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2000年12月2日(土)

11月29日、30日と約2ヶ月に1度の仙台での稽古を終え、30日の午後からは例によって山形県境近くの炭焼の佐藤家へ、榊女史の車に送られてゆく。
そこまではすぐ思い出せるが、佐藤家に2晩泊まって、いま白石蔵王の駅から新幹線に乗って帰途についているのだが、この間のことが順序立ててはすぐには思い出せない。そのくらい日常とは違った時間の流れにいたということであろう。
今回、最も主となる用件は、刀の柄木にと9月から目をつけていたマンサクを入手すること、梓の木の木質を再検討することだが、思いがけず深く印象に残ったのは、佐藤夫妻の太鼓の仲間である高校3年生のT君と親しく話の出来たことである。
太鼓や笛が好きで、高校卒業後も生まれ育ったこの地で仕事をみつけることにこだわったというT君は環境問題にも少なからぬ関心を持っているようで、話していてもその受け答えには誠意があふれており、このような若者と接することは今のような時代のなかで本当に心洗われる思いがした。T君がますます素敵な若者となることを心から祈りたい。
…こうやって書いていると思い出してくる。T君そして米沢の自然食品店R屋の店長さんと佐藤家で会ったのが30日の夜。

明けて1日は、午前中、光夫(佐藤)氏と山に入り、マンサクを1本と梓を1枝手に入れるが、梓のほうは生木でもあまり丈夫な感じはせず、梓に対する未練はこれでなくなった。
昼食は佐藤ファミリーと、いまや他府県にまで知られてきているB庵に新蕎麦を食べに出る。
午後からは光夫氏が炭に焼くコナラの原木のなかから目の通ったものを選んで割り削って、この地で稽古するために佐藤家に置いてもらう杖を造った。
はじめ、適当な丸木にしようと思ったが、まあまあ使えそうに思えたウリハダカエデもどうも弱そうだったし、何よりコナラの強靭さが気に入った。
柄木もコナラにしようかと思うが、カシのように丈夫だろうが、硬くて刀の中子とのなじみがあまりよくはないかもしれない。
とにかく陽が短くて、午後4時を過ぎればドンドン暗くなるし、やりたいことは沢山あるしで、2泊もしていながら、ある面では家にいるより忙しかった。
いつものことだが、今回も佐藤ファミリーの暖かいおもてなしを受け、最後は秘湯峩々温泉経由で白石蔵王駅まで送っていただいた。まったく感謝の言葉もない。

新幹線に乗ってすぐ大阪の名越クリニックの名越氏から連絡が入り、名越院長の中学時代からの親友で、やはり精神科医の安克昌氏の死去を知る。
安教授は阪神大震災の記録『心の傷を癒すということ』(作品社)で、サントリー学芸大賞を受賞。今年の7月、私が郡司幸夫神戸大学教授のお招きで、神戸大学で講義をした時、聴きに来て下さったが、その時はすでに癌を抱え、覚悟の定まった顔をされていた。
癌と知ってからは、現代医療を拒否され、簡素な食事等で静かに最期を迎えられたという。
その話をされた名越氏は、その最期の見事さもあったからであろう、安氏が癌で長くはないことを知った時の動転した電話とは違い、感情に激することもなく淡々と報告して下さった。
安克昌氏の御冥福を心から祈りたい。

以上1日分/掲載日 平成12年12月5日(火)


2000年12月18日(月)

16日は夕方から都内の稽古会の納会を渋谷の鮨屋で行なう。あくまでも各人の動きの質的向上をめざし、会としての催しがほとんどないのが武術稽古研究会の特色の筈なのだが、今年もあと2週間という年の暮れの、しかも土曜の夕方という所々ほうぼうで一番忘年会のありそうな日に30人以上もの人達が集まり、2次会の喫茶店もほとんどの人が参加したようだったから、何か他の会の打ち上げに私も呼ばれて参加したような気分だった。
鮨屋から喫茶店への移動中、私の周囲を談笑しながら歩いている稽古会の人々を眺めていると20年以上も前、武術稽古研究会を創設して半年ほど経った頃、8〜9人で井の頭公園に花見に行った時のことなどが思い出された。
当時は半分以上が女性で、現在のような動きの質の追求に情熱を燃やす人も僅かだったから、とても同じ稽古会とは思えないが、フト気づいてみれば今回の納会の幹事をつとめてもらった中島章夫、安室英治両氏は共に当時から私の稽古に参加していた最古参の会員である。思えば多くの人が出入りしたものである。

