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「ああ、もう今日から9月か」と思って、パレスホテルで行なわれた、みずほ総合研究所の広報誌『Fole』に載る半藤一利氏との対談に出向いてから、既に4日も経ったのが信じられぬような思いがする。
その9月に入って、1日、2日、3日と連続して体を主に動かす講座や稽古会があったためか、最近また以前と体の使い方が変わってきたのを感じる。
とにかく、もう「体を捻らないように」といった術理を言う事が極端に少なくなってきた。それどころか、坐り技の"浪之上"で、正座で座った私の片腕を、側面からしっかりと体重をかけて両手で抑え込んでもらった時など、いろいろ体を使っても腕が上がらない事を、はやく私自身の体に納得してもらい、「だから、もう力やコツではなく、ただ上がるように上げるしかないんですよ」というような事を思わず言い始めているから、ますます人に伝えにくくなってきた。ただ稀に「ああ、そうなんでしょうね」と言う人も出てきた。
そうすると、久しぶりに開いた無住心剣術三代目、真里谷円四郎の語録『中集』のなかの文章が今までになく新鮮に感じられてきた。 たとえば、いままでは読んでいても、ただ「ふーん」という感じが拭えなかった
「又云、悪しき路を行くに、足のすべりた時、そのまま両手をひろげて足をふみとむるものなり、其すべる内に手を広げ身をつり合せて、踏み止むべきの分別する暇間はなし、剰へ兼て習ひ学びたる業にもあらずして、貴賎老若共にする事なり、是は誰がするぞや、
(中略)
又云、身のかゆき時、頭をかき足をかくに分別するやいなや、
又云、高き所のものを取に、身をのばし、低き所のものを取に身をかがむるに分別するや否や、」
などに、何ともいえぬ妙味というか胸騒ぎを感じるようになってきた。
さて、これからどうなる事か。
私の講座は、いちばん近いところでは8日の池袋コミュニティカレッジで、翌日は松林左馬助ゆかりの長野市松代での「エコール・ド・まつしろ倶楽部」主催の「文武学校稽古会」。そして翌日は長野県中野市の中野市民会館で行なわれる高水・須坂地区合同教育研究集会での講演。御関心のある方は9日の松代町の稽古会は、エコール・ド・まつしろ倶楽部に、また10日の中野市民会館で行なわれる高水・須坂地区合同教育研究集会のお問い合わせはこちらを御覧下さい。
以上1日分/掲載日 平成18年9月6日(水)
8日は池袋コミュニティ・カレッジの講座の後、そのまま大宮へ出て長野へ。9日の松代での稽古会や10日の中野市での講座のために、前夜現地入りしたのである。
お陰で9日は、午前中に夢想願立の開祖、松林左馬助ゆかりの地をエコール・ド・まつしろ倶楽部の方々に案内して頂いて巡ることができた。1つは清瀧阿弥陀堂で、数十メートル上からの瀧水は、現在は僅かだが往時は凄まじかったと思う。自分の生家近くで唯一瀧があるこの場に左馬助が訪れなかったとは、どう考えてもあり得ないと思う。
そして、もうひとつは左馬助自身、自らの剣術や長刀術、十文字(槍)術は「愛宕山大権現夢中御相伝之一大事也」と伝書に書き遺しているその愛宕山。僅か300メートルほどの山だが、恐らくは生家のごく近くだったと思われる。山腹に太い柏に囲まれて建っている社は、明治になって神仏分離令が出る前は愛宕山大権現だったというから、左馬助が霊示を受けたのは、ここに間違いないだろう。そうした松林左馬助ゆかりの地を訪れたお陰でもあるが、文武学校での稽古会で一つ感覚に進展があった。
ここでは合気道関係の方々が多かったので、いわゆる入身投げとか一教の入り方で、相手が抵抗してくるというか相手の方が入身投げや一教をこちらに掛けようとするような状況の場合で、逆にそれを崩す時、手の上げ方から近寄り方に至るまで、体全体の総意として手が働いている事の重要さを今までにない体感を伴って感じることができた。
