2001年11月1日(木)
昨夜(31日)の岡山での稽古会は人数こそ少なかったが、実にユニークな(飼っていた犬や猫の乳まで試飲したという)ビデオ制作会社のI氏と出会ったり、私との体重差が40kg近くある柔道のT先生もみえたので、24日に気づいた゛斬り゛の感覚の体術への応用や、27日に気づいた一太刀で相手が受け払うのに拘わらず斬り込んでいく技などを試みさせて戴き、私としても得るところがいろいろあった。
稽古会の後の食事は、例によって私の泊まる宿の一室へガスコンロや鍋を持ち込んでの宴。今回は猪鍋だった。深夜に散会したが、昨日まで出通しに出ていた水鼻が猪鍋のお蔭かピタリと止まり有り難かった。
そして今、゛のぞみ゛で、先月初め訪れた九州へ再び向かっている。まずM女史の案内で、博多にてユニークな医師S先生にお会いする予定。恐らくここからまた様々な縁が広がるだろう。
ところで先月27日に得た、剣術の゛一太刀での斬り崩し゛の技は、術理がまだまだ未整理でうまくその原理はいえないが、通常は太刀を扱う場合、左右の手のどちらかが主となり、どちらかが従となるが、これはどちらもそれぞれに働かせるということらしい(普通はどちらも働かせようとすると相殺して働きを失う恐れが多分に出てくるため、なかなか双方主役は難しいからだ。もっともこのことも身体内部の感覚を研いでゆかないと普通はそういうふうになっていること自体に気づき難いと思う。私も今までこのことには殆ど気づいていなかった)。つまり左右を働かせることで、アソビがとれ、斬りの線が生まれてくるのかも知れない。
ひとつ現れてきた興味深いことは打ち合った瞬間の感触である。まだ十数人としか合わせていないが、木刀や竹刀で打ち合った時の音が、うまく斬り込めた時は、特に木刀の場合は「カン」という高い音よりも「バズウッ」というような鈍い音に近づいていることである。
この先まだ2、3回、この旅でも試みる機会があるので、いろいろな面から検討してみたい。
以上1日分/掲載日 平成13年11月4日(日)
2001年11月5日(月)
先月28日に家を出てから8泊の旅を終えて、今15時34分京都発の゛ひかり゛で帰途に就いている。
先月初めの九州関西への旅の最中に体調を崩し、今回も出発直前までまだその後遺症が若干残っている感じがなくもなかったので、身体にはあまり自信がなかったが、先ほどまで京都大学男子ラクロス部員相手の技の実演と解説は、時間さえ許せばまだ何時間も続けられる勢いだったから、今回の旅は何とか体調を崩さずに済んだように思う。
それにしても今回のような1週間以上の旅で、毎日違う所に泊まったという例はちょっと記憶にない。もっとも、その変化に富んだ旅程が精神に張りを持たせ、体調が崩れるのを防いだのかも知れない。しかし、そのお蔭で書こうと予定していた原稿が結局このホームページの原稿以外全く書けなかった。
今回の旅を振り返って、何が一番印象に残ったかと聞かれても、返答に窮するほどいろいろと印象深いことがあった。
視覚的には、2日に見た阿蘇の北向谷原生林と山吹水源。言葉の上では、昨夜京都精華大学、文字文明研究所での講座の後、ホテル・ロテル・ド・比叡のレストランで石川九楊先生から伺った「書はテロだ」という言葉と、「白紙は何もないのではなく、甲骨文字以来の全てがつまっていて、ただそのエネルギー状態が極限まで低くなっているだけ」という解説。これには背中をいきなりドンと叩かれた思いだった。
この講座では、わざわざ茨城から来られた剣道三段のT先生相手に、先月27日に気づいた剣術の技を試みたり、体術の切り込みや当り沈み技等を織り込みながら解説したが、剣術の技は旅の初めの頃よりも身についてきた感じで、T先生も実に不思議そうにされていた。
この剣術の技の深まり方と、私の動きに多大な関心を示され、私もまた強い刺激を受けた石川先生の印象が重なったせいか、深夜になっても目が冴えて寝つかれないまま、ついいろいろ考えているうち、27日に気づいた剣術の技を「一元裡に斬る太刀」というふうに、いつのまにか私の中では呼ぶようになっていた。
