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2003年9月2日(火)

 31日は山形で講座。JリーガーのF選手が大変熱心にいろいろと質問してきたので、体と体が競り合った際の抜き方、あるいは抜こうとする際のブロックの仕方にいくつか発見があった。なかでもこちらの背後に回って抜こうとする相手をブロックする動きは、当初ただ尻餅をつくような膝の抜きで防いでいたのだが、その後三方斬りの応用ということに気づいてからの動きはF選手が本当に驚いた顔をしていたから、多分プロ・サッカー界でもこのような動きは滅多にないのかもしれない。
 しかし翌日の9月1日、神山氏宅に積まれていたナラの丸太を薪に割っているうち、初めは「薪割りは滅多にひけをとりませんよ」と得意になっていたが、次第に「ここで、こういうふうに体を使えたらなあ」という自分の動きの問題点に気づいてきて、もしそれを可能にする人間なら私の倍ぐらいの早さで割ることが出来るに違いないと確信するようになって、自分の未熟さが恥ずかしくなってきた。

 しかし、まあそういう事に気づいただけでも今日はよしとしようと、ついついこの日は自分を甘やかしてしまった。
 自分を甘やかしたツケはすぐ来る。今日2日は、このデジタル・スポーツ射撃連盟で打剣。昨日の薪割りで、うねり系と振り子系の動きが自覚されたせいか、嫌になるほど自分の体の欠点を見せつけられる。
 うねり系で今年の6月以前の短めの剣を使えば7間も8間も通るが、足、脚、体幹、腕、手と別々に働かせ、それを統合する動きの困難さをあらためて自覚させられた。
 まだまだ未開発の、そしてもしそれが出来たとしたら体自身が非常に納得するであろう、体全体から発せられる動きが身についてくるのは一体いつの日の事だろう。
 もちろん自分が今その途上にいるだろうという希望的観測はあるが、まだまだ解決しなければならない課題があまりにも多い。というか、その今考えている課題を解決したら又次の課題が見えてくるのだろう。
 それにしてもいつもの事だが、この地で藤井監督はじめ多くの方々に手厚くもてなして頂き本当に感謝している。(ただ、体重がどうしても増える)

以上1日分/掲載日 平成15年9月2日(火)

2003年9月2日(火) その2

 高畠のDSSFで2日半過ごして、今“つばさ”で帰京中。ここで過ごした約77時間は半日ぐらいにしか感じないほど短かった。
 印象深い事は数々あるが、わんぱく少年がそのまま大人になった観のある藤井優監督(射撃のナショナルチームをアテネでも率いる)と、高畠にその人ありと知られた神山氏との絶妙のかけ合いは、今こうして車中で揺られている最中も思い出すと笑いが込み上げてくる。しかし、この高畠滞在中、かつてないほどあちこちから電話があり、何だかこれから東京へ戻るのが少々憂鬱である。

 何度も何度も書いているが、200メートル走で末績選手が銅メダルを得た事につながったと言われるナンバの走りは、状況からいって私が桐朋高校バスケット・ボール部の金田監督に伝えた動きが広がったものだと思われるが、マスコミ各社がその繋がりをハッキリさせぬまま、私に取材をされるのは本当に困る。
 世の中にはとかく細糸1本程度でも繋がりがあると自分に引きつけて解説したり売り込んだりする人がいるが、そういう趣味は私の最も嫌うところである。
 もちろん末績氏(というより高野コーチだと思うが)が、私の本その他をヒントにしたという事を確かめてきたメディアの取材なら必ず受けるという約束も出来ないが、取材を受ける際の前提条件にはしておきたい。(尤もこの事が分かるのも時間の問題だろうから、この条件づけなどその内何の意味もないかもしれないが)
 とにかく高野コーチのアイディアのヒントに私が提唱する体の使い方があったとしても、以前から私が言っているように、それをヒントに技を開発したのは当事者であり私ではない。サッカーの競り合いなどは確かに私が実際に動いて見せて、かなり詳しくその「出来る」という事を肌で感じてもらいながら、そのアイディアを提供しているが、それでもそのアイディアをサッカー場で実現するのは本人であって私ではないから「私が教えた」という表現はあまり好きではない。
 ただ、今回のことを機に私に関心を持って下さる方があれば、これも何度も言っているが既成概念に捉われない発想の転換を是非行なって頂き、大変困難なことではあるが閉塞感の漂う今日の日本を少しでも心ある人たちが希望の持てる状況にして頂きたいと祈っている。
 そうした方々へのメッセージという事もあり、神戸女学院大の内田樹先生との対談本(晶文社刊の予定)は是非とも早く仕上げたいと思っている。

 そういえば昼頃までは昨日の薪割りの影響で打剣もめちゃくちゃだったが、動きの悪さを自覚したお蔭か、夕方打剣していて気づきがあり、今回世話になったマルミツの小関氏にちょっと受けてもらったのだが、切込が今までで一番重くなっていた。
 さて、今月中旬はM氏とS氏のお蔭で某山中に数日籠れそうなので、そこで動きの検討と内田先生との対談本に集中したいと思っている。

以上1日分/掲載日 平成15年9月3日(水)

2003年9月3日(水)