これは6日に、体全体を働かせる時、ついつい馬鹿な司令官と出たがり屋のゴマスリ部下の関係になりがちな頭と手の関係から、体全体の総意で手も他の部位も働くようにするため、頭がベテランの幼稚園の先生のようになる事に気づいたことも大きいと思う。これはどういう事かというと、「さあ、みんな行くよー」と、2,30人の園児を連れてどこかに出かける時、どこかいじけたり、すねたりしている園児がいないかをザッと見ただけで見つけ出し、そういう子がいれば、その子と手をつなぐなどのサポートをしつつ、同時に園児全体も見て滞りなく園児達を引率する先生のように、頭も身体も使うべきだという事である。
このように体を使うという事は、「ただ何気なく自然に」という動きの質を点検する一つの方法のように思うが、果たして万人向きの方法かどうかは何とも言えない。ただ、あることが出来るようになると、その先の稽古法・修練法というのは自然に浮かんでくるもののようだ。いずれにしても、その修練というのは何かを付け足すようなものではなく、『願立剣術物語』に説くような「唯なんともなく無病の本の身と成る也」ということなのだろうと、あらためて思っている。
以上1日分/掲載日 平成18年9月11日(月)
16日は、整体協会・身体教育研究所に野口裕之先生の個別稽古を受けさせて頂く為に伺ったのだが、裕之先生の特別なご好意で、名越康文氏らと共に、既に閉まっていた時間ではあったが、整体協会本部道場3階で開催中の「野口晴哉・野口昭子墨蹟展」に案内していただく。
そこへ案内して頂く少し前、私は木彫彩漆作家の渡部誠一翁から、かねて渡部翁にお願いしてあった作品を二子玉川の駅近くの喫茶店に届けて頂き、その折、渡部翁から「私は野口晴哉先生、最晩年の書を拝見させて頂き、人間があそこまで作為を捨てた作品が書けるのかと、本当に感動しました。私のこれからの目標が決まりました」というおはなしと共に私がお願いしていた作品を頂いたので、何とも不思議な思いがしていたのである。
そして、辺りが静まった夜中、我々以外人気のない会場で初めてその最晩年の書「和敬清寂」と向き合わせていただいた。
野口晴哉先生の書は、その独特な書体で、関係者には広く知られており、そこに展示してあるいくつかは私も以前拝見したことがあったと思う。しかし、「和敬清寂」は別格だった。同行した名越氏は、その前に3日でも座り込んでしまいそうで、書を観てこんなに感動したことは初めてとの事であったが、私はあらためて30年前、野口晴哉先生の訃報に接した時のことを、まざまざと思い起こしていた。
つまり、私にはこの書が、自らが生涯を終えるという事を「覚悟」といった特別なこともなく自覚し、その事を誰に伝えるということもなく、そのまま事実として受け入れる、そうした感覚がそのまま伝わってきたのである。何と言ったらいいだろうか、死というのは人間にとって一大関門であるが、それはそれとして認めつつ、「ちょっとその辺まで散歩に行ってくる」といったさりげなさも同時に在る。「ああ、年を重ねるということも悪くないな」と、フト思った自分に我ながら驚いた。
野口裕之先生が作品選びから展示まで、すべて手がけられたという、この墨蹟展は、来月7日まで瀬田の整体協会本部道場で開催されている。整体協会の会員外の人が観ることは難しいかもしれないが、会員同伴なら可能らしい。
このような展覧会を観ると、こういう機会の為だけにでも整体協会の会員になる意味があるなと思うほどである。
それにしても、あらためてプロとは何か、アマチュアとは何かを考えさせられた。私も今月は、先週から珍しく今月一杯講座等がなく、溜りに溜った依頼稿や校正のため旅館にカンヅメになったり、本作りの企画などで人に会ったりする日々が続いているが、プロとなることが、それによってその人が生きているという事実そのものを忘れて、ただの技術の徒となってしまったら、それは人が人として生きているという事と本質的に離れてしまうのではないかと、野口先生の書によりあらためて胸をつかれた思いであった。最近、特にさまざまな人に会い、さまざまな企画と向き合っているだけに、あらためて考えさせられる。
