2001年9月4日(火)
9月4日午前2時、気温21度。ついこの間までの暑さが嘘のようだ。空気の冷え込みと共に最近陽が沈むと樹上で鳴く青松虫の合唱が大きくなってきていたが、昨日は雨がかなり降っていたせいかそれほどでもなかった。
ここ10日ほどの間は特に何をしたというほどの記憶もないが、無数といっていいほど細々とした用件が目の前に積み重なってきていて、叶わぬまでもそれらと取り組んでいた。
ただそうした中でもいくつか記憶に残ることはある。
すでにこの欄で書いたが、山尾三省氏が亡くなられたこと。山尾氏との間には共著を出す話があって、三省氏も了解されていたのだが、今となってみると何か今生では私の修行不足で一緒に本を書かせていただけなかったような気持ちがしている。そんなことを思っていると、私が「心の故郷」とも思っている宮城の山中が眼の底に拡がってくる。その地に住む佐藤光夫氏は三省氏の本を読んでいて「三省さん」とつぶやいただけで熱いものが込み上げてくると語っていたことがあったほどに三省氏を「心の師」と深く敬愛していたから、光夫氏の悲しみはいかばかりかと思う。
この三省氏のことは何と言ったらいいか、心が自分の中から何か遠のく哀しみだったが、ホッと心がゆるむこともあった。
それは私の畏友の一人である加藤晴之氏長年の苦心のスピーカーがカタログハウスから売り出され、加藤氏のスピーカーを5年越しで待っていた名越康文氏の手に渡ったこと。
このホームページにとリンクしている名越氏のホームページを見ていただければ分かると思うが、この「加藤晴之さんの紙筒スピーカー」を聴いた名越氏の感動はただならぬものがあったようだ。私のところにも8月31日の夜電話がかかってきて、「随分久しぶりに『幸せ』な時間を過ごしました」とのことだった。
加藤氏のスピーカーがカタログハウスの『通販生活』に載ることについては、コピーライターの糸井重里氏の強い推薦があり、その糸井氏と加藤氏を二馬力(宮崎駿監督のアトリエ)で結び付けた仲介役として関わった私としては、名越氏の感動やこのスピーカーが『通販生活』のヒット商品のなかでも特によく売れているという話を聴くのは嬉しいことである。
その他は講座や取材の企画や相談、問い合わせの手紙への返事などで時間が消えて行った(この中にはなかなか素晴らしい方もおられ、つい話し込んで益々時間が無くなった)。
ただ、稽古は比較的よくやったと思う。そのお蔭か体幹部の動きを直に手に伝えようという工夫は打剣を中心に進展をみせている。
跪座の状態から約三間で下から手を持ってきての打剣で剣がコンと的に刺さり、抜くのにかなり抵抗があるという状態は昨日初めて出た。この下からの柾目返のように手を持ち上げての打剣の稽古は、やり始めた時は三尺ほどの距離だったことを思うと、ちょっと夢のようだ。
この手裏剣術の動きの向上は、当初考えていたように体術にも反映されているようで、たとえば両手持たせの直入身などで、相手の払いや゛いなし゛が接点からこちらに及ぶ以前に、こちらの力を通し、技として成立させるということが、上手く言葉にならないが次第に実感として得られつつある。
以上1日分/掲載日 平成13年9月5日(水)
2001年9月8日(土)
朝日カルチャーセンターの講師を私と共に務めている中島章夫氏のとりもちで、以前からお会いしたいと思っていた関根秀樹氏と今日縁がつながった。もっとも電話でお話ししただけで、まだ実際にお目にかかってはいないが、多分近日中にお会いすることになるだろう。
関根氏は中島氏の大学の後輩で(といっても今回私との縁をつないでもらうまで一度も話をした事はなかったそうだが)、以前中島氏と出した『縁の森』 (合気ニュース刊) の中でコメントを戴いた中島氏の恩師である岩城正夫先生の教え子の一人との事である。岩城先生が研究されていた原始技術に興味を持ち、キリモミ式の回転摩擦発火法で6秒という世界記録の保持者でもあるらしい。
