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いまのような時代のなかで、何が心躍るかといって、初対面で話の通る人に出会うということ以上に心躍るようなことは滅多にない。
今日、久しぶりにその滅多にない出会いに恵まれた。その人物とは、ここ1ヶ月ほどの間、私の武術の動きに少なからぬ影響を与え続けている十津川の異端の剣客、中井亀治郎の消息を「枝渡り亀治郎」のタイトルで書かれた作家、堂本昭彦先生である。
その出会いのキッカケは「風が吹けば桶屋が儲かる」式の、実に込み入った話なのだが、紙数を費やすのでその事は今は省くが、堂本先生の作品は以前から拝見し、近代の剣道家のエピソードに実に通じた確かな書き手という印象はあったものの、「是非お会いしたい」「いや、お会いしなければ」とまで思いつめるような事はなかった。それが亀治郎という剣客のエピソードに触れ、その事実のほどを是非とも詳しく知りたいという思いが抑えがたくなって、かねて知り合いの編集者N氏に連絡して、堂本先生との面会の場を設定してもらったのである。
対談会場のある最寄り駅である荻窪駅をうっかり乗り過ごし、1つ先の西荻窪の駅に降りた私は、上りに乗り換えようとホームを歩いていた。すると、ホームのベンチから立ち上がって私の方に近寄って来る人物が目に入った。「私のことを何かで知って話しかけて来る人かな」と思ったところ、思いがけずその人物は「今日これからお目にかかる事になっている堂本です」と名乗られ、びっくりしてしまった。
思いがけない人に思いがけない所で会う、という事は稀にあるものだが、対談予定の約束の場所に行くのに、行き方を間違って、そこでまさにこれから対談する人に会うなどという事は、まったく初めてだし、おそらく今後もない事だと思う。
ただ、お会いした一瞬で「ああ、この人は話が通る人だな」と確信した。いままで「ああ、話しの通りそうな人だな」と思って、その後そうでもなかったと思う事はままあったが、初対面で「話しが通る」と確信して、そうではなかった例は記憶にない。「これは楽しみだ」と思ったが、その予想通り、借りた旅館の座敷で3時間、場所を移して食事をしながら約4時間、まったく話が尽きることはなかった。堂本先生にも「久しぶりに興奮しました」とい仰って頂き、また中井亀治郎の崩壊地の樽転がし等が実話であることをあらためて確認できた事など、私にとっても得るところは多大だった。
それにしても人の縁とは不思議なものだ。ただ、今回の出会いは、私の曽祖父で明治30年前後、大日本武徳会の創設に深く関わった鳥海弘毅の縁をなぜかしきりに感じさせられる。 堂本先生と今後お付き合いさせて頂くなかで、なにかその謎が解けてくるかもしれない。
それにしても中井亀治郎を知った事の意味は大きい。なぜか、このところ毎日のように気づきがあるのだから。
以上1日分/掲載日 平成19年7月5日(木)
もう、かなり以前から雑誌などの取材を受けた時に、「誤解や思い違いがあったりするでしょうから、原稿は1度ラフな段階で見せて下さい」と編集者やライターの人達に頼んでいるのだが、かつてその願いが聞き届けられた事は1度もない。
そのため、先月22日にあった雑誌の取材の時は、かつてない執拗さと念の入れようで、繰り返し繰り返しその事をお願いしたのだが、その願いも空しく私が望んだような「こうした話の流れにしたいと思います」といったような大ラフの素案や原稿が来ることもなく、4日夜、家に帰ってみると、行数もレイアウト用に揃えた段階で、案の定思い違いがあり、しかも6日午後までに見て下さいという原稿が来ていた。ライター側は「いえ、大幅に赤入れして頂いて構わないです」と言うが、それなら期限が2日(実質1日)というのはあまりにも日がなさ過ぎる。
というのも、新潮社の『身体から革命を起こす』が、今度文庫になることになって、その原稿の赤入れを明日熊本に行く前までにしなければならない事と、他にも何件かの書類書きや手紙その他、急ぎの用件があるからである。結局、昨日5日の夜中3時間ほど使って赤入れしたが、もうこんな事はいい加減無くしてもらいたい。今後はラフ段階で貰えなかったら、その企画はその段階で没という事にさせてもらおうかとさえ思っている。
