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7月30日から4日間、連日講座や講習会で、昨日3日は8月では数日しかないオフの日だったが、問い合わせやら企画の相談やら、名古屋行きの準備やらで、一時は、いま私がどこで何をしようとしていたのか分からなくなるほどの状況だった。とにかく緊急で連絡をとる必要のあるものが十数件、かなり急ぎの用件が数十件、その中で優先順位をどう選ぶかはもう運というしかないような気がした。
30日の江戸川大の講座も31日の朝日カルチャーセンターも、受講して下さった方々の熱気は痛いほど伝わってくるのだが、その思いに対応できる体制が今の私には無く、申し訳ない思いだった。
1日は、一年前にも招かれて行ったラグビーの公認コーチの講習会へ。今年は昨年より反響があり、同行した陽紀の実演のまわりにも人垣が出来ていた。(ただ、この場では驚かれたり興味を持ってもらえたが、そこから現行のトレーニングの根本的見直しをしてみようという人は、たぶん殆ど出ないだろう。しかし、どこかで縁のある方と出会えるかも知れず、機会があれば今後もこのような講習会は要望があれば続けようと思う)
とにかく、今月は脳科学者の茂木健一郎氏との公開トークもあるので、現行の身体理論のような「Aの時にB」という2つの関係しか取り扱えない論理的記述では、複雑な人間の運動が扱える筈がないという事に関して、一人でも多くの方に理解して頂き、「科学的」といえば盲信するような現代の風潮だけは考えてゆきたいと思う。
そうしたなか、先日の私の随感録を読んで、現場をよく知る外科医の方からメールを頂いたのは勇気づけられた。すぐれた外科医の技術というのは分解して説明の出来ないもので、体全体で盗むというか体得するしかないとの事。そうした事に気づかれている方が、私の本や随感録を読んで参考にして下さっているという事実は、私がこれから先も活動してゆこうという元気のもとになる。ありがたいことだ。
以上1日分/掲載日 平成18年8月5日(土)
8月に入って、これほど早く日が経った記憶はかつてない。既に3分の1が過ぎているとは信じられないほど…。今年はお盆に遠出するという、いままでにない計画があるので、余計に気がせくのかも知れないが…。
技に関しては『青い鳥は家にいた』という本でも書こうかと思うほど、日常の何気ない動きに技としての意味のある動きが隠されているというのが最近の実感。だから、わざわざ教えたり教わったりするほどのものではないという気もするが、最近講座などで「どこへ行けば習えますか?」という質問がひと頃よりずっと増えてきているので、近々の予定を御紹介することにした。
今日11日は池袋コミュニティカレッジの講座で、ここは直前の単発申し込みが可能なので、予定のたちにくい方にはいいかもしれない。
その他は、9月1日の人間考学研究所インターアートコミッティーズの講座。
9月2日の朝日カルチャーセンター横浜(まだ若干空きがあるとの事、tel 045‐453‐1122)。
少し遠いが千葉で8月25日新日本スポーツ連盟の千葉県連盟(tel 043-287-7353 fax 043-256-1454)で講座があるので、御都合のつく方はどうぞ。
以上1日分/掲載日 平成18年8月11日(金)
昨夜遅く、とにかく急いでやらねばならないことを書き出してみて、さすがに冷や汗が出た。もうとても私一人でこなせる量を遥かに超えている。
最近はあまりに依頼があるので、気分転換もあるのか興味のある企画には思わず乗ってしまうのだが、これからは私が引き受けても「本当に大丈夫ですか」と依頼した方に念を押していただかないと責任が持てないかも知れない。こうなると引き受けた仕事でも、こまめに連絡をとって下さる方の仕事がどうしても優先してしまう。(なにしろ、いまどうなっているかという頭も働かなくなっているので…)