関根氏の御名前は、以前からチラチラとみかけていたが、最近『ナイフマガジン』に゛鉈とナイフ−日本民俗ナイフ考−゛という連載を書かれるようになってから、急に気になってきた。なぜかというと、この連載は始まってまだ何回にもならないのだが、氏の刃物に関する該博な知識と思い入れの深さには圧倒されたからである。私も鍛冶仕事や刃物とその制作については、そうそう人にはひけをとらない程度の知識は持っているつもりだが、関根氏の詳しさには完全に脱帽である。是非一度お会いしたいと思っていたところ、中島氏の骨折りでつながったのである。電話で御挨拶程度と思ったが、ついつい15分ばかりも話し込んでしまった。お会い出来る時が楽しみである。
ただ、この電話の中でひとつ私にとって痛恨のショッキングなニュースを知らされた。それは、秋田の阿仁のマタギ鍛冶として今や全国のその筋の人達には知られていた西根稔氏が亡くなられたという訃報である。
西根氏のことは、現在のように広くそのお名前がナイフや刃物の業界で知られる以前から、私が仙台の稽古会に行った折、当時よく稽古に来ていたA氏から話を聞き、一度は訪ねたいと思いつづけていたのである。A氏から聞いた、西根氏が熊と対峙した時、こだわりの秋田杉の柾目の鞘から、最も力の入らない角度でフクロナガサ(山刀)を抜いて斬りつけるという話は、抜刀術の術理とも照らし合わせて極めて興味深く、是非実際にその動きを見せていただきたいと思っていたのだが…。8月28日に亡くなった山尾氏といい、西根氏といい自然と深く関わって来られた方が亡くなられるのは淋しいことだ。謹んで御冥福をお祈りしたい。
以上1日分/掲載日 平成13年9月11日(火)
2001年9月18日(火)
時計を見ると9月18日の午前2時。今まで一度も感じたことのない感覚に、やりかけたこと全てを止めて、今これを書いている。
何が私の心の中で起ったのかを検討するために…。
最も大きな原因はおそらく9月11日以来の世界中を巻き込んでいるテロ事件に関して、「人間の正義とは何なのか」あらためて考え込んでいるためだろう。これから始まるであろう世の混乱への憂鬱さ。そして、その上に私の忙しさが常軌を逸した状態になっていること等が重なって、思考が飛びそうになったかららしい。
ここ1週間、急ぎの校正が、本1冊と連載原稿とあり、その上、何度も出かける用事があった。
また、9月末の仙台、10月初めの佐賀、熊本、京都、大阪とまわる予定に、10月末の予定が重なって日程調整、持参品のチェック、送り方の検討。
そしてその間、技にかなり大きな気づき「趺踞からの展開」等々が重なって…。
…今回は感情も絡んでおり、そうした思考は、身体を使う技のように上手く同時並行処理は出来ないから(というか、それでもそれをやろうとして)、思考が飛び、フト、一体、今自分が何をやろうとしていたのか忘れてしまう。
そのため、突然ガクンと飛行中のエアポケットに入ったような感覚が発生したのだろう。
この1週間、新高円寺駅近くのコーヒーショップ夢屋のマスターと出会ったり、名越氏らと野口裕之先生のところで又その卓抜した発想をうかがったりといろいろとあったのだが、何だかもう1ヶ月以上も前のことのような気がする。
これからいよいよ混迷をきわめる時代に直面するだろうが、その迷いのなかから何かをみつけられるのだろうか。みつけられるとしたら、私がずっと抱えている運命の「定・不定」の一致の体感しかないように思うのだが…。
以上1日分/掲載日 平成13年9月19日 (水)
2001年9月19日(水)
昨日は昼前に家を出て、I女史と昼食を供にしながら今後の講座についていろいろ話し、1時からは朝日カルチャーセンターで、古代の金属工芸について、奈良県立橿原考古学研究所副所長で付属博物館の館長をされている泉森皎先生の講座に出席させていただく。古墳期の剣の拵のきらびやかさには瞠目した。中国の影響というより西域の文化に感じた。講座の前後で泉森先生に個人的に古代の金属精練法について伺えたのは幸いだった。