それから、このような事は本来出版社やエディタースクールで当然教えるべき事だと思うが、原稿の赤入れを依頼する場合、
まず第一に〆切期日を書くこと(これは基本中の基本の筈だが、しばしば抜けている場合がある)
第二に、依頼から原稿までの間、日数がかなり経っている場合は、私がどこかに出かけていないかどうかを事前に確認して計画を立てて頂きたい。関西や東北に出かけている間に急ぎの校正を送られても困ってしまうが、いままでに何度もそのような事があった。
第三に、ラフ原稿ではない場合、行数、字数をどの程度増減できるのかを明記して頂きたい。(この事を書いていない場合が大変多く、念のため問い合わせると「行数を動かさないで頂きたい」とか、「5行くらいなら大丈夫です」など、実にさまざまだからである)
それから、ファックスは基本的に使わないで頂きたい。写真など全く分からない場合が多いし、インクリボンのプリンターなので細かい字も読みづらい。
その他、細かく言い出したらまだまだあるが、せめていま書いた事と、とにかく原稿はラフな段階、それもメモ書きのような段階のものでいいので、ごくごく初期の原稿素案をまず送って頂きたい。
以上の事を守って頂けない方からの御依頼はお断りしたいと思います。
もっとも、週明けに4年越しに宝島社から依頼されている本の原稿の第一弾が、そして、その後すぐにバジリコの茂木健一郎氏との対談本の原稿が届く予定なので、当分の間はとても新しい企画のインタビュー等を受ける余裕はありませんので御了承下さい。
このように書きものの悩みは尽きないが、いま、新潮社の『身体から革命を起こす』の文庫版の校正をしていると、この本の共著者であり、全編を上手くまとめてもらった田中聡氏の文章力にあらためて感嘆の思いがする。
この本の技の解説などは、今の私にとってはすでに懐かしいものが少なくないが、私の考えを多くの方々に知っていただくという意味では、現在も私が第一に読んで頂きたいと思う本である。
8月末に刊行予定の、この文庫本では田中氏との対談による新たな近況報告も入るので、私に関心を持たれた方には、まず手にとって頂きたい本として推薦しておきたい。
さて、明日は熊本の「Doがくもん」の講座。九州は大雨のようだが、過去30年間、講演会や講習会などのイベントに行くのに、天候その他のトラブルで会場への足にストップをかけられた事が一度もない私自身の運を頼りに飛行機で行くつもりである。
講座は当日受付も可能との事ですので、御関心のある方はお出かけ下さい。
以上1日分/掲載日 平成19年7月6日(金)
7日の熊本行きは、一時は熊本の天候次第で飛行機が福岡空港に降りるかもしれないとの事だったが、幸い10分程度の遅れで無事に熊本空港へ到着。しかし、そのための税金のように、同行の陽紀が竹刀や木刀一式を忘れたりとか、私の刀を預けた飛行機の刀剣箱の鍵が開かなくて時間をとったりなどという事があったが、こういう時はむしろその程度のトラブルはあった方がホッとする。
それにしても刀剣箱の鍵が開かずにガチャガチャいろいろな鍵を合わせている係員の手際の悪さは、ここにも状況把握能力が落ちた現代日本人を見る思いだった。結局、見かねた私が開けたのだが、どう見ても鍵穴とは違うタイプの鍵まで試している判断力のなさを見ていると、もし何か空港で起きた時、「係員の誘導に従って下さい」と言われても不安が残る。
鍵が開かなかった原因は、鍵穴が少し潰れていて、合う筈の鍵が入りにくかった為だが、その鍵穴の潰れに係員は私が指摘するまで気づかないのだから困ったものだ。
熊本では今回も世話人の加納氏には最もお世話になった。その他、藤川氏、熊本日日新聞の方々、そして7日夜、私と陽紀を招いて下さった渡辺京二先生、石牟礼道子先生と人間学研究会のスタッフの方々に御礼を申し上げたい。
しかし、9日の午前11時頃、熊本の霊巌洞(武蔵が籠ったことで有名な洞)にいて、夕方東京であった講習会に出るという強行軍はさすがにこたえた。ただ、飛行機では、私が飛行機に乗りたくなかった一番の理由であった、酷い耳痛がなくなり、これは流石に野口裕之先生のお力と感嘆した。この事については、これから、朝日カルチャーセンターの講座があって、出掛けるため、いまは時間もないので、またあらためて書く事にしたい。