9年前の「井桁崩しの原理」に気づいて以来、いくつもの発見や気づきがあったが、そのほとんどは「ああ、こんなこと、どうしてもっと早く気づかなかったかなあ」と思ってきたのだが、今回のこの「一元裡に斬る太刀」の斬り込みに関しては「よく気がついたなあ」と、我ながらその運の良さと不思議さに驚いている。それだけにこの技の術理に関してはまだまだ謎がある。
こうした気づきがあったからであろう。昨日の文字文明研究所でも、今日の京都大学男子ラクロス部でも、又2日に行った阿蘇のP農園でも、更に一昨日伺った大阪のA女史主宰の講座でも、いろいろな方々から関心を持って戴き、時に子供のようにはしゃいで喜んでもらえたのだと思う。
今回の旅については、もっと詳しく感想を書きたいのだが、゛ひかり゛に揺られているうち、全ての予定をこなした安堵感からか全身の力が抜けて目を開けているのも難しくなってきたので、今日はこれまでとしたい。
最後に私のために時間をつくり、いろいろともてなして戴いた方々に深く御礼を申し上げておきたい。
以上1日分/掲載日 平成13年11月7日(水)
2001年11月10日(土)
11月5日、家に帰りついてみたら手紙やらFAXやらがいくつも届いていて、6日その整理をしているとPHP研究所のO氏から電話。養老孟司先生との共著『自分の頭と身体で考える』を来年2月頃までに文庫本化する件で4000字ほど巻頭に書いて欲しいという進行状況の問い合せ。旅行中書こうと思っていたのだが、僅かに下書きの一部を書きかけただけだったので、慌ててほとんど全ての用件に目を瞑り、7日の昼頃までに一気に書き、その夜ゲラを持ってみえたO氏に渡す。
お蔭で早急に出さねばならない手紙も後回しになり、心中で失礼を詫びつつ筆を走らせる。とは言っても電話はいくつも入ってくるし、FAXは来るし1日1食という状態が2日ほど続く。
そんな日を送って頭の中が未整理となっていたせいか、9日は見事にダブルブッキングをしてしまった。この日は午後3時半、新宿でDスポーツ紙のインタビューを受けるはずだったが、27日に気づいた剣術の新展開゛一元裡に斬る太刀゛に関心がとられていて、本格的にこの新発見の剣術の技を剣道の立場から検討してもらおうと、桐朋高校で体育を教えられている剣道五段の長谷川先生に来て戴くよう依頼をしてしまい、インタビューの件はすっかり忘れていたのである。
この日は桐朋高校バスケットボール部の金田先生、そして桐朋短大の矢野先生も立ち合ってみたいとの事で来館され、その上、古楽器調律士のI氏もちょうど私が頼んでおいた兎と鹿の膠を届けたいとのことで4人の方がみえた。
私の技を、面、籠手、胴すべてをフル装備して立ち合って下さった長谷川先生は、「今まで甲野先生の技を体験した中で一番の感激です」と言って下さったから、今回の発見は単なる気休め程度のものではないようだ。
いろいろと長谷川先生の感想を聞いたり、技の原理について検討していると電話。Dスポーツ紙のS氏から「いま゛瀧沢゛でお待ちしているのですが…」との事、「あっ!」と気がつき、平謝りに謝って予定を変更し、翌日、つまり今日の昼、私の道場に来て戴くことにして、私は私で池袋コミュニティ・カレッジの講座に行くため仕度をして、桐朋高校の方々の車で駅まで送って戴く。コミュニティ・カレッジに行く途中、新宿でT書店の編集者K氏と会い、池袋までの車中、依頼されている本の企画について話し、資料を渡す。
コミュニティ・カレッジへはDスポーツ紙のカメラマンの方が見えていて、講座の写真を撮影。講座でも、話は自然と゛一元裡に斬る太刀゛が中心となり、何人かの方に体験して戴いたが、剣道をやっているという女性が、思わず「何、これー」と発した言葉の調子と表情が一番印象的だった。
私としては、この日一番稽古になったのは、講座が終ってからアメリカンフットボール社会人リーグのM選手にタックルを何回も受けたこと。新たな体の使い方へのヒントがいくつか得られた。