その後、朝日カルチャーセンターのスタッフの方と講座の打ち合わせをして、そのまましばらく講師の控室で原稿の校正などをし、6時からは、この朝日カルチャーセンターが入っている住友ビルの斜め向いの京王プラザホテルでPHP研究所のO氏と企画の打ち合わせ。新人のO氏も同行されていて、9時過ぎまで3人でいろいろと話をする。
帰ってすぐ『剣の思想』の共著者である前田英樹氏へ電話をして、私の「あとがき」原稿をFAXで送る。それにしても先日戴いた前田氏の「あとがき」は見事だった。あまり見事だったので、私に対する過分な評価も、誰か私とは関係のない人物が見事に描写されているように思えて、思わずそのまま読み込んでしまった。前田氏との電話の後、S氏からFAXで送られてきた松聲館のホームページ原稿の校正やら何やらやっているうちに、又午前2時をまわる。やることは山のようにたまっているし、ここ数日特に寝不足なので寝ようと思うのだが、何だか私の体が何かに勝手に自動操縦されているようで、2時半過ぎから稽古。
打剣、八相から、正座から、変形趺踞から、霞からといろいろやっているうち、普通ではどうしてもバランスを崩しやすいというか、そもそもそういう姿勢をとること自体不可能ではないかと思うような前後の膝のヌキとリクライニングシート的腰(抜刀術の逆手抜飛刀打の際の尻餅をつくような腰)の釣り合い点に居ると、体幹部による打ちが出来るような予感がしてくる。
この動きは16日の日曜日に気づいたもの。そして、この16日に気づいた感覚というのは、その前日の15日に趺踞からの坐り技の体術、正面の斬り、というか抑えで予想外の成果が得られたことからつながってきている。
その予想外に技が利いたという正面の抑え技とは、普通は受けが取の面へと手を伸ばして攻めてくるのを抑えるというか崩すのだが、この時に受が専守防衛でも最も強力な、肘を下にして脇をしめて頑張られた場合、普通は面ががら空きになるといってやらないだろうし、今までの私でも取としてやってみようと思わないほどの不利さであったが、これが動かせるようになってきた。
趺踞の不安定さは、その姿勢をとるだけで一仕事だが、「不安定の使いこなし」とは、この事かとあらためて思う。O氏から伝えられた新夢想林崎流の居合の坐り方が、こんな潜在的力を持っていようとは…深くO氏に感謝する。
とにかく今は、私自身が感じている「ここが更に分かってくれば動きの質が変わりそうだ」という予感のみを案内役として稽古している。それは正しいということが言いにくい私にとって、私がどう思おうと体の内側から湧き出して私を導いてくれている感じがするからで、まあしばらくはこの動きに委ねてみようと思っている。
以上1日分/掲載日 平成13年9月22日(土)
2001年9月27日(木)
ここ1週間ほどの間に次々といろいろなことがあった。その日その日にあった事をごく簡単ながらつけている記録帳も、忙しさに追われてつけておらず、取り敢えずあちこちにメモしておいたものと記憶を呼びおこして、ためていた分を昨晩ようやく記入したほどだった。そして、それを見ながら、今これを書いている。
19日は新曜社のY女史から電話があり、『剣の精神誌』増補再版に向けて、増補分の原稿補筆を始めて欲しいとの事。増補分として36,000字ほど書くことになりそうで、これは一仕事だ。
ただ、円四郎が一雲に入門した年齢とか、その円四郎が中村権内に敵わなかったらしい事、無住心剣術の免許真面目の内容、一雲が書いた伝書一冊と詩集一冊が見つかった事、矢橋助六の弟子小山宇八郎の事、白井亨が此方様と書いていた人物についての事、片岡伊兵衛の墓所や墓石が分かった事、等々、『剣の精神誌』刊行後に明らかになった新事実がかなりたくさんあるので、36,000字ぐらいは必要かも知れない(いや、それでも足りないかもしれない)。ただ、これを書く時間をどう捻出するかは問題だ。
