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2010年11月5日(金)

 昨夜はNHKのT氏依頼の手紙を書くのに、かなりの時間を使い、その上、例の流出映像の問題やら何やらで、結局夜明け頃まで起きていた。それで疲れきっている筈だが、やることが山積の上に山積で、その上、何かやる度にいろいろ未処理のことを思い出し、気が気ではないため眠くはないのだが、明日は早く起きねばならないので、さすがに参る。
 いろいろやらなければならないと思っている事のひとつが、御手紙や頂きものへの返礼。これが数十件滞っていて、それも苦痛。しかし、とにかく急を要することからやっていかなければならないので、どうにも時間がない。不義理をかけている方には、この場を借りて心から無礼を謝したい。
 しかし、その状態の上に尖閣問題などで、いま歴史がドンドン何か面倒な方向に動いていて、それが止めるに止められない状況を感じるから、心は暗くなる一方で、ますますいろいろな事が捗らない。
 現在のように環境問題から何から、様々な状況が昔と違うなかで、面倒なことが起こると、その影響は計り知れない。湾岸戦争の時も「ケンカをしていたら家が火事になって、ケンカを続けるか、消火を優先するか、迷いながら戦争をしていた」観があったが、現代はそれが一層進んでいる気がする。
 しかし、とにかく我々は引き返せないのだから、進むしかないのだが、そのためには心身を様々なことに即応出来るようにしておかねばならないと思う。だからといって、ここで自分のやっている事を売り込むわけではないが、武術の稽古はそのために最も向いていよう。ここまで書いて、「そうか、自分はその武術を専門にしているのだ」と気がついて、少し落ち着いてきた。

 10日は朝日カルチャーセンター新宿で土田氏とのトーク12日は池袋コミュニティカレッジ13日は京都14日は福井で講習会を行ないます。御関心のある方はどうぞお越し下さい。

以上1日分/掲載日 平成22年11月6日(土)


2010年11月8日(月)

 今年もメディアを通して「その人の発言に呆然とした」事は何回かあったが、今日テレビの画面を通して観た桐生市の教育委員会の委員長の発表ほど呆れた事は、ちょっと記憶にない。
 自殺した女の子の優しさか(あるいは気弱さかもしれないが)決定的な同級生への恨み言がない事をいい事に、「いじめはあったが、それが自殺の原因とは認められない」と、まるで会社のちょっとした横領か何かの不祥事を語るような平然とした顔で記者会見に臨んでいる。
 尖閣問題の政治家の対応も問題かもしれないが、ここまで心を喪(なく)した人間が教育を取り仕切る場所にいるという事の方が、私にとってはずっとナマなショックだった。仮に千歩譲って、この女の子に他にも自殺したくなるような原因があったとしても、イジメがそれを踏み切らせる引き金になったであろう事はどう考えても明らかである。そうであるならば、その事に痛恨の思いを持つのが教育に当たる者、というより普通の人間の自然な感情であろう。そういう気持ちが、もう持てないようなら、教育関係者になどなるべきではないし、そういう人間ばかりなら、もう学校制度そのものを廃めるべきである。
 私は以前から子供も働き、働いて勉強の必要性を感じさせて学ばせるようにすべきだと思っている。その方が、ずっと勉強にも実が入るだろう。その気になれば延々と義務感でやらされている勉強は、学校教育の半分か3分の1くらいの時間で身につくと思う。
 一体何のために学ぶのか、という事を子を持つ親も真剣に考えるべきだろう。特に環境問題や国際情勢が厳しくなってきている現在、ただ「いい大学」「いい会社」に就職して安定した生活を望むこと自体が難しくなってきている。そうであるならば、「人はどう生きていくべきか」その根本的問いかけに、これから目を背けてはいられない時代が来ると思う。

以上1日分/掲載日 平成22年11月8日(月)


2010年11月9日(火)

