2004年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 2001年 2005年 2009年 2013年 2002年 2006年 2010年 2014年 2003年 2007年 2011年 2016年 2004年 2008年 2012年 |
8月も、まだ2日だというのに陽射しも風も何やら秋の気配を感じさせる。野口裕之先生の論考『生きること、死ぬこと−日本の自壊』を読んで以来、また考えさせられる事が多く、このところ気分はかなり重めの錘をつけられて深海へと沈んでいっている感じがしている。
そんな中、昨日千代田の講習会の前、神田の喫茶店でノンフィクション・ライターとして知られている藤井誠二氏のインタビューを受ける。これは、アエラ誌の特集に、精神科医の名越康文氏の事を藤井氏が取材してまとめるために、私への取材となったのだが、私も藤井氏の事は以前から耳にしていて、いつか機会があったらお目にかかりたいと思っていたので、3時間近く時間をつくって待ち合わせの喫茶店に向かった。
実際に話しが始まると、まったく予想通り話の通る方で、話題は様々に展開し、壁に掛かっている時計の針が驚くほど早く回っている感じだった。このように感じたのも、この所ずっと気持ちがどうにも居場所を見失って、転々と寝返りをうっている感じだからなのだろうが、技の進展だけはある。尤も、気持ちが沈んでいるのに、救いは技の工夫ぐらいにしかないからかも知れない。
29日、蔵前の会の帰り、岡山で25日の夜、光岡師の動きに啓示を得てからずっと考えていた足首、膝、股関節、腰、肋骨、肩といった関節部の連動について、漸くひとつ気づくところがあり、途中まで帰る方向が一緒だったI氏の下車駅で一緒に降り、人気のないホームで技を受けてもらう。I氏の崩れ方が今までと違ったので、翌日30日の藤沢での朝日カルチャーセンターの講座や、31日にちょっと人が来た折にこの技を試みて、この連動のさせ方が今までとは違った働きを生み出している事を確かめる。
その事と何か関連があるのか、足の垂直離着陸でパタパタと或る程度の速度で歩けるようになっている事に気づく。これはやはり先月の25日、名古屋での講座の時、ダンスのレッスン場の鏡で自分の足の動きを確認した時に、その兆候を感じていたが、ハッキリと自覚出来たのは31日のような気がする。この歩き方をしている時は、ちょっと脳貧血で倒れそうなフワフワとした何ともいえぬ感じがする。
それにしても、この感じで歩けるようになるのに、工夫を始めて2年近くかかった事になる。また、この日は私の剣術の下段の構えで柄を持つ左手が、持つというより又一段と添える感じに変化した。これは左肩を突き上げぬためで、身体全体を使う時、どうしても今までの形では不自由になってきたからであろう。
この技の変化は、打剣にも直接的な影響があり、打剣の工夫がそのまま体術、剣術の動きの質の転換となる事を、また一層確信した。そして、そのためには直打法で六間以上を通す工夫をする事(普段の稽古は二、三間程度であっても)が、そうした術の力を養成する上で重要な要件となっているように思う。
以上1日分/掲載日 平成16年8月3日(火)
気持ちは低空飛行のままだが、2日は思いがけぬ電話を2本頂き、話している間は人心地ついた。ひとつはヒューストンから。私が4日にJAXA(宇宙航空研究開発機構)に行くことを聞かされたらしい宇宙飛行士の野口聡一氏からのもので、1月に私の道場に来られた時、何人もの人が同席していたので、つい自分が宇宙飛行士であることを言いそびれたという事と、是非JAXAのスタッフといろいろ交流して頂きたい、といった極めて丁重な内容だった。1月にヒューストンから一時帰国の折、私のところに訪ねて来られた人物が野口宇宙飛行士にほぼ間違いのなかった事は、6月の11日浜松町のJAXAのオフィスへ招いて頂いた時に分かっていたし、ことさら宇宙飛行士を強調しない人柄には大変好感が持てたから、丁重なお電話には恐縮してしまった。