 昨日ちょっと書いたが、高畠のDSSFで夕方得た打剣上のきづきは『田中葵真澄鏡』に出ていた松野女之助や弟の小山宇八郎の弓射のエピソードがヒントになっている。
 これは何かというと、女之助は六分の弓で厚さ六寸のケヤキの板を射抜き、宇八郎も「強弓は弓の力を借りるから」と、さほど強くない弓を使ってどんな兜でも一矢で射抜くので、江戸の甲冑師の間で恐れられていたという話である。このような俄かには信じがたいほどの技も、弓は矢を飛ばす1つの筋道をつくる道具とし、真の威力は弓の反発力よりも体から発する力を利用したと考えていたのだが、手裏剣術に於いても手の振りで筋道をつくり、剣を飛ばす威力はピッチングのようなうねり系ではなく、体全体から発することが重要だということである。
 もちろん言葉にすれば、このような事は以前から言っていたのだが、その体全体から発する力をどう造るか、という事に微妙な気づきがあったのである。

以上1日分/掲載日 平成15年9月4日(木)

2003年9月6日(土)

 昨日はNHKの「人間講座」の撮り。11時にNHKに入って終わってみれば8時近く。私は前のことは考えず後のことも考えず、ただただ、その時その時をこなしていたから、それほど疲れたという感じもなかったが、受けやオーディエンスとして来て下さった方々には心から「お疲れ様でした」と感謝の意を表わしたい。
 特に仙台から駆けつけてもらった藤田氏、翌日早くから野球部の練習があるのに最後の最後まで付き合ってもらった高橋氏には深く御礼を申し上げたい。
 撮影といっても、相手がいればいつも自分の稽古をしてしまう私だが、昨日も、この日の撮影では予定外の体術の投げ技に1つ新たな工夫が生まれたので、体術がメインとなる撮影日までにこの動きを工夫しておきたい。
 しかし、それにしても対応しなければならない事の多さは先月を更に上回ってきた。そのため、もう目の前のこと以外あまり頭がまわらない状態ですから、私と何か約束をされている方は必ず事前確認をお願い致します。

以上1日分/掲載日 平成15年9月6日(土)

2003年9月8日(月)

 昨日は内家拳のH先生の今期最後の講習会に駆けつけたが、諸般の用件で最後の15分ぐらいを見学出来たに止まってしまった。ところが幸いな事に、その後打ち上げのお別れパーティーの後に日本滞在中にH先生が借りられているマンションにお招き頂き、鍛えることに熱心な人が何故そのことで体を害してしまうのか、体を害さぬためには何が必要なのか、という事に関して実に詳しくその練功の理を解説して下さった。お蔭で望んでも得られぬ貴重な知識を得ることが出来たが、通訳をして下さったK氏の帰宅予定時間を大幅に遅らせてしまい申し訳ない事をしてしまった。
 H先生並びにK氏、この講習会の世話人であるU女史に、この場を借りてあらためて御礼を申し上げたい。

 そして今日はまたNHKの撮影。まだまだ人間の心身の構造に関して無知であることを思い知った身で、『人間講座』などという公共電波を使って多くの人達に話をするのは気がひけたが、私程度の知識と動きでも世に出ないよりは出たほうが現在の体育の人間理解の状況を変えるキッカケにはなりそうなので肚を括った。
 私を中継地点として、志のある方々それぞれに向く世界を紹介して差し上げられれば、それはそれで意味もあるかと思う。そんな事を考えつつ、番組制作スタッフの注文に応じて一本歯の下駄を履いたり林の中を歩いたりした。又、道場での稽古風景も撮りたいとの事だったので、相手役の人達を集めなければと思いつつ、とにかく半端でない数々の用件とこのところのもの忘れの更なる上達により、結局来てもらえたのは今日が3回目か4回目の野村女史と初来館の佐藤女史のみという有様。
 しかし、性格の明るさという事が「これほど人々を和ませ、仕事をスムーズに運ばせる力があったのだ」ということをあらためて認識させられ、大変勉強になった。ここに両女史に深く感謝の意を表したい。
 それにしても、また1つ今日私が多くの人達から関心を持たれることになりそうな企画をなぜかアッサリと受けてしまった。尤もこれは対談相手の事情にも依ることだから具体的にどうなるかはまだ分からないが、もしこれが実現したら今年の暮れまでに少なからず世の中にその名を知られた方と3件の対談を行なうことになるわけで、一体それだけの時間がどこから捻出されるのか無責任なようだが私には全く見当もつかない。なにしろこの3件以外に優先順位の高い内田先生との本、光岡氏との本があるのだから。
 それからナイフの古川氏、大工道具の市川先生、そして鉋等の関根氏との対談本も原稿作りに有力な助っ人を得て始めることになっているし・・。1年後いったいこのうち何冊が世に出ているだろうか・・。

以上1日分/掲載日 平成15年9月9日(火)

2003年9月10日(水)

 今日は『中央公論』誌のグラビア撮影の為、多摩川の河原へ。カメラマンのM氏は大変情熱的な人物で、川の流れギリギリに立った私を川の中に短パン1つで入ってシャッターを切り続けていた。M氏の注文に応じて上を見たり遠くを見たりする度に、撮影の為というより忙しさを忘れるために河原へ散歩に来て山や雲を見る事そのものになりきっていたから、私としてはむしろ気分転換になった。
 その後、河原に沿って建っている読売新聞社の大きな施設の玄関を借りて表紙用の写真撮影に臨む。話がどういうふうに伝わったのか分からないが、前から私の事に関心があるという社員の方々何人かに迎えられ一緒に写真を撮ったりサインをしたり等々・・。もうこの頃は余り考えなくなっているが、これで『人間講座』が始まったらもっと大変だなとフト思った。
 しかし昨日今日と比較的時間があったように思うのだが、ドンドン流れる時間は押しとどめようもない。予定では昨日、今日で15日の岡山での稽古会とそれに続く某山中での山籠り用の仕度を大体終えたところだったのだが、まだ殆ど何も手つかずの状態である。
 山籠りは数日間とはいえ、電話もテレビもない所で完全に1人で過ごすので、「ああ、あれを持ってくるんだったなあ」という事がないようにと思うと荷造りはかなりのプレッシャーがかかる。
 それにしても今回も多くの人達の好意に支えられての旅となりそうで、そうした力を貸して下さろうという方々には、あらためて感謝の意を表わしたい。