 私の技が、またいろいろと変化し始めている。正面の斬り、切り込み入身、肩どりの斬り落としといった斬り系の技が、「電車の窓を開けるように…」という表現で劇的に変化したのは、先月の14日から15日にかけての事だった。
 その後、23日佐渡に行った時、9月の中旬から「虎拉ぎ」と呼んでいた手指の形が変化し、「火焔」と名付けて以来、一段と持たれ系の技への対応が容易となり、30日は前夜、陽紀から見せてもらった動きのお陰で、直入身など正面で相対した技が大きく変わった。とにかく10月は目まぐるしい変化があった。
 そして、8月中旬以来、「竹刀より真剣の方が迅速に動く」と言ってきたが、6日、竹刀の動かし方に新しいルートが見つかって、竹刀の動きがいままでよりハッキリと分かるほど速くなってきた。こうなると、また真剣の使い方も一層の工夫をする必然性が生まれてきた。
 いままで常に前の技や術理を乗り越え乗り越えして歩いてきたが、61歳で1ヶ月ほどの間にこのように技が変化していくとは…。まあ、まったく予想していなかったと言えばウソになるが、正直私自身驚いている。
 しかし、これも、その元は2年ほど前、それまで両手の間を離して刀の柄を持っていたのを、寄せて持つようになった事が最も大きく影響していると思う。
 そして、その両手を寄せて持つようになったのは、夢想願立の絵伝書などの影響が大きいが、直接的キッカケは韓氏意拳の韓競辰老師に接し、その動きを見せて頂いた事があったからだと思う。韓老師にお会いする事がなかったら、きっと今も私は両手を離して刀の柄を持ち、現在のような迅速さで真剣を動かせるようにはなっていなかったと思う。
 日本武術は(武術に限らないが)かつて中国から大きな影響を受け、その後独自の発達をしてきたという事実があるが、その歴史を私自身も追体験しているような気がする。現在、日中関係は極めて微妙になってきているが、韓老師は三千年前の中国を、中国の歴史上、文化的に最も豊かだったであろう頃と追慕されていて、中国はその後どんどんその素晴らしさを失ってきていると感じられているようである。そういう点では、今回の尖閣問題で、中国に対して「かつての中国文化は好きだし、非常に評価しているが、現在の中国は嫌い。漢字も壊してしまったし…」と発言していた日本の某要人の意見と結果として似ていると、言えなくもないかもしれないが、現に中国その国にいらっしゃるだけにその思いは我々にはなかなか想像できないものがあるように思う。
 とにかく韓老師の動きは、私がそれまで見る事が出来なかった「これが人間に出来る動きなのか…」という超絶した動きであった。それだけに、武術に志されている方は一度は直にナマで韓競辰老師に手をとって頂くことをお勧めしたい。
 幸い今月下旬から韓競辰老師が来日され、会員以外の方にも指導されるので、ご縁のある方は受講される事をお勧めしたい。私も今回は久しぶりにお会いしてご挨拶し、御礼も、申し上げたいと思っている。

以上1日分/掲載日 平成22年11月9日(火)


2010年11月12日(金)

 昨日の忙しさは、来客も2回あり、家の中でサーカスをしているような有り様だったが、今日もその余波は続く。昨日書けなかった原稿を書いている間に、講習会などの宣伝文の校正用メールが来て、又違う講習会の日時の確認が来て、別の講演会の打ち合わせメールが来て、その合間にどこで私の事を知ったのか分からない人から「宇宙人の来襲に備えよ…」といった意味らしい、よく分からないFAXが来て、その間に今日これから池袋の講座に出かける仕度と、明日行く京都の講習会のための準備もして、さらにもうずっと遅れに遅れている手紙も書けたら書きたいと用意しているが、これは今日も難しいかという有り様。
 それでも、これは書いておかねばと思うのは、今月26日に博多である講習会のこと。とにかく「今何のためにこの部屋に来たのだろうか?」という事がしょっちゅうあるほど、常に何件もの用件を頭の中で思い浮かべ、その処理法を考えているため、最近大事なインフォメーションがよく落ちている。
 26日の博多の講習会も、12月の事などとごっちゃになって、あまり実感がなかったが、あと2週間先になっている事に気づいて驚く。そして28日は熊本だった。最近九州へ行くことは多いが、このところの技の展開が急なので、前回来られた方もまるで違う武術の流派の講習会のような気がされるかもしれない。

