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2日の日曜日に、NHK教育テレビ『こころの時代』で1999年11月に放映した―祖母が話してくれたアイヌの神々―の再放送を行なっていた。これは、今年の5月に亡くなった、アイヌ出身で参議院議員も務められた萱野茂二風谷アイヌ資料館々長を、金光寿郎氏が訪ねて対談を行なったものである。ここで語られた萱野氏の話のなかには、歴史のなかで理不尽な扱いを受けてきたアイヌ民族の怒りが静かに燃え上がっていた。現在は、日本の大陸侵略は盛んに語られるが、ともすると同じ国に住んでいた先住民のアイヌ民族に対する迫害は忘れられがちである。
渡辺京二著『逝きし世の面影』では、外国人であるヒュースケン(ハリスの通訳官)や、カッテンディーケ(オランダ海軍軍人で勝海舟に航海術を教えた人物)が日本の西欧化が日本を不幸にすると良心のうずきを訴えているが、私が初めて北海道で神社を見た時、思わず下を向いてしまったほど、強烈な違和感と胸の痛みを覚えた。(これが奈良辺りだったら全く印象は違っていただろう)
そして、この番組を観ているうち、アイヌ民族の迫害というほどハッキリした形ではないが、近代化の旗の下、つい数十年前の我々の身の回りでも大工の事情も無視した尺貫法の禁止など、国家を挙げて西欧化に走った愚挙もあり(永六輔氏の尽力で何とか緩和されたが)、科学的という名の許に、現在も人間を単純化してとらえる医学やトレーニング法が幅をきかせ、それによって身体に問題が起こっても、科学の権威は大きく、それらのトレーニング法は今も圧倒的に多数派である。したがって、こうしたトレーニング法の問題点を根本的に見直すため自分の頭で考え、身体の感覚で確かめてみようという人は本当に稀である。
まあ確かに感覚によって有効な稽古法(トレーニング法)を行なうという事は大変難しい。なにしろ有効な方法であればあるほど身体全体が微妙に関連しているため、それを意識で観察して、その状況を検討することは原理的に不可能に近いからである。まるで臆病な野生生物の生態を観察するほど困難なことである。まあ、現代では遠方からの望遠レンズや特殊な自動撮影出来る装置を使えば、ある程度のことは出来るだろうが、野生状態にいるものを直接触れて確かめる事など不可能であろう。
しかし、真に有効な技は、そうしたいわば身体の中の野生状態にしかないのではないかという思いは、この頃確信に近くなっている。そして、そうした働きを現出させるため、最近は「器に入れた銘酒をこぼさないように運んでいた時、ボールが飛んで来たので小腰をかがめて避ける」とか、「掌の懐中時計を見ていた時、遠くで自分を呼んでいるような気がしたので、フト斜め前方を見る」とかいったシチュエーションをつくって、その時、最も自然にそれらの動作ができるかをいろいろ試みている。つまり、武術的に見ると、それらの動作が自然と出来た時、その手が意識しないのに思いがけない威力のある手となっている事を体験し始めている。この事によって、あらためて感じることは、こうした動きの向上には、日常の動作そのもののレベルを上げる必要があるという事である。そんな事を考えていると、昔、武術の世界でも職人の世界でも入門した者にはいろいろな掃除や雑用をさせたというが、これは、より自然な状態での身体の運用法を身につけさせるために非常に意味のある稽古であったように思われてならなくなってきた。だからこそ昔、居合の達人、通称三尺左五平(本田左五平)の瞬時に抜き差しした刀に餡子箆(あんこべら)で餡を付けて、左五平をも唸らせるような団子屋の親父なども存在したのだろう。
とにかく体の中に偏りがなく、自在に動けるような身体をつくることは、これからの体育にとって重要な課題となるだろう。これからは、掃除や工作、農作業等も体育として考えていくべきだと、あらためて強く感じた。
以上1日分/掲載日 平成18年7月4日(火)
新潮社から送られてきた季刊『考える人』が、創刊4周年の記念特集として―戦後日本の「考える人」100人100冊―という企画を発表していた。「戦後日本の100人か」と思って何気なくページを繰っていくと、いずれも物故者のようである。よく記憶にある人もいるし、「ああ、どこかで聞いた名だな」という人もいるが、なかには「へぇー、こんな人もいたのか」という人も載っている。さすがに全く記憶にない人は少ないが、戦後の日本人というか、日本の社会に影響を与えた人を、ジャンルを問わずに100人と限って選ぶとなると、その選考はかなりの難題だろう。後に「編集部の手帖」といういわば編集後記があったが、そこで「100人100冊をどのように選べばよいのか、これは深く考え始めるときりのない、途方に暮れるような作業です」とあったから大変だったのだろう。まずはリストアップされた人が700人以上あって、絞り込みは難航したらしい。