しかし、こうも多くの依頼に関わっていると、本当に武術の知識のないインタビューなどもあり、うっかりしていると、とんでもないプロフィールを書かれそうになる。つい先日も「古武術とは甲野善紀が独自にまとめた体系」という、ひっくり返りそうな間違いがあって、一瞬息が止まりそうになった。慌ててその間違いを指摘しても、若い女性の担当者は逆に「えっ、そうなんですか?」と不思議そうな顔。「ああ、知らないという事は恐いものなしだな」と、つくづく思った。もっとも、私が了解した私もビックリの本『ど素人にも役立つ古武術』が今、作家の荻野アンナ女史の手で執筆が進められている。ダジャレ女王の荻野女史は、私が技を、その辺の現象に例えて説明したのを二段階も三段階も変化させて、思いっきり面白おかしく砕いて書いてある。
まあ私も3年前に会を解散し、「私の動きを参考に各自お好きなように展開させて下さい」と言っているから、どう書かれても構わないのだが、それでも普通は「そこまで砕かないだろう」というところを、本当に砕いて書いてしまうところに荻野女史の荻野女史たる面目があるのだろう。とにかく、これで介護などが楽になる人が出れば結構なことなので、荻野流を貫いて書いて頂こうと思っている。
以上1日分/掲載日 平成18年8月12日(土)
12日、帰省客で最も混み合っているさなか九州へ飛び、ここで3泊し、2回の講習会をもったが、いずれも世話をして下さった方々には大変なお心遣いを頂いた。ここに厚く御礼を申し上げたい。
そして講座としての予定をすべて終えた15日、私は熊本のK氏の御案内で、昨年8月の終わりに、初めてその噂を耳にした山口県防府の杉田善昭刀匠の許に伺った。
噂を耳にした直後から、ズブ焼きという焼刃土を全く塗らない焼入れによって、かつての古名刀の再現に迫っているというその姿と作品を、是非直接拝見したいと思っていたのだが、照葉樹の緑に囲まれ、渓流の音が絶えず耳に快い中国山地の中で、私は予想を遥かに上回る噂の刀と対面することが出来た。
私は元来丁字乱れの刃文は、それほど関心がなかったのだが、この山中で出会ったその丁字刃は龍が乗る雲のような迫力があり、その自然が生み出した造形の妙に深く打たれた。通常、焼入れは焼刃土によって、かなりの程度形を狙って焼くものだが、焼刃土を全く塗らない焼入れは、養殖物と天然物との違いのような、どうしようもない質の違いがあった。この刀を見た瞬間に私は、客観的証拠は何もないが、往古、日本刀の焼き入れは、焼刃土を塗らない方法が本来で、その後作品を安定的に大量に作るため焼刃土を塗る方法が一般化したのではないかという杉田刀匠や、杉田刀匠の作品に惚れ込まれている研ぎ師の藤本師の説に深く共鳴してしまった。
とにかく現代刀の課題として容易に現わし得ないという映りが見事に現われ、しかも息を呑む丁字乱れ、『新撰組血風録』のなかで著者の司馬遼太郎が、沖田の差料となる則宗に「八重桜の花びらを置き並べて露を含ませたように美しい」と表現した一節が思い出された。
もしこれが刀剣界の重鎮の作品なら、どんなにか評価されることだろう。しかし、あまり名を知られていない山口県の刀匠の師伝によらない工夫であるため、これほどの名品も黙殺に近い形なのである。(もっとも、これほどの作品なので、2004年に新作刀の展覧会で寒山賞という特別賞を取られている) 鍛錬所に伺って、その奇縁に驚いたのだが、私が10年以上前に刊行した『武術の新人間学』(PHP研究所刊、現在PHP文庫)で刀について解説しているところに使ってある丁字刃の写真が、なんと杉田刀匠の作品であったのである。(この写真は、ある刀剣商からPHP研究所の編集者が写真提供を受けたもので、私はまったく気づかなかったのだが、15日、杉田刀匠にお会いした時、杉田刀匠からその話を聞き驚いたのである。この写真をPHPの編集者が受け取ったという事は、この写真を渡した人物は杉田刀匠の作品を丁字乱れの代表として評価したということだろう)
しかし寒山賞も受賞し、そうした理解者も少数存在するものの、現状では杉田刀匠はほとんど評価されていない異端の刀匠なのである。この事は、どの世界にもあることで、似た例としては私が度々紹介している木彫彩漆工芸作家の渡部誠一翁もそうだろう。渡部翁といえば、ユン氏によるインタビューがマンモTVに出ているので、御関心のある方は是非御覧頂きたい。
