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2011年10月16日(日)

 15日付の私のツイッターに、京都大学の大学院生田口慎也氏から私に宛てたメールを掲載したが、ツイッターのような細切れでなく通しで是非読みたいとの御意見を頂いたので、メールマガジン『夜間飛行』の責任者とも相談し、この随感録には田口氏からのメールの全文を載せることにした。
 なお、この田口氏のメール文は、『風の先、風の跡』の「風向問答特別編」の11月7日に、この田口氏のメール文に対する私の返信は、11月17日アップ予定の「風向問答特別編」に載せる予定です。

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「科学」と「宗教」、あるいは信仰における「公」と「私」

ご無沙汰いたしております。京都の田口慎也です。本日は、先生が書かれている「虎落笛(夜間飛行:第11号記載)」を拝読した際、自分の中で漠然と問題意識として感じていた部分が言語化されましたので、僭越ながらそれについて書かせていただきたいと思います。

◆科学を宗教に「引き寄せる」ことへの違和感

甲野先生は「虎落笛」のなかで、以下の文章を書かれています。

また、佐橋氏は「禅に体制批判の姿勢はない」と指摘し、自らはそのこと に眼を向けられているような事を書かれているが、この佐橋氏を始め、多くの禅関係者が半ば無意識のうちにハマっている現代という時代の体制に 迎合しているのは、「科学的立場」「科学的視点」というものに寄り添おうとしている事である。…私は、禅の関係者が、しばしば「禅は科学的で、安易に何か迷信的なことを信じる新興宗教のようなものとは、まったく違うのだ」というような意 味の事を言っているのを聞いたことがある… しかし、そうした禅の、いわば宗教らしからぬ、何と言うかある種の伝統文化的立場で自らを主張するというのは、何とも卑怯な感が否めない。というのは、一昔前、曹洞宗の長老の間では良く知られていた油井真砂尼の存在などを思い出してしまうからである…

私が反応したのは、この「半ば無意識のうちにハマっている現代という時代の体制に迎合しているのは、『科学的立場』『科学的視点』というものに寄り添おうとしている事である」という部分です。これは、私が以前洗礼を受けてクリスチャンになろうか否か、本当にのた打ち回るくらいに考えていた時期に感じ、考えていた問題点と重なるのです。甲野先生の「禅への批判」でのそれとは文脈がずれてしまいますが、それを承知で、今回の私の気づきを書かせていただこうと思います。
その当時、私は「物理学者は神を信じることが出来るのか」といった本や、クリスチャンの方が書かれた「イエスの復活を『科学的に』証明する」といった本をたくさん読み漁りました。しかし、そうした本を読んでいるとき、私は拭いようのない違和感を感じ続けていました。それは、一見「科学と宗教」を「公平に」扱っているように見えながら、最初から「宗教」の方に軸足を置いて、そこに(いわば)都合の良いように科学を「引き付けて」書かれた内容のものばかりだったからです。まだ20代前半の私が読んだ段階での結論ですので、読みが浅い部分もあったかとは思いますが、私はどうしてもそうした内容に心の底から共感することはできませんでした。
私は以前から、科学と宗教を「両方同時に、同じだけの深さ、エネルギーを持って追求し、それでも両者は両立するのか」ということに関心を寄せてきました。そして、それを人生をかけて行おうとした人物の一人が、批判もありますが「宮沢賢治」だったのではないかと思うのです。であるからこそ、彼は今一番、私が関心を持つ人物の一人なのです。

「宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い」
(宮沢賢治『農民芸術概論綱要』)

「今日の歴史や地史の資料からのみ論ずるならば
われらの祖先乃至はわれらに至るまで
すべての信仰や特性はたゞ誤解から生じたとさへ見え
しかも科学はいまだに暗く
われらに自殺と自棄のみをしか保証せぬ

誰が誰よりどうだとか
誰の仕事がどうしたとか
そんなことを云ってゐるひまがあるのか
さあわれわれは一つになって[以下空白]」
(宮沢賢治『生徒諸君に寄せる』)

彼の「仕事」が成功しているか否かはともかく、少なくとも、彼の目指していた境地は、「我々の信仰は『科学的に』考えても矛盾するものではありません」という態度とは一線を画すものであると思うのです。前者が「片方(いわば自らの信仰)に軸足を置いて、それに(都合の良い部分を)『引き寄せる』」態度であるのに対して、宮沢賢治は(少なくとも彼の理想は)「どちらにも軸足を置かず、もしくは両方に平等に軸足を置いて、ある種正反対の方向のベクトルを持つ両者を『同じだけのエネルギー』を注いで追求し、それでもその2つのあいだに補助線を引き、融合し、新しい世界観を生み出すことは可能かどうか」というものであったのではないかと思うのです。

(なお、私は森田真生さんの活動も、今後ますます展開されるであろう「懐庵」での活動も、そのようなことを追求し、実現していくことが出来るものではないか…と信じています。)