以上1日分/掲載日 平成15年9月10日(水)

2003年9月13日(土)

 昨日は目まぐるしい1日だった。午前中ひさしぶりに桑田真澄氏来館。この頃調子を落とした事で、もし昨年のままの調子だったらまだまだ目が向かなかったと思われる、より武術的な体の使い方へと気持ちが向かうようになったようで、私としては良かったと思っている。今後いろいろ気にせず新しい体の使い方を集中して研究出来る場を何とか作って欲しいし、周囲もどうか理解して見守って欲しいと思う。登り降りして自分で自分の人生の税金を払い、家族にそれが及ばぬようにしているのが桑田投手の特色なのだから・・。

 午後は3時から永田町の民主党本部で講演というか動きの原理の説明と、私が日頃感じている事を話した。これは先日菅直人党首から電話で依頼を受けたためで、10数年前初めてお会いしてから薄い縁は繋がっていたのだが、このような立場でお招きを受けたのは初めて。
 私は政治家に関係を持ちたいと思った事もないが、縁があって私の意見が多少なりともこの国の政策に直接関わる方々に聞いて頂けるのなら、教育問題やら科学が今なお過信されて人間の感覚がなおざりにされている事などを訴えておこうと、この日実技の相手としての並木氏と科学者の岩渕氏に同行を願って3人で四谷からタクシーで民主党本部へ。
 会場は予想を上回る報道関係者が詰めかけていたが、私としては動きつつ解説し希望する方に体験してもらう、といういつも通りの展開を行なった。菅党首にも体験して頂いたが、話が通りやすくその点は楽だった。講演終了後、体験希望の報道関係者に囲まれ、ちょっとした講演会の2次会となった。
 私の話したことが、今後の国政に反映される可能性もあまり期待は出来ないが、少なくともその気になって耳を傾けて頂けたのは有難かった。このように耳を傾けて頂けるなら、共産党でも自民党でも御縁が出来れば話をさせて頂きたいと思った。しかし、そういう一講師として以上に私が政治に関わることは、今後消息を絶って既に20年以上だったと思うニホンカワウソが発見される確率よりも更に低いだろう。

 その後は池袋コミュニティカレッジの講座へ。この日、ここでは人に何か話すというより、講座という場所で聞き手と相手を得て自分の動きの研究をするというモードに入ってしまった。お蔭で僅かな腰の操作によって、普通4歩弱の歩数を3歩で歩くという動き(確か今月初め頃に工夫したもの)が、まさにナンバ的に自然と同側の手足を同方向へ動かす動きになることに気づくことが出来た。これは多くの人達に、効率よく動けるようになってもらうという事では有益な発見となりそうだ。
 それにしても来週からの山籠り用の荷造りは、持ち前の様々な状況を設定して、いろいろ持っていかないと気の済まない性癖が災いしてなかなか進まない。包丁代わりに私が愛用している154CM鋼材(知る人ぞ知るラブレスの初期使用鋼材)のぺティナイフを入れたら「砥石も要るな」と思い、砥石は重いから1500番と1000番の耐水ペーパーを持って行こうとか、その台は?とか、もう限りがない。

 しかし、今日はこれから若干稽古をして、その後身体教育研究所へ。名越氏と途中で落ち合って行く予定。明日は千代田区での会。そして明後日は岡山の講座と息つくヒマもないので、とにかく時間を無駄にしないようにと思うのだが、気になることが余りにも多く、寄り道わき道が数限りない。
 最近東北から2件、いわきと女名川から頂き物をしているが、その御礼もまだ言いそびれている。あらためて御礼申し上げますが、取り急ぎこの場を借りて御厚情に感謝の意を表させて頂きます。

以上1日分/掲載日 平成15年9月14日(日)

2003年9月15日(月)

 昨夜の千代田区体育館での会は、又70人以上の人々が集まり、様々な展開が出来たが、私自身の個人的感想としては「新・石鑿の原理」ともいえるものの実効性が確かめられた事が一番得るところがあった。
 この新たな術理の進展の兆しは、11日の木曜日に信州の江崎氏と久しぶりに稽古を行なった時に芽生えた。この日、両手持たせの直入身から相撲の寄りのような形まで真正面から当たり合ったが、足裏の垂直離陸による体のアソビをなくす働きを使った抱え上げで、相手の太腿を楽に抱え上げる時の脚部と上半身の独特の連動を感得した。そして、これを応用することの出来如何によって相手の払い手に惑わされずに入れるかどうかの度合いが大きく変わる事に気づいたのだが、その翌日池袋の講座の時の感覚などを通して「石鑿の原理」を更に進展させた、というか自動的に「石鑿の原理」が働く、この「新・石鑿の原理」ともいえる動きが具体的に見えはじめてきた。

