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昨日から今朝にかけては、久しぶりに途中目を覚ますこともなく8時間以上眠る。連休に入って問い合わせの電話も殆どない事は幸いだが、昨日新潮社の足立女史から連休中の一番の宿題ともいえる、この夏刊行予定の本1冊分の原稿(田中氏がまとめたもの)を託されたから、連休も私にとっては普段の日と殆ど変わりない。
ただ、ここ数日間の間も技の上の気づきはいくつかある。
30日は、バスケットボールのH選手に、瞬時に体を躱す動きを解説している際に使った、左右にいつでも動けるようにするためには、ビンを逆さに立てるように体を使うという例えは、私自身その後の技の展開に繋がった。
また、この日の夜に都内であった音楽家の人達への講座には、作家の荻野アンナ女史も対談の下準備のため参加され、いろいろと質問も頂いたが、噂通りユーモアのある方で何度も笑いを誘われた。
1日は道場で稽古。この日もいくつか発見はあったが、前日H選手に解説した、瞬時に横に動くための足の垂直落下と同時に後足の垂直離陸の足づかいが、柔道の背負い投げや腰投げの返し技として今までになく有効な事に気づいた。
その他、切込み入身や体当たりも、上腕と体幹の角度の取り方と足の垂直離陸と、体幹自身による斬りを合わせる事で、今までで一番威力のあるものとなった。この体幹による斬りとは、剣術の斬り割りで体の沈み込みによる重さを、そのまま生かしつつ、剣を垂直方向から水平方向へと向きを変えてゆく事によって、今までになく強力な斬り割りが出来るようになった事を、体術の場に展開させて考えたもの。
それにしても、先月13日テレビ東京の『世の中ガブッと』の収録時に考え出した、椅子に坐った全介護状態の人を太腿と背中に手を当てるだけで抱き上げる技は、その後いろいろ考えたが、やはり何故あんなに簡単に持ち上げられるのか不思議である。
この技が出来た時にも居合わせた介護の専門家の岡田氏には数日前にも会ったが、その時も「あれは今までの介護の常識が全てフッ飛ぶほど革命的なものです」と、いまだに半月前の興奮が覚めないような状態で感想を述べられていたから、やはり専門家から見ても、というか専門家であるからこそ、一層インパクトが強かったのだろう。
こうした一連の技について、それがどれほど有効でも「人を傷つける武術の応用は福祉の心に反する」という意見があるのだという話を、今日久しぶりに会った吉田健三氏にして、技も受けてもらったところ、「先生の技は決して健常者がその体力に任せてやるというものではなく、先生自身も弱い不安定な状態となってやられているわけで、不安定な弱い者同士が力を合わせて健常者が介護する以上に上手く出来る作品のようなものですから、『これこそ相互扶助の福祉の心に叶っている』と言えるんじゃないですか」という絶妙なコメントがすぐに返ってきた。」吉田氏の飄々としていながらも、見事に頭がまわる相変わらずのセンスの良さに思わず唸ってしまった。
最近は、有名大学出身でペーパーテストは成績が良くても、面接試験で会話が成り立たない若者が多くなってきたと、ある大手企業の面接担当者が嘆いていたが、吉田氏のようなセンスのいい若者(と言うには若干年を重ねているが)も、よく探せばまだある程度は世の中に隠れていると思う。本人にその意志はあまりないようだが、こうした人にこそ世に出て欲しいとあらためて思った。
以上1日分/掲載日 平成16年5月3日(月)
この連休は、昨年の暮から今年の正月の休みの時と同じく、片付けにかなりの時間を使った。尤も、こんな話をしたら、昨日様子を見に来られた新潮社の足立女史に「えーっ、先生それはないですよーっ」と言われそうだが、妙なもので「やらねば」というゲラが20枚ぐらいだったら、つい集中してそれを一気にやるのだが、本1冊分となると、「ちょっと気分転換をして・・」とか、来週からの来客の事などを考え、ついつい片付けをしてしまう。
