されるのだと知った島民は「断固として商売を拒否した。彼らが言うには、牛が自然死するまで待つのであれば売ってよいが、屠殺するなら売らないというのであった」。ブラントンは値段を釣りあげるほか、「ごまかし」を使って購入したと書いているが、むろん島民はこれまで家族の一員として働いて来た牛が屠殺されるのにたえがたかったのである。
このような生き物に対する止み難い情愛を持っていた日本人の心を、明治以降の欧化啓蒙思想は踏みにじり、現代のような経済最優先のさもしい国家に日本を貶めてしまった。そうした時代でありながら、「皆仲良く」とか「生き物を可愛がりましょう」、「イジメを無くそう」などと言っても虚しいかぎりだ。農薬という毒を振り撒いて、虫を殺し、鳥獣にも迷惑をかけ、「出来た作物は、みな自分のものにして当然」という、現代の農業人の姿を、日本昔話の欲張り爺さんの姿(結局は大損をする事になる)と重ねあわせる感覚を現代人に求めても、もはや無理なのだろうか。農薬問題は、その毒性の有無を論ずる以前に、そのような近代農法が人として恥ずかしくない行ないかどうかを、まず考えるべきだと思う。
原発事故を見れば明らかだが、効率の良さを求め、禁断の原子の火に手を出した事の戒めは取り返しがつかないほど大きい。その原子力にくらべれば、農薬問題は止めれば何とかまだ自然が元に戻してくれる余地があるのだ。私も対談した事がある無農薬でリンゴ栽培を行なっている弘前の木村秋則氏の神秘的とも思える畑まではいかなくても、感性を磨き、生き物の声なき声に耳を傾ければ、農作業そのものが人間が生きる喜びそのものと一つになる「聖業」としての農業が見えてくるのではないのだろうか。そうして、そのような農業の一番のパートナーとしてミツバチの存在の有り難さが身に沁みるのではないだろうか。そうなれば、現在のように農薬を撒く撒かないで、農家と養蜂家が対立するようなおかしな事態も自然となくなってくるだろう。なにしろ本来はどちらにとっても「お陰さまで助かります」という関係だったのだから。
本書の著者、久志冨士男氏は、そうしたミツバチの中でも人と最も心を通い合わせられるというニホンミツバチの飼育を通して、羽音で蜂の感情も分かるというところまで、このミツバチ達との交流を深められている。そして、その久志氏が残りの人生の全てを傾けて、蜂たちにとって住みやすい(という事は人間にとっても心身の健康が得られる)自然環境を整えるべく奮闘されている。志のある方は、この著者の思いを少しでも実現出来るよう御協力を頂きたい。
武術研究者 松聲館主 甲野善紀
以上1日分/掲載日 平成25年2月15日(金)