 その具体的に見えはじめたこの原理の気づきのキッカケとなったのは、以前から私が講座の折などにも話していた次のエピソードである。

 あるお婆さんがキレイに吹き込んだ対耐撃用の丈夫なガラスの壁を、そこにガラスの壁があると気づかないで通り過ぎようとして、ガラスにぶつかりガラスを割ってしまった。このガラスはラグビー選手が助走をつけて体当たりしても割れない丈夫なものなのに、特に急いでいた訳でもないただのお婆さんが何故かブチ破ってしまったのである。

 これに対する私の答えは、お婆さんがガラスにぶつかりつつもその自覚が無く、更に前に進もうという働きを捨てなかったためお婆さんの身体の側の部分、つまり殻が割れて中身のエネルギーが飛び出したのだろう、というものであった。
 そして、これを"止めることによるエネルギーの発揮"、つまり「石鑿の原理」の例えにも使っていたのだが、ぶつかって止められつつも止められている意識を持たないという事が旧来の「石鑿の原理」と微妙に異なることが気にはなっていたのである。(実際こうして文章にすると実にややこしく極めて分かりづらいが、止められつつも止められていると思わないという事の重要性は、無住心剣術の術理として真里谷円四郎の教えを集めた『中集』の中にある殿様秘蔵の鷹を逃がしそうになった鷹匠が、普通ならとても渡れない激流をそれと気づかず夢中で渡った話、町名主がボヤに驚いて2階の窓から飛び出して屋根の上で消火を指揮し、火事が消えてから部屋に入ろうとしたら窓が小さくてどうしても入れず、梯子で屋根から下りた話、つまり高山大河もそれと認めなければ無いと同じ、という部分と何か重なる気はするのである。

 この日はこの他にもビーチフラッグの選手からの質問に答えて体の起こし方の工夫をするうち、これが体幹部の養成にもすぐれたものがある事に気づいたことや、アマレスのタックルで四つに組んで動かなくなった時、「抱え上げ」の体の使い方だと返しやすいことに気づいた事など、私にとっても得るところがいくつもあった。

以上1日分/掲載日 平成15年9月16日(火)

2003年9月15日(月)

 昨日は昼少し前に東京を発った「のぞみ」で岡山へ。発車の5分ほど前に車内に入って荷物を整理していると、私の席から3列ほど後に何だか見おぼえのある顔が見える。「あれ、あの方は宝島の本で対談したアシモの開発に携わった田上勝俊先生じゃないかな?」と思ったが、単に似た人物かも知れないし確信がない。そこでその人物の視線が上がった時に一歩その方向へ踏み出して反応を探らせて頂いた。すると果たして「ああ!」というお顔。(こうした時は私の着物姿は都合はいい。もっとも最近はそれがために思いもかけぬ場所で、私の本の読者だという方から突然挨拶をされたりして恐れ入ってしまうというか、驚くことも多いのだが)その後、結局空いている座席を転々として、新神戸駅でほとんどの座席が埋まるまでいろいろとお話しをすることが出来、交流の輪が広がった。

 この日の岡山の稽古会でも様々な武道やスポーツ関係の方々が集まって来て下さり、いろいろと気づきがあった。なかでもレスリングのクォーター・ポジション(というらしい)四つんばい状態で引っくり返されないように頑張っている相手に対して、これを返すのには足裏の垂直離陸の体の使い方が有効らしい事に気づけたのは収穫だった。
 会の終了後、「こんなことも出来るのか、とロマンを感じました」と感想を言って下さった教員の方もあり、話の通りのいい方々と過ごせたのは幸いだった。岡山での講座時はいつも楽しく過ごさせてもらうのだが、それと同時に微妙にくすぐったいのは私の方がいろいろと教わりたい内家武学研究会の光岡英稔氏が幹事役で世話をして下さる事である。
 今でも驚くべき実力のある氏が、この夏から本当に0に戻って新たに中国の優れた師に見込まれ、本格的に技を学びはじめているのである。あと10年後、いや5年後どれほど凄いことになっているかと思うと本当に楽しみである。
 ただ、あくまでも技の探究第一の光岡氏のこと、あまりにも多くの人達が入門を希望してきたら、今のところ日本以上にすぐれた門人が待っているハワイに逃げ出すか、更に深いところを目指して中国に行ったっきり中々戻ってこないという事になるかもしれない。
 まあ、どうなっていくかは分からないが、光岡氏の技が驚くべきことになる事と氏の許から優れた人材が出ることは間違いないだろう。そして、そうした刺激(八卦掌のH先生からの学びも含めて)を頂きながら、私は私の日本の武術を構築していきたいと思っている。(つまり日本がかつて中国武術の影響と刺激を受けながら独自の発達を遂げた過程を出来れば追体験したいと考えているのである。)

 さて、今夜からしばらく山中で独居となります。21日までは一切連絡がとれません。山から出た直後にも直ぐにという用件を伝えたいという方は守伸二郎氏に連絡を入れておいて下さい。

以上1日分/掲載日 平成15年9月16日(火)

2003年9月17日(水)