しかも、私はなかなかものを捨てられない上、やり出すと妙に凝ってしまい、徹底癖があるから、まず収納場所を作ろうと、もう何ヶ月も手つかずだった所まで片付け始めてしまい、いくら何でもこれ以上手を拡げるのはまずいと、無理やり止めて、今これを書いている。まったく人間というのは「抑えると高まる」というが、「よりによっても、こんな時に猛然と片づけたがらなくても・・・」と思うのだが、なかなか上手くいかないものだ。
しかし、よく考えてみると、この連休中は普段よりも電話も少なく、時間に追い回されなかったから片付けも出来た訳で、連休明けから又時間の早回しのようなスケジュールだ。これはやはり本当に依頼を断る意志をハッキリと持たねばと思う。
技の方は、4日に体を浮かず沈まずにしておくと、剣術の「影抜」が今までになく早くなることを実感。またこの日は夜、中国の光岡師から電話をもらい、小1時間ほど話したが、光岡師が何気なくやろうとしたストレッチ的運動を、韓競辰先生に「そんな事をしたら体に良くない」と厳しく咎められたという。この話からも韓氏意拳がよほど精妙な構造に出来ている事がわかる。
競辰先生は、「いつでもたちまち似て非なる使えぬ拳法に、この意拳もなる恐れがある」と繰り返し注意を促されているというが、これは精密な電子機器がほんの僅かの違いで実際に働くか働かないかになることと似ているような気がする。
私は韓氏意拳から、既に言葉に尽くせぬほどの多くのものを得ているが、私がある程度の動きを教わり多少試みつつも、それ以上韓氏意拳に没入しないのは、私自身あくまでも剣術を中核とした日本の武術を研究してゆきたいと思っている事と、韓氏意拳を具体的に取り入れて、似て非なる"モドキ"となることを恐れている為でもある。
意拳の開祖、王向斎老師は、当時としては革命的な意識の持ち主で、従来の套路(型)を排した新しい拳法「意拳」を創られたといっても、その意拳を一番忠実に伝えようとしたと思われる韓氏意拳は、中国の伝統武術の流れを確かに受け継いでおり、その師伝に則った方式でなければ確かなところは伝わらないだろう。
したがって、光岡師には韓星橋老師から韓競辰先生へと伝わったものを忠実に受け継いで頂き、それを少数でも意欲と才能のある人に受け渡していって頂きたい。この事は、かねがね光岡師自身も十二分に自覚されていて、「一度に教えるのは10人内外が理想で、自分は大勢の人に教えて組織を大きくするつもりは全くありません」と、事ある毎に発言されている。
幸い、韓氏意拳は韓星橋先生の技を受け継がれている韓競辰先生が、常人の域を遥かに超える域にまで達せられていて、先日競辰先生の拳舞を間近で見たK君が私に「一瞬テレビの画像が荒れて、画面で何をやっているのか分からないような動きでした」と報告してくれた事からも、その凄まじさのほどが伝わってくる。
この光岡師との対談本も、そろそろ最後の仕上げに入らねばならないし、5月は風雲急を告げてきた。ただ道場を片づける方向を維持する事は死守したい。
以上1日分/掲載日 平成16年5月7日(金)
流石に私も心中青ざめてきた。現在の、そしてここ当分の間のスケジュールのつまり具合にである。
連休明けの頃から、それまで堰き止められていたものが水門を押し破って流れ出して来たかのように次々と降ってくる。いくつもの企画や書いておいたものがゲラになって送られてくる等々・・。新潮社の足立さんには誠に申し訳ないが、2日ぐらいしか時間のない雑誌や機関誌の原稿がゲラとなって出てきたものが3つも重なり、本来は今一番メインな仕事の筈の足立女史から預かっていた本1冊分のゲラを、ついに7日、8日の両日は1行も赤入れ出来なかった。
その上、技の方が、このところ、とにかくやれば何か発見がある状態なので、極力稽古は入れるようにしているので、7日も8日も9日もそれぞれ何時間も体を動かしたり喋ったりした。特に8日はボクシングで世界ランキング十何位とか、バスケットボールで全国に名を知られたチームのメンバーやらを相手に桐朋高校で6時間ぐらい動いて、その後、3時間以上話をしたし、9日の千代田の会は、そのボクサーやリアル・ファイトの総合格闘技の専門家やら、様々な武道・スポーツ関係者が来られたので、動きっぱなしの喋りっぱなし。
