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とにかく家に居ると、何十羽もいる雛鳥が大口を開けて餌をねだるように、そこかしこに、やらねばならないやりかけの仕事、すなわち原稿やら校正やら問い合わせへの返事、それに手入れや修理しなければならない道具類やらが目に入ってきて、全く体が八つ裂きにされそうだ。
しかし、現状はそれらに殆ど手がつけられない。昨日30日は、午前中からPHPの本のための写真撮影で近くの公園へ。武蔵野の雑木林の面影をかなり残した広大な公園を、恰好の場所を探してかなり歩いた。
カメラマンの和田氏は、クーラーなど勿論ない1960年代のフォルクスワーゲンをいまだに乗っているという人で、それを聞いただけでも、こだわりの人だと分かるが、あらためて会ってみると、まさに9種。(名越式で云えば、クロネコさん)
公園でも、そのこだわりぶりは十分に分かったが、道場の撮影でも、「もう1回、もう1回お願いします」の連続で、私もそういう真に納得いくものが撮りたい、という人の気持ちは分かるので、注文に応じて付き合った結果、すべて終るのに10時間を費やしていた。
ただ、撮影中も三次元井桁の気づきはいくつもあったので、撮影が終った後も、撮影のため来てもらった高橋氏を相手に動きを研究し、いくつかの面で新たに進展があった。
高橋氏を送り出し、ざっと片づけて風呂から出たら午前1時。それから2日に載る朝日新聞の舞踊評の3度目の書き直しを始める。撮影の疲れなどで朦朧としながらも、何とかまとめI氏へFAX。倒れこむようにして布団に入る。
しかし、今日も、夕方出かけるために、何十もある用件の間を飛び回りながら、こうして体を動かして活動できるのだからありがたい事だと、フト感謝できる心になれたのは、私としては近来にない思わぬ自分との出会いだった。
以上1日分/掲載日 平成16年12月1日(水)
本の刊行に向けての写真選びや送付、また原稿書き、週末の弘前での会のための荷物づくり等々、差し迫った用件もいろいろあるが、ここ最近の技と術理の気づきは止めどもなく、その上いろいろな出会いもあり、ある程度でも書いて整理しておかないと、私自身混乱しそうなので、無理やりにでも時間をとって、これを書いている。
12月に入って、1日はビジネスの世界では広くその名を知られている小阪裕司氏からのお招きで、市ヶ谷の旅館で対談。私が、桐朋高校のバスケットボール部が私の動きを取り入れて成果を挙げた事から、安易にこれを取り入れようとして上手く行かず、その上従来の方法も中途半端になって崩れてしまった高校がいくつもあったという事をお話しすると、小阪氏は、「いや、全くそれはビジネスでも同じで、ある店がユニークな方法で売り上げを伸ばすと、ホンのその表面だけを真似して、上手く行かないという人も多いんですよ」と興味深げに、いろいろと話して下さった。
この日は、この旅館に泊まって、昨年NHKで放映した「人間講座」のテキストに加筆して刊行する本(PHPで刊行予定)のまとめに入ったが、今回技が進展したというより、術理が大きく変わったため、これをどういう形でまとめるか悩み、翌朝旅館から群大の清水宣明先生に電話して状況を話す。
すると、これを聞かれた清水先生が大変に関心を持って下さり、いろいろとまた展開があったのだが、電話を切ってよく考えてみると、今回の私の気づきは、井桁崩しのような平行四辺形の変形というより、力というか動きの方向そのものは上下・前後・左右のどの方向の力線も崩さずに保持して、絶えず合成し続けるという事であり、これは井桁崩しの進展のようではあったが、根本的に井桁とは違う術理というか、概念である事に気がついた。したがって、今まで三次元井桁などと仮に呼んでいたが、その仮の名も使えなくなってしまった。