それにしても16日、渡部翁が持って来られた作品は、「背丈ほどの柊の木2本から削って削って、これだけになりました」との事。超一流の技術を持たれた方が、その技術を否定し否定して、ある形に辿りついたということなのだろう。これから常に座右に置いて自らの技を考えたいと思う。
以上1日分/掲載日 平成18年9月18日(月)
何だかやる事がいろいろあって、明日は前から約束していた人との予定も変更させてもらう事になり(その人にはすぐ了解してもらえたが)、フト、人と人の信頼ということについて、あらためて考えさせられた。人間は、ついどうしても自分勝手に考えがちで、人のために良かれと思ってやっていながら、結果としてその人から怨まれたりする事があったりする。(まあ、怨む側も、つい自分中心に考えてしまうからだろう)
人に何かを「してあげた」という思いを持つことは、とかくいろいろなトラブルの元になる。山岡鉄舟が敬愛した槍術の師匠山岡静山は、常に帯びていた木刀に「人に施して慎んで念とするなかれ 施しを受けて慎んで忘れるなかれ」と刻み込んであったというが、静山ほどの人でも常に自戒するほど困難な課題であったのだろう。
しかし、人を信じるとは一体何なのだろうと思う。裏切る、裏切られたというほどの事ではなくても、いつしか縁が遠くなっていくという経験は誰しもが持っている事だと思う。親しく付き合いながら十年経とうが少しも変わらぬ信頼関係で結ばれているというほうが少ないかもしれない。幸い私の場合、十年以上となれば、精神科医の名越康文氏、二十年以上ならば整体協会の野口裕之先生が、三十年以上ならば武の先輩の伊藤峯夫氏がまず思い浮かぶ。「ありがたい事だ」と思う。
もっとも技や術理に関しては、それまでの信頼が裏切られる回数がより多く、その裏切られ方の大きさが、より大きい方がいいに決まっている。もちろん私自身、裏切られることを歓迎しているから、あまり信じてはいないようなものだが、それでも、その時々で自分のすべてをかけて行なう以上、やはりある程度はどうしても信じているものである。
今日、24日は本の企画のために話をしていたM氏と稽古もしたのだが、切込入身等がいままでにない展開となって技が通った。これが一体いかなる原理に基づくのか、今の私には何とも説明のしようがない。ただ、キッカケは打剣の工夫で、その時ヒントになったのは『前集』のなかで、川村弥五兵衛が師の無住心剣術三代目、真里谷円四郎の教えとして次のように述べているところである。
先生云、清濁強弱は気に有て心になし、気半身以上へ昇る時は、半身以下は足らず、其時は脚下に養ふべし、右へ片寄れば左へ足らず、左へ強くかたよれば右へは足らず、前へ強く進めば、余りて後ろ足らず、腰のはまり強過ぎれば、下を払はれてあたる、是皆気の濁りて片釣になる故也、其気を転換して、片寄らざるごとくに、其気を調養するの術なり。
また、以前ダイヤモンドが鑑定液のなかで浮かず沈まずの状態になっているという事、どこにも居付きがないという事も術理のたとえに使ったが、この事もどこかで思い浮かべていたのかもしれない。
とにかく、この技は、いままでの「こうしたら、こうなるだろうな」という、数十年にわたって刷り込まれてきた身体動作の常識を解体する必要があり、これがはたして自然の動きといえるかどうか、よく分からない。
ただ、22日、久しぶりに韓氏意拳の光岡師範とゆっくり話が出来たので、その時伺ったチベットでの体験談が何かの影響を与えているようにも思え、「自然とは何か」という事について、より深く考えなければならなくなったような気がする。
以上1日分/掲載日 平成18年9月26日(火)