しかも、土曜、日曜だというのに、またFAXが十何枚も来る。それも、とても通り一遍で済むようなものではない内容の濃いものが7割ぐらいを占めている。その中の1つ、群大の清水先生からのものを読んでいると、どうやら介護の世界の方で、私がごく気軽にその場の思いつきで武術の応用として始めたものが、段々と振動を増幅させ、それこそ振動で橋を壊しそうな状況にまで発展しかねない恐れが出てきているようだ。
とにかく介護の事などに関連して浮き上がってきた、清水先生の現在の科学に対する問題提起の辛辣さは、御自身がその世界に身を置かれているだけに、かの身体教育研究所の野口裕之先生の科学に対する外部からの批判よりも、ある面その過激さには息を呑む思いだ。(野口先生の場合は、「僕の話なんて、どうせ非科学的な無知蒙昧な人間の遠吠えですから・・」と言われるだけに、ある面笑って聴いていられるが、清水先生の場合はエイズ研究の日本では草分けのお一人なだけに、相当の覚悟をして書かれているという緊迫感が伝わってくる)その他にも読み流せないものが何枚もある。
又、先週末は、私が畑村洋太郎先生と対談を行なったものが載った『文藝春秋』6月号と、刊行6年目にして2刷となった『スプリット』(新曜社刊)が届いた。『スプリット』は鼎談の著者の1人である精神科医の名越康文氏が、このところ『グータン』(フジTV土曜夜放送)で広く名を知られるようになってきた事で購読者が増えてきたようだ。
この本は、今でも名越氏が、しばしば「いやあ、あれは奇書でしたよね、あれ読んで僕と縁の出来た人は皆タダ者じゃありませんから、あの本は何かその傾向のある人の内側を凄く刺激するでしょうね」と話題に挙げるほどだから、やはり普通の人は集まらないのだろう。
それから、もう時間もないので、これ以上今日の随感録を書くことが出来なくなってきたが、5月4日のNHK総合午後11時15分開始の『歴史生き方発見−この人を見よ−』の作り方には大疑問符をつけたい。噂には聞いていたが、NHKもこんな作り方をするのかと、今後のTV出演はよほど考えなければならないと思った。というのも、この番組では土方歳三を特集したのだが、土方が名を上げるため命懸けの道場破りをして歩いたという設定にしたいという思惑が制作者サイドに初めからあり、この企画で私に依頼があった時、そういうコメントを私に言ってもらいたいという雰囲気があったので、はじめから私が「そんなことはなかったでしょう。石田散薬という家伝の薬を売り歩いていたといいますから、辞を低くして教えを乞う形だったでしょう。当時はもう竹刀防具の打ち合いが盛んでしたから、その腕が上がらなければ認めてもらえなかったでしょうから、あからさまな道場破りなどして恨みを買うようなことには何のメリットもなく、まずしなかったと思います。もしも、そんな事をしたら、それこそ命がいくつあっても足りなかったでしょう」というように説明したのだが、NHK側は何と前半を放送せず、道場破りをしたら本当に命がけだったという所のみを放映していた。これは、「つまり土方はそれをやったんだな」と視聴者が思っても無理はないような流れで放映されたもので、この番組を後でビデオで観て、私は唖然としてしまったのである。
これではまるで詐欺である。専門家に話を聞いたというふうを装いつつ、結局は自分たちが考えたシナリオを専門家に言わせる。専門家がそれを受け入れない時は数多くインタビューをした中から自分たちの目的に適うようにコメントを繋ぎ合わせるという事だからである。まあ、扱っている事自体、違っていたからといって多くの人達に迷惑のかかることではないが、報道機関がこのような事を行なうことは、本来あってはならないと思うので、関係者の自省を強く促したい。