そんな事を考えているうちに昼も過ぎたので、急いで仕度して帰宅。途中、久しぶりに三十年来の付き合いである武道具店に寄って、いくつか注文。最近、打ちが強くなってきたので、袋竹刀の中身をカーボン竹刀にしてみようと思ったのだが、店の人の話では、この頃カーボンを使う剣道家が激減しているとの事。カーボンは痛いとよく言われていたが、持ちは遥かにいいから、一時期、学生は殆どカーボンだった。学生さんも豊かになったのか?それから、家に帰って片づけをし始めたものの、とても片づけきらないうちにバスケットボールの浜口典子選手来館。
浜口選手とは、十日ほど前に佐世保で会ったばかりであるが、この十日間、私の術理は、また大きく変わってきたので、浜口選手にもインパクトがあったのだろう。「これが出来るようになったら、バスケットボール界の革命ですね」という感想を聞くことが出来た。
この時もハッキリと感じたが、三次元に生きている我々は、三次元にいながら感覚器官を通して入ってくる情報は全て二次元であり、その二次元情報を基に三次元的に感じるように組み立てているのである。感覚器官が感じる方向と、実際に働いている力の方向は、体が三次元的に(つまり上下・前後・左右の動きが同時に)働くと認識するのがきわめて難しいのである。
そうした事が分かり、昨年、長野工専でつくったバスケの抜き技「みすず返し」も動きが三次元的となるため、相手が大変止めにくいことに気がついた。そして、その事から、この動きの基盤になっている杖術の「下段抜き」が、三次元の動きを養成するのに有効な型であることにも気がついた。そんな事をやっているうちに夜8時になり、荻野アンナ女史が祥伝社の編集者三宮氏と来館。浜口選手は何だかまだ居残りたい様子だったが、後輩との約束があるとの事で都内へ。
その後は、荻野女史と、夕方からアシスタントに来てもらった荻野女史とはなじみのいいTさん相手に、カメラ係の三宮氏も時々加わって、介護の型やら受身やら、ひどく混んだところの通り方とか、生活に関わる様々な動きを効率よく行なう工夫について私のアイディアをお話しして、実習して頂く。これらの事が荻野女史の筆で本になるのは、来年の夏頃だろうか。
荻野女史は周知の通りの御人柄だし、Tさんも子供のように無邪気なところのある人なので、大笑いや苦笑が波状に展開して、2時間以上が忽ち過ぎてしまった。
3日は蔵前での会。この会では最新の三次元展開の技の解説を試みつつ、参加者の方々に体験していただく。ここで何人かに最新の、いわば守りの堅い城の本丸を直に衝く小手返を試みる。小手返は通常体の中心から遠い手首を攻める技だが、この手首を固め、場合によってはもう一方の手も添えて、両腕で三角形をつくっているところを攻めるもの。今までは多少なりとも相手を引き出して浮かせたりしていたが、今回の三次元展開の動きでは、最も守りの堅いところを最も端的に攻める。
これは、三方向同時展開の今回の術理が、視覚や皮膚に感じる力の方向と、実際に主として働いている力の方向が異なる動きだからこそ出来るもので、従来の技との違いを最もハッキリと示す技のひとつ。体が崩れる人、自分の拳で自分の顔を打ってしまう人など、対応も変化に富んでいた。私もほとんど経験がないから、手加減のしようが難しい。
その後、この技について常連で来ている人達と話したかったが、この日は年に一度の銕(鉄)の会の忘年会が、この会場から3〜4キロしか離れていない根岸のおでん屋で開かれていて、幹事役の岡安一男・岡安鋼材社長から、「甲野さん、遅れてもいいから是非来て下さいよ」と言われていたので、終るとすぐ飛び出してタクシーで浅草橋へ向かい、鶯谷に出て、又タクシーで駆けつける。
