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先日伺った"牌の音"であったイベントの際の私に関して、桜井章一雀鬼会会長が雀鬼会のホームページのレポートの中で、過分も過分に過ぎる感想を書いて下さっていて、これは単に会長に御礼を書くというより、私の方もこのサイトで公開であの日の事について書かせて頂くしかないと思い、最近はあまり書いていない随感録に筆を執ることにした。
27日の町田「牌の音」は、想像はしていたものの、私が同行者4人と伺った時、すでにこぼれ出んばかりの人・人・人。会が始まるまでの控え室というか控えのコーナーもオープンで、来ている人達に丸見えという、その辺りがいかにも雀鬼流。
その後、吉本ばなな女史も加わって会はスタート。始まってすぐ私に雀鬼会スタッフからのクラッカーの嵐。私が「こちらにもクラッカーを」と、ばなな女史を指したが、クラッカーは私に集中。その後、2月が私の誕生月だったので誕生祝いのクラッカーと分かった。その上、「ハッピー・バースデー」の歌にローソクの立ったケーキを吹き消すところまで!スタッフの方々の凝りようには頭が下がる。
とにかく、その後は賑やかにいろいろあって、私も真剣の方が竹刀よりも早く動くという事の実演やら体術やら、いろいろな方の質問やらに答えたり…。何をどう過ごしたのかもよく憶えていないが、終始会長が楽しそうにされていたのが何よりよかったと思った。
5時間にわたった会の後、私と同行の4人を鮨店にお招き頂き、ここでかつての凄絶な現役時代のエピソードを話して下さった。その後、同行のセイント・クロスの大塚氏と「この日の学校」の森田氏は、小田急線に乗るため別れ、私と同行の新潮社の足立女史は、陽紀が駐車場に車を取りに行っている間、再び「牌の音」へ。ここでお茶を頂いているところへ陽紀も来て、それから再度陽紀も加わって寝技を受けたりと30分ほどもお邪魔していただろうか。
そして、御礼を申し上げて帰ろうとすると、桜井会長はじめスタッフの方々も見送りに車のところまで来て下さった。車が路地を出て大通りに入ろうとするところまで見送って下さる。私も窓を開けて手を振っているだけでは何とも申し訳ないので、上半身を乗り出して手を振ったが、会長はじめスタッフの方々の熱い歓待と、最後までこうして見送って下さるお心遣いに、もう少し応えたいと、いったん体の向きを変え、体を車内に向けてから、更に一気に窓から外へ出た。すると、「おお、スゲエ、ハコ乗りじゃねえか」という会長の声。それで、「ああ、そういえば暴走族のハコ乗りって聞いたことがあったなあ」と我ながらおかしくなったが、私にとっては自然の流れである。
なぜなら、そうやっていて思い出したが、以前、宮城県と山形県の境界あたりの山中を、私が親しくしている炭焼きの佐藤家の家族と走っていた時、あまり山がキレイだったので、車内で見ているのは勿体なくなり、体全体で山の空気を感じたいと後ろのドアについていたスペアタイヤのケースの上にまたがって、凄まじい凸凹道をロデオのカウボーイのように、車の屋根に掴まりながら走った事があるからである。
こういう時は武術をやっていて本当によかったと思える。なにしろ20代、30代の時と、そういう時の身体の捌きは全く変わっていない、というより、むしろ上がっている感じがするからである。
「いやー、伺ってよかったですよ」と帰りの車中で新潮社の足立女史。足立女史といえば、かの養老孟司先生の最も信任厚い編集者で、その関係でいろいろな人物を観てきている人である。その足立女史が桜井会長をどんなふうに感じられるか、そこに私も関心があったのだが、足立女史の表情と言葉に、いままでの経験からでは分類出来ない人物に会った、という実感が籠もっていた。また、鮨店で食い入るようにして話を聞いていた森田真生氏の目の輝きも桜井章一という稀代の人物にナマで接した人の感動が現れていた。
翌日、「いやぁー、先生には、やられたよ。最後は車にハコ乗りだもんなぁ」と、例の調子で桜井会長からお電話を頂いたが、私のような、それほど大した経験も経歴もない人間を、なぜここまで評価して下さるのか、それが不思議である。
桜井会長が私の事を書いて下さった「レポート」の中で、会長が幻冬舎の雑誌『ゲーテ』の特集「最先端の男たちによる名言集」で現代を代表する有名人2000人の中から63人が選ばれ、さらに10人は1人1ページの枠で選ばれ、その10人の1人に選ばれているのは、まったく選考基準が分からないと書かれていたが、私もなぜ桜井会長がここまで私のことを評価して下さるのか謎である。
しかし、まあそれが御縁があったという事なのだろう。とにかく本当に心を尽くして頂いた桜井会長と「牌の音」のスタッフの方々に心から御礼を申し上げておきたい。