 昨日から、四国の山中の山小屋に守氏の車で(なぜか医者の卵S氏同乗)清水氏の案内で送り届けてもらい、まる1日経った。まるっきりの1人となると淋しさもあるのではないかと思ったが、ここでは家にいる以上に時間が経つのが早い。
 ひとつは、この山小屋は結構いろいろ揃っているとはいえ、生活のための仕事に時間がかかること。例えば薪で焚く風呂の薪が湿っていたり大きすぎたりしているのだが、この薪を割るのに用意されている与岐(よき)の刃がつぶれて刀の棟ほどの厚さになっているため、なかなか薪が割れない。それから洗濯の物干し竿がないので、これも自分で造らねばならない等々。しかし、何かあっても電話もないし携帯も通じないと思うと、怪我をして体の動きが制限されるのを無意識にうちにも警戒するらしく、焚付けを造るにも何時もよりずっと用心深くなっている。
 たとえば、焚付け用に置いてあった孟宗竹を鉈で切るのも、竹だけに変に叩くとハネ返って思わぬ怪我の恐れがあるため、台の上に平らな面を寝かさず立てるようにして鉈を打ち込んでゆく。作業しながら、これは垂れている縄梯子を登る時に、正面から登ると縄梯子が向こうへ逃げてしまい大変登りにくいので側面から登るのと同じ理屈だなと気がついた。
 しかし、それにしても薪が湿っていたせいで、薪さえ良ければ30分で沸く風呂が2時間もかかってしまった。しかし、私だから2時間かかっても沸かせたが、不馴れな人だったらきっと諦めてしまったろう。
 そして午前1時半頃寝たのだが、今朝9時頃目が覚めた時、今まで抑えていた芯の部分の眠気がやっとこの地で誘い出されてきたのか、立ち眩みするほどの眠さに更に3時間ほど寝る。その後、近くを速歩の稽古で歩いたり、物干し用の竹竿を造ったりした。
 このように今日は体を使うことが多かったが、今日一番衝撃的だったのは、近々刊行される予定の多田容子女史の小説『甘水岩』。この本の腰帯の文章をPHPの大久保氏から依頼され、そのゲラを守氏経由で昨日渡されていたのだが、今日読み進むにつれ多田女史の小説家としての才能に背筋が寒くなった。ひとつには、もうずっと前から多田女史と知り合い、その品のいい、そして面白い人柄をよくよく知っているからだと思うが、よく知っていると思っていたのはホンの上辺で、その奥に凄まじい修羅の世界を実際は宿しているのかも知れないと何度も思ったほどである。
 デビュー作『双眼』とは比べものにならない地の底から響いてくるような重低音な読感は、どう考えてもこれは“筆先”のように自らの体を何者かに貸して書き上げたとしか思えない。
 ただ、最後はさすがに我に返ったのか、多少少女趣味的な終わり方になっており、その事で少しホッとさせられた。

以上1日分/掲載日 平成15年9月23日(火)

2003年9月18日(木)

 十分すぎるほど寝たりすると起こりがちな事だが、昨日背中に起こった攣るような筋肉痛は、今日一層ひどい。全くの1人暮らしだから怪我をしないようにと思っていたのに、ちょっとした寝返りも辛い。こんな時は仕事に限ると、清流を引いた風呂に漬けてあった新品の藍の袴や道着を、昨日造った青竹の物干し竿に干したり、内田先生との対話の原稿を書いたりしたがあまり変わらない。ならば稽古に限ると清水氏に置いていってもらった茣蓙に打剣。
 ここは山中とはいえ幅五間の谷川に面していて、六間以上距離がとれる。打剣の稽古にこれほどの良環境は滅多にない。もちろん背中は痛かったが、各剣の距離への対応の具合や重心調整をしているうち、背の痛みを忘れていた。そして、抜刀の抜きつけに斬るという働きは、打剣と密接な関係があるという事に気づき少々興奮した。そして、そういえば私の師匠である前田勇先生が、「手裏剣は全ての武道の元じゃきにな」と私に話して下さった事があったなあ、と突然30年前の記憶が蘇ってきた。

 そんな事をしているうち日も傾いてきたので、2度目の風呂焚き。今日は段取りを考えて昨日から少しずつ準備をしておいたため、極めてスムーズにいった。尤も清水氏がまっとう鉈を用意して私に貸して下さったからこそ準備も出来たのである。清水氏にはあらためて感謝している。
 それにしても山暮らしに鉈は欠かせない。CW・ニコル氏もNHKの「人間講座」の取材の時、鉈を礼賛されていたというが、よく出来た生活刃物だ。鉈といえば、鉈を語らせたらこの人の右に出る者はいないとまで思える関根秀樹氏やカスタムナイフの古川四郎氏との対談本もいよいよ手をつけなければと、つい今後のことを思い出してしまった。そしてCWニコル氏の「人間講座」もあと2回。その次の週からはとうとう私に順番がまわってくる。
 もっともその前に2回の撮りがあって、日本体育学界のシンポジウムがあって、長崎での稽古があって・・・。せっかく今は時間に縛られずに山の中にいるのだからそうした事は考えないようにしよう。

 食事は計画通り、というか予想以上にうまくいっている。主食は持参の土釜で玄米と黒米とキビと麦とを炊き、これに胡麻と納豆、あと大根、人参、玉ねぎ等を生で食べ、モロヘイヤをざっと熱湯をくぐらせて食べる。ワカメでも持って来るんだったなあと思う以外は何の不満もない。動物性のものと菓子を持ってこなかったのは正解だった。菓子の代わりにに守氏差し入れのリンゴと梨を食べる。
 とにかく主食のキビ、黒米、麦入り飯が大変美味い。食べ物にこれほどの満足感と精神的安心感があることは、双滅多にない。もちろんどれも質の良いものだが、主食と限らず和洋中華さまざまな料理と比べても、私にとってこのブレンド穀飯の上を行くものはちょっと思い当たらないほどである。