◆安易な「宗教多元主義」への疑問

それと関連しますが、「宗教は科学と『矛盾』しない」という立場と同様、「全ての宗教は根本的には同じことを言っている」といった、安易な「宗教多元主義」の考えにも、私はどうしても馴染むことが出来ません。
 もちろん、自らの宗派の教えを「絶対」とし、他宗派を攻撃したり、宗教戦争を引き起こしたりすることなどはもってのほかですが、どう考えても、各宗派には他宗派とは「相容れない」部分、そして、それを深く信仰している方々には「絶対に譲ることが出来ない部分」が存在するはずなのです。そういったことをすべて無視し、「細部を取っ払ってみれば『同じこと』を言っているんだから」といった、安易な「合理的・科学的宗教観」に対しては、私はどうしても共感することが出来ません。第一、少数かもしれませんが、それでも必ず日本各地、いや世界各地に存在する「本当の信仰者」に対して、それは極めて「失礼」な態度であると思うのです。(安易な)スピリチュアリストも「全ての宗教の神は、同じ神が別の形を取って表れたものに過ぎない」とか、「全ての宗教は同じことを言っている」、したがって「個別の『宗教』はいらない。」ということを言う場合があります。本当にそうでしょうか?本当にそこまで「信仰」というものは「安っぽい」ものなのでしょうか?
個人的な体験になりますが、私は「本当に信仰を持って生きている人とは、こういう人のことをいうのか」という人物(プロテスタントの牧師の方)を知っているため、そのようなことを安易に言うことはできません。その牧師さんは、私が一対一で面と向かってお話させていただいた時に「私にとってイエスは、今、目の前のソファーに座っている田口君と『同じだけの存在感』を持って、私の中に存在している」と仰いました。そして、「本当にイエスの教えを深く深く信仰していれば、それが『考えようによっては仏教もイスラム教もキリスト教も、全ての宗教は同じことを言っている』という考えには、どうしても、いや絶対に賛成はできない。どう考えても、信仰の一番核となる部分、信仰者が絶対に譲ることが出来ない部分で、それらは明らかに異なるものだから。しかし、それと『他宗派の人々と争う』ことは、全く別の次元の話である。私は、もしイスラム教徒が家に来たら、喜んで家に迎え入れ、ともに食事をするでしょう。イエス様ならそうするだろうから」と仰っていました。
また、キリスト教式の葬儀の時、そこに来られた僧侶の方が遺体の顔に頬を寄せ、抱きついている姿を見たときに、「多くの牧師は嫌がるけれど、僕はあの態度が好きです。本当に信仰を持っていたら、キリスト教式の葬儀であれ何であれ、ああせざるを得ないだろうから。僕は本当に信仰を持っている人には、宗派に依らず敬意を持ちます」とも仰っていました。この牧師さんとの交流があったため、僕は本当に信仰を持つとは、安易な「宗教多元主義」が主張するような「生易しいものではない」と、強い実感を持って信じています。ちなみにその牧師さんは、私が悩みに悩んで、最後に「どうしても洗礼を受けることはできない」と伝えたときに、「それでいい。それどころか、あなたがこれから自分で考えて、最終的にクリスチャンにならなくてもいいんですよ。でも、その真摯な姿勢、自分をごまかさず、真摯に『神様』と向き合うその姿勢だけは、これからもずっと、持っていてください」と仰って下さいました。私はその時、「本物の信仰者」、「本物の信仰を持った方の強さ・凄み」を目の当たりにしました。

(なお、余談ですが、その牧師さんに「何故そこまで『イエス・キリスト』という存在に『実在感』を持つことが出来るのですか?」と質問すると、牧師さんは「問えば必ず答えが返ってくるからだ」とお答えになりました。「いわゆる『祈り』とは、『願いを神に乞うこと』ではないのです。そうではなくて、神に対して『問う』ことなのです。祈りや、聖書を読むという行為を通して。そうすると、何らかの『答え』が返ってきます。それは『誰にでも目に見えるかたち』で帰ってくるわけではありませんが、日常生活の中で『これが神様からの答えかな?』と思えるような『答え』に出会うのです。そうした『問いと応答』を繰り返すうちに、我々クリスチャンは神に対して、イエス・キリストに対して、『実在感』を持つようになるのです」と答えられました。話が飛ぶようですが、これは森田さんが「数学」に対して語られていたことと類似しています。森田さんも以前、数学者は「目に見えない」数学的対象、数学的世界に対して、計算などによる「問い」と「応答」を通して実在感を持つようになる、と仰っていました。人が「目に見えない『存在』」に対して「実在感」を持つためのひとつの 大きなキーワードが、この「問いと応答」なのではないかと、私は考えています。)