 九州の入り口、博多での講習会ですので、本州の方も良かったらどうぞ。翌27日は初めてとなる私のサバイバル的鍛冶仕事のワークショップ。大変コアな会で多くの方の参加は考えていませんが、26日27日と泊りがけでも是非参加したいという方は、セイント・クロスにお問い合わせ下さい。

 とにかくセイント・クロスの大塚氏は奇特という他はないのですが、私と森田真生氏に関わったため、常に採算度外視でイベントを行うため、事務所の経営が大変なようです。何とか経営的にも黒字になって頂くよう「他の仕事もやって下さい」とお願いしていますが、「いや、まあ自分でやり甲斐のある事しかやりたくありませんから」と、我々に入れ込む熱意はまったく変わらない。どなたか大塚氏を支えるいい知恵があればお教え下さい。

以上1日分/掲載日 平成22年11月13日(土)


2010年11月13日(土)

 "風の来て つれてゆきけり 秋の蝶"

 この句は『こころの松』(田中藩叢書)に載っていた、亀渓のものを母が亡くなった通知の葉書に載せたものである。
 その母を見送ってから満9年。そしてその祥月命日に当たる日、私は福井で講習会を行なうが、月日の経つことの早さに驚かされる。あの母が亡くなる直前、山陰を珍しく妻と旅行し、五木寛之氏との公開トークを行なって、安来の和鋼博物館、出雲大社とまわった事が、ついこの間の事のようだ。
 この年の秋は、内田樹神戸女学院大教授を始め、いまも親しくお付き合いさせて頂いている方数人と知り合った不思議な年で、これも母の縁かと思っている。
 しかし、人は死ぬ時期を逃さず、死ぬべき時に死ぬのが、その人の人生という作品を完成させる上でも大切な事のように思う。
 9年前の11月の初め、転んで立てなくなり、その約1週間後にリンゴを喉につまらせて逝った母は、一陣の風にフワリと連れて行かれたような見事な最期だったと思う。そして、死者には力がある。私も亡くなった母のお陰で、さまざまな出会いに恵まれたと感謝している。

以上1日分/掲載日 平成22年11月14日(日)


2010年11月16日(火)

 最近、地軸が狂ったか何かで、時間の流れが以前よりも早くなっているのではないかと思うほど一日が早く過ぎていく。それは、忙しくて、あれもこれもやったというより、あれもこれもやろうとして、大して何をやったという実感もないうちに時間がドンドン過ぎていくからだろう。
 ひとつは、細々とした用件が以前よりも遥かに増え、そうした用件はホンのちょっとした事なので、やり終えても達成感がないから、「何かをやった」という記憶にも残りにくいからだろう。
 今日、1ヶ月越しに気になっていた手紙を2通書いたが、やるべき事に関しては焼け石に水だ。大量のやり残しを抱えて、恐らくは、いや間違いなく年越しだろう。
 そうしたなか、せめてこのインフォメーションは出しておかねばと思うのは、今週末名古屋で行なわれる森田真生氏の『数学の演奏会』のこと。
 教育費は、子供を塾に通わせるために使うより、この『数学の演奏会』や、来月4日に大阪で行なわれる『この日の学校イン大阪』に使って頂きたいと思うからである。
 最近も桐生の小学校でイジメを苦にして女子生徒が一人自殺したが、この生徒の身近にいた大人が、「勉強とは何のためにするのか」「教育とは何なのか?」という事について、しっかりとした意見や思想を持っていたら、このような惨事にはならなかったと思うからである。
 なぜ学問をするのか、それは学問の本筋である自分が生きていくために本当に必要とする事を学ぶためであり、そのためには学ぶことに強い興味を持つ導入が非常に大切であるが、その最も大切なことが現代の学校教育では最も疎かになっているからである。
 今回の名古屋は人数も少ないようなので、稀代の若者である森田氏に、単に数学だけではなく、学ぶことの意味そのものを問われる方があったら、きっと見事な答えが返ってくる事だろう。