最近は電車に乗っている時間がひどく短く感じる。やらねばならない事が幾重にも重なっていて、それらの段取りを考えたり、メモしたりしているうちに時間が経ってしまうからだが、昨日26日も電車が出て、まだ5分ぐらいと思っていたのに20分くらい経っていて驚いた。
昨日は、前日遅くまで起きていたとはいえ寝たのが4時前で、家を出るのは13時くらいだったから、起きてから、出かける仕度や出先を地図で調べる時間くらいはあるだろうと思って寝たのだが、目が覚めた時は何と12時20分。その上、腰はダルイ、足首は痛い、24日の気づきに体が戸惑っているのか、何ともよく分からないが、とにかく大慌てで家を出たから、一層頭の中が混乱していたのだろう。
まず、NHKの生活ホットモーニングの打ち合わせでNHK放送センターへ。その後、『風の旅人』編集室へ。画家のN女史を同行。N女史の滅多にないセンスは『風の旅人』に似合いそうだったので推薦したのだが、佐伯編集長もすぐにその気になられたらしい。私の新しく始まる連載にも使って頂きたいが、他にもっと適う連載もあるらしい。とにかく、この絵が世に出る方が大切なので、後は編集長にお任せする事にした。
そして迎えた今日27日は、全く目まぐるしい一日だった。〆切間近の至文堂の原稿を書こうとしていたのだが、約1年ぶりに連絡のあった力士のF君から、「いろいろお聞きしたい事があるので、是非一度伺いたいのですが・・」とのことだったので来てもらう事にする。とにかくすべての予定が押しているので、どうしようか迷ったが、私も24日の気づきがどういうことか知りたかったので時間を空けた。1年前、三段目だったF君は、いまは幕下に昇進、体重も9kg増えて130kgになっていた。挨拶もそこそこに、いろいろな状況で立ち合ったが、24日の気づきの意味を私自身も知ることが出来て、無理に時間を空けた甲斐があった。1年前は半信半疑で私とやってみて戸惑っていたのが、今回は私に崩される度に明るい笑顔がみられ、1年前とは違って、かなり私の言うことが理解できてきたF君の様子に、ついこちらも話に熱が入った。
F君を送り出して帰ってくると、気になっていたK氏からメールが入っていたので、すぐに返事を書き、その事で滋賀の高橋氏に電話する。高橋氏と電話しているうちに、20年以上前から縁のある量子化学者のN氏来館。至文堂から依頼された私の原稿で、不確定性原理について書いたあたりを専門家の眼で監修をお願いする。久しぶりだったので稽古もしてもらって、その感想やら最近の科学界の動向などについて話を聞く。
N氏を送って帰ってくると、シナジェティクスの梶川氏から電話。そして韓氏意拳の光岡師から電話。そして気づけば「Fole」の半藤一利氏との対談のゲラがFAXされている。これは私がその行き届いた依頼文を見て対談を引き受けたK女史の手になるものだが、流石に、数日前、初めて校正した時、私の言いたい事が見事にまとめられていて、「ああ、こういう人に出会いたかった」と本当に涙が出るほど感激した。八千字くらいの原稿をざっと校正するのが40分くらいで済んだのだから・・。その後、入念に赤字を入れて送った。(ここまで見事にまとめられていると、こちらもいいものに仕上げようという意欲が湧くのである)
同じインタビューや対談原稿でも、校正にかかる手間がライター、編集者によって何倍も違ってくるというのは仕方ないが、有能な人のギャラが別に高いわけではないというのは何とも納得がいかない。それにしてもK女史は、田中聡氏以来5人と出会わなかったすぐれたライターの一人に数えられることは間違いない。今後、出来れば是非お力をお借りしたいと願っている。
結局、至文堂の原稿の続きにとりかかるのは明日以後になりそうだ。それにしても心苦しいのは、いろいろと私に送って下さったり、私のことを手伝って下さろうとスタンバイして下さっている方に連絡する時間がない事。ホンの一言の電話が気づいた時は午前2時というありさま。必ずお礼を申し上げますので、いましばらく御容赦下さい。
以上1日分/掲載日 平成18年9月28日(木)