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1999年4月8日(木)

4月6日、7日と仙台であった稽古会の後、約4ヶ月ぶりに東北の山中で炭を焼いている佐藤夫妻宅に、Sさんの運転する車で向う。
途中、ガスと残雪につつまれ、一瞬、夢の国に来たような思いを味わった。
佐藤家の周辺はまだ春の気配がわずかに漂う程度であったが、やはり木々を観ると気持が癒される。
『もののけ姫』以来、以前のように単純に、「ああ、緑はいいなあ」とは思えなくなったが、森はやはり私にとって絶対的ともいえる離れ難さがある。
1泊して、翌日、佐藤光夫氏に昨年の秋、私が伝えた薪割りの成果を見て欲しいと声をかけられ、一緒に薪割りをする。
気軽にはじめた薪割りだったが、光夫氏の動きを見ていて、ここ最近ずっと考えていた体の沈ませ方に大きな気づきを得た。
つまり、体をただ沈ませるだけでは、体重が薪を割るヨキ(斧の一種)に乗らず、自分の足にかかってしまう。
そこで、沈ませつつも浮く、ということが必要なのである(この気づきは私にとって相当大きかったように思う。詳しくは7月上旬、合気ニュースから刊行予定の『武術の視点』を御覧頂きたい)。

1999年4月12日(月)

ここ約1年半ほどの間、私が最も会いたいと思っていた、映画『もののけ姫』の作者、宮崎駿監督とお会いする。
宮崎監督との面会については、私の畏友の加藤晴之氏がかねてから心にかけていて下さったようだが、3月28日の深夜、加藤氏からFAXが入り、この日を迎えることが出来た。
『もののけ姫』で根源的な絶望感に打ちのめされて以来、特に誰に会いたい、ということもなかったが、それでも誰かと問われれば、やはり私にそれほどの絶望感を与えた人物に1度は会ってみたい、という思いはあった。
ただ、会っても特に何を話すということもないのだが、生身の宮崎監督と接したいとは思い続けていた。
それがすでに述べたように2週間ほど前、突然に宮崎監督の方も私に関心をもって下さっており、招いて下さる形で伺えることになったのである。
この日はスタジオジブリのスタッフにも動きを見せて欲しい、との御要望もあったので、着替えも持って伺い、数十人のスタッフの方々に動きを体験していただきつつ解説を行なった。
その後、この日私が宮崎監督のところへ伺うことを聞かれた糸井重里氏もみえられていたので、鈴木敏夫プロデューサーやその他3〜4人の方々としばらく話をし、その後2階の宮崎監督の書斎に招かれ、1時間ほど2人で話をさせていただいた。
予想通りお会いしても特に何を話すということもなかったが、「ああ、やっぱりこういう方もいらっしゃるのだ」ということを実感できたことは私にとって何よりの収穫だった。
加藤氏にあらためて感謝の意を表したい。

以上2日分/掲載日 平成11年6月29日(火)


1999年4月24日(土)

午後から夕方までは、京都大学のグラウンドにいた。
この日は、京大アメリカンフットボール部の水野弥一監督のお招きでここに伺ったのである。
水野監督との御縁は、大阪江坂の田村スポーツ・ビジョン研究所の田村知則氏からのもので、田村氏がいったい私のことをどう話されたのかわからないが、「是非一度」と以前からお話しがあったので、この日は夜、京都の磔磔(たくたく)でカルメン・マキ・ライブに行く予定にしていたので、それまでの時間、伺うことにしたのである。

一見、江戸時代の火消しの組頭を思わせる風貌の水野監督は、自ら車を運転して今出川の駅まで私と田村氏を迎えに来て下さり、直ちにグラウンドへと案内して下さった。
この日は生憎、雨が降っていたが、雨中、アメフトのおおよそのルールや基本的な動きを解説して下さった。
しかし、なんといっても実際体験してみなければ私もつまらないし、水野監督や学生諸氏も私の動きがいったいどのようなものなのか、判断の下しようもないと思ったので、直ぐにユニホームシャツや靴、それにアメフトのプロテクターを貸していただき、初めてグラウンドでアメフトを体験した。

