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1999年11月1日(月)

10月28日に東京を発ち、この日は岡山の中学校で陸上競技を指導されている小森君美先生のお世話で稽古。柔道、剣道を指導されている先生の他、主に中学生の陸上競技部員が男女合せて20人ほど。見学者も入れれば40人近かったように思う。途中から萩原岡山市長も見学に来られた。
中学校が荒れている現今、集まった中にシッカリした表情と物腰の中学生を見ることが出来たのは救いでもあったし、私としても楽しいひとときを過せた。
夜は(といっても稽古会が終ったのが夜10時過ぎ)小森先生ともうお2人の中学の先生、そして広島からわざわざ来られた長距離ランナーの松本政大選手と共に、旅宿で盛大な川蟹と川海老、それに果物という変ったパーティー。いろいろお気を遣って下さった小森先生に改めて御礼を申し上げたい。

翌29日は広島の白石トレーナーの治療院へ小森先生と向い、夕方は中学校の柔道部で技の解説。今回は居つかないこと、身体を捻らないことなどを重点的に説き、とにかく支点の消えた動きがどのようなものかを味わってもらった。
夕食というより夜食は、最近頭角を顕し始めたH君とH君の父君を交え、白石治療院で7人ほど一緒に牡蠣フライ。この時H君のお父さんや白石治療院の若いスタッフと動きを合せたりして、また稽古をしてしまった。
食事会解散の後、白石トレーナーにホテルまで送っていただいたが、薄暗いそのロビーで自販機のジュースを飲みながら、1時間半ぐらいだろうか2人で話す。率直にご自分を語られ、私に相談される様子に改めて白石宏という方の人柄の真っ直ぐさに感動した。

30日は松本政大選手と広島駅で待ち合わせ一緒に福山へ行き、福山港からフェリーで多度津へ渡る。話していてこの松本選手もまた希有な人柄だと感心した。8月に2時間12分で北海道マラソンを優勝で飾られた方だが、今後さらに研究を重ねられ世界中が驚く記録を出されることを心から祈りたい。
この日の稽古では下段の蹴りに体の沈みを使った新たな対応法の発見があった。
夜は丸亀の常宿オークラホテルへ。例によって守伸二郎氏の至れり尽くせりのお世話に今回も甘えさせていただく。

31日は新大阪駅で朝日新聞の石井晃論説委員とトレーナーのA氏とに会い、途中喫茶店で少し話をしてからクボタの武道場へ。
関西の稽古会は集まる方々が一番多彩だが、この日も居合、剣道、柔道、空手、中国武術等、例によっていろいろ来られていた。それに時代小説『双眼』の著者・多田容子女史、素晴らしい切り絵やイラストの作家でもある三木女史と、女性陣は一芸に秀でた方が揃っていた。
稽古は、元柔道選手のK氏やフルコンタクト系空手組織の幹部・T氏などと様々な形で手を合わせ、私もいろいろと勉強になった。
そしてこの日、誰よりも強烈な存在感と個性で私を圧倒したのは医学生のS君。この、齢すでに30歳になろうかという医学部の5年生S君とはもう10年ほどの付き合いだが、私が名越康文氏と知り合いはじめた頃、名越氏が松聲館の関西4大奇人の1人と認定したように、その情熱の深さと優しさと頑固さは共に普通人の数倍か数十倍で、しゃべり出したらとどまるところを知らない。時と所を得たら、世の中をひっくり返すほどの働きをするだろう。彼が今後良い出会いに恵まれることを心から祈りたい。
夜は関西稽古会の世話人・野口一世氏に、名越氏宅まで名越氏ともども送ってもらい、そのまま午前3時過ぎまで話し込んでから寝た。