◆「公」の宗教と「私」の宗教

私が現時点で明確な「信仰」を持っていない理由も、その牧師さんを知っているからです。「本当に信仰を持つとは、ここまで人を『深める』のか…」。思考の深さ、人間としての度量、威圧感とは異なる、人間としての迫力…それは、安易な「宗教多元主義」を唱える人たちなどとは、比較にならないほどの人間としての「深さ」なのです。「本当に信仰を持つということは、ここまで行かなければならないのか。いや、たとえ行けなくとも、それくらいの『覚悟』を伴わなければ、本当に『信仰を持った』ことにはならないのではないだろうか…」今でも私はそう思っています。であるからこそ、私は安易に信仰を持つことができないのです(もちろん、「まさに今」苦しんでいる方々が、藁をも掴む気持ちで信仰を持つこととは別の次元の話です)。
「公的な」次元で考えれば、確かに一神教は宗教戦争を含め、様々な「問題」を含んでいると指摘することもできるでしょう。それに対して、たとえば初期仏教はオカルト的なものは一切認めない「科学的」なものである、とか、日本仏教は全ての存在に仏性を認める「山川草木悉有仏性」の世界であり、これからの世界に必要とされる宗教である、などと考えることもできるでしょう。こうした主張はある面、事実であり、それらに対してことさらに異論を唱えるつもりはありません。
しかし、「個人」のレベルでの信仰を考えれば、極端な話、そんなことは「どうでもいいこと」なのではないでしょうか。仏教を信仰しても全く「深み」がない人もいれば、さきの牧師さんのように、一神教の信仰者でも「本当の信仰」を生きていらっしゃる方もいるのです。それは「縁」もあるでしょうし、何より「自分が抱えている切実な問題」と、その宗教の教えとの「関係性」、「それ以外には、私が『身を寄せる教え・存在』はあり得なかった」という一回性の、私的かつ切実な「信仰者と信仰対象」のあいだにある「関係性」によるのだと思います。これは「客観的にこの宗教が一番正しい」という問題ではないのだと思います。まさに「その人にとっては、その人の切実なる問いを引き受けるには、誰が何と言おうと『それしかなかった』」という、個人的な、一回性のできごとなのではないでしょうか。私が尊敬する信仰者の方々は、皆そのようにして信仰と向き合われているように思うのです。その人間が抱える「問いの切実さ」に優劣などないはずです。そしてそれを「客観的に」判断することもできないはずです。
話は戻りますが、ある宗派を「科学的にも妥当である」という議論に対して私が違和感を持つのもその点なのです。「科学的にも矛盾はない。他のオカルト宗教とは違う。あくまでこれは理性的な宗教、科学的な宗教なのだ」。公的にはそれで良いのです。しかし、個のレベルでは、「自分が信じる教えが『科学的』かどうか、そんなことはどうでも良い」という場合もあるはずです。「科学的だろうがなんだろうが、『この私』が抱える切実なる問いに、その教えは何も答えてくれない」となれば、その個人にとって、その宗教など「無意味」なはずです。「この私の苦しみ」「この私の切実な問い」などは、そもそも「科学的」なものではありません。その宗派が「科学的か否か」など、ある個人にとっては「どうでもいいこと」であることも必ずあるはずなのです。

◆「信仰」が保障される社会へ

 極端な話、現代科学の最先端の知見と真っ向から抵触するような考えであっても、狂信的と言うことではなく、「本当に深い」信仰を持った人々は、「科学的にはどうであれ、我々は、このような立場を取ります」と言うべきなのではないか、と私は思うのです。そして、我々の社会は、それを許容するべきであると思うのです。本当に「多様性」を持ち、全ての人間が自らの信念のもとに生きていくことが出来る社会を実現させるとは、こうした「信仰を持った人々」の「(容易には他者から理解されないかもしれない)信仰」をも保証する社会であるはずではないでしょうか。
繰り返しになりますが、原理主義、狂信、カルトは避けねばなりません。しかし、科学という「現代における絶対」に対して、宗教(者)は、安易に妥協してもいいのでしょうか?もちろん、現段階の私に明確な答えがあるわけではありません。しかし、それでも信仰者は「覚悟」を持って言うべきではないかと思うのです。 「科学的であろうとなかろうと、我々の宗派はこうした立場を取ります。こういう『生き方』を選択します」と。
いろいろ書いてしまいましたが、こうした宗教・信仰における「公と私」、そして「科学と宗教」の関係性については、まだまだ考え始めたばかりで、上手くまとめあげるところまでできていません。今回私が書いた内容ではとても扱うことが出来なかったような複雑な問題、重要な問題も数多く存在します。「信仰における公と私」。この問題についても、私は目を逸らさず、自分に「嘘」をつかずに、自分にとって「切実な」問題から逃げずに、目を逸らさずに、「自分の道」を歩んでいきたいと思います。今後自分の頭で考え続けていきたいと考えています。 かなり長い文章となってしまい、申し訳ありませんでした。 ですが、甲野先生や森田さんのお話を伺うなかで、自分が本当に追及して考えていきたいこと、自分が本当に関心のあることが、少しずつ、明確になってまいりました。本当にありがとうございます。このようなご縁をいただけたことに感謝いたします。

田口慎也

以上1日分/掲載日 平成23年10月16日(日)


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