前置きがすっかり長くなってしまったが、なぜ私が随感録にこの事を書こうと思ったかというと、司馬遼太郎も鈴木大拙も選に洩れている、この「100人100冊」のなかに、整体協会の創始者である野口晴哉とその著『風邪の効用』の名を見つけたからである。今から30年近く前、武術の道を専門にしようか、それとも整体協会の整体指導者になろうかと迷ったほど、私は故野口晴哉先生の影響を強く受け、その後、武術の道に進んだが、その稽古研究において私は野口先生の影響を大変強く受けていた。(このことは最近出した『身体を通して時代を読む』内田樹共著バジリコ刊のなかでも触れている)しかし、当時はまさに知る人ぞ知る存在であり、もちろん政界、財界、芸術界に野口先生に深い信頼を寄せていた人達もかなり存在していたが、その事を公然と口にすることは稀な、いわば裏の人であった。その証拠に、昭和51年(1976年)に亡くなった時、『週刊文春』などは、「ロシアの怪僧ラスプーチンのごとき存在で、いわば怪しげな新興宗教の教祖」といった扱い。そのうえ「ずいぶん稼いでいたらしい」といった、ほとんど揶揄したような記事を載せていた。
あれから30年、文春と並んで辛辣な皮肉を書くことで知られる新潮社の雑誌に、「徹底した観察力、原因と結果を導き出す分析力、人間の心と身体のシステムを西洋医学でも東洋医学でもない場所から築き上げることができたのは、他人の口にする言葉、書いた言葉を鵜呑みにせず、目の前に表われているもの、触れられるものだけを信じた野口の知性があってこそである。ある皮膚疾患を対症療法でおさえつけると、治癒後に呼吸器疾患になることが多いと野口は早くから指摘していたが、西洋医学がその因果関係を発見したのは野口の死後しばらく経ってからである…」等と、その業績を十分に評価した紹介が載ったのだから、「時代も変わったものだ」と、なんだか半ば呆然としてしまった。
そうしていると、どこかでぼやっとスポーツトレーニングなども、現在主流の部分的筋トレも、そのことに問題があったとクローズアップされる日もいつか来るのかなあと考えている自分がいて、なんだか溜息が出てしまった。
現行の、教科書に書いてあることや、指導者の言葉を鵜呑みにせず、自分の頭、自分の身体を通して新しい世界を拓こうとする若い人の登場に心から期待したい。
以上1日分/掲載日 平成18年7月7日(金)
7月8日、9日と、京都と名古屋で続けて講座というか稽古会を持つ。おそらくは多人数の講座等で、「体をうねらせない」とか「体を捻らない」とか、井桁とか足裏の垂直離陸といった具体的な術理を全くと言っていいほど説かずに、数時間、話と実演を行なったのは、ここ十数年間ではなかったのではないかと思う。
その代わり、納豆の入っていた鉢を持って、納豆のぬめりでその鉢を落としそうになって思わず動くとか、何気なく挨拶をするといった、日常的な動きの例えがいろいろ生まれ、解説をしながら自分でも思いがけない動きの発見が8日にも9日にもあって自分でも驚いた。
10日は久しぶりにバスケットボールの浜口典子選手に、最新の私の動きを解説し、その後、新潮社の『考える人』創刊四周年のパーティーに招かれていたので、六本木の国際文化会館へ。会場で久しぶりに養老孟司先生と、最近私が一番気になっている、論理は「A点からB点へ」という2つの関係しか取り扱えないことの問題点について、いろいろ聞いて頂き、私の意を強くするような御意見を伺うことができた。他にも何人もの方々とお話しし、時に実演しながら、とにかく現在の科学的説明の「Aの時にB」という2つの関係しか1度に説けない方法を人体を研究する上でも使っていることの問題点に、少しでも多くの方に気づいて頂きたいと、自分でもおかしいと思うほど喋りづめに喋っていた。
以上1日分/掲載日 平成18年7月12日(水)
ここ数日は「何をまずしようか」と迷うことがないほど、次々と優先順位の高い用件が来ているので、思わずそれらをやっているうちに日が暮れ、夜がふけ、明け方近くなって慌てて寝る、という日が続いている。そのため、どうもかなりの急ぎの用件や依頼を、そのままにしているような気がしてならない。
私に何か御依頼をされた方、私からの返事を待たれている方は、もう一度、御連絡下さい。自分でもダブルブッキングがないのが不思議なくらいの状態ですから。