そして今日1日は、名越クリニックへ行って名越氏との共著の件で打合せをする(この日、この本の製作出版社が変るというおまけもついた)。
その後、田村スポーツビジョン研究所と、近くにある株式会社ニュー・メディカ・テック(硝酸性窒素や放射能も除去するという驚異的な性能を持つ浄水器のメーカー)に緊急時浄水システムの説明を受けに行く。前田社長も説明に出てこられる。この会社は社長が誰よりも詳しいという原初的戦闘集団(部下は大将と戦って負けたから部下になった)のような会社で、それだけに社長の情熱は凄い。
それにしても日本の環境基準の甘さは経済最優先の表われであろう。その日本の基準の甘さにつけ込んでたくさんの浄水器が出ているが、高性能をうたっても実態はなかなか効能書通りとはいかないようだ。例えば薄めた烏龍茶を通すと、ほとんどそのままの色で出てくる(烏龍茶はその粒子が非常に細かいので、高性能をうたっていてもそれが本当にそうかどうかは烏龍茶を通すことで、まず大体見当がつくらしい)。
ここについ長居をしてしまい、帰りの新幹線が危なくなったので慌てて出る。
帰りは名越氏の朝日カルチャーセンターでの講座担当のM女史に新大阪まで送っていただき、ようやく最終の゛のぞみ゛の切符を確保。あまり時間もなかったが新大阪駅地下の美々卯でうどんを2人で食べる。この店に入ると今から3年前の10月、初めて植島啓司先生にお会いした時、教授会も引越しの準備も(その日は翌日引越されるとのことだった)放り出して私に付き合って下さり、何時間かここでお話したことを懐かしく思い出した。

以上1日分/掲載日 平成11年11月6日(土)


1999年11月3日(水)

昨日は夕方から紀伊國屋ホールで、紀伊國屋書店とT書店主催の科学に関するあるセミナーが開かれ、養老孟司先生もお話されるというので、T書店の方からお招きを受けてセミナーを聴講しに出かける。
会場に着いてみるとT書店のN氏が待っておられ、ホールの上階にある控室へと私を案内して下さった。
私の姿を見つけられた養老先生は一瞬驚いた表情をされたが、すぐ悪戯っぽく「あっ甲野さん来たんなら、後は甲野さんに任せて僕は帰ろうかな」と冗談を口にされ、しばらくそこでお話させていただいた。
セミナーでは聴講者として初めて養老先生のお話を伺ったのだが、その面白さに改めて「何てセンスのいい方なんだろう」と感嘆してしまった。

ところが、まさか、この養老先生の素晴らしさとバランスをとるためでもあるまいが、もう御一方の日本人のメインゲストのE先生は、その知名度は世界的な方で、世界中に知れ渡った賞も受賞されておられるのだが、その語られることの内容の貧しさに私は思わず耳を疑ったほどだった。
9月に養老先生と共著という形で出した『自分の頭と身体で考える』(PHP研究所)の中で養老先生が「僕の先生が七十歳になって、同窓会へ行ってね、『七十歳の同級生同士の話題って何だか、君分かる?病気の話、孫の話、勲章の話、これで終わりだよ』っておっしゃっていました。歳取るとその三つしかないみたいですね。」と述べられていたし、名越康文氏から「ほとんどの科学者は本質を考えるより『お父ちゃんより偉い』と言われたくてやっているようなものですよ」という話は再三聞いていた。
しかし、受講料も払って聴きに来ている人々の前で、科学の話とは名ばかり、結局自分が世界的な賞を取ったということの自慢話を繰り返しされている姿に、はじめて、養老先生や名越氏そして何度も私に科学界の現状の馬鹿馬鹿しさを話して下さった岩渕輝氏の言葉に嘘がなかったことを知らされたのには本当にガックリきた。
しかし最初はガックリだったが度重なると無性に腹が立ってきて、聴き続けるに耐えず席を立ってロビーに出てしまった。
この夜の2日前、大阪の稽古会が終った後で名越氏が名付けた関西4大奇人の1人でマジックをよくする医学生のS君から、マジシャンがまずわきまえなければならない最低限の教えに「他人には出来ないことが出来るようになったからといって、自分が他人より人間として偉くなったなどと錯覚しないこと」というような一項があると聞いたが、これはまさに世界的な発見をした科学者にも当てはまることだと思う。
しかし、会場を出てロビーで聴いていると(養老先生の話も聴けないのはあまりに残念なのでロビーにいた)、しまいには自分の出た高校の自慢まで始められたE先生に対して、怒りよりも不憫になってきた。このE先生の晩年をこれ以上汚さぬためにも、身近な人が講演その他、公の席にもはや出られぬようマネージメントをしっかりやるべきであろう。
しかし、「人の振り見て我が振り直せ」という。私もこの先、このようなことを後学の人に言われぬように心したいと思う。