以上1日分/掲載日 平成15年9月23日(火)

2003年9月19日(金) 昼

 背中の痛みは昨日より大分治まってきたが、ここに来てすぐ蜂に刺された処が2ヶ所今頃になって腫れてきた。それにしても薄暗い風呂場でたまたま手をついた処に1匹だけいた蜂に刺されたのだから、これはどうしようもない。そして同じ風呂場で2時間後、次に洗濯物を掴んだ時、やはり1匹だけいた蜂に刺された。最初は右手の中指、次が左手の拇指。すぐに持っていた「アンジェローパ」と「マリマリ」という南米のインディオが使う樹液で手当てして、数時間後は全く気にならない状態となったので昨日は殆ど忘れていたのだが、1日置いて腫れてくるとは・・。もっとも腫れたといっても大した事はないが、いったん治まった腫れがぶり返したのは私としては初めて・・。
 しかし、今日はここに来て一番よく晴れたので急いで洗濯し、僅かな日向を追って洗濯物を干す。ここは谷川を目の前に前も後ろも傾斜地だから、日の照らす場所が限られていて、木漏れ日ごしでは2日経っても乾かない。その経験から今日は入念に場所を選んだので、今日はうまく乾くだろう。

以上1日分/掲載日 平成15年9月23日(火)

2003年9月19日(金) 夜

 今晩を過ごしたら、もうあと一夜を残すのみになってしまった。夕方2km近く歩いて、この山小屋の緊急連絡人となっているK氏宅を訪れ、郵便物の投函を依頼する。茶菓に呼ばれたが、菓子には全く興味がなくなっている。山中独居で、気を紛らせるために食べ過ぎるという事は全くない。食べる量も少ないし、動物性のものや菓子を食べたいという気は全く起こらない。
 とにかく今回山中1人で幾日かを過ごして分かった事は、極めて平凡なこと、普段いかに食べ過ぎているか、そして運動不足ということ。稽古をしていて、この間も3時間動きっぱなしの喋りっぱなしで少しも疲れないと思っていたが、説明しながら動いていると言っても大した状態ではない。
 ここへ来て食を減らし、普段歩かないほどの距離を歩いても、疲れるというよりまだまだ体の欲求を満たしていない感じがする。それでいて膝下の筋肉がいきなり普段歩かない距離を歩かされてびっくりしているのだから、そうした部分を鍛えるためにもやはり体を動かす時間をつくらないといけないと思った。

 K氏と話をしていて「昔は雑木が多かったので雨が降っても急に水が増えることはなかったんですが・・・」という嘆きに、産業第一で突っ走ったかつての日本の国策の愚かさをあらためて思った。ただ、上に登ればブナの大木もあるという。明日、天気さえ良ければ是非登ってみたいと思っているが、夜に入って雨が降り始めたので、これはどうなるか分からない。

以上1日分/掲載日 平成15年9月23日(火)

2003年9月20日(土)

 昨夜からぱらついていた雨が本格的に降り出し、今日は終日雨。晴れていれば近くにある標高千メートルを越す山に歩法の研究も兼ねて登ろうと思っていたが、晴耕雨読ならぬ晴稽古雨書。
 ただ、この地にゆっくり出来るのも今日限りで、明日は午前中に全て仕度して此処を出なければならないから、雨の音を聞きながら寝ていたいと思う限りは寝ていようと思い9時間ほど寝ていた。
 それにしても山中で1人誰にも煩わされることなくせせらぎの音と雨の音を聞いていると、時が止まったようでいつまでも飽くことなく窓の外を眺めていられそうだ。やはり山の中というのはよほど私の体質に適っているのだろう。
 ここは広葉樹が少なくて植林した杉が多いのだが、それでもこのような気分になるのだから、私の好みの樹相と地形の場所だったら都会に戻るのが嫌になるかもしれない。
 しかし時代は動いている。この山の中の自然もかつての豊かな森から暗い鬱々とした針葉樹ばかりに変わったように、遺伝子組み換えの植物を普及させたりする人間の飽くなき科学技術進展の流れは止めるに止められぬ勢いだ。又、中国の工業化が進めば強い酸性雨が降る危険もある。今は昔のように「国破れて山河あり・・」というような、人間の営みと関わりなく大自然は存在している、と言えた時代ではないのだ。
 1962年、レイチェル・カーソン女史が衝撃的な本『沈黙の春』を刊行し、農薬メーカーや行政を相手に尖鋭的な戦闘を開始したことにより、世間の多くの人々は環境問題という意識を持つようになったが、まだまだそれは「気になる」という程度で、とても本気とは思えない。もし本気なら「不況、不況」と騒ぐ前に、現代は昔のように燃やしてしまえば、あるいは海に捨てたらそれで終わりという気楽な時代ではなくなり、人々の潜在意識の中に微妙なそして抜きがたい環境への不安が宿っていることをもっとハッキリさせ、この問題とどう取り組むかについてもっと真剣な検討をあちこちではじめていると思う。
 カーソン女史が時代に楔を入れられたのは、女史が単なる科学者ではなく自然に対する詩的感性にもすぐれ、その言説が多くの人々の心を打ったためだと思う。
 山中で雨音を聞きながらこれを書き、私もカーソン女史には及ばぬまでも、最近私の書いたものに目を通して下さる方が増えてきたので、私に出来る範囲でこの国の自然について真剣に考える方の輪を広げなければと思った。こんなふうな考えを持てたのは、この地に来て一番の成果かもしれない。