最近、人間の文化の意味をあらためて考え直して溜息をついている私にとって、宇宙開発が本質的にどれほど意味があるかを考えると辛いものがあるのだが、現代は、こういう事を考え出せば果てしもなく、まるで身動きがとれないので、直接会う方に好感がもてるかどうかが、今の私の行動決定に最も大きな影響を与えている。
そうした意味で、この野口氏とは交流を深めたいと思うし、昨日頂いた2つ目の電話も、その人のやっていること自体にはそれほど興味もないのだが、(ただ、動きの追求という点では、私も関心を持っている)何よりその人柄に惹かれて私が協力している人物からのものであった。
その人物とは、今月もうすぐアテネへ出発する予定のバスケットボールの日本代表の浜口典子選手からのものだった。
1日に行なわれたキリンカップで浜口選手が活躍されたことを知り、短くお祝いの言葉を送っておいたのだが、夜、大変丁重なお礼と感謝のお電話を頂いた。そのなかで、足裏の垂直離陸や体を捻らないことが、「まだ先生の言われる半分も出来ませんが」と前置きしつつ、大変意味のあることを実感しつつある事を誠実そのものといった口調で重ねて言葉を尽くして頂いた。そうした言葉に接していると、浜口選手に今度のオリンピックで頑張って欲しいというより、今度のオリンピックで一区切りをつけ、あらためて体を造り直して今までには見られなかった素晴らしい動きの出来る選手へと脱皮していって頂きたいと深く深く思った。
こうした誠意ある人の真心が力になったのか、今日は諸用をこなしつつ足裏の垂直離陸の動きと打剣をいろいろ体感を確かめながら工夫する気になり、動いているうちに思いがけぬ閃きを得て、今まで考えた事もなかった気づきがあった。それがどういうものかを言葉で表すのはきわめて難しいが、今までは打剣でも太刀を振っても(体術でも同じだったろうが)ある方向へある力を及ぼそうとすると、どうしてもその方向へ力が偏り、身体の一部が潰されていたという事にあらためて気づいたのである。
ちょうど足で踏み潰された蜂の巣が、本来の六角形の空間から発泡スチロールのようなっている情景が目の奥に浮かび、今までは当たり前であった筋肉に加重がかかった状態が、何やら不自然で汚らしく感じられたのである。
「それがどうした」と言われれば、今のところそれまでで、それ以上の事はどうこう言える状況ではないのだが、何かが変わる予感がある事は事実である。
その予感に導かれるままに、先日久しぶりに稽古に来館した信州の江崎氏から贈られた150グラムの両刃の剣型の剣を二間ばかりのところから飛ばしつつ、「術としての力」とは何かについて、いま自問を始めたところである。
以上1日分/掲載日 平成16年8月3日(火)
4日の朝、家を出てから62時間ほど経って、いま土浦発の"スーパーひたち"に揺られて家路についているが、今回の旅もさまざまに変わった環境の中にいたので、2泊3日の旅の終わりとはとても思えない。
なにしろ振り出しが筑波のJAXA(宇宙航空研究開発機構)。ここで宇宙開発の様々な施設を見学した後、私に関心を持たれているという職員の方々と交流会があり、いくつか私の動きを解説させていただいたが、私の本を何冊も読まれ、強い関心を持たれている方が何人もいらしたのには驚いてしまった。いろいろとお世話をおかけした金子氏はじめ、岩本氏、上ノ平女史その他スタッフの方々には深く御礼を申し上げたい。