会は例によって江戸小紋の増井一平氏、表具師で多くの国宝修復も手がけられている鈴木源吾氏ら7,8人の方々。話の流れで、相撲取り顔負けの太鼓腹の岡安社長を「上体起こし」で起こしたり、「添立」で立ち上がらせたりと、稽古の続きをしたり鉄の話をしているうちに、忽ち1時間半ほどが経つ。予定時間大幅延長でお開きになった。
そして4日は桜美林大学で開かれた人体科学会での講演に行く。これは新体道の青木宏之先生からのお話があったもの。講演では青木先生ご自身が、私の司会役を務めて下さり、本当にお世話になってしまった。ここで、あらためて深く御礼を申し上げたい。会場は多くの医学、体育関係の、主として大学の関係者の方々が多かったが、私が予想していたよりも遥かに関心を持って下さる方が多く、私の講演後も会場の裏手にあったロビーのようなところで、多くの方々の質問を受けたり実演したりで、結局、実質4時間ほど講演していたことになる。なかでも驚かれたのは、椅子に坐っている人をその姿勢のまま抱き取る介護の技の「浮き取り」など。この技は何十人の人にやったか分からないほどやった。この技に関しては、青木先生に同行されていた新体道協会の理事長で、青木先生の長男に当られる青木太郎氏が、いろいろとボランティア的な活動もされているからか、強い関心があったようなので、詳しく体の使い方を解説したところ、さすがに新体道で体の感覚を練られた方だけに、数分でコツを掴まれたようで、モデルの女性を股関節から大腿部を上げることなく、殆ど腰掛けた状態のまま抱き上げられた。
この介護の技に関しては、本当に多くの方が好むと好まざるとに拘らず直面する問題なので、私も出来る限り多くの方々に伝えたいと思っている。
この事に関連していくおまけのような話がある。新潮社で出しているコミック誌『コミックバンチ』に掲載されていた柔道漫画「ますらお」の最終回に、私がつくった自分より腰を落として頑張る相手を投げる「立蜘蛛返し」をネタにしたに間違いないと思われる「立亀返」なる技が登場していて、思わず苦笑。が、同時に「立蜘蛛返し」は柔道の亀状態となって頑張っている相手を返す「平蜘蛛返し」の立ち技バージョンとして、今年つくったものだが、亀状態を返すのだから「平蜘蛛返し」は「平亀返し」で、「立蜘蛛返し」は「立亀返し」と呼んでもいいなと頭の隅で私自身考えたことがあっただけに、流石に作者も考えているなあと感心してしまった。
そして、「この分では、来年2月頃に出る『武学探究』に載る韓氏意拳による中国武術の3つの発力伝達の分類、"逐帯伝導"、"固態整体伝導"、"核変伝導"なども、忽ちいろいろな武道漫画や格闘漫画に使われるだろうな」などと考えていたら、それなら、いっそ"浮き取り"や"添立ち"も紹介した「介護流柔術」漫画を誰かに描いてもらい、今の悲惨な介護の現状突破のキッカケとしてもらいたいものだと思いついた。それが出来れば、漫画史上、『ブラック・ジャックによろしく』などと並んで、ハッキリと分かる形で社会の制度を変えるキッカケをつくる初めての漫画になるのではないだろうか。
私が工夫した"上体起こし"、"浮き取り"、"添立ち"等の技は、従来の方法に比べれば、全く例外なく、出来た人にも受けた人にも好評で、現実に体験してもらえれば、誰がどう考えても文句の出しようがないのだから。
まあ、これほどハッキリと従来の介護法との違いが出て、介護される人達にもとっても楽だと喜んでもらえる技を使う主人公に対して、周囲の介護関係者だけは「武術なんて人を傷つける技術は福祉の心に反している」といって認めようとしない(実は現にあった話)、というような展開を描けば、それはそれで漫画として読者を引っ張る物語に仕立てられるだろうし、本当に誰か、この介護流柔術を私から引き出して、広く世に伝えようとしている介護の専門家、岡田慎一郎氏に綿密取材をして書いてもらいたいものである。(もっとも、岡田氏と私との共著に関しては、数日のうちに最初のテープ録りがあるが)
