2001年10月2日(火)
気持ちが凄まじく落ちている。勿論、その落ちている原因のほとんどは、緊迫したアフガニスタンの情勢。
4年前『もののけ姫』を観て、かつてない気持ちの沈み込みを体験したが、今思うと、あの時の落ち込みは今回に比べ深くはあったがずっと透明であった。ある面あれは、地球の循環構造がよく分からないまま人間が必死になって自然を切り拓いてきた結果でもあり、仕方がないという思いもあった(それ故に絶望感はつのったのだが…)。
しかし、今回の気持ちの落ち込みは、悲劇的事件をキッカケに、己の利益の為に大義名分をかかげ、権謀術策の限りを尽くす人間のあさましい姿、醜さに対する言い難い嫌悪感からきているだけに、何か内臓を掻きまわされているような不快さがある。
ただ、今夕まで幸か不幸か凄まじく忙しかったので、多少は気持ちの落ち込みの度合が減っていたのだが、今日夕方、この5日から行く旅行の荷物を出し、今月末に青土社から出る『剣の思想』の再校ゲラの校正を電話で行ない、ちょっと一段落ついたと思ったら途端にドッとまた気持ちが落ちてきたので、それを防ごうと今これを書いている。これを書いて、まだまだやらなければならない事が山積みしていることを再確認しようと思っているのだが…。
例えば、明日も、大阪へ1つ荷物をつくって出す事、佐賀の全国研修会で話す事、京都の鈴木助教授とのトーク、大阪の朝日カルチャーセンターでの講座の用意、等あるのだから…と。
そうした状況ではあるが、ここ1週間、毎日誰かが来ていた。
27日は桐朋高校の金田、長谷川両先生に桐朋の小学校の古谷先生来館。技の発見も多少あった。
28日はNHKの「ラジオ深夜便」、゛こころの時代゛のインタビュアー金光寿郎氏来館。この時の話は今月21日頃放送との事(もっとも現在の情勢ではどうなるか分からないが)。
29日は久しぶりに群馬大学同志会の面々が来館。とにかく技にかからないようにがんばる粘着力はたいしたもので、この時ばかりは私も技の工夫に思いが向いて、いい稽古になった。
30日も粘り強さでは屈指のI氏が久しぶりに来館。いい稽古をした。又、吉田健三氏が新しく居合の稽古用に購入した三尺一寸の擬刀の柄づくりの相談に乗り、しばし気持ちがなごんだ。今後もいろいろ共同研究させてもらうこともあり、とっておきのマンサク材を提供する。
この日の夜、久しぶりで名越氏に電話したら、案の定名越氏も凄まじく気持ちが落ちていて、落ちていたもの同志、思わず1時間ほども話してしまった。
10月1日は桐朋小学校の宮原校長先生他4人の先生が、先日来られた古谷先生の案内で来館。3時間ほどいろいろ話をさせて頂く。
そして今日2日は、合気ニュースの木村副編集長が、ライターのF女史やスタッフのY女史と共に来館。本の企画の相談など話す。人が来て話をしていると気が紛れてきて普段の調子に段々となってくるが、一人になり一息つくと、すぐ気持ちが落ちてくるので本当に疲れる。当然体調も良くない。こんな気持ちがこの上どれくらい続くのか分からないが、こういう時こそ、「人間が生きている」ということの意味を考える好機と自らの内側をみつめてゆこうと思っているのだが…。
何だか最近『随感録』の最後をいつも同じ風にまとめている気がするがどうにも仕方がない。
以上1日分/掲載日 平成13年10月4日(木)
2001年10月15日(月)
10月9日、大阪で体調をひどく崩し、風邪の症状になってから6日目の今日、漸く回復への兆しがハッキリと感じられてきた。
旅先で疲れをおぼえることは珍しくないが、寝込むほど体調を崩したのは、昭和47年か48年に北九州の根岸流宗家前田勇先生の許へ何度目かに伺った時以来だと思う。もっともあの時は他に用事がなかったので無理をして帰り、寝込んだのは帰宅してからだった。それが今回はいろいろと予定も残っている旅の半ばでダウンしてしまったのだ。