以上1日分/掲載日 平成19年7月11日(水)
7日から熊本へ、9日に東京に帰って、そのまま綾瀬の講習会。翌日は朝日カルチャーセンターで新宿へ。今日11日は都民銀行関係の講演会と連日出かけ、その間に私が赤入れする原稿が数十枚届く。そして、13日は、池袋コミュニティカレッジの講座(まだ受講者受け付け中なのでご関心のある方はどうぞ)、14日も午後から出かけるので、当分の間とても新しい依頼に応じられる状態ではないが、いままでの行きがかり上、やらなければならない諸々の用件も入ってくるので本当に時間がない。
最近あらためて、スポーツなどで1日何時間も練習する事を偉いことのように褒めるという世間の常識が、ずいぶんとおかしな事に感じられてならない。私など稽古をして、いい環境を与えてもらったら1日中でも稽古をしているだろうから。なぜなら、自分の動きを新しく工夫検討していくという事は、それを止めることが難しいほど尽きぬ興味があるからである。
つまり、テレビゲームに夢中になっている子供が、別に褒められたりすることがないのと同じ事である。江戸期は和算などの数学は、地域によっては農民が手を出してはならない道楽の一つとみられていた。つまり、ハマると何もかも放り出して夢中になってしまうからだろう。
最近、講座でも話すが、ライト兄弟が飛行機の研究に打ち込んでいた時、周囲は呆れて見てはいても褒める人など殆どいなかったと思う。また絵画などの芸術作品は、作者の努力とその作品の価値は全く無関係である。およそ芸術作品とは、その人の美意識やセンスがいかにそこに現れているかが唯一無二の評価の対象である。身体を通して行うものも、時に「芸術」と評されることを思えば、繰り返し時間をかけた練習や努力が、その評価の対象になるというのはおかしな事である。
動きの質的検討を本気で考えられている方は、まず、そういったスポーツ・トレーニング界の練習熱心は偉いことだ、というおかしな常識から検討し直して頂きたいと思う。だからといって、もちろん練習をサボるのがいい事だという訳ではない。『無門関』の「平常是道」ではないが、最も大切なことは、ごく当たり前の事であるから、あえて求めるのはおかしなことだが、求めないのも不自然なのである。
練習をノルマをかけて行なうのではなく、結果として何時間もやってしまったという事になるような興味の持ち方を工夫すべきだろう。
武術でもスポーツでも、最も重要なことはセンスだと思う。そのセンスをどうやって磨くかという事で私が少なからず影響を受けている木彫彩漆工芸家の渡部誠一翁の個展『漆藝の風狂』IIが8月3日から7日まで、一ツ橋大学近くの「ギャラリーわとわ」(国立市中2−17−2 Tel 042-580-1091)で開かれるので、御関心のある方はお出かけ頂きたい。整体協会身体教育研究所の野口裕之先生が絶賛されているその作品群は、向き合った人に美術の何たるかを考えさせずにはおかない力がある。
以上1日分/掲載日 平成19年7月12日(木)
朝日新聞社主宰の出張授業「オーサービジッド」の応募の色紙が届く。毎年の事だが、それぞれ知恵を絞って様々な工夫を凝らしてあり、選ぶのに苦労する。なかには私の名前を色紙一面にビッシリと書き連ねた色紙まである。一字を3ミリ角で埋めてあるから、約1800ほど甲野善紀と書いてあることになるだろう。
こうして招いて頂くのは有り難くもあるが、最終的に選ぶのは2校だけなので、どれを選ぶかは本当に苦労する。(もっとも選ぶのは私だけではないが)これほど情熱を傾けながら選にもれ、がっかりする生徒諸君が出ることが、ひどく申し訳ない。もし可能なら選にもれた所へも、何か近くを通る事があったら寄ってみようかとさえ思う。
しかし、いま『風の旅人』の連載原稿、バジリコの茂木健一郎氏との対談原稿1冊分の添削が差し迫った状況で来ている上に若干の校正原稿があり、相変わらず手足が8本あっても諸々の用件がこなせない状況が続いている。
新たな取材その他の用件は申し訳ありませんが、まだ当分の間は無理な状況です。
以上1日分/掲載日 平成19年7月17日(火)