それにしても、これを書きつつ左手で岩波の『科学』のゲラを見る用意をしながら、今日もうすぐ始まる船川敦志氏との対談の用意。そのあと出かける夕方の朝日カルチャーの講座の仕度と、その後新潮クラブに泊まる際に持っていくものの用意。ポーラからの依頼稿のゲラの赤入れを封筒に入れつつ、突然にこのところよくはいている袴が面倒な事になったので、これを急いで修理に出さなければならなくなってしまい、これを縫ってもらったF女史へ送る準備。もう、全くどうして神サンは私をここまで追い込むのか、という状況になってきた。
このような状況ですので、新しい企画を考えられている方は、どうか当分思いとどまって頂きたい。何しろ本1冊分の原稿が、この上にまだ3社から届きそうなのですから・・。
以上1日分/掲載日 平成16年5月10日(月)
「まったく神さんも、どうしてここまで私に荷物背負わせるかなあ」という状態である。10日は朝日カルチャーセンターの後、新潮社にカンヅメになる予定で出たが、朝日カルチャーセンターの講座で開始早々ラグビー選手のタックル潰しを行なった時、相手は思いっきり潰れてくれたのだが、あまり一気に崩れたので、そのあおりで潰れたラガーマンの右腕が激しく跳ね上がって私の左脇腹を強打、思いもしなかった不意打ちに一瞬息が止まったが、まさかそこでうずくまる事も出来ず、(「こういう事もあるのだ」という貴重な経験になった)何食わぬ顔で実演を続けた。
ただ、その痛みから「こりゃあ肋骨にヒビくらい入ったかな」とは思ったが、とにかく痛みに気がまわらないように動き続ける。そして終わってみると流石に痛みはかなり来る。そこで新潮社の足立女史とも顔見知りで新潮社付近の地理にも明るく、家もそこからそう遠くはないというSさんに荷物持ちを頼み、新潮社へ向かう。
足立女史は、とにかく人を和ませる天性の人柄の持ち主。ついつい3人で話をして、新潮クラブのビール3本は殆どSさんの胃の中へ。Sさんが帰った後、足立女史と2時過ぎまで原稿の打ち合わせ。その後、とにかく脇腹が痛くて寝ようにも寝られず、痛さより眠さが勝つまで起きていたら朝の7時。その間、〆切間近というベースボールマガジン社のムック本の最終チェックのゲラがFAXで入ってきて、小1時間それに時間を割く。
話はちょっと横道に逸れるが、このムック本に関して現在えらく煽った宣伝記事が出ている事を確認しゲンナリしている。とにかく私のところへ了解を取りに来た表紙の文字は、「動きの、体の使い方教えます」であったのに、どうやらメインタイトルは『達人入門』らしい。「一体だれが達人なの?」と聞きたい。私が、確かにこの人は武術家で達人レベルの人だったと思える人は、最も最近亡くなった人であっても振武舘の黒田泰治翁ぐらいである。私は常々私の技は「まだマシ」な技と明言している。
そもそもこの企画は、井上康生選手との対談をお願いしたいという事で始まり(果たしてそれがどこまで可能性があったかも疑わしいが)、それが不可能となった時、用意した場所(ページ)が空白になるからと泣きつかれ仕方なしに嫌々引き受けた企画である。−ついつい泣き言に負けた私も悪いのだが−
ただ引き受けた以上いい加減には出来ないので、過剰な表現を削り削りして校正をしたのである。それがこんな"煽った"広告で売り出されるとなると、もう今後はこの筋とのお付き合いは止めようと思わざるを得ない。
話は戻るが、その後何とか痛みを騙して寝たが10時過ぎには目が覚め、また赤入れ。ただその間もいろいろな所からFAXや電話が入ってくる。全く足立女史には申し訳ないが、結局4分の1は他社の仕事をやるハメになってしまった。これには足立女史も怒るかと思いきや、「えーっ膝、膝行ニテツメヨル」と、前日私のところへ畏友G氏から届いた思いっきり笑えるFAXの中の一文を引用して冗談を飛ばす余裕ぶり・・。