6月の末に、いくつかのメディアに出た為か、7月に入ってからの介護関係の依頼の多さには驚く。しかも、10日からNHK教育テレビの『まる得マガジン』が始まったので、今後この傾向は一層強くなるかもしれない。
それにしても『まる得マガジン』で解説している自分の顔の疲れと人相の悪さには自分でも驚いた。撮影がハードスケジュールで寝不足だった事もあるが、カメラに向かって喋るという私の苦手中の苦手を強行した結果であったことを思って、今後はこの種の依頼は、やはり断ろうとあらためて思った。子供の頃の内気な性格というのは、やはり何らかの形で残るものなのだろう。カメラを見て喋ると声が裏返りそうになる。したがって、今後私に何か依頼される方は、このような状況だけは避けて頂きたい。その前提の上で、この先テレビにせよ、新聞・雑誌にせよ、私がそこで仕事をする際、一番やりたいと思っているのは、人体を扱うのに、現在の科学的論理構造の上で物事を考えているということの問題点について本気で考えてゆこうという企画。
そこから、現在の日本の(日本のみではないが)抱えている諸問題を何とかしようという志のある方が出て来られることを切に願っている。
以上1日分/掲載日 平成18年7月14日(金)
18日は、名越康文氏との共著(刊行は、まだだいぶ先になりそうだが)のための対談というか下準備のため、夕方PHP研究所へ。出かける3時間ほど前から「今日は時間切れで慌てて出かけないように準備をしておこう」と思ったものの、差し迫った用件を何件かしているうちに、芋蔓式に何件かの緊急な要件を思い出し、それらをやっているうちに気づけば出発予定時間まで20分。そうなると、どういうものか、また〆切ギリギリの用件まで思い出し、結局予定より、ふた電車後に乗るハメとなり、集合時間に10分ほど遅れてしまった。
あまり考えないようにしているが、いま私のところに来ている用件は、私の処理能力の3倍はありそうだ。そんな中でも名越氏と話すと、自由にいろいろと話が展開し、仕事なのに伸び伸びと出来て、本当に有難かった。ひとつには、太田氏やI氏など、話の通る編集者の方々に同席してもらったからだと思う。本などで、いい仕事をしようと思ったら、それを育むいい環境が絶対的に必要だとあらためて思った。
以上1日分/掲載日 平成18年7月19日(水)
最近はいろいろなところから、いろいろな依頼が来る。22日は名古屋のテレビ局からの依頼で1時間ほどビデオ撮り。なんでも武田鉄矢氏の番組に使いたいとの事。武田氏は、先日千代田の稽古会にも見えたが、誠実な人柄には好意が持てたので、武田氏からの強い要請もあってとの事だったので収録を受けることにしたのである。
こうしたことが今のスポーツトレーニング等の見直しのキッカケとなれば、やがては少年少女達が、今のスポーツで体を壊すことの低減にもつながるかもしれない。まだまだ前途遼遠だが、武田氏のような知名度の高い人物に話題にして頂ければ、私がいろいろ言うよりは、この事に気づく人も増えるような気がする。
最近は「何気なく動く」という事をいろいろ考えているせいか、演劇に関心が出ているのだが、そうなると妙なもので演劇界からも、知名度のある人で私に関心を持っている人と続けて縁が出来てきそうだ。そういう世界の方がスポーツ界よりも話の通りがいいのではないかと思っていたら、スポーツ界からも現場に一番近い学会(だそうである)に出て話をして欲しいという依頼が来た。依頼主のT氏は、現在教員として教える立場にありながら、同時に現役の選手も続けている方で、確かこの方が2年前に出した日本記録はまだ破られていないと思う。T氏とは旧知の間柄だったから、電話がかかってきた時に「スポーツ関係の人達は、私の話を聞きたがらないように思いますけどねぇ」と言ってしまったのだが、「いやあ、何とか甲野先生にはスポーツの現場に関わっていて欲しいんですよ」という声に思いがけない切実さがあり、そう言っていただいたT氏の思いには報いたいと、一応来年3月末にあるという、その学会に出ることを承知した。
技の方は「何気ない動き」そのもののレベルを上げる必要性も感じ、いろいろ工夫しているが、その過程で剣術等にも今まで気づかなかった方法が生まれたりしている。とにかく何気ない動きのレベルを上げるには、やはり体幹の働きを向上させる工夫はやるべきだと思う。そのためには、一本歯で凹凸のある所を駆け回るとか、ゴザ引きをしてもらって、倒れそうな体の操作を養うといった方法は、それなりに有効だと思う。私自身は下段からの打剣の「瀧入り」の工夫がかなり有効なようだ。