そういえば、この日の3日前、13日の夜に稽古に来られた四半世紀にわたる武友の伊藤峯夫氏が以前しみじみと次のようなことを言われていた。
「甲野さんはね、まわりをおかしくする変な才能があるから、気をつけなきゃダメですよ。あなたにかかわると、良くなるか悪くなるか極端だからなあ…」
たしかに私に会ったことで、何かしらのヒントを得、いろいろと拓けた人もいるだろうが、私が別に意識せずに発した言葉で傷ついたりおかしくなった人もいるだろう。人が生きていく、ということはそういうことかもしれないが、知らずに犯した罪は、知って犯した罪より重いという。あらためて人の縁の恐さと不思議さ、そして生きて在ることの罪深さを思った。

今日18日はまた桐朋高校のH先生から電話があり、今日の毎日新聞の夕刊に載った桐朋高校のバスケットボール部の記事がFAXで送られてきた。
最近はインターネット上でナンバに関する情報が飛びかっているというし、やはり今日電話で話をした岡山の中学校の先生で、私の動きを深く研究されて陸上競技の指導をされている小森先生のところへは、オリンピックに出場した陸上選手も関心を持って、先日指導を受けたらしい。どうやら武術に代表されるかつての日本人の体運動の構造についての研究は、いまやあちこちで同時多発的に始まり出しているようだ。
そんなふうに時代の空気は変わりだしているようだが、来年がどんな年となるのかまったく予測はつかない。なにしろ剣術についても昨日17日、私と共にずっと夢想願立について考えつづけていた吉田健三氏が、願立の伝書の絵図から、ある構を思いついたとのことでやってみせてくれたのだが、私もやってみて妙にハマッてしまった。といっても、これがこの先、進展するのか、あるいは一時の事で消えてしまうのか、それすらもまったくわからないのだから。

以上1日分/掲載日 平成12年12月20日(水)


2000年12月28日(木)

2000年の暮は例年にも増してあっけなく日が経ってゆく。それにしてもあわただしい。
そうしたなか20日に会ったPHP研究所のO氏との打合わせで、来年前半、私がおそらく最も力を注ぎ込むことになると思われる本の企画が決まった。

そして翌21日は都内での今年最後の稽古会。
又、この日は稽古会の前に合気ニュースからの依頼で、私の本やビデオを置いてもらっている大型書店何件かの挨拶まわり。自分の本やビデオのあるそばで書店の人に会うのは想像していたより遥かに気恥ずかしく参った。書店では幸い見知らぬ人に声をかけられることはなかったが、途中で寄った岡安鋼材の帰りに赤ちゃん連れの女性に声をかけられる。どうみても武術とは関係のなさそうな雰囲気の人だったが、私の著書を何冊も読まれていてビックリ。

22日は前日から上京中の名越クリニック院長を九段のホテルに訪ねる。PHP研究所のO氏、スタジオボイスのF氏、漫画家のY氏と、しりとりのように次々と面会に人が訪れてくる。そして、名越氏の口から聞くだに凄まじい話が次々と語られ、あらためて名越氏がまさにこの時代と向き合っている仕事人だと思った。
帰り、昨日預けた剣のサンドブラスト加工ができているというので、それを受け取りに岡安鋼材へ。暮れの忙しい時だが、閉店間際だったためか客も私1人。店のシャッターが下りた後も店の奥に招じ入れられ、岡安社長らとの話に時を忘れた。
話を聞いているうち、今はもう製産中止になっているアッサブのK-120というスウェーデンの良質の磁鉄鉱をカラ松の炭で精錬した純良なスウェーデン鋼のストックがあるというのでつい10kgばかり購入してしまう。
今は時間がないし、いつ鍛冶場でこのスウェーデン鋼を鍛てるかわからないが、腐るものじゃないし、いつかはこれで何か切れる刃物を造ってみようという夢に投資しているのかも知れない。