原因は疲れといえば疲れだろうが、どうも只の疲れではなさそうだ。何しろ5日に佐賀に入り、6日の日本理学療法士協会主催の全国研修会での講演が終って阿蘇へ行った時は、ここ数ヶ月で一番体調がいい位だったからである。しかも、アトピーに卓効があるという温泉にM女史の案内でつかり、『千と千尋の神隠し』で有名になったライア(小型の竪琴)の特別仕様の38弦の奏でる音を間近でI女史に聴かせて戴いたりして、すっかり寛がせていただいたというプレゼントまでついたのである。
ただ、その翌日、阿蘇から百数十qある山の奥の古い社に参拝して降りた辺りから体調がおかしくなってきた。この日は夜大阪へ入り、名越氏宅へ泊まるが、アメリカ軍によるアフガン空爆が始まり、そのニュースを名越氏と見て話をしているうち午前3時近くになってしまった。
翌8日は京都大学で鈴木晶子助教授とのトーク。集まってくださった30名ほどの方々を前に実技も含めての持ち時間はすぐに無くなった感があり、体調は少し喉にひっかかりがあった程度で、動いたり話したりしている間は全く気にならなかった。
この日、京大の男子ラクロス部のマネージャーから動きに関する全体的な相談を受け、ラクロスというスポーツがきわめて武術的色合いの濃い競技の印象を受けたため、他日見学させて戴きながら、もしアドバイスが出来るようならさせていただく旨返事をした。
そして、いよいよ体調に変動をきたしたとの実感が出来たのはこの日の夜である。トーク後の打ち上げにも参加して、名越宅へ帰りついたのは午後11時近かったと思う。この日もアフガンの空爆ニュースを見ながら夜ふかし。それでも午前2時頃「もう寝ましょう」と名越氏から提供された部屋に引き上げたが、妙な疲労感で眠れないまま持っていた『無門関』を読み始めたら、いつの間にか引き込まれて気がついたら午前4時。さすがに今度は寝つけたが、何故か目が度々覚め、8時には完全に眼が覚めてしまった。しかし体は鉛のように重い。
こんな時は起きた方がむしろシャンとすると思って起きた。「旅行中は少々というか、だいぶ無理をしても気が張っているから体調が崩れることはない」。これは私が稽古会を始めてから一度も裏切られたことがない自信として殆ど完全に信じ込んできたことなので、起きて買物に行き、名越氏に朝食らしきものを作ったりしていた。
ところが昼頃、以前から約束をしていた人と出会うため出かける時刻が迫ってきても体調は戻ってこない。そのうち目をあけているのもつらくなってくる。しかし、ここに来ても人と会えば又違うだろうと約束通り出かける。ところが体調は下降の一途。約束のA女史と会ってから朝日カルチャーセンターへ行って荷物を確かめ、ここで待ち合わせていた作家の多田容子女史と名越クリニックへ行った時は、ただ立っているのも辛い状態。ここで随分久しぶりに名越氏の要望もあったカレーを作ったのだが、私が最も好きなターメリックやコリアンダー、カーダモン、クローブ等の香辛料を適当に混ぜながら作る極めて印度的なカレーも私自身は僅かに食べただけで後は受け付けなかった。漸くこれは只事ではないと気づく。まだ仕事のある名越氏を残して名越氏宅へ先に帰る。頭痛、咳、節々の痛み、全身濡れるほどの汗。寝ていると思っていたらいつの間にか目が覚めていて、自分でもいつ眠っていつ目が覚めたのか分からない。何度も何度も起きた。
そして10日。昼過ぎまで寝て、医学生S君に迎えに来てもらい夕方6時半からの朝日カルチャーセンターの講座へ。講座には朝日新聞論説委員の石井晃氏や植島啓司先生もみえ少し元気が出る。しかしいざ講座が始まると頭がフラついているため、なかなか言葉が出てこない。まあ休んで講座に穴をあけるよりはマシだったかも知れないが、何か戸の向こうで誰かが喋っているような感じだった。来ていただいた方には本当に申し訳なかった。ただ、大変興味深く面白かったと感想を言って下さった方もあったので、慰め八分としても有り難かった。