もし、私も納得できる介護流柔術の漫画が出来そうなら、私も出来る範囲で協力はしたいと思う。
以上1日分/掲載日 平成16年12月7日(火)
自分の今いる立ち位置を確かめないとどうしようもない。昨日なども移動中の電車の中で、いま自分が何処に行こうとしているのかを何度も忘れそうになる。もっとも、それは、まず最初に行った角川書店で、テープ録りの最中に気分が悪くなったからもあるだろう。寝不足で体調不振の上、10日に池袋へ行ったら、その後家に戻らず、旅館に泊まって、朝早い新幹線で弘前へ向かう予定なので、池袋に出るまでに、どうしてもやらねばならない何件かの用事を済ませねばと、それが気になっているからだろう。寝ても眠りが浅い。
それでも技と術理に関しては、気持ちがどうしてもそこに焦点が合ってしまって、昨日、ダンサーの山田うんさんの舞台を見ていた時も、その動きに感心しつつも、同時に自分の動きのありようを探っているのを感じる。
話は全く変わるが、5日の日曜日に換えた3代目の携帯も、ようやくある程度使い方が分かってきた。弘前に行く前に、何とか基本操作を覚えなければと、長男と同じ機種の色違いにして、長男にいろいろな設定をしてもらった上、トータルで2時間ほど使い方を教わり、何とか使えるようになってきたが、まだ多少不安がある。しかし、最近の携帯の多機能と賢いのにはたまげる。多分、そのぶん人間の方がバカになってきているのだろう。
人間の感覚というのは妙なもので、今日のようにダイレクトに目的地に行かず、都内での講座の後、家に戻らず、都内の旅館に泊まってから新幹線に乗るという場合、旅に出る感じがしないので、仕度がどうしても実感を伴わず、何度も何度も東北への出発は明日だが今日はもう帰らないのだ、と自分に言い聞かせなければならない。
そこへ持ってきて、何しろやらねばならない事は山積みしているから、ついつい全てが遅れてくる。例えば、緊急の用件の手紙を午前中は書くつもり。昼過ぎは宛名だけ封筒に書いて持って行く事にしていたが、最終的には家人に住所を紙に書いてもらって、それを受け取って家を飛び出すはめになってしまった。
以上1日分/掲載日 平成16年12月11日(土)
12年前、初めて仙台を訪れた時、遠野にも行ったのだが、それ以来仙台へは70回近く行きながら、それより先へは行ったことがなかった。それが、今回弘前を訪れることになって、12年ぶりに仙台より先へ行く。そして、雪化粧した岩手山を左に見る盛岡を越えれば、北海道へ行った時に上空は通ったかもしれないが、陸路は初めての青森県へ。
先月見た九州の山並みと比べると、本当にみちのくへ来たなあと思う。なんというか、胸が痛くなるような、たまらないもの哀しさがある。こうした風景が近代化と共に失われてきたかと思うと本当に悲しくなる。この頃は、さまざまな社会的問題や異常気象が話題になっているが、こんなにも自分達の勝手な都合で自然を切り刻んできて、よくこの程度で済んでいるなと思う。
こんな事を思ったのは、車窓から、この何とももの哀しい様子で人間の勝手なしざまをじっと耐え忍んでいる感じがする東北の野や林を見たからだと思う。もっとも、その近代化の恩恵で、朝8時過ぎに東京を出て、5時間後にこの風景に接していられるのだが・・。