23日は、稽古の後、再び九段のホテルに名越氏を訪ね、すでに来合わせていた岩渕氏と共に、瀬田の身体教育研究所で野口裕之先生の身体調整の指導を受ける名越氏に同行する。科学界の現状について野口先生は岩渕氏にいろいろと質問があったようで、我々が引き上げたのはすでに午前1時近かった。
もちろん終電は出た後なので、九段のホテルへ戻る名越氏と別れ、私は岩渕氏を伴って帰宅。始発が出るまで種々岩渕氏と話し続けた。
岩渕氏を送ってから、しばらく寝て、昼前から道場の片づけ。この日は大掃除をして道場の打ち上げ。

25日は懇意の大工のT氏と、かねて依頼してあった家の修理のための材料を買いに出て、午後からはJリーグのサッカー選手のK氏来館。私がバスケットボール用に開発した体接触の際の技法を応用すると、どうやらサッカーでもいままでにない攻防の展開がありそうだ。
道場での稽古後、一層関心が高まったらしいK選手の熱意にかられ、夕方からの朝日カルチャーセンターでの講座にも臨時の助手というかゲストとして同伴。講座の後、この講座の講師を私と共に務めてもらっている中島氏とO氏らと共にちょっとした打ち上げをする。

そして昨日27日は、一昨日四国の守氏から滅多に手に入らない逸品のうどんを送ってもらったので、その半分を携えて東小金井駅近くの二馬力へ今年の締めくくりの挨拶に出向く。二馬力を預かっておられる篠原女史に会って少しお話し出来ればと思って出かけたのだが、篠原さんが連絡して下さったのか、ジブリから宮崎駿監督も来て下さり、小1時間ほど亡くなられた徳間康快、徳間書店社長の思い出や東映動画時代の方々と30年ぶりの集まりを持ったお話などを次々と独特の語り口でして下さった。
話をして下さっている宮崎監督の様子がいかにも気さくで飾り気がないので、2人っきりで人気のない屋内で(ここで仕事をしていたスタッフの方々は、ここが手狭なため隣駅のビルに移られたとのことだった)話を伺っていても、何かそれがまったく何気ない日常的な1コマのような感じがするのだが(事実まさにそうでもあるわけだが)、栃の大木が見える窓をバックにした宮崎監督の笑顔は、何かこの先ずっとひどく印象深い思い出として私の記憶に永く残るような気がしてならなかった。
二馬力からの帰り道、「宮崎駿という人物は自分のなかにある才能や魅力をみてみぬふりをする達人だな」という言葉が浮かび、何かあの不思議なひとときの説明がついたような気がした。
植島啓司先生や野口裕之先生にも感じたことだが、才能がありすぎるほどある人というのは、いかにその自分の才能に自らを破壊されないようにするか、ということに人知れぬ苦労があるのだろう(それがまた魅力になったりするからまた大変)。
そういえば名越氏が今回上京した折にテレビやラジオ出演の話に積極的に乗るのは、公の場に出て自分の思っていることをしゃべることで、精神的な宿便をとるようなものなのだと語っていたことも印象的だった。
名越氏はまだまだカウンセリングの技術に磨きをかけている段階とはいえ、いますでに「神さま仏さま名越さま」というぐらい、名越氏の存在を命綱として現世で命を保っているクライアントが少なからず存在しているらしいことを思うと、この天才精神科医がこの先どんな生き方をしてゆくかは興味があると同時にその状況の大変さに私などは、ただただタメ息が出てしまう。
しかし、そう言っている私にも21世紀は来る。さてさて2001年、私にはどんな出会いがあるのだろうか。

以上1日分/掲載日 平成12年12月29日(金)


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