ありがとうございました。また伺わせて下さい。
以上1日分/掲載日 平成23年3月5日(土)
少し遅れましたが3月17日のツイッターで書いた、初めてのヨーロッパ行きの感想を、ここに載せておきます。
昨日からずっと、いままで感じた事のない、大きな心の揺れを感じ続けて、ツイートを続けてきた。そして、その変化から2006年の晩秋パリとドイツのバンベルグに行ったところまでツイートしたが、その続きを、これから この随感録に書いて行きたい。
文章の流れで、書き初めに、ツイートの文章が一つ入ります。
昨日から随分さまざまな自分を見せつけられている。自分の命を完全に捨てる覚悟で行動したいと思い、そう決心して私が知っている範囲で一番それが伝わりそうなルートに連絡したが返事なし。そして夜のニュースを見れば、どれほど願っても叶わないという状況を知り、ひどく虚しさを覚えた。
そして今日は、昨日1日の心の振幅の大きさに私自身の精神がさすがに持たないと、私自身の内部の何か(それが脳なのか、身体そのものなのか分からないが)が判断したのか、私にテレビを見させようとしない。
じっと心の中を覗いてみると、「おう、いつでも行くぞ」という決心の種火は点いているが、それで心全体が燃えさかっていた20時間前とは、ずいぶん違って静かだ。
このような種類の心の変化を体験した事は今まで一度もないが、これに関連して2006年の秋に初めての海外旅行で、パリとドイツのバンベルグに行った時も、まるでそれまで思ってもみなかった心の変化に驚いた事を思い出した。
あの時、「何か成り行きで来てしまったなあ」という晩秋のパリは、どこに行っても一面の黄葉(本来は紅葉と書くのだろうが、パリは黄色く変色する木が99パーセント以上で紅葉は皆無ではなかったが、ほとんどない)
武術とは直接関係のないコンテンポラリーダンスの団体に招かれていたので、毎日ダンサー相手に武術の動きを指導。それが嫌というわけではなく、やっている時は、それなりに思いを込めてやれるし、パリの街並みも美しく、もの珍しく、そのためパリに居ることが嫌というわけでもない。
この旅の途中、何十年前に読んだ小説『夕日と拳銃』が、なぜか思い出されていたが、それが、たまたまドイツのH氏宅にあり、ドイツでは街にも出ないで、自由時間はそればかり読んでいた。
そして帰国。帰国したら、どんなに日本の街並みをうっとおしく思うかと、それを考えただけでもウンザリだったが、驚いたことに成田空港に着いて、空港を出た瞬間、ヨーロッパの記憶はすべて遠い事となった。
自宅に帰っても、国内を1週間ぐらい旅行して帰ってきた時よりも、久しぶりで帰ったという感じがない。「なんだ、ヨーロッパに行った影響は大した事はなかったんだ」と、その時は思った。
ところが、そうではなかったのである。何しろいつも愛読していた武術の伝書『願立剣術物語』が読めない。それどころか、現在ある和風、日本的なものすべてが「ウヮー偽ものだ」と感じるのだ。
これには困った。何しろ私は家にいる時も道着姿で、その下に普段着ているTシャツなどは持っているが、洋服は生理的に受け付けないからYシャツやスーツなどの洋服は何も持っていない。したがって、和服を着ざるを得ないのだが、それが嘘くさい。もし身近にルバシカがあったら、きっとそれを着ていただろう。
まあそれでも講習会はあるから行って稽古したが、その時の常備薬は『夕日と拳銃』で、主人公伊達麟之介が中国満州に惹かれ、日本と中国の間で引き裂かれつつも存分に生きた姿を読み続けた。
そして、この、どうにも居どころのない状態が終わったのは、この小説のモデル伊達順之助の伝記『灼熱』を読んだお蔭である。
『灼熱』は、伊達順之助の長男に当たる伊達宗義氏の著作で、順之助の生い立ちのエピソードから、実際に奉天で父順之助と暮らした日々、そして、戦後、当時住んでいた青島の自宅から、突然連行された父と同行してジメジメした石炭置き場だったような地下室に閉じ込められた時の様子などが述べられている。
そして、本書によれば、順之助は、その後、青島の戦犯拘留所から上海監獄へ、またそこから江湾鎮の戦犯収容所に移され、再度上海監獄に移送され、昭和二十三年六月一日、上海軍事法廷で死刑を宣告される。
判決を聞いた伊達順之助は、「部下にもいろいろなものがいたから、そのものたちが中国に迷惑をかけたとしたら、それは皆わたしの責任だ」と、眉一つ動かさず、まったく動ずる風はなかったらしい。