その後は、かねてからコーチの高橋氏に招かれていた筑波大学の野球部へ。130km弱に設定されていたピッチングマシーン相手にバッティングをする。はじめは戸惑ったが、足の向き、足裏の離陸の仕方などを工夫していくうち、磁石のS極とN極が引き合うように、ボールにバットが引き寄せられるような感覚が芽生えてきた。現在は、とてもそんな時間はないが、2〜3週間お付き合い(特訓)すれば、ボールとバットはもっと強い恋愛関係になりそうだ。
よく野球選手が特打ちをしたというが、バッティングの練習は、どう考えても努力してやるものではなく、工夫しだせば限りがなくなり、止めるに止められないと思うのだが、そう考える私はおかしいのだろうか…。
その後、武道場で野球部員主体に飛び入りの空手部員も含め、バスケやら柔道やらの人々対象に講習会。講習会の後は同行の岸氏、岡田氏らと共に打ち上げに。ここでもいくつかの動きの気づきがあり、土浦駅近くのホテルに入ったのはほぼ12時だった。
5日は土浦から水戸へ出て、茨城県歯科医師会主催の講演会へ。終わって再び土浦へ戻り、タクシーで筑波山のホテルへ。筑波山は前から1度は行かねばと思っていたから、ひとつの課題をこなした事になる。
6日はホテルまで岡田慎一郎氏に迎えに来てもらい、30分ほどのところにある岡田氏宅へ。江戸時代末に建てられたという長屋門を入り、庭に隣接した柿林のはずれに三脚を立ててもらい、ここで打剣。典型的な日本の里山を背に、夏の夕方、剣を打っていると2時間くらいのつもりが結局夕闇が迫る頃までやってしまった。私は努力しているという気は微塵もなく、こんな、又とない環境を得て止めるに止められず、という感じなのだが、これも他人が見たら努力に見えるのかもしれない。
この私の経験からみて、野球選手など野球が本当に好きで、その道に志したのなら、そして或る程度体の使い方が分かってきたのなら、バッティングの練習など自分の気づきを試し、また新たな術理を立ち上げるための情報の収集をするために、思わず何回も何時間もという事にならない方がおかしいと思う。そうならないとすれば、恐らくリトル・リーグの頃から練習を苦行的にやらされているからであろう。
「苦しさに耐えてこそ達成した時の喜びがある」というが、そんな取引根性的な気持ちでは、そこそこいけるかも知れないが、それこそ肥田式強健術の創始者、肥田春充翁のような、八分(約2.4センチ)板を足型に踏み抜き、四寸(12cm)角を踏み折るような力は決して生まれないだろう。そういえば、肥田翁も強制的、義務的にやることに関しては完全否定だった。私程度のレベルに肥田翁を引き合いに出すのは気が引けるが、自分が追求するものに対する情熱は少なくとも金メダルとか金銭とかいうものを大きな目的にしているスポーツ選手よりは、肥田翁に近いのではないかと密かに思っている。
この里山の雰囲気を存分に味わえた岡田家のような場所に、私がもし1人いて、照明設備もあり、誰にも気兼ねなく使えたのなら、きっとあと数時間はやっていただろう。つまり私としては日没まで稽古しても、し足りなかったのだが、それでも上体の吊り、前足裏の浮かせ方と後足裏の浮かせ方とに微妙な関係のある事を感じられたので、願ってもない夏の1日となった。岡田氏はじめ、いろいろと御接待頂いた御家族の方々に深く御礼を申し上げておきたい。
それにしても私の場合、自分の仕事の一番核になっている部分が、私にとって一番気持ちの上でも得難い楽しみな時間なのだから、やはり今の私の仕事は一番私の性に合っているのだろう。ただ、そこから派生してくる、本を書いたり人に説明するという私の収入につながる仕事の部分は、これも決して嫌いではないのだが、あまりにも数多くこんがらかっているので、今はそれがストレスになっているのだと思う。