以上1日分/掲載日 平成11年11月8日(月)


11月8日(月)

今日は大島渚監督の映画『御法度』の完成披露試写会に、大島プロダクションからのお招きで行く。
観終わって電車に乗った時、2時間ほど前、この映画を観るためにJR有楽町駅で降りようとした時の記憶にそのまま2時間後の意識が続き、映画を観た記憶はずっと昔のような印象を受けていることにひどく驚いた。
つまり、今、映画を観に行ったという新鮮な印象がまったくないのである。これはただごとではない。そういう風な時間概念を超えさせるのが大島作品なのかと初めて思った。
勿論、改めて記憶を手繰ればけっこう細部まで憶えている。私の座席の隣が、この映画の実質主役の松田龍平君の御家族だったから、大島瑛子女史が「随分、私に気を遣っていい席を用意して下さったのだな」と思ったし、拙筆の゛御法度゛のタイトル文字は、もう他人事の様に観ることが出来たし、松田君は好演だったとも思った(松田君の挨拶で感じたのは、役者というのは自分の生き方やスタイルなど持たず、何色にでも染まるような状態にしておくのも1つの才能なのだろうということだった)。
映画の中で気になる点が無かったわけではない。往時の人間が現代風に手を振って歩いたり、座布団を使ったり、コジュケイの鳴声が聞こえたり(この鳥は大正になって日本に放たれた鳥のはずである)と、私としてはドキッとするところもあったが、とにかく美術館で何枚かの絵を観たような印象だった。
上映後、大島渚監督に、大島瑛子女史の御紹介で初めて御挨拶したが、私としては7月以来何度もお会いし、この映画のために我が身を削るような思いをされてきたことが実感として伝わってきていた大島瑛子プロデューサーのために、何よりもこの映画の完成をお祝いしたいと思う。

以上1日分/掲載日 平成11年11月14日(日)


1999年11月9日(火)

『御法度』試写の翌日は、早朝家を出て仙台へ。
この日、午後からある稽古会の前に、まず仙台の西公園にある市民図書館に渡辺洋一氏を訪ね、いろいろと教えを乞う。
その後、仙台稽古会の世話人・森文夫氏の迎えで宮城県青年会館へ。この日は5日に発見した゛大円の原理゛による技の解説で終始する。

1999年11月10日(水)

この日は例によって正午まで約2時間半稽古し、あとはこの青年会館のレストランで稽古会に参加された方々数名と食事。10月末、新たに大改装し、料理人も一新したレストランは以前とはメニューも味も大変りで向上。「こんなこともあるのか」と一同驚く。

この後はいつもなら宮城の山中で炭を焼いている佐藤光夫氏宅のところに行くのだが、今回は佐藤ファミリーのかねてからの知り合いで、1度私を紹介したいという話が出ていた、岩手の早池峰山の近くで桶を作っている奥畑氏のところへ、私を連れて一家で出かける話になっており、稽古会の会場である宮城県青年会館まで車で迎えに来ていただいた。
そして14時近く、この仙台の稽古会でお世話になった白川祥雲先生、森文夫五段、菅野英雄五段といった方々のお見送りを受けて出発する。
行程約200q、奥畑家が近づいてきた頃、17時というのに日はとっぷりと暮れ、窓を開くと目が驚くほどの寒風、気温はおそらく零点下に近いだろう。
車のライトに驚いた表情の狸が浮び上がる。多少道に迷ったが無事到着。見上げればまさに降るような星空。
何事にも凝り性な気質が漂う奥畑正宏氏と、明るく話を聴いているうち何度も吹き出してしまう快活な夫人の智穂さんにすっかり打ち解けた。
この日、私にとって一番ありがたかったのは風呂。ヒバの木の桶で、湧水を薪で焚いた風呂などいまどき滅多に味わえない。桶の丸さが背中に心地よく随分贅沢な思いをした。