昨日も述べたように、このところ特に多くの用件に追われ忙しくしているが、ここ数日間、常に私の意識と無意識の中に宿って、私に「何か」を考えさせ続けているのは、14日に身体教育研究所の野口裕之先生から伺ったお話。
野口先生から直接個人的にお話を伺うようになってから、すでに28年が経過しようとしているが、その発想の卓抜さと自在さは、全く梯子をいくつかけても届かないほどである。特に14日、名越康文氏とS編集長と共に聞かせて頂いた野口裕之先生の身体の思想の奥行きは、現在誰も共に語ることが出来ないと思われる深さである。恐らくは、名越氏が、野口先生が語られる思想の聞き手としては抜群のセンスだとは思うが、その名越氏ですら、ある程度でも理解出来るだけに頭がクラクラするということが、出会い以来ずっと10年以上続いているという。
野口先生のキツさの理由は恐らく、その置かれている環境から来るものもあるのだろう。あの立場は唯一であって他にあるとは思えない。というのも、その発想は前衛芸術家のような部分と伝統芸能の部分を併せ持ち、しかも芸術家なら自分のみの責任で、どれほど好きなこともやり放題だが、他人の体を観るという重い責任も同時に背負って、しかも父、野口晴哉先生を、この上なく尊敬しながら、その父の遺した心身一元論とはまるで別の心身二元論ともいえる世界を拓いてしまっているのであるから。
それは、整体協会に属しているとはいえ、いわゆる「野口整体」として世に知られつつある整体協会の常識では、とてもはかる事が出来ない、人間が動物と違ってなぜ文化を生み出したか、といった本源にまで迫る思想だからである。
以前、私は何かの本で「モーツァルトの才能に嫉妬したサリエリが、『神は私に天才と凡才を見分ける能力だけをお与えになった』と言って嘆くところがありますが、私は、こと野口裕之先生に対しては、この人物が桁外れな才能の持主だという事が分かるだけで、もう十分だと思っています」というような事を述べたことがあったと思うが、まさに、このことを14日の夜、野口先生のお話を伺って、あらためて思い出していた。ただ、以前は遥かに先を行かれているとはいえ、その後姿を常に捉えている感じはあったのだが、今回は山の高度が上がってきて、しばしば霧や霞で見失いがちになっている気がし始めてきた。
こうなってみると、この野口裕之先生の思想を紹介するという事が、いかに困難なことか、あらためて思い知る。この凄まじい才能が世に知られずに埋もれているのは、あまりにも惜しいとはいえ、ある程度にしても、それが理解出来るところまで紹介出来る書き手はとてもいないと思う。
まあ、名越氏が詩のような形で僅かでも表現出来るかもしれないが、よく分かるように、という事はどんな人が現れようと不可能であろう。「知る者は言わず、言う者は知らず」と老子にあるが、野口先生は野口先生なりに、自分の思想を言葉にする大切さを実感されているようで、気やすく「ああ、それはとても言葉になりません」というような表現は嫌われているようだから、よけい始末に負えない。現代に、このような人が存在すること自体、驚き以外の何ものでもないが、見方によっては、その凄絶な才能が開花したのは、現代という様々なところに矛盾と行き詰まりが顕れている時代だからこそなのかもしれない。
生きる意欲をなくさせられるような「壊れていく日本」をよく感じさせられる昨今、野口先生のお話しを伺っていると、「人間が生きている」という、ただそれだけの事の裏に、どれほど息を呑むような驚異があるのかという事を、あらためて考えさせられ、もう少し生きてみようかという気にさせられる。
野口先生との、その出会いの不思議さをあらためて14日の夜(というより15日の夜明け前)は噛みしめた。
「『不眠症をよくしましょう』とか『腰痛が楽になりますよ』みたいな整体をやっていたら気楽でいいんでしょうけどね」と言って笑われたお顔には、そういう整体を蔑むような表情ではない、何か遠くなつかしいものを思い出すような、なんともいえない淋しさがあった。