とにかく、この足立女史の人を包み込む大らかさと、大らかさと同時にある綿密な集中度とセンスの良さには、今回机をはさんで向かい合いで何時間も一緒に仕事をしながらつくづく感嘆した。とにかく、こちらの集中度を乱す無用な話しかけは一切しない。といって全く息苦しさがない。そのため私の方から発する質問や他愛もない笑い話に迷惑そうな顔は勿論、ホンの僅かでも間をズラシたり見当違いな答えを発することがないのだ。これはもう本当に天性のものとしか言いようがない。もし野口晴哉先生の体癖研究にある程度でも理解のある人なら10人が10人「開き」と断定するだろう。まあ一見してその雰囲気だが、自らの体癖を本当によく使いこなされていると思う。集中持続の濃さ、しかも「閉じ」のようなキリキリ来る感じがない。
新潮社には別に借りはないし、特別義理もないが、よくぞこういう人物を採用したものだと、入社面接官のセンスにまで拍手を送りたくなった。お陰で脇腹の痛みも何とか動ける範囲の痛みに治まってきたような気さえする。そして、赤入れは結局翌日の夜明け前3時まで15日深夜まで持ち越す事になった。
当然のことだが、家に帰った時は4時を回っていた。何だかんだで寝たのは5時過ぎ。そして10時過ぎに起きて、もう必死に片づけてIACのビデオ撮り。例によって中村振一郎、高橋佳三の御二方に受けやら感想を述べてもらう。ここで先日気づいた対投げ技用の返し技に『からくり屋敷』という名前をつける。この技を体験した中村氏が、さすが量子化学の専門家らしく「これは要するに座標転換ですね」とコメント。話は盛り上がり、撮影終了後、家の近くの店で打ち上げ。ついつい11時を回る。体も痛い。校正原稿も山のようにある。しかし、技の進展には何をおいても付き合いたいという事なのだろう。当然、寝る時間は減るが、このまま突っ走るしかない。
とにかく18日までの私の日程の凄まじさは、ちょっと今までに経験のないものだ。もし途中でダウンしたら、「足立様、新甫様、名越様、立風書房様、スキージャーナル様、蓮様、その他私と約束された方々・・申し訳ありません」とにかく10日の夕方から12日の明け方までの間に私の許に届いたFAXだけで40枚近くあったのだから・・。
それにしても術理に関しては、12日のIACの撮りで当分の間は出てこないほど語り尽くした観があったが、何やら、またそこから芽が吹いてきそうな予感もしてきた。
以上1日分/掲載日 平成16年5月15日(土)
昨日はさすがにここ数日間の過労が祟ったのか、葉山であった或るパーティーの席上、主宰者の挨拶を立って聞いているうち目が回って油汗が吹き出してきたので、漸く近くの椅子に腰かけて、いきなりその場に倒れこんでパーティーの雰囲気を損なうような醜態は何とか防げたが、スタッフの方々にはすっかりお世話になってしまった。
しばらく別室で横になって休んでいるうち次第に気分も良くなってきたので、パーティー会場に戻り、心臓外科医の須磨久善先生など以前お会いした事のある方々に御挨拶して、しばらく歓談する。その後、コンサート・プランナー等もされているという頼近美津子女史を紹介して頂き、初対面の御挨拶をしたが、たいへん話の通りのいい方で、御質問に答えているうち小1時間も話し込んでしまった。
思わぬ時間を過ごした後、新潮社の足立女史らと都内に戻り、私は精神科医の名越康文氏らと身体教育研究所に行くため二子玉川の駅で落ち合い、取り敢えず話をするためにレストランに入る。レストランには名越氏の他、今回名越氏のテレビの撮影現場でもずっとアシスタントを務めている、名越クリニックのスタッフで私も以前からよく知っているM女史、そしてこの3月半ばに御縁の出来た今井みはる女史の4人。
今井女史は、俳優の浅野忠信氏がキリンビールのコマーシャルで剣術的な動きをする際、その剣技指導者として私の事を浅野氏に勧められた方である。今井女史が浅野氏に私の話をされたというその時点で、私は全く今井女史を知らなかった。初めてお会いしたのは浅野氏のビールのコマーシャルを撮るという当日だった。この日、名越氏を浅野氏に紹介しようと思って、上京中の名越氏が帰阪されるまでの数時間、撮影が行なわれていた横浜のスタジオに名越氏に来てもらったのだが、名越氏がスタジオに到着して程なく私が名越氏と歌手のカルメン・マキ女史と3人で出した『スプリット』を読まれていた今井女史の方から名越氏に声をかけられ、すぐに意気投合されたようだった。この日は私は剣技指導で忙しかったため、私より遥かに多く名越氏と話を交わされていたようで、帰り道は途中まで御一緒したが私がひどく疲れていた事もあり、それほど印象に残らなかった。