16日夜帰宅して、今日17日は留守中に届いたものや九州に出かける前からやり残した数々の用件と取り組んでいるが、19日は5時起きして弘前に向かわねばならず、また沢山の用件が手につかぬままとなりそうだ。緊急に御用の方、また私への依頼を確認して下さる方は18日か22日にお願いしたい。
なお、19日の弘前の講座は、まだ余裕があるとのこと。ご関心のある方は世話人の小山氏にお問い合わせ下さい。
以上1日分/掲載日 平成18年8月17日(木)
慌しく時が流れていき、今夕はじめてアオマツムシの声を聞く。すでに晩夏の気配。そういえば、14日に伺った防府の杉田刀匠の鍛錬場では、ツクツクボウシが鳴き始めていた。あの夜は、夢に何度も丁字刃の杉田善昭作の刀が出てきた。杉田刀匠の刀は叢雲(むらくも)会のサイトで観ることが出来る。御関心のある方はどうぞ。
九州から帰って2日、明日からまた正反対の方向の青森に向かうので、いろいろ思い出している暇もなかったが、今日、祥伝社の編集者S氏との打ち合わせが予想外に早く終わり、フト一息つくと、佐世保でもいろいろな出会いがあった事が蘇ってきた。
13日の講座の後、打ち上げ会場になった「ひととき」は、その場所といい、雰囲気といい、かつて打ち上げであれほど恵まれた場所はなかったと思うほど。(適当に稽古の続きをするスペースもあったし)マスターが盆栽の専門家で、かねて疑問に思っていた「なぜ数百年も経つ盆栽が、それほど太くもならずにいるのか」その理由が漸く分かった。
また、この日は同行した陽紀の二十歳の誕生日だったのだが、その事を知った世話人の平田整骨院院長が特別にバースデーケーキを用意して下さった。平田院長のお心遣いには心から御礼を申し上げたい。ケーキは、これを作ったパティシェの女性が自ら持参して下さったが、その縁で大きなボールで材料をこねる時の体の使い方について質問され、その場で体全体を使ってボールのなかの材料をこねる動きを工夫し、思いがけず私にも発見があった。(いままで各種スポーツ選手、各種楽器演奏者、炭木割り、薪割り、ライダー、釣り人等々、さまざまな分野の人達から体の使い方について相談を受けたが料理の分野からの質問は今回が初めてだった)
翌日が8時過ぎ、熊本からK氏とF氏が車で迎えに来て下さり、4時間かけて熊本の会場へ。K氏は手裏剣術について深く関心を持たれている方なので、熊本では手裏剣術の演武と解説も行なったのだが、この地は根岸流三代目の成瀬関次師から学ばれた方(私が就いた根岸流四代目の前田勇師とは別系統の)の流れが残っていて、その方々ともお会いすることが出来た。
現在の私は、身体教育研究所の野口裕之先生から予告されていたように、右上腕の痛みが下に降りてきて手首が満足に使えないため、手裏剣の打法でも、かつて人前で演武してこんな刺さらないことはなかったといった有り様だったが、お蔭で体全体で打つという事がまだまだ出来ていないことが良く分かり、貴重な体験をする事が出来た。
剣術も角度によっては手首がひどく痛むので、うまく刀を使えないが、こういう時にしか学べないことがあるので、いまの環境、いまの機会を無駄にすることのないように稽古をして行きたいと思っている。
以上1日分/掲載日 平成18年8月20日(日)
19日は弘前で講座。20日は弘前の講座の世話人である小山氏の案内で、白神山地の入口まで入る。(小山氏はじめ、スタッフの方々には大変お世話になった。改めて感謝の意を表したい)樹齢400年のブナの大木は、無言のうちにもごく近代から現代にかけての、この数十年間の環境の激変について、人々に何かを考えさせようとしているように思えた。