 今日の食事は午後4時過ぎに朝昼晩の3食かねて摂る。今日は終日山小屋に籠っていたため1食で十分だった。私は幸か不幸かいわゆる空腹感というものを感じることが滅多になくて、1人で旅行している時など連れがなければ食事をしに店に入るということはまずない。ただ、夕方まで殆ど何も食べていなかったりすると、ガソリンが切れてきたかな、という物理的実感はするし、食べ始めると好物なものなどついつい食べてしまうが、空腹感がまずないから便利といえば便利である。(それじゃ人生の楽しみが半分ないという人もいるだろうが)
 この山小屋は少し離れたところに河原に張り出した涼み台とでもいうような場所があり、夕食後そこに登って小一時間山と谷川を眺めていた。
 その後、薄暗くなってきたので風呂焚き。雨の降ることもあろうかとよく乾かした薪を家の中に入れておいたので、炊き付けには苦労しなかったが、不馴れな人が薪置き場のものをそのまま使おうとしたら雨に濡れていて苦労したことだろう。
 入浴するのは私1人なので、火がほぼ完全に燃えて五右衛門風呂の底が熱くない時にゆっくりと釜茹で状態にならずに入ることが出来るのは独居の特権だろう。

以上1日分/掲載日 平成15年9月23日(火)

2003年9月23日(火)

 一昨日は9時頃、清水氏の迎えで山を下り、多度津で稽古。山を下りた時、なんだか凄く弱くなっている気がしたが、四国や九州、岡山方面からも来られた方々数十人にそれなりに技が通った。
 また今回は稽古会の最中いくつも気づきがあり、山に籠っていた間に多少は変わったのかもしれないと思った。例えば、抱き上げの潰しでは胸の辺りがわだかまるように落ちずにひっかかっていた事に気づき、ここをよく割って崩落させるようにすると更に重くなること、柔道の双手刈りのように急に姿勢を低くして両足を抱き込んでくる相手に対しては、慌てずすぐに相手の足をこちらの足裏の垂直離陸で抱え上げ返すこと、体術の相手への斬り込み技は、手で払ったり斬るというよりも、手に持った太刀で斬り払うという感覚で手というか腕を使う方が自然と斬り続ける感覚が出て、その腕が相手に触れた時、自然にロックがかかり威力が大きいこと等々が分かった。

 そして昨日、四国から東京駅に着くと、新しい本の企画の相談があるという新潮社のA女史にホームで出迎えを受ける。A女史を伴って御徒町の岡安鋼材へ。ずっと気になっていた支払いを済ませ岡安社長と暫しいろいろな話をして、骨董工具を譲り受けてからタクシーで新宿の朝日カルチャーセンターへ向かう。
 車中、A女史から新しい本の企画の説明を受けたが、この企画は養老孟司先生が強くA女史に私に依頼するよう勧められたとの事。そうと聞いてはこの企画に乗らざるを得ない。話に夢中になっているうち、タクシーが渋滞で殆ど動かないことに気づくのが遅れてしまい慌てて市ヶ谷でA女史と共に降り、山手線で新宿へ出、新宿から数百メートルをまたタクシーに乗り、講座は僅かな遅れで何とか済ますことが出来た。
 会場では中学生新聞の記者のインタビュー、終わればNHKの「人間講座」のナレーションの確認等の打ち合わせ。そして帰るとかつてないFAXの量。そのなかで最も急を要する今週末の熊本での日本体育学会のシンポジウムに関して、今日漸く担当の則元先生と連絡がつく。
 当日は一般に公開との事なので御関心のある方はいらして下さい。なお、私が多少実演を致しますが、その時に使う木刀と杖をもし持ってきて私に貸して下さる方があれば幸いに存じます(主催者側に用意していただけるものと思いますが、念のため)。シンポジウムの具体的インフォメーションは告知板をご覧下さい。

以上1日分/掲載日 平成15年9月23日(火)

2003年9月26日(金)

 四国から帰って4日間家に居て、今日九州に向けて発つ。ただ、この4日間の忙しさは四国で山の中に籠る前より一段と用件が増えていた。それこそ次々と入る様々な依頼で、自分が今どこにいるのかをしばしば見失いそうである。
 多くの方々から「秘書がいりますね」とか、「マネージャーが必要でしょう」等々の助言を頂くが、誰か頼んでもその人の居場所もないし、何をどう対応したらいいのか、その時その時の判断を任せられるほどの人など容易に見つからないし、私の人脈や対応の仕方を教えている時間もないので、結局今まで通りホームページの管理や原稿の清書や整理などを篤志の方に助けて頂く以上のスタッフは置くところが出来そうにない。
 そのためダブルブッキングならぬトリプルブッキングの可能性さえ出てきたので、私と何か約束されている方は事前確認を電話でくれぐれもお願いしておきたい。

 ただ、この忙しさの中でも23日、25日の稽古で発見はいくつかあった。主なものは組んだ状態からの両足裏の垂直離陸による発力。この動きは全身に均等に負荷がかかり、体のアソビがとれることがバックにあると思うのだが、現実には何がどう働いてこのような事が出来るのか、具体的な術理は今もって不明である。これ以外にも一つ有効な気づきがあったが、この方は更に術理がよく分からないので、さすがにここに書くのも憚られる。もう少し原理が見えてきてから書くことにしたい。