しかし、2ヶ月ぶりに改めて名越氏共々お会いしてみると、そのお人柄は「ちょっと他に一体誰が」という言葉をつけたくなるほど、この方の代わりはまず見つからないと思われる独特の雰囲気の方で、見かけはごくサラッとフワッとされているが、ちょっとやそっとの修羅場には動じない人生経験を積み重ねられてきた事がヒシヒシと感じられ、「世の中にはこういう人もいるのか」とあらためて感じ入ってしまうほどの方である。浅野氏も深く信頼を寄せているという理由があらためて納得出来た。そんな方がポツリと「『スプリット』には救われたわ、辛い時何度も読んだから・・」ともらされ、このコメントには名越氏共々深く感動した。このような感想を伺うと、先日2刷が出来てきたこの『スプリット』は、名越氏の言うように、やはり"奇書"なのかもしれない。
この本の"あとがき"で、確か私が、すぐれた才能を持ちながら、周囲の無理解で閉じ篭っているような若者が、この本で幾分かでも精神に光を得られればこの本を出した意味もあった、というような意味の事を書いたと思うが、若者と呼ぶにはあまりに人生の風雲を数多く切り抜けられてきた今井女史のような方にこれほどまでに仰って頂き、著者の1人として、そして何よりも企画者として本当に有難かった。
この本に関しては、今までにもいくつか、とても読み流せない重い感想の御手紙を頂いた事があるが、読者の人生、生き方に影響を与えたという意味では私の今までに出した20冊ほどの本の中で、この『スプリット』が一番大きかったかも知れない。
この本は、この秋文庫になる予定だが、現状では文庫化が遅れる可能性がきわめて高いので、御関心のある方は是非2刷が出来てきた新曜社版をおもとめ頂きたい。昨日、今井女史の御感想を聞いて、「著者のすすめるベストスリー」という企画があったら、その3冊の中にこの本を入れたいと思った。
そして夜9時近く、もう大分フラフラしていたが、名越氏らと身体教育研究所へ。この日、野口裕之先生の公開講話があったので、それが終わって帰る人達と入れ替わりの形となったが、この講座に出席している人達の中に何人も見知った顔を見つけ、人に影響を与えることの恐ろしさを感じた。
この夜、野口先生は談論風発、"つげ義春"の漫画を絶賛するなど普段にも増して話が盛り上がったが、ひとつには今井みはる女史が、言葉は少ないけれどニコニコ顔で「もっとアクセル踏み込んで、まだまだ飛ばして欲しいわ」と絶妙に走りやすいコースを整備されていたからのように思う。お陰で一時は疲れで目を開けているのも困難だった私も、話のあまりの過激さと面白さに途中から目が覚め、結局名越氏の操法が始まったのも1時頃だったように思う。
名越氏の後は私の操法の番となったが、操法をイザ受けるというその時まで10日に脇腹を傷めた事を忘れていた。うつ伏せになってから、「肋骨にヒビが入ったかと思ったのですが」と告げると、「もう立派にヒビ入ってますよ。よくまあ、こんな体で動いていたものですね」と野口先生に感心されたというより呆れられてしまった。しかし、当の裕之先生も数ヶ月前、足首を骨折されながら普段と殆ど変わらず仕事をこなされていたのだから、言葉の上では驚いた表現をされていたが、内心は「まあ、この程度なら別にどうという事はないだろう」と思われていたと思う。
しかし、肋骨にヒビという言葉は、一般的には相当インパクトがあったらしく、この事故とパーティーで倒れかけた事などで、私の過労を心配して下さった新潮社の足立女史から、最も急がされていた8月刊行の本の原稿に関して、「折角出すのですから内容をあらためて練り直し、ずっと後まで残る本にしましょう」という今の私にとっては願ってもない提案を頂いた。