ところが講座が終ってから、12月に伺う予定の神戸女学院の内田樹先生が挨拶に来て下さり、いくつかの技を体験していただいたのだが、その間に体がフッと楽になり、技を使うということの心身に与える影響の大きさに驚いた。お蔭で私は遠慮して引き上げようかと思っていた打ち上げにも参加出来た。ただし、食欲は殆どなく、この夜も名越氏宅で前夜同様の大汗をかいた。
そして迎えた11日は最もきつかった。いつも関西稽古会の世話人をして戴いている野口氏に車で迎えに来ていただき、伊丹駅近くの会場まで連れていって戴いたので何とかなったが、稽古中腰を下ろすと立ち上がるのに一々決心がいった。幸いウイークデーで参加者が少なく、稽古を望まれた方々御一人づつとはいつもの稽古以上に時間が割けたので、私としては申し訳なさが前日ほどにはならず助かった。
当初はこの日稽古してすぐ帰京しようかと思っていたが、稽古の後すぐ数時間の列車での移動はとても無理な感じだったので、この日も名越氏の好意に甘え名越氏宅に泊まる。
翌12日。前日よりは少し元気になった気がしたので、昼過ぎに名越氏宅を出てそのまま新大阪駅へ直行し、゛のぞみ゛で東京へ。東京駅へは、たまたま仕事の都合で上京し、この日は夕方からフリーという仙台のT女史に迎えに来てもらう。そして、ここ2日ほど果物と野菜と少量のヨーグルト以外口にしていなかったので、この日夕方6時半からの池袋コミュニティ・カレッジの講座に向けて蕎麦でも食べておこうと思い、その道に詳しいG氏へ電話し、G氏の案内で新橋のHへ3人で行く(G氏をわざわざ煩わせたのは、質の悪い蕎麦や出汁だと体が受け付けそうになかったからである)。ここで蕎麦掻きと蒸篭(せいろう)蕎麦を食べ、池袋の講座へ向かう。講座へはほぼいつもの開始時間に間に合ったが、着換える暇もないのでそのままスタートする。
桐朋高校バスケットボール部を取材した9月19日放映の「ETV2001」の影響か、ここ10年で一番受講人数が多かったと思う。しかも数人、際立って身体の大きな人も目に入った。途中、恵比寿稽古会の幹事で私と共に朝日カルチャーセンターの講座をつとめてもらっている中島氏が到着したので、中島氏に少し話しを代ってもらい着換えをする。着換える前も少しは希望者と手を合わたのだが、着換えた以上はタックルや体当たりも受けようと思って、ラグビー部OBの人の体当たりを受けたが、はじめは当った瞬間、頭の中に星が飛び散った感じだった。それでも段々体がなれてきて、まあ何とか恰好はついた。
その後、この日最も身体の大きな人(アメリカンフットボール社会人リーグの選手だった)との押し合いなどもして、まあ、なんとかそれなりに終ったのだが、その後に思いがけぬ体験をした。終った後、少し気分が良くなったのでこの選手のタックルを崩す技をやってみようという事になった時である。はじめ低目のタックルは下に潰すことで、見た目は相撲のハタキ込みのような形で応じたが、次の高目のタックルを試みようとする前にまず良くない例をいくつかやってみた。こうしたことは動きの質の違いを感じてもらうために私はよくやるが、はじめにやってみて驚いた。見るからに偉丈夫100sは軽く超えていると思われる体格の選手に対しての良くない例だから通用しなくて当たり前なのだが、それにしても通用しなさすぎる。何だか進んできた自動車にぶつかったような感じだった。「こりゃ大変だ」と思った時、何だかビキビキッと体の中が動いたような気がしてフト気づくと普段とあまり変わらぬ体調の自分がそこにいた。そして切込入身の感覚で何度か試みる。何とか技が通って、ハネ飛ばされも抱きしめられもせずにタックルを抜けられた。
以前にも一度、体調が数秒で良くなったことはあったが、その時は不調だったといっても今回よりはよほど軽かったから、今回の劇的変化には私も驚いた。講座の後、池袋から自宅までタクシーで帰ろうかと思っていたのだが、体調が俄かに良くなったので、何人かの人と喫茶店で話をした上に、電車で帰ることができた。