山に入ると薪割りなどの山仕事をしたくなるものだが、今回は痛む右手首と右腕に負担をかけないようにしていたせいか、左手首までおかしくなってきて、その辺が辛いところだった。ただ、そのせいか「斬り落とし」などで、相手との接点にビロードのような、というか短毛種の犬の毛並みを愛でて撫ぜるようなソフトなタッチで触るように体を使うことで、一層相手を崩せるのだという事に気づいた。それに関連して、無住心剣術三代目の真里谷円四郎の語録である『前集』二十七章の後半に、「…それ故に常に静かに柔順を専と修行して敵の一毛も破らざる如くに見ゆるうちより大地に響くほどの剛(つよみ)之出るよと元祖上泉よりも不伝の妙を夕雲自得ありしところをさして向上の一路先生の不伝となり」という文章があった事を思い出し、無住心剣術とは虎と猫ほどの違いがあるかもしれないが、まあ、それでもこれが、ネコ科はネコ科であるというような共通性があれば幸いだが…。
それにしても8月から9月の前半にかけては予定が目白押し。なかには1日のうちにダブルやトリプルで予定が入っている日もある。例えば24日はテレビ出演の後、中央公論のインタビュー、25日は千葉の新日本スポーツ連盟の講座、28日は打ち合わせの後、構想日本JIフォーラムで茂木健一郎氏と対談。9月に入ってからも、前半で空いている日は2日ほどしかない。したがって、私自身の体のことや依頼稿が全然書けていないこともあり、新しい企画はよほどの例外を除いて当分受けないようにしている。しかし、そのよほどの例外が、先日来たみづほ総合研究所発行の情報誌『Fole』の対談企画だった。これは、私への対談の依頼書が久しく見たことがないほど見事に書かれていて、これほどの文を書く方がまとめられるなら原稿もスムーズに出来ると思えたし、対談相手の方も作家の半藤一利氏という少なからずお話ししてみたい方だったので受けることにしたのだが、こんな事は例外中の例外である。
上記のような事情ですので、当分の間、新しい依頼はまずお受け出来ないと思います。私への依頼を新たに考えられている方はどうか御了承下さい。
以上1日分/掲載日 平成18年8月22日(火)
別に災害に見舞われた訳でもないのだが、この夏にどんな事があったかを思い出そうとしても、何だか記憶の場面場面が無秩序に切り取られたように浮かんできて取り止めがない。
そんななか、数ヶ月前からこの日を楽しみにしていたというアメリカ在住のMD女史がフェンシングの道具を携えて来館。私は、現在手首を右も左も傷めているので、とても手先を使うフェンシングで満足して頂ける動きが出来るとは思わなかったが、やってみると案に相違して、手を使わないことで相手の剣をフェンシングの常識では考えられないほど激しく(MD女史によれば)ハネ飛ばすことが出来、それなりの成果はあったようだ。
MD女史は1年前も来館されていて、その時もいくつかフェンシング向きの体の使いかたを工夫して実演したのだが、今回、剣先を下段に落とした、いわば"無構"の状態から、相手の構えを相手が抑えきれないほどの強さで崩すことは、確かに昨年は思いつかなかった。これはフェンシングに平蜘蛛返しの足腰の動きを応用したからだが、平蜘蛛返しそのものの単純な応用なら昨年思いついても良さそうだが、昨年はこの展開を思いつかなかったという事は、単に平蜘蛛返しをすればいいという事ではないのかもしれない。(その辺りは、最近「フト何気なく」という動きを大事にしているから、どうも私自身の体の使い方の状態がよくは分からない) ただ、手首のトラブルのため、なるべく手を使わないようにしているという事は、存外役立っているのかもしれない。
この手首の不具合だが、23日、久しぶりに身体教育研究所の野口裕之先生に観て頂いて、昨年初夏に休業して身体のオーバーホールをした影響である事があらためて確認出来たので、とにかく焦らず経過を待つしかないようだ。それにしても身体というのは立体的に入り組んだ超難解なクロスワードパズルのようなもののようだ。1月からずっと続いている右上腕の痛みは、普通の医学的見解では恐らく夢にも考えないであろう腹部の一点と密接に繋がっているようで、7月にその一点に野口先生の意識が集まると、私の右上腕部はかつて一度も感じたことがないほど、腕がもげそうに痛んで、今更のように野口先生の体の読みの深さに感銘を受けた。そして、その時「この痛みは手の末端に下がっていくでしょう」との予測を伺ったが、その予測通り、右手首が別に何をしたという記憶もないのに8月1日から痛み始め、それが左手首にまで及んだ。