足立女史の具体的提案を聞いていると、確かに私の体調不良が直接的なキッカケになったとは思うが、最近私の講座や私が個人的に私の技について解説している現場で私の話に耳を傾け、いろいろと想を練っているうちに出た結論でもあるらしい。あらためて、最近は稀な編集者らしい編集者だと感じ入ってしまった。今後は極力このような丁寧な本づくりの所から本は出したいと思った。
こうした思いがけぬ流れで、どうなることかと思っていた15日から17日までの3日間の超ハードなスケジュールも一息つくことが出来た。
しかし、やる事が山積みしていることに変わりはないので、気持ちを緩めず仕事を続けて行こうと決心を新たにしている。ただ、その前に、先日来館した信州の江崎氏が持参してくれた手裏剣の距離対応基準計測用セットをもう少し詳しく見てみたい。これは、まさに世界に1つしかないと思われる労作で、雌ネジを切った基部を持った剣2本と、そこにネジ込む0.1グラムから0.8グラムまで、0.1グラム違いの錘と雄ネジを切った銅と鉄の0.5、0.7、0.8、1.0、1.2、2.4グラムの蓋とがキチンと仕切りで整理された小箱に収められたものに、精密ドライバーとピンセットまで付いているという、まさに至れり尽くせりとはこの事かと息を呑むほどのもの。人に何かものを貰ってこれほど唸らされた事は滅多にない。
江崎氏の研究では、約50グラムの剣で5間から6間、あるいは6間から7間と1間伸びる毎に基部に0.4~0.5グラム重くする必要があるという。私も時間を得て、この関係を詳しく再検討してみたい。
さて、明日は何人もの人を道場に迎え、夕方はバスケットボールのH選手の様子を見に行く予定。
以上1日分/掲載日 平成16年5月17日(月)
新潮社で8月に刊行予定の本をあらためて作り直すことになって、少し余裕が出来たと思ったのも束の間、思い出したやりかけの原稿書きやら、週末に東北へ出かける仕度やら、「一体あそこで新潮社の企画が延期になっていなかったら、今頃どうなっていただろう」と背筋が寒くなる。
ただ、それでも気持ちの上では少し余裕があったせいか、17日は荻野アンナ女史との対談の後、桐朋高校でバスケットボールの浜口選手に3度目の動きの解説に出かける。足裏の垂直落下は更にその後進展していて、この時も背後から押された時の押し返しや、体の躱しに有効だった。そして、これは昨日の来館した格闘家のN選手への解説にも役立った。離れた間合からの入り方、タックルの潰し方等、いろいろ実演したが、タックルで実際に私がN選手に片足を抱えられた時、私の方が床に付いている方の足裏を浮かす「抱え上げ」と「立蜘蛛返し」を合わせた動きの応用で、逆に相手を崩す技を思いついた。
N選手は100kg近い堂々とした体格で、その世界では知られた人というが、大変真面目で真摯に私の解説に耳を傾けられる様子には大変好感が持てた。
こんなふうに17日も18日も動き回ったが、なにぶんにも肋骨にヒビの入った状態なので、無理はしないようにと心がけている。
明日は6時30分から日本橋丸善でのサイン会とミニ講演会。多少実演もして最近の動きについて解説するつもりです。まだ会場には余裕があるとの事ですので、御縁のある方はどうぞ。(詳しくは告知板を御覧下さい)
以上1日分/掲載日 平成16年5月19日(水)
今日は、仙台での稽古会。今回は「立蜘蛛返し」、「からくり屋敷」「逆さ独楽」の躱しなど、前回3月の稽古会以後に出来た技をいくつかやったが、片足にタックルされた時、相手に脚を持たれた状態から、持たせた状態にすればいいという、今週の火曜日18日に格闘家のN選手来館の時に思いついて作った「片足タックル返し」の技も、何人かの方々に体験して頂いた。