1999年11月11日(木)

朝、奥畑家で目覚め、その眺望のよさに驚いた。気温は零点下5度とのことだったが、それほど外を歩いても寒さは感じなかった。
朝食後、かねてから鍛冶に強い関心があるという奥畑氏に火造りの手ほどきをする。佐藤氏に簡単な鍛冶道具を持ってきてもらうよう頼んでおいたが、忙しさで佐藤氏が忘れたため、すべて奥畑氏とその周辺で手に入るもので鍛冶道具を間に合わせた。
まず桶造りの工房の前の地面を浅く掘り、そこに桶のタガにする竹の一部を切って先を尖らせた竹ベラを打ち込み、これに自転車の空気入れを噛ませる。竹ベラの上近くに直径5oほどの穴を空けておき、空気入れの先はそこに入るようにする。
次にあり合せのトタンを切って直径3p長さ12〜13pに丸めて、空気がここを通るようにする。ここに桶のカンナ屑や木っ端を置いて火をつける。その上に風呂釜や薪ストーブの消炭を載せ、吹子代わりの自転車の空気入れで風を送る。
そしてそこに、あり合せの8o角くらいの昔の引き戸のレールを入れ、この鉄が赤むまで風を送る。そしてやはり、あり合せの鉄道のレールを切ったものを金床としてハンマーで打って先を尖らせたり、8角に打ったり、細く伸ばしたりと、何通りかまず私が打って見てもらい、続いて実習してもらった。
鉄棒を四角く伸ばすことは鍛冶技術の基本だが、初心者は例外なくといっていいほど叩いているうちに菱形になって戻らなくなってしまう。ところが奥畑氏はさすがに手作り職人だけあって、たちどころに私の言わんとしているところを了解され、1時間ほどのうちに形になってきた。

もう少し本格的に伝えたかったが、道具が無いことと時間不足で、一区切ついたところでこのにわか作りの鍛冶教室を終え、我々4人(佐藤夫妻と、1歳10ヶ月の長女遍ちゃんと私)は奥畑ファミリーに見送られ、次の訪問先である戸田家へと出発した。
出発して間もなく、晴れ渡った空にクッキリと早池峰山が右手に浮ぶ。山麓はブナやミズナラの大木にヒバやツガが混じり、写真で見た白神山のブナ林そっくり。里山の森とはハッキリと違う迫力に思わず息を呑んだ。山容を見ながら「いったい自分はどこで何をやりたいと思っているのだろう」と今更のように考え込む。

その間も車はひた走って、やがて東北自動車道に入り、一ノ関のインターチェンジを出て、佐藤夫妻(殊に夫人の円さん)と大親友だという戸田幸枝さんと夫君でログハウスの大工をされている戸田仕(たくみ)氏が、まさに建築中という戸田家へ。
家はログハウスということで楽しみにしていたが、実際に着いてみて驚いた。曲がりくねった赤松材を巧みに組み合わせた家は、いわゆるログハウスとは一味も二味も違っていて、その規模の大きさと造形の巧みさには舌を巻いた。
実際に仕氏と会って挨拶も交したが、シャイで小柄な30代半ばのこの人がこの家を造ったとはとても信じ難かった。
夫人の幸枝さんは佐藤家にあったカレンダーや絵ハガキの絵から優しさが人の何倍もある人だと思っていた。実際に会ってみるとこれまた絵に描いたような十種(整体協会の創始者・故・野口晴哉先生が分類された体癖区分で人や動物に最も愛情を注ぎ込むタイプ)と思われる人で、私としては大変納得できた。