昨夜は午前2時頃まで市ヶ谷の旅館で『アエラ』の「現代の肖像」のため、ライターのU氏のインタビューを受ける。その後、ある程度やる事をやってと思っているうちに午前4時。池袋の講座の後、家に帰ると寝る時間が無くなると思って旅館に泊まったのだが、あまりその効果はなかったようだ。ただ、1月に出るという、この「現代の肖像」のインタビューを、ほぼ終える事ができたので、それは良かった。そういえば、同じ「現代の肖像」、名越氏の方は13日発売の『アエラ』に載るようだ。
掲載日 平成16年12月13日(月)
11日から2日間にわたる講習も忽ち終って、今は弘前駅前のホテルでこれを書いている。弘前まで来て、いくつか初めて見る光景に接したし、最後に以前から望んでいたが、中々その機会に恵まれなかった、実に貴重な体験もした。初めて見たのは、会場の武道館のエレベーター。靴を脱いだ状態で乗るエレベーターに乗ったのは生まれて初めて。日本ならあってもいいエレベーターだが、私には初めてだった。それから第1日目の打ち上げで行った郷土料理店で、ナマで目の前で津軽三味線の演奏が聞けたこと。この音色は体の中にある情念に火をつけるものがある。親切に店のマスターに三味線を持たせて頂き、初めて三味線で音を出してみた。
そして最後の最後に、この地へ来て思いがけず長年の思いが叶ったのは今回の会の世話人をして下さった小山氏の好意で、刃引の真剣を使わせて頂いたこと。これは、武術を志す者として、本当に貴重な体験だった。これによって長年確かめたいと思っていたことが、いくつか確かめられたので、本当にありがたかった。
とにかく真剣での稽古は、今までに長年の武友である伊藤峯夫氏とも抜刀術等で何度かやったが、いずれも寸止めで、刀の損傷が必至である打ち合いはやるわけにはいかなかい。それが今回小山氏はじめ他の2名の方々に相手になって頂き、初めて遠慮なく打ってきてもらうのを、遠慮なく打ち返すことができた。「鏘然として火花が飛ぶ」とは、よく刀を打ち合わせた時の形容に使われるが、本当に斬ってくる刀に対して斜めに刃を斬り割っただけでも、周りで見ている人が「おお」と声を上げるほど火花を出して、3メートルほど離れた人の顔に砕けた刃の細片が飛び散る。
私の相手をしてもらった3人は、緊張で顔が硬張っていたが、私は水を得た魚の思い。さすがに刃の大欠けの恐れや折損の危険もある刃による思い切った斬り止め等はしなかったが、斬り込んで来た相手の刀身に、こちらの刀身を手之内で利かせて回転体として当てるという長年実験したいと思っていた技は、存分に試すことが出来、予想通りというか、予想以上に有効であることが分かり、これは大収穫だった。
真剣は刀身の身巾と重ねの比率が5対1ほどあり、これは竹刀はもとより木刀とも全く状況が異なる。私が学んだ鹿島神流の刀の操法は、手之内を満月や半月に絞ることで刀身を返す技術がいろいろあったが、これを斬り結ぶ際に用いることは有効に違いないという確信を、弘前に来て、実際に体験して事実であることを証明出来たのは本当に幸いだった。これによって、竹刀や木刀の稽古と真剣とでは道具の機能に大きな隔たりがあることがあらためて分かった。
それにしても嬉しかったのは、刃引きの真剣で稽古をして恐怖が全く無かったこと。もちろん刃引きとはいえ、思い切って打ち合わせているから、何かで滑ったり跳ねたりして、お互い相手に当れば大怪我の恐れもあるから緊張はしていたが、その緊張がまた何とも快いのである。打ち合わせたり影抜で抜いたり、下段から発剣したりと、いろいろやったが疲れも忘れて思わずその世界に没入してしまった。
弘前の方々からも、また是非と強く望まれたので、東北は仙台、山形に続いて、ここ弘前でも稽古研究の輪を広げることになりそうである。
以上1日分/掲載日 平成16年12月13日(月)