今回は体調を崩すという不用意な失態で多くの方々に御迷惑をかけ、又大変お世話になってしまった。ここであらためてお詫びと御礼を申し上げておきたい。
帰宅して飲んだニンニク、生姜入りの味噌汁は何にも増してうまかった。これで気力を回復し、14日は丸々休んだが、今日も来客があったし、明日も明後日も…と28日に四国の稽古会に発つまで出掛けもせず、人も来ない日は、あっても1日か2日ということになりそうだ。
以上1日分/掲載日 平成13年10月16日(火)
2001年10月22日(月)
体調が戻ってきつつあるが、そうなるとそれに伴っていろいろな用件も思い出し、それらの用件の2割もできていない事を思うとまたまた気が塞ぎそうだ。それでも次々と用件は入ってくる。
10月末から11月末にかけての講座や講演は合計17、8日になりそうで、今までにない非常事態だ。とにかく書きかけの原稿を書きたいのに書けないのが辛い事の1つ。
そうしたなか、前田氏との共著『剣の思想』が青土社から刊行となり、見本が20日に届いた。散々苦労し、腹の立つ事もあったが「終り良ければすべて良し」ということだろう。菊地信義氏による洒落た装幀のためもあり、見違えるように仕上がった本に暫し見とれた。そういえば、私の新刊とも言えないが、『私が愛した名探偵』が今月初め朝日新聞社から刊行された。この中で私も3ページほど書いている。
21日の早朝4時過ぎの私が出演したNHKの「ラジオ深夜便」『こころの時代』を責任上いちおう聴いてみたが、私の簡単な紹介の後、いきなり話が始まって、私が早口に一気に喋り続けているのに我ながら唖然とした。何だかまるで喫茶店での打ち合せ話が、そのまま放送されたようで、これでは聴いていた人も呆気にとられたのではないかと思った。やはりいつの間にかテレビに馴らされているのだろう。音だけで入る情報というのにはとまどいを感じる。
体調は今ひとつだが、技の方はひとりでに研究が進んでいた観がある。特に趺踞からの展開で、立位になっても趺踞的な360度全方位不安定を得るために、足で立たず仮想の支点をつくることをいま研究中。
よく、独楽は回っているから安定するというが、最近は回っていない独楽の不安定さの生かし方をしきりに考える。
また18日、水野昌彦氏からコウモリのビデオを戴いたが、この中で紹介されているコウモリの飛翔のスロー映像は、きわめて多方向同時並列化された動きで、「゛何か゛に気づけるかも知れない」予感を感じた。
それにしても28日久しぶりに四国で行なう稽古会に発つ前の今週もいろいろありそうだ。格闘スポーツの第一線の方々とも2回ほど会う予定なので、忙しい上に気が抜けず、それに続く約8日の旅の間、何とか体がもつことを願っている。
以上1日分/掲載日 平成13年10月23日(火)
2001年10月25日(木)
体調は戻ったような気がするが、一晩寝たら又急におかしくなっているような危うさも感じる。しかし、一応普段の体調でいられるのは気持ちが張っているからだろう。
気持ちが張っている理由はいくつもあるが、ひとつは前田氏との共著『剣の思想』を読み返して、いろいろと書きたい思いが蘇ってきていることが挙げられる。
それから今日稽古にみえた古楽器の調律士であるI氏の話に感動したことも大きい。チェンバロやフォルテ・ピアノなど150年も200年も前の楽器の補修と調律は、やはりそれくらい古い時代の材が要るという事や、チューニング・ハンマーの柄の材によっても音が変わるという話には息を呑んだ。又、修理を依頼された古楽器には、手をつける前に、ちゃんと挨拶をしないと楽器の方から拒否されるという話にも唸ったし、接着剤も兎や鹿の膠を使い、化学接着剤では全く音が駄目だという話も何かひどく納得させられた。
I氏とは、まだ出会ってから10日にも満たないが、人との縁というのは付き合いの時間ではないことをあらためて感じた。