それにしても綱渡りのようにして日程を消化する状態になってきた。これからDスポーツ紙S氏のインタビュー、稽古、そしてその後、整体協会へ名越康文氏らと行く。名越氏とは21日の田口ランディ女史とのトークの打ち合わせをやらねばならないし…。だが、野口裕之先生に会ったら、又話しはドンドン思いがけぬ展開へと転がり出しそうだ。
以上1日分/掲載日 平成13年11月12日(月)
2001年11月16日(金)
風の来て つれてゆきけり 秋の蝶
かねてから私が好きであったこの句は、駿州田中藩で出されていた句集『こころの松』にあった句で、゛亀渓゛という俳人の句であるが、去る11月14日早朝、息を引き取った母の最期は、この句を一層私の心に深く焼きつけた。
私が四国鳥取から、ぐるっと九州関西へとまわっていた長旅の終る頃、転んで立てなくなっていた母だったが、13日の夜、食欲の無いなか、僅かに喉を通ったリンゴの小片が気管に入ったことが原因で、約8時間後、息を引き取ったのである。
見方によっては、転んで大腿骨を折り、寝ついて身近なものに迷惑をかけるであろうこれからの日々からスルリと身をかわすようにして人生の幕を引いたともとれる母の死は、何か深く教えられるものがあるように思えてならない。
生前、仕事が忙しい多くの人達に迷惑をかけたくないと言っていたこともあり、又あまりに突然で、すべてのことに手がまわりかねた事もあり、身内とごく親しい人々以外には母の死をお知らせしなかった。
従って、葬儀の手伝いに来てもらった(時間のとれそうな)数人の会員の方や、どうしても休まねばならなくなりそうに思えた稽古会や講座の責任者の方達にのみ、事情を説明するため知らせただけで、今日葬儀一切を終えたのである。
ただ、一般的常識から見れば、過重積載のトラックに更に荷物を積み、車体がその重さに耐えかねて軋み音を発していたようなスケジュール状況でここ数日過ごしていただけに、13日の徹夜に続く睡眠不足は正直さすがにかなりこたえているようだ。
ただそうした中でも、これからゲラを取りにPHP研究所のO氏が来館の予定だし、明日の仙台の稽古会にも出向くつもりにしている。
というのも11日、最近展開している゛一元裡に斬る太刀゛に関して、常連のG氏と剣を合わせ、その時剣術というものの凄さと奥深さをまざまざと気づかされる体験があったからである。50歳を過ぎて漸く真剣に生きるということの遥かさと厳しさを今までになく身をもって感じることが出来た。つまり古人の凄絶さに比べれば、いかに自分のやっていることが「ごっこ」の範囲を出ていないかということを悟らされたのである。そうした感じがあったから、これから大変になると予想された母の介護も覚悟を決めて取り組もう、忙しさもそれを糧として新たに修行をし直そうと心に決めていたのである。
そう決めた矢先、突然その母が天に引き取られてしまった。そして葬儀の予定を見れば、仙台の稽古会は一日違いで行ける。これは行かねばならないと心に決めたのである。ただ、このような状態なので、既に多くの人達が関わっている講座等の予定や、よほど緊急を要する用件でない限り、お手紙やお問い合わせに関しても対応が遅れたり、漏れ落ちている可能性も出てくるので、何卒御容赦いただきたい。
なお、母に香華を手向けて下さるお志のある方は、そのお気持ちのみ戴くことにさせていただきたい。
現在、世界は我々とは比べものにならないほど悲惨な状況に置かれている人々を大量に生み出しつつある。そうした時代をどのようにして我々はこれから生きて行けばいいのか、その事に心を砕き、考え、行動するために私の母への香華料をお使い戴くのが私の願いであり、どうかそうしていただきたい。
以上1日分/掲載日 平成13年11月17日(土)
2001年11月25日(日)
ある気功グループの会に講師として招かれて、昨日の午後から鎌倉の小坪の民宿で一泊し、合宿を終えた今日、鎌倉駅近くの『菊一刃物店』を初めて訪れた。
今から20年近く前、まだ時間的余裕が十分にあった私は、月のうち何度も東急大井町線の尾山台駅近くにあった刀屋『刀剣菊一』へ寄り、何時間も店主の菊一伊助氏と話し込んではいろいろな刀や小道具を見せてもらっていた。
