2001年12月4日(火)
昨夜、畏友のG氏と久しぶりに電話で話したのだが、その時、最近の私の言動について手厳しい指摘を受けた。
先月半ば、母を亡くしてから日が経つにつれ、凝っていた力が解けてゆくように、いろいろいきさつのあった人物へのこだわりやら縺れ(もつれ)が無くなってきて、他から見ればずいぶん寛容になったとも受け取られるだろうと思っていたが、G氏から見るとそうした私の行動は、筋の通らない妥協をしたとしか思えなかったらしい。
G氏と知り合って10年くらいになるが、あれほど手厳しい口調のG氏の声を聞いたのは初めてだった。
又、この夜は全く別のことで、あらためて自分の心の中にある思い、「人やものを大切に思う、大切にするとはどういうことか」ということを深く考えさせられることがあり、山積みする諸々の用件を皆とめて、『無門関』を読んだりしながら、あれこれ考えた。
そして、あらためて気づいたことは、科学というものが諸々の事象を解き明かし(あるいは解き明かしたかのように見えているだけかも知れないが)、それによって我々現代人は便利さと多くの安心(いろいろな事柄もそれなりの理由づけが出来るため)を得られたのだが、その代わり何かに心底畏敬の念を持つという人としての純粋な心が失われたなあ…ということである。
このことについては前田英樹氏と最近出した『剣の思想』の中でも最期の章で触れたが、今回そのことが単なる思索の材料としてではなく、私自身の心に切なるものとして浮かび上がってきた。
ここ数年の間は映画『もののけ姫』の衝撃で人間と自然との関わりに異常なまでの衝撃を受け、「それでも生きつづけている自分」を自分自身でどこか卑下し、「所詮人間はこの程度だ」と思うことで何とか乗り切ろうとしてきた。勿論、乗りきりきったわけではない。
昨年の夏は、『イシ―北米最後の野性インディアン』で、人間が農業を始め、環境を激変させて来たことをあらためて気づかされ、『もののけ姫』のショックに追い打ちをかけられたりしたが、そうなると一層「ああ、人間って何て馬鹿な生き物だろう」と思うことで、より一層人間が生きているというナマな事実から身を躱そうとしてきたように思う。
そして今年の初め、「生きつづけている者に絶望は許されない」という言葉によって、『もののけ姫』以来のショックに無理矢理ではあったが蓋をして、前に向かって歩こうと自分に言い聞かせた。そう決心をした時期あたりから、私の武術の動きが各種スポーツの分野へ様々に応用されて、その成果も現れ、「話を聞きたい、動きを見たい」という要望が多くなり忙殺される日々となってきた。
しかし、昨夜あらためて母の死をキッカケに、私が武術に志した原点である「人間にとっての自然とは」という問いかけをこれから一層絞り込んでいかなければならないと思った。
いろいろ考えているうちに、いま宗教を心底信じている人は、それが例え世間から馬鹿にされるようなものであったとしても、宗教を持たない人間よりは人として上等(という言い方も変だが)なのかも知れないと思ったし、宗教以外であれば芸術に心魂を打ち込めるということが、何とか人間の心の純粋さを取り戻す方法なのかも知れないと思ったりした。
それにしても醜いというか凄いというか滅茶苦茶な時代になってきたものだと思う。しかも恐ろしいことに、その醜さ、滅茶苦茶さが様々に整備された法やテクノロジーで何とか綻びが出ないようにバックアップされているため、この期に及んでも気づきにくくなっている(現にこのようなことを書いている私も、心の中はともかく生活は安逸をむさぼっている)。
一体どこから手をつけたものか途方に暮れるが、人間が生きているということ自体の重さ、深さ、凄まじさをより切実に感じられるように、私自身の生き方を考えてゆきたいと思う。
以上1日分/掲載日 平成13年12月5日(水)
2001年12月11日(火)
7日に東京を発って、8日、9日、10日と毎日講座や稽古会を行い、今日、石川県加賀市での講座で、今回の関西北陸の旅を終える予定。
今回も各地でいろいろな出会いやら歓待を受け、多くの方々にお世話になった。印象に残ることはいくつもあったが、まずは7日、8日とお邪魔した神戸女学院大学のキャンパスの美しさは印象深かったし、30年ほど時代を遡ったかのような思いがした素直な女子学生の皆さんと出会えたのは心がなごんだ。