ただ、稽古の後、岡田氏から詳しく介護の世界の現状(「基本が大事、基本が大事」といわれるその基本で多くの人が腰を壊し、体に負担のかからぬ体の使い方を工夫すると、有効であるにも関わらず「基本に外れている」と断定され取り合ってもらえない。今や介護法は要介護者のための介護法ではなく、介護法の指導者、介護の大家といわれる人の権益を守るための介護法になっているとの事)を聞くにつけ、何やらどこかで全く同じような話を複数のジャンルの世界で聞いたような気がしたが、介護は今や多くの人々にとって実に切実な問題となってきているので、これは岡田氏に協力し、有効で、しかもやり甲斐のある介護法の設立に向けての活動を開始しようと思っている。
追記
帰宅してみると何通もの郵便物や宅配便が届いていて、俄かに現実に引き戻されたが、その中にあった雑誌などのゲラ3通のなかに、ただゲラだけで、何の説明もないものがあった。しかも黒地に白ヌキの文字では校正しようにも大変やりにくい。
最近は、本当に気の利かない編集者が増えてきてガックリする事が多い。
就職難といわれている昨今なのだから、企業等が、ちゃんと気が利くかどうかを主とした採用テストは出来ないものなのかと、つくづく思う。
以上1日分/掲載日 平成16年8月7日(土)
何とか時間をつくって目前に迫った雑誌のゲラの校正をしているが、校正する意欲を殺がれる編集の粗雑さには本当に嫌になる。三部やっているが、最もひどいO誌は、この前も書いたように赤を入れようもない白ヌキのゲラ(電話で普通の原稿を送ってもらうように申し入れたが)の上、殆どそのまま入れれば記事として使える、私が校正済みのI女史の文章を送ってあるにも関わらず、妙なふうに言い換えているところが何ヶ所もある。
例えば、「何々には、こういう問題がある。ところが、それがあるからこそ、こういう利点もある」という文脈のところを繋ぐ言葉として、元の文は「ところが」が使ってあるのに、ゲラでは「ちなみに」に変わっている。「ちなみに」とは、「ついでに言えば」とか「そうであるからこそ」といった意味の言葉の筈であり、内容が反対になる時の接続詞「ところが」「しかし」「だが」と同じようには使えないと思うのだが…。
又、「〜のことを考えてほしい」とか「〜というものを御存知だろうか」という文体は、最近よく見かけるが、私は自分からは決して使わない言い方で、もちろんI女史の方からO誌に送った文章には使っていない。しかも、その「〜を御存知だろうか」の「〜」のところにある言葉は、私が作った技の名「浪之下」である。「〜を御存知だろうか」と言うからには、少なくとも数百人に1人ぐらいは知っているものを指すべきだろう。それを、「浪之下」など一般読者の何万人に1人も知らないと思われるものに使っているのである。
嫌いな言い回しを非常識に使われているという二重苦痛に、私は頭の中が煮えそうになったので、私自身の精神衛生のためにも、ゲラのチェックを中止して、この随感録を書いている。こういう不愉快な思いをする度に、命に鉋をかけている気がするので、今後雑誌等の取材は、それを書くライターや編集の方がが、せめて標準の理解力、文章力があることを証明するものを持ってきて、私が了解してからにして頂きたいと思う。私は取材を受けたり依頼稿を書くのが仕事で、編集者やライターの教育養成役まで引き受けたつもりはないのに、いつの間にかそれをやらされていたりするからだ。
もう正直言って、取材は私の考え方を理解しているライターや編集者以外とはやりたくない。さもなければ、わずかに話しただけで打てば響くような見事な応答が返ってくるような方とか…。勿論そういう方との新しい出会いは大歓迎であるが…。しかし、それは現代では雨夜に星を求めるような稀な事なのだろうか。
以上1日分/掲載日 平成16年8月8日(日)