ここ三十年余り、ずっと「いまが一番技が利いています」と言い続けてきたが、それは現在でも変わらない。5月の末に技を体験してもらったS氏、6月のY氏、7月初めの…氏に、いまの私の技を受けてもらったら、その差に気づかれるだろうなと思う。
私の体の動きで、「昔は出来たんだけどね」というのは、その場から跳び上がる能力ぐらいだろう。二十歳くらいの頃は、その場から乗用車の屋根くらいなら跳び上がれたが今は無理だ。しかし、体当たりの強さ、またそれを躱すといった動きは、現在の方が遥かに上である。蹴って動くという単純な動きから体全体を使った動くという事が幾分出来るようになっただけでも、昔はとても出来なかった事が出来るのだから不思議なものだ。したがって工夫次第では跳力も思いがけない方法で得られるようになるかもしれない。こんなふうに思うのは、いろいろな技が以前よりも出来るようになると、一層自分の今までの、そして現在の未熟が自覚され、「もうちょっとマシになってから人生の幕を引きたいな」と思うからかもしれない。
ただ、今の時代への絶望感が紙一重のところまで来ているとは言わないが、紙数枚くらいのところにいるような気が、時にするだけに、この気難しい乗り物である私自身と今後どこまで上手く付き合ってゆくか、そこに何より大きな課題がありそうである。
以上1日分/掲載日 平成18年7月25日(火)
数年前、心臓外科医として「神の手の持ち主」とまで謳われている須磨久善先生と親しくお目にかかってお話しする機会があった時、「上手な人と下手な人とはどこが違うのでしょう?」と伺うと、須磨先生は即座に「それはもう、まず手の出し方が違います」と答えられた。メスを持った手を心臓に向けて下ろしてゆく、その動きでその外科医の力量はハッキリと現れてしまうのだという。その、どう見ても科学的にはほど遠い職人感覚というか芸術家感覚のお話は、深く私の記憶に残っていて、折に触れて思い出していたが、最近、坐り技の正面の斬り(合気道の坐り技の一教、あるいは一ヶ条といわれるものに似ているが、私のところで行なっているのは、受けの側が合気道のように片手ではなく、受け自体も取りのつもりで両手で取りを抑えようとしてくる形をとっている)が、以前とは余程違ったものになってきた。
その元は、最近すべての技にわたって考えている「ふと何気なく動く」動きの展開であるが、その何気ない動きのなかにも一本の道がみえてきた、という事であろうか。つまり、相手を崩すべき腕の挙げ方にも自然な流れがあり、それによらず、ただ反射的に思わずやっても、それはただ「フト何気なく」動いたつもりであって、体全体がうまく協調して「フト何気なく」動くものとは「似て非なる」というより(確かに形は似ているかもしれないが)「似ても似つかぬ」(その内容において)ものであることを痛感したというか、させられたのである。と同時に、『願立剣術物語』の八段目「手二つ足二つ身と合わせて五つ也。五の積りを以って五人より一隊二十五人、一曲五十人から五軍皆大将一人の下知によらずということなし。我々の働きをなし一人の下知に随わずば負けること疑い無し(後略)」や十五段目の「敵色々に変化し飛び動くともただ身の規矩を計り、滞る処の我に有る病を尽くし一筋に習いの道を行う事肝要也。手足をつかい身をひねり面をゆがめなどするは腹の内に幾たりも有て手を遣う者独り足を遣う者独り身をひねる者独りかくの如く五体の内めんめんのようにては万方は是一也と言うにはあらず。大公の曰く凡そ兵の道は守一を過ぐるなかれ。一はよく独り往き独り来る」等で説かれていることの意味が、今までよりは一段また分かった気がした。(こうして少しずつ『願立剣術物語』の世界が、いままで気づかなかった目で見られるようになってくると、この本の解釈本を出そうと思った自分がとんでもない分不相応な事をしようとしていた気がしてくる。このぶんでは、一年後は無論のこと、三ヵ月後、いや一ヶ月後の自分がどんな事を口走っているか、まるで予想がつかない。
とにかく、やりたい事はあまりに多く、それに比べて私個人の動ける時間と空間はあまりに僅かである。ここ数日の間にも思いがけぬ素晴らしい贈り物(日本鉄の地鉄に鋼はスウェーデンのアッサブのK−120という、ある面最高レベルの組み合わせの切出)を、ある方から頂いたりという事もあったが、あまりの事にまだ御礼も言いそびれている有り様だ。この鉄と鋼の世界のことも私にはたまらない魅力があり、何かの形で本にしたいが、そうなるとますます時間が…。
以上1日分/掲載日 平成18年7月29日(土)