内田樹教授がクラブがよくまとめておられ、今回も大変お世話になった。この先も長くお付き合いが出来そうで有り難く思っている。
また同大学杖道部を教えておられる鬼木正道先生(かの真里谷円四郎をも凌いだという中村権内の子孫に当られる方)にもよくして戴き、神道夢想流の傑出した使い手として知られる故・乙藤市蔵師範の七十代頃の映像を観せて戴いたが、お蔭で太刀取りの際に打太刀の下への入り方体捌きに今まで決して気づくことのなかった要点を発見することが出来た。これは膝の高さに上長下短のくの字状に焦点を集めるという工夫で、その折居合せた作家の多田容子女史や医学生S君、そして鬼木先生に打太刀をして戴き検討して確認することができた。
9日は岸和田での稽古会。例によって野口一也氏に大変お世話になった。この稽古会では、趺踞による不安定の使いこなしを普通の跪座に応用し、いわゆる合気道等の一教(一ヶ条)の時、相手を斬り飛ばすことの有効性をあらためて確認した。
この日、キューバに伝わるアフリカン・ダンスを練習しているというライターのH氏と初めて出会ったが、実に興味深い動きと話をうかがうことができ、これも収穫だった。
そして10日は初めて福井県での講座。金剛院という歴史を感じさせる武生の古刹はいい雰囲気だった。
そして、これから今回の旅行の最後となる加賀氏での講座に臨むが、その前に先ほど現代の日本の打刃物界でその人ありとして知られている武生の佐治武士氏を訪ねることが出来たのは大収穫だった。つてを頼って、この日、急に予約を入れてお訪ねしたのに、お忙しいなか、丸々2時間、時間を割いて戴き、大いに話は盛り上がった。話の流れで江崎氏作の私が使っている八角ミサイル状の手裏剣も観ていただいたが、剣をまわしてセンターを確認しながら「これはたいした技術ですね」と感心されていた。
佐治氏は私が想像していた通りのお人柄で、私がかねてから抱えていたナイフのアイデア等にも大変積極的に関心を持って下さったが、「いつでも鍛冶場を使って下さい」とまで言っていただいた御好意には感謝の言葉もない。今後末長くお付き合いをさせて戴きたいと願っている。
以上1日分/掲載日 平成13年12月13日(木)
2001年12月18日(火)
昨夜から資料の整理と手紙書きで気がつけば6時半をまわっていた。慌てて寝たが、多分睡眠は2時間半ほどだろう。
それで昼から800m走で1分49秒54を出した慶応大学のH選手、110mハードルでシドニー・オリンピック日本代表となったT選手、古楽器調律師のI氏と母堂、それに友人の音楽家諸氏といった方々が見え、主として私の身体の使い方を、どう陸上競技に生かすかの検討工夫会となった。
はじめは道場でやっていたが、その後近所の高架道路下の公園で実際に走りながら種々検討する。私も靴を履いて何年ぶりかに100mぐらいの距離を何度も全力疾走する。
茣蓙引きの足のヌケ、膝に焦点を置いた太刀取りの際の体捌きなどが有効なようだ。だが、普段全く疾走などしないので、何度か繰り返すうち太腿の筋肉が痛んでくる。ただ、体の使い方の工夫が進んだのか、100m疾走しても全く息が弾まず、これには両選手から驚かれた。
走ってみて、陸上競技は只走るだけというシンプルなものが多いだけに、動きの精度をより検討するには向いている気がした。ただ、検討するためには20回や30回全力疾走を繰り返しても痛まないように筋肉を普段から訓練しておく必要がありそうだ。
今回一番私にとって収穫だったのは、全力で疾走を繰り返しているうちに、最近心の中にいろいろとあって私を縛っていたこだわりや凝縮(後述するように何年ぶりかで気力が戻ってきたことの副作用)が解けていったことである。「水草を掻き分けみれば底の月 ここに在りとは誰か知らなむ」という古歌を思い出した。
その後、両選手らと一緒に家を出て「銕の会」の集まりへ鶯谷のおでん屋゛満寿田゛へ行く。市川進先生はじめ岡安社長や増井氏、星野氏等々いつもの面々で鋼の事、刃物の事などで話は大いに盛り上がる。4時間以上も話に花が咲いたので、帰宅した時は深夜零時をかなりまわっていた。その後、また一件かけた電話で更に心が解ける(これには゛満寿田゛までわざわざ電話をかけてきて下さった名越氏の力も少なからず働いていると思う。深く感謝する次第である)。