現在私は公開の稽古会や講座以外では新しい会員は原則として受け入れていないが、このI氏は、私が大変世話になった方からの特別な紹介であったという事以上に、I氏その人に今月17日に初めて会ったその時に、どう表現していいか分からないほどの縁の深さを感じてしまい、その上、I氏からのたっての希望もあったので、会員として受け入れざるを得なくなってしまったのである。
そして今日あらためていろいろと話を聴くにつれ、その職人としての仕事の打ち込みよう、道具に対する思いなど深く共感するところがいろいろとあり、御縁のあったことにあらためて感謝の思いを深くしているところである。
それから、今の私の気持ちが張っているもうひとつの理由として、私の技の動きの根本的原理に、゛斬り゛ということへの眼を開かせる気づきが昨日あったからであろう。今日のI氏の話により深く入っていけたのも、その気づきがあったからだと思う。
゛斬り゛の原理などという言葉は、武術稽古研究会を立ち上げた20数年前から口にしていたが、昨日感じた「ああ、斬りだ」という思いは今までにない新鮮なもので、゛斬り゛というのは、何やらひどく抽象的表現になってしまうが、表裏の瞬転変化、位相変化だということである。
この感じに気づいたのは、昨日F氏と稽古をした時である。昨日は、ある雑誌の企画で、いわゆる総合格闘技の選手として、その世界で知られているS選手の来訪を受け、いろいろと手を交え、交流させて戴いたのだが、技の説明の相手役にとF氏に来てもらったのである。
昼前から約4時間、予定の時間を30分ほどオーバーするのも構わず私の技を体験し、F氏相手に何度も何度も技を試されるS選手の熱意に、つい私もずいぶん熱を入れて説明した。その説明を横で聞いていたF氏は、以前から私の技を何度も経験しているのだが、この日は何か心中頷くものがあったらしい。
S選手らが帰られてから2人で稽古をしたが、ドンドン手応えが変ってきて、今までF氏に通じていた技の利きが悪くなってくる。そこで、F氏の様子をみれば、支点を消し、餅が空中に浮かんでいるように私の動きを吸収するような体になっている。「これでは、ちょっとやそっとでは崩せないな」、そう思い、「今までのやり方を脱皮させねば」と、私自身の身体の内部感覚に耳を傾けるようにしていると、数日前の日曜日、吉田健三氏とやった神夢想林崎流居合の二本目「押抜」の型を行う際の打太刀の動きのひとつがフト頭をよぎった。
「そうか、表裏の瞬転の変化」、「斬るというのは相が変わるということなのだ」と、なぜか思いがけぬ閃きがあった。
この時の技は両手持ちの直入身だったので、すぐ試みてみたが、右手を閃かせると、私の左手の方に相手は体バランスをとる手掛かりを求める。そこで右手を表裏閃かせて斬るのと別々に左手もある斬り方を工夫したところ、漸く成果がみえ始めたのである。
゛斬り゛の新たな研究は、こうして漸くその出発点に立ったのである。この先どういう展開となるかまるで見当もつかぬが、先が見えぬからこそ面白いともいえる。
今回の気づきに関しては、まずはF氏に、そしてこの日の交流を「とても楽しかった」と喜んで下さったS選手に、それから今回の企画を立てて下さったU氏とE編集次長に、この場を借りて感謝の意を表わしたい。
また、どこかでこの日の気づきの伏線をつくって下さった気がするハワイ超禅寺の細川道彦先生(今月19日に来館)、10月初めからの私の内面の変化に大きな刺激の場を九州で提供して下さった熊本のM女史、そして調律士のI氏にこの場を借りて御礼を申し上げておきたい。
それにしても、こんな気づきがあるとやらなければならない用事をいくつも残したまま、後2日で四国へ旅立つことになりそうだ。
また何人かの方に御迷惑をかけたり失礼をしてしまうだろうし、旅先への忘れ物もありそうだが、何といっても技や動きの追求の優先度は職業柄私の中できわめて高い。何卒その点を御理解いただき御容赦を乞う次第である。