左が痛んだ事については「ああ、そういうものなんですよ。僕が足首を折った時も、反対側が痛んで、右行き左行きして、そのうち『あれ、どっちだったかなあ』というほど自然と忘れたようになおっているものなんです。これを無理に何かで治すというか、痛みを取っちゃうと、脳にいったりとか面倒なことになるんですよ。だから、体はうまく場所を考えて痛みを出してるんです。甲野さんの体はよく考えていい場所選んでますよ」と解説して下さった。「そんな科学的に説明のつかない事は信用出来ない」という人もいるだろうが、野口先生の読みに対する私の信頼感は何と言ったらいいのだろうか、もしその読みが誤っていて私の体が取り返しのつかない事になったとしても、「へぇーっ、あの野口先生でも読み違うことがあるなんて、私の体も珍しい体なんだなあ」と妙に感心して、「そうか、私がこの世を卒業する時が来たんだなぁ」と思うほどの深さなのである。つまり、単に読みが正確とか深いというよりも、およそ人間というものを論じて(単に論ずるだけではなく体感しつつ)あれだけ見事な生命を基にした独自の人間観、文明論を展開できるという、その事に対する信頼と尊敬があるからだと思う。ただ、「科学的に…」という世界とは、およそ正反対の方であり(御自身それをわざと演じていらっしゃる観もあるが)、その頑なさと毒舌は人によっては湯当りならぬ猛烈な人当たりで、体がよくなるどころか大変な事になってしまうかもしれない。とにかく野口先生の世界に触れられる事は、広く多くの方々にお勧め出来る事ではなさそうだ。
科学的といえば、昨日28日は脳科学者の茂木健一郎氏と初めての公開トークを赤坂の日本財団ビルで行なう。茂木氏とは、養老先生の御紹介で7年ほど前に初めてお会いし、その後、数回いろいろなところでお会いしてはいるが、あらたまった席で仕事としてお話しするのは初めてである。ずいぶんと私に気を遣って下さって、私としては恐縮してしまったが、わざわざ時間をつくって聴きに来て下さった方々に何かが残せたら幸いである。
この公開トークは畏友の名越康文氏御夫妻はじめ、私がよく知っている方々が何人も来て下さり、なかには遠く関西からこのトークショーのためだけに来られて、今朝早く帰られた方もあったようだ。とにかく会場は当初の予定定員の倍ほどの人々が来て下さったようで、その後の懇親会の会場では、私は始めから終わりまで名刺を持って挨拶に来て下さった方々との話で時が過ぎた。
とにかく私としては、現在のような神棚に上げられた科学ではなく、等身大の方法論のひとつとして、科学が健全な姿となる日が来ることを心から願っている。
以上1日分/掲載日 平成18年8月30日(水)
ふと気づけば8月が終ろうとしている。この頃は、日が落ちると、樹上から青松虫の声に家の周囲が満たされる。この声は私が二十代の半ばすぎまで耳にする事がなかった外来種の秋の虫の声だが、この時期になると必ず思い出す一文がある。
それは、かの聖中心道肥田式強健術を創始した肥田春充翁の著書の一つの『根本的健脳法』(昭和2年発行)の序を肥田翁自身が「大正十五年九月十五日夜著者誌」と結んだ後に、小さな活字で追伸のような形で2行と少しにわたって書いてある文章である。
夜に入って驟雨一過、焼くが如き残暑忽ち去って秋涼始めて山野を領す。『檐(のき)は點滴を収めて月明を擧ぐ。獨起幽懐夜更ぞ。残樽を温めんと欲すれば妻既に眠る。雨痕満地凡て蟲聲』
この文を思い出す度に、中国の漢字を取り入れた日本という国に生まれ育った事の、何とも言えない有難さとなつかしさ、それと同時に何故か哀しさを感ぜずにはいられない。そして、この文を思い出すと、ただ生きているという事をそのまま素直に味わえるような生活がたまらなく恋しくなる。
山積みする用件も(今日、1時半から2時の間に新しい依頼が3件も入った。さすがにこのようなことは記憶にない)、色々社会に向けて発信している主張もすべて忘れて、晩夏という私にとって一番心に染み入ってくる季節を、広葉樹に囲まれた所で静かに味わいながら、日暮れから深夜まで、ただただ時を過ごしてみたい。
以上1日分/掲載日 平成18年8月31日(木)