そして昭和二十三年九月九日、刑が執行される日、「遺書を書くか」と検察官に尋ねられ、「書かせてもらいたい」と家族や友人に四通の遺書を認め、遺書を認め終わると検察官に「酒を飲みたいが許してもらえるか」と尋ねて許可され、与えられた焼酎を飲み、飲んでフト思い浮かんだ冗談を言って法廷じゅうを笑わせ、その後、上海監獄近くの戸外の刑場で、木の椅子に腰をかけ、その後頭部をモーゼル拳銃で撃たれて五十七歳の生涯を終える。処刑の直前、見上げた太陽の眩しさに目を瞑り、豪快に笑い、その笑いの中で処刑は行なわれた。
この伊達順之助に身近に接していた著者の実録伝記の凄さに、漸く数ヶ月にわたったヨーロッパ後遺症からも抜けたのである。しかし、心というものは本当に得体がしれない。この年の晩秋、自宅の近くに建った高層マンションに入居者の明かりが灯り始め、それがパリのホテルで見た風景の中の明かりとどこか似ているところがあったからだろう。たまらなくパリが恋しくなってしまったのである。パリ滞在中、パリが嫌だったわけではないが、また来たいとは思いもしなかったのにである。
私の初の海外旅行は、こうして人間の心の多層構造を私に見せつけたのであった。
以上1日分/掲載日 平成23年3月20日(日)
3月25日のツイッターで例に出した無影心月流の梅路見鸞老師のエピソードの全文を、参考のため、ここに掲載しておきます。これは『薄氷の踏み方』の「あとがき」でも紹介しています。
これは九年前、老師が紀州湯淺の静養先から歸山された時のことである。門中の先輩を五六招かれて次のお話をされました。
"湯淺へ居る中、十数年研究して来た碧巌録の、文法の間違ひや、解釈の誤を匡さうと思って筆を執り始めたが、三則の馬大師不安で文字を忘れたのが有つて、丸山に原本を送る様に云つて遺つた處が、手紙の見違かして宗演和尚の講義録を送つて来た。今朝出発間際だつたので其儘持って汽車中で数年振りに読んで見て思はず知らず―莫迦なッ……こんな出鱈目をよくも振りまはしたものだ―と獨語が出たと同時に熱い涙が頬を傳うた。今までは自分と師匠と別々であつた。師匠があり自分が有つた、六尺去つて師の影を踏まずと云ふが、俺は二十何年來踏み通して來た、勿體ないことだと其罪の軽かざることを知つた。今までは、東には天皇陛下が在し猶師匠が居られた、西にも師匠が居られた。何所へ泊つても東西に足を向けて居たことがない、判らない時は方角を聞いて北枕に寝て來たが最う楽になつた。今迄は師匠が居た、墓が有ると別々になつて居たが、最う今日から一所ぢや、此處に居るよ。此處に居るよ"
丸山先生は愕然として老師を禮拝せられた。
"ハッハヽヽヽ"と老師は大笑せられて更に
"弟子は師と才智同じうして僅に師の半徳を継ぎ、才智師に勝れて傳授するに堪へたり、法は見聞によるが故となりと云はれてゐる。解り易く云へば、無為の大法も僅に相對絶對に則つて顕現せしめる外に途がない、超越の眞境は分る人だけしか分らないから、自然、眼で見える範囲、耳に聞かれる範囲位しか分らない、それ故に師匠と同じ力ならば同じ程度の事しか出来ない、云ふことも同じだ、同じだとすれば今の人より先の人が偉く見えるものだ、何敷く道外の人には、聖賢の言句を成程と思つて自分がそう成つてゐると思つて説法することも、其眞似をすることも、眞の道者が悟得の境から無為の大法が流れ出るのも、見分けられぬから結局同じに見てしまふものだ、それで二代目は同等の力では半徳位しかないと云ふことになる。才智が師に勝れた者は、遙に師の境より上に出て、師の未踏の境地を現出して行く、時によると師匠等は問題にならぬ、こんなつまらないことを云つてゐる、爲て居ると平氣でやつて退けて行くが、事實が證明するから致方がない、其處で、先師も偉かつたが、今も偉いと世俗が信じる其故に法灯が継承されて行く。
師匠は佛のやうに思はれて居たが、今日は思はず知らず馬鹿呼ばはりをした、そして馬鹿呼ばはりをしてゐる者は、俺でなくて師匠だと知つた。イヤ師匠ではない、其又師匠の、其又師匠の、其又師匠の何百何千代かの分らない遠い遠い世界のものだよ。
師は弟子を育てるのに、最大最上の勝れた者にしたい心より外に何物もない。師即弟子、弟子即無上最勝と云ふ事だ。師匠が俺を教へるのに自分と同じ者にしようとは思つて居らなかつた。今の俺も俺と同じ力にしたい等と思つたことはない、師匠と同じく無上の偉者にしたいだけだ。此心がお前たちのものになつたら、お前たちは俺の爲たことや、云つたことを何と云ふか、笑ひ倒し、罵り通すだらう、それを聞く俺の喜悦が判るか、大法具通御世萬歳だ―。
お前たちも精進して此境に到つて、師匠等はこんな阿呆なことをよく云つたものだと笑つて呉れ、俺は堂を下つて脚下に禮拝するぞ、俺が死んでからでは駄目だぞ、生きてゐる間だぞ―アヽ師匠が生きて居たらなァ…―
と老師の聲が曇つてポロポロと涙がこぼれました。
眞の師弟と云ふものが如何なるもので有るかと云ふことが明確に判りました。
以上1日分/掲載日 平成23年3月25日(金)