 "教育"について、いろいろ問題を抱えている方も是非御参加下さい。

以上1日分/掲載日 平成22年11月17日(水)


2010年11月19日(金)

 すでにツイッターに書いたが、19日の丸の内シティキャンパスの講座は、比較的多くの方々に関心を持って頂けたようで、まあ良かった。
 明日は駒場のカフェ「ギャラリー・SO」でのトークショー『風の行方』だが、その翌日は同じく、その「ギャラリー・SO」でファッション関係のユニークなイベントがある。トークする方は下記の平川武治氏と加藤陽之氏の御二人だが、このイベントを企画プロデュースしているのは、私と「この日の学校」を行なっている森田真生氏の同期の親友で、東大工学部時代は数学に打ち込み、森田氏も最初は数学を教わっていたという小石祐介氏。東大工学部卒業後、文化服装学院に入り、いまはコム・デ・ギャルソンに勤務中という変わった経歴の持ち主。私も話をしていて、そのセンスの良さに感嘆したが、私以上に精神科医の名越康文氏が「いやあ、ああいうセンスのいい人と話をしていると本当に楽しい。あんな若者は滅多にいませんワー」と大絶賛。

 トークもさることながら、稀代の若者である森田氏の親友にして、また稀有なセンスと才能の若者にナマで接したいと思う方は、少ない人数での会合ですから、是非お出かけ下さい。「頭がいいとかセンスがいいというのはこういう人物の事を言うのか!」ということを実地に体験できるでしょう。有名歌手のクリスマスディナーショーにお金を使うよりも、よほど人生の糧になると思います。

********

モード評論家の平川武治氏と、スタジオ・ボイス編集長の加藤陽之氏によるセッション。
テーマは"未来について考えるいくつかの事"です。
今、自然に語り合いたい"いくつかの事"。
参加者を巻き込んだセッションを御楽しみください。

日時 : 11月20日(土) 18:30〜22:00
場所 : 駒場東大前 上原2丁目南信号すぐそば カフェSO
 (住所;東京都渋谷区上原2-30-5(TEL:03-5453-1010))
参加費用:6000円(食事+飲み物込み)
定員:20名(ご予約を御願い致します)

このイベントの、詳細は
http://saintcross.jp/blog/?p=642
にあります。

以上1日分/掲載日 平成22年11月19日(金)


2010年11月22日(月)

 今年の、この八月から九月にかけて撮影をしていた、日本コロムビア(株)制作のドキュメンタリー映画『甲野善紀 - その軌跡と術理 -』の見本盤を持って撮影スタッフのK氏が来館。一緒に映像を見る。
 画面の中で私が、昔話をしているなかで、オイカワという川魚の尻ビレと尾ビレを言い間違っていたり、といった、もう直しようもないミスは二つ三つ気がついたが、それ以外は、私の方から、特に指摘する点もなかったので、「これで結構です」と了解した。
 もちろん、細かく注文をつけ出せばキリがない。何よりも、この作品のなかで、私が対談させていただいた三人の方々、内田樹神戸女学院大学教授、河原龍秀米田柔道整復専門学校柔道部監督、元総合格闘家の須藤元気拓殖大学レスリング部監督、といった方々が、私のことを大変評価して語って下さっているところは、どうにも面映くて困った。
 特に、リアルファイトの世間で、多くの経験を積んで来られた方々に評価された事は、有難くもあり、同時にこれらの人々の言葉がいい加減であったと言われないようにしなければ、と、あらためて思った。
 ただ、幸いなことに、10月の中旬に気づいた、「電車の窓を直に開ける」という術理は、やはり、いままでの私の気づきの中でも別格に大きなものであり、「これは、ちょっと、いままでにないものだ」という感じはあるので、これをさらに研ぎ上げれば、この映画がDVDとなって発売される予定の来年の二月前後には、このDVDのなかで、私についていろいろと語っていただいた方々にご迷惑のかからないようにはなっていられるかと思う。
 そこに向けての進展状況は、今月26日の九州博多での講習会、28日の熊本での講習会12月4日の大阪での「この日の学校イン大阪」5日の福山での講習会14日の綾瀬での講習会23日の長野での講習会等で、どうぞ。
 また、今月27日は福岡糸島で、いままで私が一度はやりたいと思っていた、サバイバル鍛冶の実演を行います。アシスタントは、私が最近ウェブマガジン「りす」で書いた佐世保の野元浩二氏です。
 子供達は、こういう大人と出会う必要がある!と思える人物で、かつての親切でおおらかで器用な原日本人の典型とも言える、野元浩二氏の人間性に直に触れられる得がたい機会です。「この人に会わねば!」と直感に打たれた方は、セイント・クロスのサイトにお申し込みください。