ただ、今回は10日にヒビを入らせた肋骨に気を使って頂いて、仙台の皆さんに早めに休むようにと勧められて、自室に引き上げ、何気なくテレビをつけて、名越氏が出演する「グータン」でも見ようとチャンネルをあちこち動かして、フジテレビ系の局を探していると、突然画面に、ついさきほどまで私が解説して実演していた「片足タックル返し」を思いつくキッカケとなったN選手の顔を見つけて驚いた、「そうだ。今日、埼玉で試合だったんだ」と思って、思わず画面に見入ってしまう。3時間ほどとはいえ、真面目に熱心に私の動きに耳を傾けてくれた好漢だったし、それもつい数日前のことだから、やはり応援したい気持ちで見てしまう。試合4日前の私の話がどこまで参考になったかは分からないが、試合の結果は、2RでN選手が相手をタップさせて勝つ。ただ、見ていると、あの時は「こうしたらどうだろう、ああしたらどうだろう」と、いろいろアイディアが浮かんできて、止めようもない。すると、それまで思ってもみなかった事だが、また機会があったら、N選手といろいろ技を工夫してみたいという思いがフト浮かんできた。
以上1日分/掲載日 平成16年5月24日(月)
23日の仙台での稽古会の後は、数ヶ月ぶりに東北の山中深くにある炭焼きの佐藤家へ。佐藤家の周囲のコナラは、まだ銀色の抜けきらない新緑。タニウツギも、まだ蕾だったが、どこを見ても緑という環境は、他の何物をもっても変えがたい感動がある。
と、ここから書き始めて、今回の東北の旅は、山のように書く予定だったのだが、それを書くつもりだった26日、東京への帰路の新幹線の中では、東京駅でPHPの編集者の太田氏が、『武術の創造力』の文庫化に向けての直しを待ち受けているというので、高畠のDSSFで『武術の創造力』を1冊借り、車中では、直しと校正ミスの点検に時間を使ってしまった。そして、東京駅から新宿に出て、帰宅途中まで太田氏と打ち合わせを行ない、家に帰ってみると、5日間留守にしていた間に届いた手紙やFAXが、手提げの紙袋に入りきらないほど来ていて、その対応に、その夜も27日も追われ、しかもその間に、又新しい依頼の電話やらFAX・・。
このままでは随感録の更新も大幅に遅れるので、今回は意拳の光岡英稔師と共著の最後の詰めの為、高畠のログハウスで合宿をしたこと、高畠のDSSFでは日本の射撃チームの監督である藤井優監督の御厚意で、又いろいろ御馳走になったり、新しく人を紹介して頂いたりした事などを書くに留めたい。
ただ、こうして今回の旅の事を書きながらも、思わず目に浮かぶのは、佐藤家の周囲の緑と、その緑の中に建っていた大工の深田真氏の工房。六寸角の柱に一抱えもある松やカラ松の、長さ5間の梁を6本通した、その工房はまるで神社のようで、これほど見事な作業場を現代造ろうという人は日本中探しても滅多にいないだろう。
それから(と、ついまた書き足してしまうが)感動的な事といえば、25日の夜、わざわざ新潟から私に会うため来ていたJリーグ、アルビレックス新潟の深沢仁博選手が、ディフェンスしようとする相手に接触した時、その力を利用して舞い上がり走り抜けるという、私がサッカー用に工夫した技が出来るようになった事である。
3月豊田市で会った時は、まだとても出来る気配もなかったのだが、その後ずいぶん工夫を凝らしてトレーニングを積んだのだろう。深夜、深沢氏と、これから新潟に帰るという直前、DSSFの駐車場で私が受けてみたところ、何と出来るようになっていたのである。これは、その少し前、私と同行していた意拳の光岡師から「形体」の詳しい指導を受けたことも幸いしたのかもしれないが、3月の時とはまるで別人のようだった。
「これ、出来るようになったじゃないですか」と私が言うと、「いやあ、嬉しいです」と言う深沢選手の目には、今にも涙が溢れそうで、これには私も胸が熱くなった。
私自身も、この夜ひとつ気づきがあり、翌日帰京する時間ギリギリまで藤井監督の御厚意や、"まるみつ"の小関氏の御協力で場所をつくって頂いて、打剣の稽古を行ない、この気づきが新たな進展へのキッカケとなりそうなところまで稽古出来た。
今回も、いろいろな方々にお世話になったが、仙台の森氏、藤田氏、伊藤氏、榊女史、炭焼きの佐藤夫妻、高畠の菊地氏、"まるみつ"の小関氏、DSSFの藤井監督、足立女史、栗田女史、そして共著のため来て下さった光岡師と鹿間夫妻には深く感謝の意を表したい。
以上1日分/掲載日 平成16年5月29日(土)