時間がなくて、忙しいという表現も、もう出し尽くしたと思っていたが、弘前から帰って、この2日間の忙しさは何と言ったらいいのだろう。電車に乗っていて、原稿の校正か何かをしていて、フト気がつくと降車駅。急いで原稿や赤ペンをバッグに仕舞い、網棚の荷物を下ろして、座席や網棚を見直して忘れ物、落し物がないかを確認してホームへ降りる、といった状況に朝から晩までさらされている感じなのだ。その為、弘前にまで宛名書きを持っていった急ぎの手紙すら未だ書けていない。
そんななかでも、これを書いているのは、手紙が書けず不義理をしている方々へのせめてもの御挨拶と、最近出た900号目の『アエラ』誌の「現代の肖像」の感想と補足説明をしたかったからである。まず、いろいろとお気遣い頂いた品々を送って頂いた方に深く御礼を申し上げます。いずれ電話か手紙で御礼を申し上げますが、取り敢えずここで御挨拶させて頂きます。
さて、次は『アエラ』誌の件である。今回の「現代の肖像」は、私にとっての畏友の中でも最も親しい精神科医の名越康文氏で、ライターは、現代の社会問題について書けば恐らく日本で何本かの指に入ると思われる藤井誠二氏。私も確か8月に藤井氏の取材を受け、その時の私のコメントが今回も文中に紹介されていた。ただ、そこで
甲野が11歳も年長なのだが、名実共に一番の親友だと言って憚らない。甲野は大阪市内にある名越のマンションの鍵を持っており、名越が留守でも泊まるほどの仲である。感動した映画があったり、おもしろい人物に会うとその日のうちに長電話で報告しあう。「名越さんが異性でなくて良かったですよ」と、聞く方が赤面してしまうような台詞を甲野に言わせてしまうほどの「関係」なのである。
と、私と名越氏との間柄について書いてある。
ここは何の予備知識もない読者が、このくだりを読んだ時、どういう想像を働かせるかは実に微妙である。私としては、名越氏が異性でなくて良かったというのは、「人と人とが大変親しくなった時、それが異性間だといつの間にか恋愛感情が生まれたり、それに似た状況に陥りやすいので、関係が微妙に揺らいだり嫉妬が生まれたりと、どうしてもややこしい事になりやすいのだが、同性間はそうした感情が生まれにくいので、関係が長期に渡って安定化するので有難い」という事を言おうとしたのだが、藤井氏はそうした塩味程度の味付けを、同じ辛さでも唐辛子に置き換えて刺激的な演出を故意にしたのかもしれない。
というのも、藤井氏がこのくだりについて名越氏に、「こんな事を書くと甲野さんに斬られちゃいますかね」と言って悪戯っぽく笑われたらしいからである。その辺は、あくまでも事実を書きつつ読者の想像をふくらませるというライターとしての巧妙な手法かもしれない。そういったことも含め、今回の「現代の肖像」は、さすがに藤井氏は現代を代表するライターと納得させられる文章である。特に最後の、フジテレビで放映中の精神分析番組『グータン』に関して、
カウンセリングの基本は、カウンセリングを受けたいという切羽詰ったクライアント側の意思が前提となる。しかし番組にやってくるタレントにそういう思いはない。あったとしても、それを赤裸々に言うことはできないし、名越が口に出して指摘することはタブーである。それでも手を抜くことはできない。5時間に及ぶビデオを目を皿のようにして観察し、視聴者に飽きられないよう同じような分析も避ける。名越の精神的・肉体的消耗はピークに達しつつあった。「グータン」の試みは大方成功したと名越は評価しているが、「望まれないカウンセリング」の限界はとうに過ぎた。
という終り方は、本当に藤井氏の才能を強く感じさせられた。
さて、今日は夕方から市ヶ谷の旅館で仮立舎の本の後半のための対談。そして泊まって、いくつもの本の校正やら素読みやらをやって、泊まり明けの夕方には、ちょっとした集まりへ出る。そして、明後日は朝から迎えの車で長野へ。その長野への旅支度をしている時間がドンドン無くなっているが、まあ何とも致し方ない。