それにしても2時間半ほど寝て、何年ぶりか全力疾走を繰り返し、宴席で何時間も盛り上がって殆ど疲れないというのは、どうもここ何年もずっと心が落ちていたのが、あるひとつの集中をキッカケに浮上してきたことと、身体が現在の体調を維持しようとして生の野菜を欲しており、それに応えてこのところ他のものは殆ど食べなくても生の小松菜・ニンジン・ゴボウ・大根・山芋・ネギ等を、摺り潰す暇のない時はそのまま噛んで食べていることが効いているようだ。久しぶりに源実朝の歌「大海の磯もとどろに寄する波割れて砕けて裂けて散るかも」にひどく共鳴していた頃の心の状態を思い出した。
名越氏が以前、「甲野先生が゛この人゛とか゛これ゛と思った時のエネルギーの傾け方は、それはとても真似が出来ないほど凄まじい」と言われたことがあったが、何年ぶりかに気力が湧いてきて、「いま湧き起こってきた私の集中を受けた相手は堪らないだろうな」と思うほどである。
もっとも以前は夢中だったから、自分の集中力がどの程度か、よく自覚していなかっただけなのかもしれない。それを自覚するようになったのだから少しは成長したということだろうか。
このことについて名越氏に話すと、「いやあ、やっと自覚されたとは、それは大変結構なことです」との返事だった。字で書けばこれだけだが、その呼吸の間に入ってくる絶妙な言葉の力にあらためて感嘆した。
以上1日分/掲載日 平成13年12月22日(土)
2001年12月20日(木)
昨日は、夕方から横須賀の防衛大学校で100人ほどの学生諸氏を相手に私の技の実演と解説を行なう。
今回の企画はバスケットボールの監督をされているI先生の要請によるものだが、バスケットボール部員以外も各種スポーツのクラブから部員が参加したようで、ほぼ3時間動きづめに動いたが、100人相手になるとさすがに誰とやったか覚えきれない。ただ、特に後半興味を持ったらしい学生諸氏の体験希望者がいろいろと質問しながら熱心に耳を傾けてくれたので、私としては気持ちの良い稽古が出来た。
会の終了後、わざわざ遠路私の自宅まで車で送って下さったI先生、私の臨時の秘書役で横浜から車で防大まで送って下さったO女史にはここで御礼を申し上げておきたい。
それにしても午前2時近くに帰宅して(実際は1時半頃だったが、送ってきて下さったI先生と道場で少し稽古をしたりしたので、母屋に入ったのは2時ぐらいになっていた)、留守中に届いていたものを開いたり、翌日以後の予定のチェックなどをしているうちに5時ぐらいになってしまった。そして5時半頃やっと寝ついたと思ったら、8時頃には無色透明な奇妙な夢を見てゆっくりと目が覚めた。
一応目は覚めたが、さすがに体に疲れが残っているのを感じ、もう少し休んでうようかと思ったが、山積みの上にも山積みしている用件が思い浮かんできて結局起きる。起きれば電話。自分の立処をより明らかにしてゆかなければと、あらためて自分を見直さなければと目を覚まされるような内容。そこへ荷物やら手紙やら…。
「ああ、武生の佐治氏への約束の鋼を今日も送れない」。18日は鹿児島のO君から、かねて私が依頼しておいたユスノキの材が届いていた。その礼もまだだ…。
他にも御礼やら必要最低限の手紙も書けない。しかし今日は上京する名越氏に、私の精神の調律のために一目なりとも会いたいので、もう出かける。連絡が行き届かず、各方面の方々に失礼やご迷惑をおかけしていると思うが、何卒御容赦いただきたい。
以上1日分/掲載日 平成13年12月22日(土)
2001年12月21日(金)
やらなければならないことのあまりの多さに我ながら笑ってしまう。ひっきりなしに、片付けても片付けても、やることは減らない感じがする。
昨日は、名越氏を東京駅に出迎え、歩きながら、タクシーの中で、又電車の中でと移動時間も無駄なく使って話をし、ホテルに寄ってから渋谷で中央公論新社のN氏やロブ@大月氏と合流。名越氏の著作の打合わせ現場まで一緒に行き、そこで手紙を書いていた。
その後、恵比寿稽古会へと臨んだが、体力がかなり消耗していたのか、道衣に着換えている時、ちょっと腰を下ろしたらなかなか立てない。体力が限界を超えて疲労が溜まっていたのだろう。数年ぶりに戻ってきた集中力と生野菜で飛ばしすぎたのかも知れない。