昨日は、二子玉川駅近くの社団法人整体協会本部道場で催された、野口昭子整体協会会長の協会葬に参列した。
毎月のように、道路と4メートルほどの川ひとつ隔てた斜め向いにある整体協会・身体教育研究所へは伺っているが、本部道場の中に入るのは10年ぶりぐらいである。ところどころ柱が新しくなっていた点を除けば、約29年前、私が初めて野口晴哉先生の講義に出席した時と、全く変わっていない印象だった。
中に入ると、野口裕之先生のお嬢さんや奥様、御子息、私が整体協会に縁が出来たキッカケとなった堅田俊逸神奈川支部長はじめ、何人もの旧知の方々からお声をかけて頂いたが、全く面識のない方々からも御挨拶を頂いてしまった。
葬儀は、友人代表として作家の伊藤桂一氏と、野口昭子会長の一番の親友として知られているスイスのアガサ・シュノーレポン女史の送辞以外は、堀米ゆず子女史のバイオリン演奏と献花のみという簡素なものだったが、約800人の参会者すべてが献花を終えるまではかなりの時間がかかった。
アガサ女史のお姿を見ていると、今から十数年前、野口裕之先生からお話しがあって野口昭子会長とアガサ女史にお会いし、抜刀術の動きをお目にかけ、その後アガサ女史に渋谷駅までアガサ女史運転の車で送って頂いた時の事を思い出した。
葬儀の後、野口裕之先生と小1時間ほどお話しさせて頂いたが、「本当に母は僕らが面倒を見る間もなく逝っちゃいましたよ。いまは、まだ生きているという感じしかしないから淋しくもないけれど、『月刊 全生』におふくろの書いたものが、もう載らないかと思うとそれが一番淋しい気がしますね。父と違っておふくろは書き溜めたものがないんですよ。もう書いたものは今まで全部出ているしね。まあ、いま表現しているものがすべてという珍しい人でしたね。
まあ、母もアガサさんがいたから、今までもったんだと思いますよ。でも不思議な事ってありますよね。アガサさんが生まれた日が、母の妹(今回の協会葬の葬儀委員長を務められた細川護煕元総理大臣の母堂)が亡くなった日なんですよ…」と遠くを見つめるような目で、御自分のなかの気持ちを整理するような調子で静かに語られていたのが印象に残った。
野口先生の許を辞してから、二子玉川の駅に出、そこからバスで5、6駅のところにあるH女史宅を訪れる。H女史とは、先ほどの葬儀で数年ぶりにお会いし、御自宅へお誘いを受けたのである。木彫作家のH女史と亡くなられたH女史の夫君H画伯とが、御一緒に開かれていた展覧会にお誘いを受けたのは、もう28年ほど前。その後勧められるままに何回か私が鍛造した鉄の燭台や火箸を一緒に並べさせて頂いた事があった。そんな縁からH画伯が亡くなられた後、現在では織手もいないような貴重な着物をたくさん頂いた。現在でも年間を通して私が着ている着物の六割(晩秋から春にかけては、その殆ど)が、その時頂いたものである。
このように大変な御恩を頂いているのだが、ここ数年来の忙しさのため、時折電話でお話しする程度で、ずっとお招きを受けながら何年も伺っていなかった。「今日を逸すれば、また何時になるか分からない」と思ったので、本部道場のすぐ近くという事もあり伺ったのである。
久しぶりに家族の方々ともお会いし、バスケットボールやテニスをしているというお孫さんらに動きを実演したり、長男の家具職人のK氏の工房を見学したりしているうち思わず時間を過ごし、家に帰り着いた時は夜もかなり更けていた。
以上1日分/掲載日 平成16年8月14日(土)
今日は、昨日までの暑さが嘘のように10度以上も気温が下がり、蝉しぐれはもちろん、夕方になっても、昨日までの暑さのなか1週間ほど前から鳴き始めていた青松虫の声さえ殆ど聞かない静かな1日となった。