技に関しては11月後半から展開している井桁崩し以来の三次元技法に、昨日15日また1つの進展があったが、それは数十年来私が親しんできた抜刀納刀の動きの応用によって拓かれた。長年やってきた動きでも、その事をどう意識するかで、これほど動きの質が変わるのかというのは新鮮な驚きだった。
この技法というか術理も、ずっと名無しで、いちいち三次元技法とか三次元的というのも紛らわしいので、「三元同立」とでも取り敢えず名前をつけてゆこうと思う。ただ、この名称は、鰤がワカシ→イナダ→ワラサ→ブリ、あるいはツバス→ハマチ→メジロ→ブリと名を変えていくように、この先呼び方と内容が変わってくるように思う。
掲載日 平成16年12月16日(木)
長野から帰って2日間、来客もなく出かけもせずに過ごしたが、今日はこれから蔵前での会。
新潮社の『身体から革命を起こす』と冬弓舎の『武学探究』の大詰めに、さまざまな用件が重なり(夜中の12時を過ぎて、その後に連絡しなければならない用事が10件近くというありさま)、2日間も瞬く間にすぎたが、道場は片づける気力も無くすほどの散らかりようである。
長野では、昨年は東京から入江先生と2人だったが、今回は筑波大学の高橋氏も加え、長野工専の児玉先生の車で現地入り。18日は高橋氏の講師ぶりを初めて観たが、専門的知識も豊富で、手際も良く解説も的を射ていて、なるほど『身体から革命を起こす』の中で、田中氏に私よりも説明が分かりやすいと書かれただけの事はあると思った。
私はここのところ、とにかく3つの力が分離状態で、互いに誘われずに在り続ける三元同立の事を考えているが、あまりにも多い用件にさすがに気力も萎えてくる。
来年4月半ばからの3ヶ月休業後、どういう形で活動するかは益々分からなくなってきた。ただ、スポーツへの応用は高橋佳三氏、介護への応用は岡田慎一郎氏が私以上に対応力がありそうなので、そうした方面は既に活躍されている桐朋学園の先生方や運動脳力開発研究所の栢野忠夫所長などと共に、私が提案した身体運用に関するテーマを様々に研究展開して、多くの方々の要望に応えてもらえそうである。
こうした忙しさに追い立てられて、あらためて自分の事を振り返ってみると、およそ組織化が嫌いで1人で好きなように研究したい性格であることが分かる。そのくせ、つい人に頼まれると断りづらい気の弱さと、現在のトレーニング法や介護法の問題点などを座視するに忍びないというお節介な性格も併せ持っているため、組織化や集団で何かやる事が苦手なくせに、そうした事に関わり、つい疲れてしまうのだろう。全く我ながら付き合いづらい性格だが、こればかりは他人と違い、付き合うのに疲れたからといって別れるという訳にもいかず、困ったものだと思いつつも気長に付き合っていくしかない。
せめて、ひとときでも機会があれば、都会の中の緑地か公園の木でもいいから、そういう木と触れ合って何とか年を越したい。
掲載日 平成16年12月22日(水)
今日24日は茨城県の高体連の役員の方々や、NHKの福祉ネットのディレクターであるK氏、そして久しぶりに桐朋の長谷川、古谷の両先生にT氏などが来られ、いろいろ体験して頂いたが、高体連の役員の方々は、サッカーやバスケットボールのディフェンスの動きを、何回やっても私が押し合いになる前に抜いてしまう動きには実に不思議そうにされていた。