話は尽きず、名残も尽きないが子連れで遅くなるわけにもいかないので、1時間ほどで再び出発。20時頃佐藤家に着く。旅の疲れで全員22時過ぎには寝てしまった。

以上3日分/掲載日 平成11年11月14日(日)


1999年11月15日(月)

無影心月流の開祖・梅路見鸞老師の内弟子として武禅道場に寝起きをされていた池田正一郎先生にお話を伺うため、合気ニュース編集部の木村郁子さんと一緒に海老名にある池田先生の御自宅と弓道場を訪れる。
今年86歳になられたとのことだが、お元気で昔のことも、事細かに憶えておられ貴重な時を過すことができた。
お話を伺った後、池田先生からの御所望もあったので、弓道場で私の抜刀術や体術等をライターの松崎氏を相手に演武。最後に畳を上げて裏返し、手裏剣術も御覧に入れた。
これに対し、池田先生も一手射を行じられ、すべてが終った後、木村さんと私を海老名の駅まで御自身ハンドルを握られて送って下さった。

11月9日から12日までずっと東北で、12日は池袋コミュニティ・カレッジへ直行し、帰宅したのは13日の午前1時をまわっていた上、13、14日と連続して稽古。おまけに旅行中たまっていた郵便物やらFAXの対応で疲れが出たのか、15日の夜は泥のように寝た。

以上1日分/掲載日 平成11年11月20日(土)


1999年11月25日(木)

『鳩よ!』(マガジンハウス)の時代小説特集の中で、『双眼』(講談社)の著者・多田容子女史と私との対談が載ることになり、この日、大阪から多田女史上京。松聲館で午後3時過ぎから対談。
4年前、多田さんに初めて会った時から、いつかこういう日が来る予感がしていたが、それが現実に起ると、やはり人と人との巡り合わせの不思議さを思わざるを得ない。

1999年11月28日(日)

群馬大学の合気道部を母体として生まれた同志会の合宿に招かれて桐生へ行く。
27日の午後から夕方まで稽古、その後、皆と合宿所近くのホテルの露天風呂に行き、合宿所に帰って刺身や鮨桶を囲み、午前2時過ぎまで話が弾む。
この同志会設立を呼びかけた小池弘人氏が池袋コミュニティ・カレッジの私の講座を訪れたのが7年ほど前。当時はまだ医学部の学生だった小池氏だが、今は青年医師として活躍中。この夜は当時の小池氏の心情や、その後、同志会を育ててきた思いを改めて詳しく聴いたが、その純情さに胸を打たれた。
私の技や武術に対する考え方をひとつの参考として10人を越える若い人達がサークルを作り集って稽古をしているということに、何か感慨無量だった。ただ、この感慨は今の時代、事実を知りたいという純粋な思いを持った若者達が、ひとつの大学の部の中からもこれだけの数出てきたということに対してであり、この会の結成のキッカケに私がいるということは奇妙なほどに抜け落ちていた。もっとも、そんなことを意識したらとてもではないが照れくさくて、そのような合宿へ来ることは出来なかったろう。しかし、まあ、この事実をみても、私が大きな組織の長にはおよそ向いていないことは明らかだろう。
それにしてもこの同志会の先輩・後輩の間柄の雰囲気は実に和やかで(その分、稽古中はお互い一切手を抜かないためなかなか技がかかりにくいが)、武道のクラブもこういう状況だったら国士館大学剣道部が消えることになったような陰惨な事件など起りようもないと思った。
決して安易に会員を増やすつもりのない同志会とのことだったが、そのうち同志会に入りたくて群馬大学を受験したいという若者が現れてきても不思議ではないと思うほど、今回の合宿では参加者全員の情熱で実のある2日間を過すことが出来た。
お世話になった方々にここで改めて御礼を申し上げたい。

以上2日分/掲載日 平成11年12月3日(金)


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