いろいろなバージョンで動いているうち、その熱気のせいでもあるまいが雨も上がり、私にとっても楽しいひとときを過ごせた。
支点を消すことによって、40s以上の体重差でも崩したり、投げたり(アメフトでは、守備側は相手の胸のあたりのプロテクターを掴んで投げるようにして崩すことも許されている)できるということに学生諸氏も興味を持ったようだったから、なかには十分考えて、これを取り入れる選手も出てくるかもしれない。
その後、水野監督の御自宅に寄せていただき、話に花を咲かせているうち、たちまちライブオープンの時間が迫ってきてしまったので、監督に磔磔まで車で送っていただき、次回を約してお別れした。

古い酒蔵を改造したライブハウス磔磔は、いかにも京都という感じ。
中に入ると、2月の朝日新聞で゛対論゛を企画して下さった石井晃論説委員や、今度、合気ニュースで出す5冊目の術理本(タイトルは28日、『武術の視点』と決定)の表紙の写真撮影をお願いした奥村やよい女史とその一行がすでに先着されていて、その後、マキさんのホームページを開いているS・HIROMI女史、今年の2月に私の道場に来られた京都大学助教授のS女史と大学院のH君、など顔見知りの人達も揃った。(※S・HIROMIさんのHPは2000年1月、公式HPに吸収合併されました)

先週16日(金)の下北沢でのライブが凄かったので十分期待していたが、結果は十二分だった。何度か鳥肌が立ったし、息を呑んだ。

ライブの後、磔磔の2階で簡単な打上げ。
今回、機材の輸送を担当した、元大型トレーラーの運転手で田中聡氏の著書『超人へのレッスン』(中央公論社刊)にも登場(拙著『縁の森』(合気ニュース)にも登場)した一森秀夫氏とも久しぶりに話をする。
ちなみに、現在の一森氏は生来の器用さと、その後身につけた諸能力を駆使してスーパー便利屋を開業、ひっぱりだこらしい。
またこの日は、マキさんのライブではいつもすべてを心得て献身的に手伝っている宮下美樹さんの誕生日。春日博文氏が階下からバースデイケーキを捧げ持ってきて、皆で美樹さんを祝う。美樹さんのとびきり嬉しそうな顔が印象的だった。

1999年4月25日(日)

この日もハード・スケジュール。
いつもは1時からの関西稽古会を午前11時からにしたのだが、この日集まったのは、なぜか一癖も二癖もある人がほとんど。
前日、京大アメフト部員との体当りでアザだらけの腕を再び酷使。ただ、まだ気付いて10日と経っていない、坐りの正面の斬りは、頑張られても皆に通った。これは、私が稽古を始めてから、一番技らしい技かもしれない。
稽古の終り頃、以前、関西稽古会の常連で、その後、医学部に入学以来ずっと姿をみせなかったS君が突然登場。4年のブランクを感じさせない相変わらずのユーモアたっぷりに思わず笑ってしまう。

稽古会終了後、稽古会の世話人、野口一也氏の車で神戸のライブハウス、チキン・ジョージに向う。
同行者は、いよいよ来月、時代小説の作家としてデビューする多田容子女史、そしてS君。車に乗りきれず電車で会場に向ったのは四国稽古会の世話人の守伸二郎氏。
そして、この日のチキン・ジョージは、名越康文氏一行、植島啓司先生一行、それに2夜連続のS・HIROMI女史、奥村やよい女史、林修三・有朋塾(中国語学校)塾長などの華やかな顔合せで、私から拡がったとハッキリわかる人達がこの日のライブハウスの観客の1割以上にはなったと思う。

ライブは前夜の京都を凌ぐ盛り上りで、アンコールの2曲が終っても拍手が鳴りやまず、マキさん再度登場。お陰で数年ぶりの゛サマー・タイム゛を初めてアカペラで聴くことができた。
その成功のお陰で20冊持ってきた鼎談共著『スプリット』(新曜社)も完売。本を売ってくれたS君によれば「40冊あっても売れたと思います」とのこと。
感極まって泣いた人も大勢いたようだった。やはり、カルメン・マキは凄い!

ライブ終了後、近くの中華料理店で打上げ。植島先生も残ってくださったので、より印象に残る楽しい一夜となった。

1999年4月26日(月)

この日は、帰宅する前に名越クリニックオープンのお祝いに、私が鍛った長い燭台を持って、初めて同クリニックを訪ねる。
受付がカウンター風、名越院長は大嫌いな白衣を着ずに普段着姿。これほど医院らしくない医院は日本中探しても滅多にないだろう。
ちょっと寄るつもりが、ついつい長くなり、ついでに名越氏との対談本の企画までしてしまった。
これで又、忙しくなる。

以上3日分/掲載日 平成11年5月5日(水)


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