以上1日分/掲載日 平成22年11月23日(火)


2010年11月24日(水)

 今日のような忙しさは、ちょっと記憶になかった。いや、いまも続いているから過去形ではない。(もっとも日付はか わって25日になっているが)
 一番驚いたのは、今度私が出る予定のテレビ番組の打合せで、スタッフの方が尋ねて来られることを、忘れていたことだ。(いままでで最も影響力がありそうな番組だが、実現はいまひとつ未知数、ただ、それでも打合せはやるらしい)
 これで午後の予定が大混乱。何件かしなければならない電話が落ちてしまい、フォローのしようもなく流れた事もある。
 とにかく最近は忙しくて、優先順位を考えているヒマもないので、用件は思いつき順にやるのだが、やるほどに連想がつながって思い出してきて、やることがさらにふえ、手足バラバラになって体が割けそうだ。

 そんな中でも、是非これは書いておきたいと思うことがある。それは、ハチクマのことである。
 無敵の最強昆虫といわれるオオスズメバチすら手が出せない猛禽ハチクマは、ハチの巣を狙って主食としているタカであるが、羽毛が堅く、スズメバチの攻撃も無効であることが知られている。
 しかし、露出している目とその周辺は無防備にみえる。そこがなぜ狙われないか、私は不思議でならず、どうしても気になって、その事に関してツイッターでつぶやいたところ、感動的なお答えを福井在住のK女史から私のサイトの管理人あて、メールをいただいたのである。
 K女史の御了解が得られたので、その驚くべき論考をここに御紹介したい。
 このK女史の御意見は、あくまでもK女史の推測にもとずくもので、これが正解かどうかわからないとのことだが、普通人にはとても思いつくことも出来ないもので、私も大いに刺激を受け、最近、私が展開中の「直に電車の窓を開けるように」という原理も、それら全体を「ハチクマの原理」と呼ぼうかと思っているほどである。

 では、人間の想像力を刺激する、この、K女史の論考をどうぞ!!


先ほど、ハチクマが蜂に目と目の周辺を刺されない理由についてtweetされていらしたので、解剖学的に考えられる理由を推測致しました。昆虫やハチクマの専門家ではないので、もし見当違いでしたらお許し下さい。

太陽光線は、ヒトが見ることのできる可視光線(波長400〜780nm)と、それよりも波長の短い紫外線A(315〜400nm)を含んでいます。ハチ(花の蜜を採取する昆虫;チョウ等)は、紫外線A寄りの色しか識別できないと言われています。

人間は「赤、青、黄色」の3種類の視細胞を持っています。なので、3つの細胞の興奮の強弱によって虹の7色を見ることができますが、ハチの場合は「紫外線A、青、緑」の視細胞を持っているので人間が見ている「赤」が見えず、紫外線Aの影響で白を含む色が変化して見えるようです。