以上1日分/掲載日 平成15年9月27日(土)

2003年9月29日(月)

 27日の土曜日は、4時前に大阪から熊本入りし、5時過ぎから熊本劇場でのシンポジウムに臨む。時間が押していて思っていた事の何分の一程度しか話せなかったが、司会の松原隆一郎先生は空手と柔道に打ち込まれているため、シンポジウム前から話がいろいろと展開した。
 シンポジウムが終わって、このシンポジウムに来て下さった方々から求められたサインをしたり質問に答えたりしていると、つい数メートル先でも同じようにサインを求められて何人もの人に囲まれている雄偉な体格の人物がいる。その人物はサインが一区切りしたところで私に笑顔で会釈。私も会釈を返してお互いに近づき初対面の挨拶をする。
 新聞や雑誌、またテレビで何度も見かけてはいたが、いざ直にこの人物、室伏浩二選手その人に会ってみると、想像していたより一回り大きく、体重は100kgに1〜2kg欠けるくらいだということだった。つまり私より35kgは重いことになる。これだけの身体を造っている人と会って、「初めまして。室伏さんの事は以前から野口先生によく伺っていました。」「いや僕の方も甲野先生の事は何度も野口先生から聞いています。」といった言葉の挨拶だけではつまらない。「ちょっと体験されますか?」と言って、早速切込や直入身などを試みる。
 室伏選手はかねてから野口先生に伺っていた通り、大変動きに関するセンスもよく、私がシンポジウムで「鎧は手に持っていると重くて大変ですけれど、着れば普通の体格の人でもある程度飛んだり跳ねたり出来るでしょう」という話を聞いて、「そうか、ハンマーも着れば違ってくるかなと思ったんです」と早速連想をいろいろ広げたとの事で、私の技も熱心に体験したいというその熱意についつられて次々と技を繰り出し、最新の、私もその術理が今までの技の中で最も掴みずらい「片腕浮かし」も体験してもらう。
 この技は、私の右手前腕の上に室伏選手が両手を揃えて手掌を下向きにして頑張ってくるのを、足裏の垂直離陸と或る意識操作で体全体を浮かすものだが、室伏選手にも有効だった。その他、やはり足裏の垂直離陸を使う、相手に坐ってもらってこちらの片腕に抱きつくのを上へ引き上げるものや、お互いに棒の両端を持って押し合うのを一気に入ってゆくものなども試させてもらった。
 その後、いろいろ話をして、結局体幹部をどう養成するかにまだまだ多くの可能性がある事、ものを飛ばすのはロックのかけ方に鍵があるのではないかという事などを話し、会場が閉まるというので他日を約して別れた。

 翌28日は11時頃平田氏とM氏の迎えで佐世保の術理講習会へ向かう。
 今回の講習会は恐らく本格的な講習会としては九州で初めてになると思うが、そうした事もあってか平田氏には随分と気を使っていただき、講習会は17時からというのに私の手裏剣術の試射検討のため弓道場まで用意しておいて頂いた。折角の御好意なので、前日は2時間半ほどしか寝ていなかったが、到着後すぐに打剣。今回新たに江崎氏に拵えまで依頼して造ってもらった剣の重心位置を確認し、どの程度まで距離が利くのかを検討してみた。
 その後、大分から来ていた体重110キロ以上の大学生のO君に直入身を説明しながら試みていた時、膝のヌキと足裏の垂直離陸との関係と、これを両足に試みる際のバランスに今までにない感覚を得て、この状態の一時的ではない状況を生み出せそうな希望が見えてきた。そのため、この状況を打剣に応用したところ、五間半(約10メートル)の距離で、今までで最も低い天井までの高さが約2,5メートルのところで剣を飛ばすことが出来た。
 うねり系のピッチングならともかく、よりうねらずに打つ方法でこのような軌跡は初めてである。なぜこのような事が可能になったのか、いろいろ考えてみたが、この打法はうねり系と違い体全体の力を並列的に使うことで出力が大波とならず弓の弦が返るような力となり、更にこの返りを有効に使うコウパウンド・ボウ(映画『ランボー』にも登場していたリムの両端に滑車がついていて、リムの中間からの反発力も利用出来るように出来ている弓。リムの反発力を通常の弓より更に有効に矢に伝えられる)のように体全体の力を剣に伝える率が高くなったのではないかと思いついた。
 夕方5時から始まった講習会は70人以上の方々が見え、熱心な質問も数々出て、講習会の後の打ち上げの2次会が果てたのは午前2時過ぎであった。その後さらに平田氏の接骨院に場所を移し、結局私がホテルに帰ったものは午前7時を回っていた。
 今回の講習会ではすっかりお世話になった平田氏とスタッフのM氏、O女史にはこの場を借りて深く御礼を申し上げておきたい。

 その後、2時間ほど寝てから十数年ぶりに私の手裏剣術の恩師である前田勇先生の遺族の方の御宅を訪ねるべく、北九州の黒崎駅に降りる。黒崎駅には兄弟子に当たる寺坂進先生が迎えに来てくださり、寺坂先生の案内でまるっきり風景の変わった筒井町の前田宅へ。御次男の奥様に前田先生の遺品のひょうたんやら根付印材など、いろいろと先生ゆかりの品々を頂いた上、夕食まで御馳走になってしまった。
 御次男の奥様と寺坂先生の御厚情に対してあらためて御礼を申し上げたい。

以上1日分/掲載日 平成15年9月30日(火)

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