もっともそのことは、名越氏を東京駅に迎え、一緒に名越氏が宿泊するホテルへ寄った時、右目に痛みを感じ、白目の血管が切れて出血した時に感じてはいた。以前から過労と睡眠不足が限界に来ると、まるで赤信号が灯るように白目に出血したのだが、久しぶりにそれが起きた。ただ、出血したといっても、物を見るのに不自由はしないし痛みもすぐ去ったが、黒目のすぐ横に出来た黒目の半分くらいの大きさの赤い地図のような出血は、私の顔を見た人を少なからず驚かせてしまう。25日には取材と撮影があるし、それまでに「多少おさまってくれればいいが…」と思っているが、予定が結構つまっており、どうなるか分からない。
ただ、この日稽古で、いざ動き始めたら少しも不自由はなく、8日に気づいた「膝の高さを焦点に、上長下短にその動きの焦点が前に引かれるように持ってゆく」という工夫が体術同士の゛突き゛の時にも有効であることが分かったのは収穫だったし、JリーグのK選手相手にサッカーに有効な技がいくつか見つかったのも面白かった。
またこの日、「コウモリの会」の事務局長である水野昌彦氏が、かねてから私が依頼しておいた野鳥の声のCDを持ってきて下さったので、帰宅後さっそく聞いて気持ちを山野に遊ばせる気分になれたのは幸いだった。しかし、分かっていたつもりの声が聞き分けられなかったりすると、又、つい学習モードに気持ちが切り替わってしまう。かつて『縁の森』の共著者である中島章夫氏が私の事を中島氏の著作『武術稽古法研究』で、「甲野先生は教えたがりやではなく、学びたがりやだ」と書いていたことがあったが、そういう「学習したがり癖」は、もう私の身についた習い性なのかもしれない。
ただ最近、人に影響を与えることの怖さを感じていたが、今日フト、その怖さを感じる暇もないほどにより一層「学びたがりや」に徹すれば、そうした余分な気持ちもなくなるかも知れないと思った。なぜなら「人に影響を与える怖さ」というのは、どこかで人を教え導こうとなどと分不相応な不遜なことを考えているからではないかと気づいたからである。
とにかく前を見て進み、さらに深く掘ってゆこう。「張れや張れ ただゆるみなき梓弓 放つ矢先は知らぬなりけり」と古歌にもあったではないか。
以上1日分/掲載日 平成13年12月23日(日)
2001年12月25日(火)
今日は「MOKU(黙)」誌のインタビューで、編集局長のY氏とカメラマンのI氏が来館。又、アメリカンフットボール社会人リーグの選手でオフェンスのM氏もみえ、インタビューを受けながらM氏相手に様々に動いてみる。
技によっては、18日に数年ぶりで全力疾走した時に筋肉痛となった大腿部が飛び上がるほど痛いが、膝の高さで前方に吸われて行く動きがここでも有効なことが確認された。
又、両手伏せ持ちで、私の片手を上から抑えられても、相手が反応する以前に気配を消しておいて動くことにある勘所を得、私よりも30sほど重いM氏に抑えられても、かなり余裕をもって動くことが出来た。
これはひとつには、昨夜というか今日の夜明け前、打剣の稽古をしていて得た、身体各部を別々に、より有効に使うということへの実感が一歩進んだからかもしれない。
そのためか今日起きる前、布団の中で、居合の新田宮流の伝書『所存の巻』の中に、「はじめきわめて静かに抜かざれば、一生手移り悪し、悪しければ正勝(和田平助のこと)の如く早からず」と出ていたことの意味が、今までで一番ハッキリと分かった気がした。つまりある動きをするのに、より細かく身体の中を分離し、その各々が適切な動きをするように育てるためには、ゆっくりと動いて身体各部の動きを確認し、その動きを更に精妙に養うことが必要だと感じたからである。
しかし、これはまさに身体感覚だけが頼りの方法であり、その困難さはちょっと上手く口では説明できない気がする。
それにしても毎日いろいろなことがある。22日は恵比寿の稽古会の打ち上げで30人以上集まったが、いままでにないほど何人も相当に酔った人物が出るほどの大盛り上がり。
そして翌23日、私の道場の大掃除と打ち上げは、たまたま上京中だった岡山の小森君美先生や慶応大学陸上部のH選手に、サッカーのK選手も参加され賑やかだった。
とにかくやることが山積みで、大掃除前の片づけもままならず、大掃除と云っても窓ガラスを拭いた他には大したことも出来なかったから、正月は片づけ続けねばならないようだ。
「随感録」も年内はこれが最後の更新となりそうだ。今年もいろいろあったが、来年はこれに輪をかけていろいろあるかもしれない。それだけに、より稽古の焦点を絞ってゆき、同時に広範な方々との交流も深めていきたい。
以上1日分/掲載日 平成13年12月27日(木)