菊一伊助氏がその後引退されて、『刀剣菊一』を閉め、当時は別の場所で刃物店を持っていた跡継ぎの菊一公明氏が鎌倉で新しく店を持たれたのだが、その頃から私の身辺も忙しくなりはじめ、「そのうち一度うかがいますよ」と話しているうちに10年が経ってしまっていた。
今回、講師として招かれた合宿が鎌倉だったということから、ここ数年ずっと預かったまま研ぎに出さず気になっていた名越康文氏の新身の刀を研いでもらうべく『菊一刃物店』に寄ろうと思い立って、刀を合宿に持参していたのである。
合宿を終えて、私の自宅と同方向へ帰られるというS氏の車に同乗させてもらい、途中この『菊一刃物店』へ寄った。
先代の伊助氏の時とは違い、刀剣よりも一般の刃物中心の店構えになっていたが、店の雰囲気の小粋さと、置かれている刃物類を少し見ただけでも、店主は刃物に精通していることが十分にうかがえた。
しかし、私はこの後、店内に入って、その直前まで思ってもみなかったほど大きく心を動かされる自分を発見することになったのである。
店に入ろうとしてフト見ると、店の中に一羽の雀がいたのである。はじめは、たまたま紛れ込んだのかと思ったが、店主の菊一公明氏もそこにいた客も別に気にしている風はない。中に入って挨拶をし、事情をきくと、2年前に巣から落ちていた雛を保護して育てるうち、すっかりなついて店に居ついたのだという。
日本中に刃物店は数多くあるだろうが、店の中を雀が飛んでいる店などまずないだろう。
私は何かひどく心を動かされて、雀の傍へ寄っていった。手を出すとさすがに逃げはするが、それも僅かですっかり人に馴染んでいる。聞けば菊一氏なら肩や手にとまるとのことである。これが手乗りの文鳥や十姉妹(ジュウシマツ)ならこれほど私の心を打たないだろうが、外にいるのであれば珍しくもなんともない雀が、これほど人に馴れ、しかも店のマスコット的存在として店内を飛び回っている姿は不思議な感動で、私の心の中に何かがドンドンと入ってきた。
そして次第に組み上がってゆく連想は、ある種の『日本昔話』的世界であった。
日本の昔話には、鳥が人間を教え諭したり恩返しをする話がいくつもあるが、雀を見ているうち私は、つい先ほど気功グループの合宿の最後で、参加者の感想を聴いていた時、合宿初日に私が話した新陰流の上泉伊勢守は「敗者を作らない生き方をした」という言葉に、何人かが感銘を受けたというコメントを発表していたことを思い出していた。
これは、その前日(23日)、青山ブックセンターで『剣の思想』(青土社)の著者同士のトークを行なったあとの打ち上げで、前田英樹氏が話された言葉である。これについては本書の第9章の最後に「伊勢守晩年の兵法が、敵ではなく味方を、敗者ではなく無数の共鳴者を作り出した理由がここにあります」と述べられているので御記憶の方もあるだろう。
そして雀を見ていて、前田氏の言葉を思い出しているうち、そのまた前日(22日)、恵比寿の稽古会を訪ねてきたN氏ら一行のことが重なってきた。
N氏がインターネットその他で私に対してさまざまな論難を繰り返していることは、かなり多くの人達に知られていることである。
N氏に関しては、昨年N氏の方から和解したい旨の申し出があり、和解が成立したはずだったが、その後再び私への論難が始まり、いろいろあったので、私の方では一切関わることをやめていた。
この日のN氏の申し出は、インターネットの掲示板の書き込みが激化、陰険化していて、N氏一門に対する批難があまりにひどいので、そうした書き込みは武術稽古研究会松聲館とは一切関わりが無い旨、声明を出して欲しい、とのことだった。
インターネットの書き込みは、もとより私の預り知らぬところだし、私がどう言おうと、それでどうなるものではないと思ったが、とにかく「゛当方とは一切関係ない゛旨の声明を出していただければそれで結構です」ということ。
そして、このインターネットの掲示板の書き込み激化の元になっていると思われる、N氏がいままで私に対して約束を破ったり過激な論難を繰り返したことについては「ごめんなさい、あやまります」とのことだったので了解した。