その後、古谷先生の御要望で、最近の私の手裏剣術打法で試み始めている新たな手之内の研究をお見せした。これは、私が長野から帰ってすぐ(21日頃)、工夫を始めたもので、従来の手裏剣術における中指の上に剣を置き、人差し指と薬指で挟むようにする手之内の状態ではなく、剣を中指と薬指の上に、今までよりも斜めに置き、人差し指と親指とで支え持つ、ちょうど太刀を持つ切り手の状態に近い形で支え持つのである。この形に近い状態は、20年以上も前から一間ほどの極く近い距離を打つ時に用いていたが、この形では往時の技術ではせいぜい二間までで、とてもそれ以上の距離を試みる気になれなかったのである。
しかし、今回あらためて、この切り手の手之内で打剣してみると、今までのような中指の上に剣を置いて、人差し指と薬指とで挟む形に比べ、肩が自然に使えること、従って左手から剣を右手に取って構えるのも、ずっと体の使い方に無理がないことなどが分かってきた。ただ、何分にも30年以上も慣れ親しんできた手之内を大改変するのには、体の方にも抵抗もあり、そうスッキリと変えられそうもないが、肩の自然さなどの魅力は捨てがたく、一度七間や八間といった遠間を試み、また汗などで粘った時の飛びなども検討して、もしそれらにも対応出来るようだったら、私が根岸流四代目、真鋭流初祖の前田勇先生に就いて以来32年ぶりの大改訂を行なうかもしれない。
30年前、前田先生に「これを元に、君は君で甲野流をつくれ」との言葉を頂いたが、切り手の手之内を常用するようになったら、確かにもはや根岸流とも真鋭流とも言う事は出来ない私独自の打剣法になりそうである。ただ、私は今まで通り、あくまでも動きの質の転換の工夫の場として、これから先も手裏剣の稽古を続けてゆくつもりなので、これを何々流と名づけることもないと思うが、自分の技術を限定せずに行けるところまで行きたいと思う。もっとも、この先大いに悟るところがあって、「これだ!」というものを見つける可能性が全くない事もないかもしれないが、そうなったら「三間隔てて小銭の穴を打って誤たなかった」という会津の黒河内伝五郎の技倆には及ばぬまでも、三間隔てて小銭を打って殆ど誤たないぐらいにはなっていないと何々流などと名乗るのはおこがましい気がする。
さて、こうした手裏剣術の打ち方にも間接的に影響を与えたと思われる三元同立の動きは、その後もいろいろと展開している。例えば、相手が拳を握り、振りほどこうとする状況でも手首を極める動きが、3つの方向の分離によって以前より意外なほど通ったりする。ただ、3つの方向を分離して動かす時、それを意識的には行なえないから、その状況を記憶するのが難しい。工夫し考えなければ技は進展しないが、同時に考えていたら出来ないから、この状態は何とも言い表わし難い。
さらに、剣術で切り結ぶとみせて抜いて、相手の右籠手を打つような影抜の技も、以前は動きを急停止させて、そこに生じるエネルギーを使っていたのだが、三元同立の工夫を始めてから、3つの分離した力を常に存在させるように使うので、慣性力の統禦が以前よりもやりやすく、抜き方が早くなった。そして、それがガンという硬い感じではなく、フワリとした柔らかい感じになってきた。
また、太刀奪りにおける、斬り込んで来る太刀の外し方も、今日24日、杖の下段抜の応用で変わってきた。浪之上、浪之下という、こちらの片手を相手が両手でシッカリと持ってくる動きに対応する技も(相手が文字通りしがみつくという恰好で、自分の胸の前で肩を入れて、とにかくこちらの動きを邪魔しようとしてきた場合でも)、足裏水平にしての垂直離陸を、より強大なトリモチの上でやっているようにして、それに左右の納刀感覚を独立させ、その釣り合いの上で自然と動くところを動かすと、相手が後ろに突き飛ばされるような形になったり、前にのめったりする。そして、もちろん技が利いたと思われる時は、手足や身体に力感はない。
この先、これがどういう展開となるのか分からないが、打剣同様これも行けるところまで行ってみたい。
掲載日 平成16年12月24日(金)