そうした中、溜まっている仕事を片付けねばと思いつつも、ちょっと調べものなどをしていると忽ちのうちに数時間が経ってしまい、全くはかどらない。このところ、ダブルブッキングはないが、今週の半ば辺りの予定がどうも何か忘れているような気がしてならない。お心当たりの方は御連絡下さるようお願い致します。
昨日は、いろいろと多くの方が来られたが、京都からの日帰りの人までいて、いったい全部で何人の来館者があったかはすぐには思い出せない。動きにあらたな気づきはあったが、何かもっと根本的な気づきとの出会いがないと、ただ、今の忙しさの中に埋まって自分を見失うのではないかという気がしてくる。その思いは、現在中国の韓競辰先生の許で、殆どこの8月いっぱい稽古をしている光岡英稔師に昨晩電話をして話しているうち一層ハッキリとしてきた。
どこか静かな山中へ『無門関』と『荘子』、それに最近M君らが解読してくれている『梅華集』『願立剣術物語』、それから無住心剣術の『前集』『中集』などを持って籠り、あらためて日本の武術について考えたいと思う。
ただ、いま制作が進んでいる本の原稿がいくつかあり、介護の現状の酷さも何とかしたいし…などと思うと、中々思うようにはなりそうもない。
以上1日分/掲載日 平成16年8月16日(月)
「光陰矢ノ如シ、ツツシンデ雑用心スルコトナカレ」とは、山岡鉄舟居士が禅へ志すキッカケとなった大燈国師の遺戒の文章の中にあった一文だと思うが、その昔、深く山岡鉄舟の影響を受けた身としては、今この文を思い出すと何ともうしろめたい。
とにかく細々とした数限りない、様々な用件に追いまくられ、一日中かなりの時間を上の空で送っているからである。そのため、今やっていた事をコロッと忘れることなど1日のうちに何度あるか分からない。
この随感録も、かなり間が空いてしまったが、先週は結構いろいろな事があった。19日はお台場近くの科学未来館で、失敗学の畑村洋太郎先生と公開トーク。これは東大の跡見順子先生からの要請で伺ったのだが、何人もの科学者の方の反応が予想以上に好意的というか、事実に対して率直で、時間をつくって伺った甲斐があったと思った。
なかでも、東大で物理を専門とされているH教授は、会の後の居酒屋まで御一緒したが、私が全介護状態の人間を椅子から抱き取る"浮き取り"の技については、なぜ大腿部と背中に手を当てているだけなのに、抱き取られる人の足が股関節からV字形に折れてこないのかについて、「これは不思議としか言い様がない」と、実に興味深げに語られていた。
20日はNHKFMの『日曜喫茶室』の収録のため、渋谷のNHKスタジオへ。この日は、ピーター(池畑慎之介)氏と対談。他はホストのはかま満緒氏と荻野アンナ女史、ホステスの小泉女史。ピーター氏は話していて、その頭の回転の早さが気持ちよかった。時間があれば、その後もいろいろと話をしたい御様子だったが、既に次の仕事先への時間が押しているとの事で、マネージャーの方の名刺に御自身の電話番号を書き込んで、「また今度、是非」と言われながら慌しくスタジオを出て行かれた。
その後、この日はフルートの白川女史のコンサートに招かれていたので、ルーテル市ヶ谷へ。吹奏を直に拝見して、動きと音の間には、実に密接な関係があることを確信する。
以上ザッと書いたが、この間いろいろと印象的な方との出会いがあった。補遺的に記すと、19日は会の後、毛利衛氏が見えられ御挨拶する。又、この半年ほどずっと消息を気にしていたE氏から会の後の打ち上げで声をかけられて驚いた。今は世を忍ぶ身との事だったが、宿題を果たし、また大いに活躍して頂きたい。
それにしてもやる事の多さには参る。とにかく余りにも多いので、何かやっていても、「いや、あれがあった、これの他にあれをやらねば…。いや、あれより、あっちが先だ」と次々に頭に浮かぶから浮足だって一つのことに集中出来ない。
ほんと何とかしなければ!