白は、人が見える太陽光線の波長、可視光線を反射する色です。それに紫外線Aの反射状態を合わせて見てみると、ハチにとっての白は2種類の色に分かれるようなのです。

可視光線と紫外線Aを両方とも全て反射している白い服やガードレールなどの物体は、白に見えているはずです。

しかし、可視光線を反射していても紫外線Aをある程度吸収してしまう物質の場合は白には見えないらしいのです。
是非その色を見てみたいのですが、ハチのように紫外線Aの見える視細胞を持っていない為、人間には一生見れない憧れの色をハチは見ていると思われます。

人間が白だと思っていた物質が、実は白ではなかったというのは、とても面白いです。

そして、このハチの目の細胞の違いが、ハチクマの目を刺すことができない理由だと思うのです。

ハチクマの目の構造は、光を吸収する角膜と水晶体で出来ています。紫外線を吸収してしまうので、ハチはハチクマの目がどこにあるか見えない可能性があります。しかも、鳥は眼球を動かすことが出来ないので、黒目も動きません。首を動かしながら物を見るので、ハチはハチクマの眼球の動きも分からないということになります。

眼がないゾンビみたいなものに襲われているイメージなのでしょうか。ハチって、すごいものを日常的に見てるのですね。人間が見てるものをハチが見ても、同じように思うかもしれませんけど。

それでも、たまたまハチの針がハチクマの眼にヒットしてしまう可能性は0ではないと思うのですが、ハチも無駄打ちはしないでしょうし、眼を標的にすることは難しいのではないでしょうか。

また鳥の目は、人間のまぶたにあたる瞬膜が眼の内側から眼を覆うような構造になっています。飛行時や、水中へダイビングする時、砂の中のエサを取る時、木を突く時、毛繕いをする時など、瞬膜を閉じたまま眼を保護してゴーグル代わりにしています。ハチを食べる時も、瞬膜を上手に使っているのではないでしょうか。

その様子を見たかったので画像を探してみましたが、見つけられませんでした…。
実際に見たことがないので想像でしかないのですが、おそらく、このダブル構造で眼を守っているのではないでしょうか。

こんな感じで、理由を推測してみました。

もし、本当の理由が判明されましたら、私も是非知りたいので、ホームページかtweetなど、何かの形で教えて下さると嬉しいです。

以上1日分/掲載日 平成22年11月24日(木)


2010年11月29日(月)

 九州から帰宅したら、疲れきっていたはずなのだが、いろいろな方々から、手紙や、本や、さまざまなものが届いていて、つい風呂に入るのも忘れて、それらを読んでしまう。
 そして「ああ、すぐにでも返事を書きたいな」と思う。
 たとえば、桜井章一雀鬼会会長から本を二冊送っていただいている。すでに、桜井会長には、お送りしたい本があるので、手紙を書いて、その本に何ヶ所かフセンを貼ってと思っているが…。
 それから、太鼓の佐藤健作夫人からのDVDとお手紙。これもすぐ返信送りたい。
 また、十二月一日に対談予定の東北大学の長谷川教授からも御手紙が届いた。
 この件では、当日のことで出版社に、明日、電話しなければ。
 そして、神戸女学院の内田樹先生の新刊も…。
 こうした用件の間に、脳裏に昨夜見た金峰山のミカン山の山道をドドッと走り抜けた5〜6頭の猪の姿がなぜか浮かぶ。
 その後、その山の中の一軒家のS氏宅の戸外(気温3、4度)で行った打剣と、その最中に気づいた新しい「払われない手」(これも「電車の窓を直に開ける」“ハチクマの原理”が関わっている)における、人間の意識の在り様と、身体との密接かつ微妙な関係が、不確定性理論のような解明を拒否するパラドックスで成り立っている。という事を、いままでにない明確さで見えて来た気がした。
 つまり、たとえていうと、人間は自分が一分間に何回、自然な呼吸をしているのか計ることが出来ないということだ。なぜなら、計ろうとするその意識が人間の自然な呼吸を変化させていまうからである。身体の技法をいかに向上させるか。という科学的研究がいかに困難かを、あらためて知った気がした。

以上1日分/掲載日 平成22年11月30日(火)


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