また、この日は桐朋高校バスケットボール部の金田伸夫先生が、゛名物先生゛として、『ETV2001』(NHK教育)に登場。私も少し出演したが、ナレーションの゛古武術の大家゛には参った。しかし、そのナレーターが田口トモロヲ氏だっただけに、何だか『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』を観ている気分だった。
20日は信州の江崎氏が午前10時前に来館。この日初めて来られる関根秀樹氏会いたさに随分無理をしたらしい。
諸用があって朝まで起きていた私は、寝不足でフラフラだったが、前傾と後へのリクライニング(床几外し)の合成による浮きに気づきがあったので、結果としては得るものがあったから江崎氏に来てもらった甲斐があった。
江崎氏との稽古が一段落してから、関根氏が来られる。体の使い方、鋼の話、道具の話で大いに盛り上がったが、関根氏の博学ぶりにはあらためて驚かされた。ニカワやクスネなどの古来からの接着剤についても詳しく、関根氏となら10日間、1日中話していても話が尽きることはないだろうと思った。御縁のあったことに深く感謝している。
21日は青土社刊『剣の思想』の写真撮影のため、神宮前の写真家鈴木理策氏のオフィスへ。
撮影といっても著者2人の顔写真ではなく、前田英樹氏の発案で、お互いの佩刀を撮ろうというもの。前田氏の愛刀近江大掾忠廣は、鹿の腹仔の革をくすべてから藍染にしたものを、両立鼓の柄に巻いた天正拵で見事なものだった。これに対して私の柄は、柄下地の柊こそは多少自慢出来るものの、これは外からは見えないし、柄巻は私が巻いた両捻巻の武骨稚拙なもの、新陰流の道統を大切にされている前田氏と、手探りの我流の私との違いを象徴しているかのようだった。
22日は仙台の稽古会へ。今回は、弘前のO氏の家に伝わる林崎流の居合再興に向けて、私以上にこのことに研究熱心な吉田健三氏と共に、大宮から藤田崇氏の車で仙台へ向かう。藤田氏の運転の巧みさと大胆さは噂以上で、乗っていて快適だった。それでも、大宮から高速道路に乗るまでと、仙台で高速道路を降りてからの渋滞がひどく、すでに20人ほども集まられていた方々を1時間ほど待たせてしまい申し訳ないことをしてしまった。あらためてこの場を借りてお詫び申し上げたい。
この土曜日の午後から夜にかけてと、日曜日の午前中に行なった稽古会では、参加者の熱意に誘われたのかいくつもの発見があった。主なところでは、受がこちらの片手をしっかり持って、その前腕部を胸につけて抱えるようにして持った時、一足立になって沈むこと。坐り技等で前傾と床几外しの後傾を合わせた動きは、前傾しつつ腰部を膨張するように使う事で、より有効な使い方が分かってきた。これによって受にしっかりと持たれたり、いなされた手や手首の辺りを腰腹に直結させる感覚が今までになくハッキリしてきた。
ここしばらく私は「働きのある不安定さ」を呼びおこすことを主力にしてきたが、又丹田ということについて検討を始める時期が来たのかもしれない。思い返してみると、丹田を直接的に開発しようとして、丹田があると伝えられている下腹部をいろいろ意識しようとした時期と、そうしたことは忘れて体の浮きとか固定的支点の忌避、不安定さの活用、うねりの禁止、タメの禁止等を主として考える稽古との波が、私の場合交互に来ているように思う。それが良いか悪いかの判断など私にはとても出来ないし、仮に良くないとしても、今後もこの傾向は変わらないのではないかと思う。とにかく自分の中に生まれてくる技法や体感覚開発の流れに逆らわず歩んでいきたいと思う。
23日は前日に続いて仙台での稽古の後、例によってS女史の車で炭焼きの佐藤家へ。今回は、藤、欅、樫、銀杏の巨木が境内にそびえ、奥州蛇藤伝説で知る人ぞ知る白鳥神社に寄り、白鳥神社宮司ともお会い出来たことは幸いだった。
それにしても今の私の疲れは、やはり世界情勢の緊迫が少なからず関わっているようだ。今はより冷静な目で人間がやってきたことを見つめ直すことが重要ではないかと思うのだが…。
以上1日分/掲載日 平成13年9月28日(金)