以上1日分/掲載日 平成13年10月27日(土)
2001年10月31日(水)
出雲から岡山に向かう特急スーパーやくも22号の車中でこれを書いている。
28日の朝、家を出てからもう3泊したが、今回の旅はあとまだ5泊残っている。とはいえ既に十分過ぎるほど色々と印象に残ることがあった。体調は、始めから強行軍のわりには今の所なんとかもっている。起伏に富んだ印象が精神の緊張を保たせているからかも知れない。
まず初日の28日、羽田から高松へ飛んだのだが、この朝からして前夜からの睡眠が2時間あったかどうかという有様。その理由は前日の稽古で、今まで「出来たらいいな」と願いとしてはあったが一度も成功しなかった剣術の術技のひとつが、突然まがりなりにも出来るようになり、そのため思わず「なぜ出来たのか」というその理由を検討しているうちに7時間も使ってしまったからである。
そして初日の四国の稽古では、中国武術に相当打ち込まれている体重90kg以上のM氏をはじめ何人もの強者が揃っていて、私にとっても気の抜けない稽古となったが、24日や27日にみつけた新たな術技の有効性は確認出来た。
この日だけでも心身共にかなり消耗したのではないかと思うのだが、いろいろと考えることが山ほどあった。夜12時を過ぎても寝つかれず、結局4〜5時間、それも時々目を覚ましながら浅く眠っただけで鳥取へ出掛ける用意をしなければならない時間になってしまった。
29日は10時過ぎ、稽古会でもお世話になった守伸二郎氏が父君と迎えに来て下さり、途中竹刀や木刀を積み込んで、スミセイ・ライフミュージアム出演のため、初めて中国山脈を横断し山陽から山陰へ出て鳥取に向かう。
ライフミュージアムで作家の五木寛之氏と行うトークは7時半からだったが、5時前後に30分ほどのリハーサルがあった。五木氏は座談の名手で、何よりも感じ入ったのは、本番ではリハーサルの時の話を単に繰り返さず、その話を折り込みつつも、それを参考にして巧みに話の進展を導かれたことである。しかし、実演も含めて45分という時間はあまりに短く、演武相手としてわざわざ来て下さった守氏や小森君美先生には申し訳なかった。
翌30日は安来の和鋼博物館に「この人あり」と知られている三宅博士副館長を同博物館に訪れる。これは上野の岡安鋼材の岡安一男社長から、「是非会いに行って下さい。僕、三宅さんに言っときますから」とわざわざ紹介をして下さったことが直接のきっかけとなったが、ずっと以前から1度は行きたいと思っていたところだったので足を延ばすことにしたのである。
ヤスキハガネで有名な日立金属安来工場を過ぎてほどなく、写真で見覚えのある和鋼博物館が見えてきた。受付で来訪の旨を伝えると、すぐ三宅氏の部屋へ案内された。そこで名刺を交換してから約1時間、話は枝をあちこちに広げて花盛りというほどに盛り上がった。
今まで随分多くの人達と話をしてきたが、限られた時間の中で息つくヒマもないほど次々と話をしたことに相手の方が多大な関心を持って下さり、私の方は私の方で相手の方の話がほとんど全て大いに得るところがあったという事は初めてだった。なかでも「鉄器が入る以前の青銅の時代に鞴があったことが証明されている以上、ごく初期の製鉄の際にも鞴が使われていなかったとは考えにくい」というお話には十分説得力があった。今後この地とも縁が広がっていきそうだ。
この日は八雲村の熊野大社の前にある熊野館に泊まり、今朝、熊野大社へ参拝した。古色ある神社の神前に向き合うと、これからの越し方行く末の波乱を暗示されたような内観があった(もっともこれは私個人の事とも、これからの日本の社会全体の状況ともとれる妙な感覚だった)。
今日(31日)はこの後、松江から出雲大社をまわり、夜は岡山で小森君美先生主催の稽古会に臨む予定。
以上1日分/掲載日 平成13年11月4日(日)