インターネットの掲示板での他流他者への無記名の批難や中傷の書き込みについては、武術稽古研究会松聲館とは一切関係が無いことを改めてここに述べておく。
また同行のY氏は、私と前田氏とで以前対談をした『越境する知1〜身体:よみがえる』(東京大学出版会)のなかにある、私が一刀流について述べている「江戸初期で崩壊していると思います」という発言が、現に一刀流を稽古している者を傷つけるので詫びて欲しい、とのことだった。
私としては、創流初期の一刀流があまりに高度であったため、その後、受け継げなくなったので、防具付で打ち合うようになったのだろうという推測を述べただけ(「一刀流は完全に新陰流を仮想敵として考えて、新陰流の一重身に対して向身でいくということから何かを得たと思うんですけど、それがあまりに難しくて、ほとんど重要なところは失伝したのではないかと思うんです」)だったのだが、「現に一刀流として伝わっている流儀を稽古している者にとっては看過できない言葉」と言われたら、「それは配慮が足りませんでした」と言うしかないので謝っておいた。
N氏らの要望がいったいどういう意図でなされたのか、よくはわからなかったが、『菊一刃物店』のなかで不思議な雰囲気を醸し出している雀を見ているうち、この世は人それぞれが、さまざまな役割を演じて影響を及ぼし合って成り立っているのであり、それは当事者が意識するしないに拘らず大きな流れをつくる支流の一つとして物語が展開しているのだ、ということが、まるで『日本昔話』のなかの一篇をみせられているように感じられてきた。
なぜこの時、こんな気持になったのかわからないが、おそらくは母の死の影響が最も大きいと思う。
そう感じるのは、21日、朝日カルチャーセンターで田口ランディ女史とトークをした後、司会の名越康文氏ら10人くらいで行った打ち上げの席上、ランディ女史の「人は死んでから、その存在が生きていた時よりも強い影響力を持ちますよね」と語っていたことが深く心のどこかに入ったからかもしれない。
いずれにせよ、「『人間が生きている』ということを体感をもって知りたい」という私の願いは母の死によって、ある方向へは半歩前へ進めたのかもしれない。
以上1日分/掲載日 平成13年11月27日(火)
2001年11月30日(金)
最近は講座や稽古会などで心映えのいい人や、時代への思いのある20代はじめの若い人に出会うことが時々ある。そのような出会いがあると、私自身の心が深く癒されるが、同時に、そうした人達が、その心を傷つけられずに働ける場所の少ないことを嘆かずにはいられない。もっとも、私の会に何年も前から入会している人物で、その才能が十分に生かせる仕事と出会っていない歯痒さは、以前から感じてはいたが…。
こうした状況に直面すると、私は会の中では一切段位や序列、格付けをしていないが、武術の技倆は別にして、この人物は志がある、とか、誠実で人として信頼できる、といった人物保証の証明書は(それがその人の役に立つのなら)出したいと思うほどである。
とにかく、心映えのいい、人としての思いのある人物から手紙をもらうと、書きかけの急ぎの原稿の筆を止めてでも返事を出したくなるものである。
一昨日は千葉商科大学で、井関利明政策情報学部長とのトークを行なったが、井関先生には世の固定的価値観にとらわれないその頭脳をさらにフル回転していただいて、志があり、真面目に時代に取り組もうとしている若者に活躍の場が与えられるような社会の招来に力を尽していただきたいと思う。
トーク終了後の打ち上げの二次会も大学構内で行なわれ、歓を尽していただいた。
そうした席上、コンピュータの専門家である大矢野助教授から、「飛んでいるボールは、そのボールが微分方程式を解いて飛んでいる」というお話を伺い目が覚める思いがした。
今回のイベントのそもそもの発端は、譲原晶子助教授の御尽力にある。ここであらためて譲原女史に御礼を申し上げると共に、いろいろとお手数をお掛けした教務二課の東条氏、スタッフの方々、また当日、私の受けや手伝いに来て下さったF氏とKさんに感謝の意を表したい。
以上1日分/掲載日 平成13年12月2日(日)