以上1日分/掲載日 平成16年8月23日(月)
次々と新しい本の企画や、制作途中の本の問い合わせが入るが、今は片づけを最優先にしている。1週間ほど前から大量の本や雑誌、テープその他諸々の物品整理のため、ついに道場近くのアパートの1室を借り、そこに荷物を運び込んで、道場や部屋の立て直しに入っている。ともすると、つい急ぎの校正やら本の制作のための調べものや執筆をしがちだが、極力片づけに向かっている。
ただ、技の上での発見や気づきには、つい時間を割いてしまうし、25日は私への殆ど無かった夏休みの1つとして、板橋区の区立熱帯環境植物舘へ、写真家、吉田繁氏が撮影した世界の巨樹の写真を見に行く。印象的なものはいくつもあったが、周囲45メートル10センチという世界最大のバオバブの巨木の写真には圧倒された。
私は海外に行きたいという思いが希薄だが、こういう巨樹との出会いなら一番行く気になるような気がする。タスマニアに樹齢1万2千年の木があるというが、これは魅力的。
と、ここまで3日ほど前に書いてから筆が止まっていた。理由は片づけながら稽古をしたり、種々の依頼に対応していたからだが、それにしても「どうして?」と言いたくなるほど時間がすくってもすくっても、ドンドン指の間をすり抜けるようにして消えてゆく。気づけば今日で8月も終わる。
ただ、この間、身体の使い方ではいくつか書き残せる発見や気づきがあった。まず、26日に気づいたのだが、抜刀術などの時、太刀1本を帯びるよりも、大小二振、つまり脇差も帯びた方が動きの焦点が決まって動きやすくなっていた。以前は大小二振帯びると、太刀の抜き差しもやりにくいし、「昔の人は一体どうしていたのだろう」と思ったりしたものだが、久しぶりに大小二振を腰に帯びてみて、以前とは全く違い、むしろ「この方がいいなあ」と思えた事に少しだけ気持ちが高まった。そして、この体験により、武蔵が『五輪書』のなかで、「脇差の鞘に腹をもたせて帯のくつろがざるやうに くさびをしむるといふ教へあり」と述べていたことが、具体的実感を伴ってひとつ分かった気がした。
それから、ごく最近になって久しぶりに下丹田の集約について思いを絞って工夫している。下丹田の重要さは今更述べるまでもないが、白井享・天真兵法開祖や、肥田春充・肥田式強健術創始者といった先人は、宝くじにでも当ったかのように、修行を始めてから比較的早いうちに丹田の実感を得られたため、その後の飛躍的進歩があったのだろうが、一般人は中々そうもいかない。現に「無住心剣術は素晴らしいが、練丹という手掛かりがないから後の人間が上達しようもない」と述べていた白井享に、他流にまで名を噂されるような後継者は一人も育っていないし、あれだけ明確に丹田(正中心)の解明をした肥田翁の後にも、肥田式強健術を実践して傑出した能力を開花させた事を衆人が認めるような人物は皆無である。それだけに丹田については、しばらく手つかずだった私だが、打剣の工夫などで、又あらためて取り組んでみる気になってきた。
そうした折、今日、宇田川氏から『武田真里谷家譜』の解読文が届いた。これによると、一雲の門人であった初代真里谷円四郎、つまり義旭は久留米藩から五百石で召し抱えの話があったようだが、自分は断って嫡男を出仕させている。また、三代目の円四郎信栄は、子供の頃は凡庸だったようだが、大病を経て傑出した使い手となり、又、この代で真里谷の剣名が挙がりかけたが惜しくも壮年にして逝ったという。この信栄こそ、かつて私が三田の南台寺の過去帳で見た義性院大道哲勇居士の居士号をもつ人物である。
片づけをしていても、このように興味のある事実に出会えば忽ち2〜3時間は飛んでしまう。そこへ新しい企画の話が今日も2件。
こうした状況からいって、開けていれば(つまり身体技法の実践研究者・甲野善紀として活動していれば)、いろいろと依頼が来るので、近い将来、といっても既に約束が入っているここ数ヶ月間は無理だが、その後しばらくの間(2〜3ヶ月間くらいは)たまに随感録くらいは更新するかも知れないが、完全に閉じよう(休業しよう)と思いはじめている。
そうでもしないと、もう自分が自分であることも分からなくなってきそうなので…。
以上1日分/掲載日 平成16年9月1日(水)