数十年、追求に追求を重ね、「僕は野口晴哉のやったことを受け継いでいるのではない。野口晴哉のやろうとしていた事をやっているだけ」と以前口にされていたが、14日の夜は「親父が今の僕を見たら何と言うでしょうかね。とんでもない事をしたと叱られるかもしれませんね」と苦笑いをされながら洩らされていた。しかし、いま野口裕之先生が向き合われている世界は、野口裕之先生が追求の果てに見えてきた世界なのであり、それ以外の道はなかったのだろうから、仮に先代の野口晴哉先生があの世から文句を言ってこられようとも、むしろ話相手を得られた嬉しさで果てしなく問答を重ねられることだろう。
その後、名越氏とも電話で話したが、我々では話し相手として不足ではあるだろうが、まあそれでも少しは我々に話すことで、野口先生の気が紛れるのであれば伺う意味もあるかと思う。「そういう意味でも、僕は臨床はやめられませんね」とは、最近テレビ出演や雑誌などの取材が多くなってカウンセリングになかなか時間がとれなくなった名越氏が、その電話の終わりにしみじみと洩らした言葉だった。
この野口裕之先生の凄まじい孤独をなぐさめ、人間追求の力となっているもののひとつは、先日ここで紹介した渡部誠一翁の作品群であろう。御関心のある方は、狭い会場であるが、8月3日から7日まで「ギャラリーわとわ」で開かれる渡部翁の個展『漆藝の風狂U 渡部誠一近景』にご来場頂きたい。
以上1日分/掲載日 平成19年7月18日(水)
昭和53年(1978年)10月に松聲館道場を開いてから、「この先、どうやって稽古を続けていったらいいのだろうか?」と呆然とした思いに包まれたことは、いままで何度もある。特によく記憶しているのは、1992年の秋、"井桁崩しの原理"を打ち立てつつあった時。そして、近くは2005年、韓氏意拳の韓競辰先生に触れさせて頂いた頃。
その都度大きく私の中で切り替わってきた稽古法の流れの変化を、今また感じつつある。
理由はもちろん14日に身体教育研究所の野口裕之先生のお話を伺って、どうにもこうにも、いままでの感覚で稽古が続けられなくなったからである。
15日、16日、17日、そして18日も、ずっと闇に閉ざされたような日々を送っていたが、18日の夜、たまたま来館したM氏に、片付けをしながら話をしているうちに、何とか私自身の感覚(感覚というより美意識、価値観といった方が、より正確かもしれない)が、納得する方向で私自身の稽古の仕方を見直してゆこうという思いが湧いてきて、やっと一筋の光が見えてきた気がする。
それに従い、いままでも私は、私自身では私のやっている事を、ただ「武術」と言い、「古武術」とは呼んできませんでしたが、周囲がそう呼ぶことに対しては「仕方ない」と妥協していました。しかし、これからは私の感覚で編纂し直すものを古武術と呼ぶのは、やはり不自然に思いますので、せめて「古武術から生まれた」というくらいにして頂くようにしたいと思います。
なにとぞ各方面の方々の御理解をお願い致します。
以上1日分/掲載日 平成19年7月19日(木)
やるべきこと、やらなければならないことは山積みしているのだが、とにかく2日ほど前から耳の中にブヨが入って、常に羽音をたて続けているように、「何か」が私を急き立てていて、やらなければならない諸々の用件がほとんど手につかない。これは、18日に今後の稽古について一筋の光のようなものが見えたことが、一層私を駆り立てているように思える。
19日は「ナンだ?!」でお世話になった南原清隆氏が、スタッフ同伴で半分はプライベートの用件で来館。たまたまロシアから帰ったばかりの女優のTさんも、また年に何度も休みがとれないようなS氏も久しぶりで御挨拶したいという事が重なって来館。さらに朝日新聞オーサービジッドの件で担当になった朝日新聞のN氏と、この仕事を請け負っているY女史も来館。出張授業の最終候補4校の色紙を選んで渡す。
そして、人が来ればいろいろと話をして、どこか今の自分の出口を探そうとしているから、ますます時間がなくなる。ひとつは南原氏が想像以上に話の通りが良かったせいもある。ついつい『大地の母』の話までしてしまった。
このように、今の自分の内側の状況を最優先にしている、いや、せざるを得ない状況。とはいっても差し迫った原稿や校正もあり、やらない訳にはいかない。このどうにもならなさのなか、何人もの方々から返事を待たれている用件があるが、それらに全く手が回らず申し訳ないことになっている。「もう本当に申し訳ない」としか言えないが、なにとぞ御容赦いただきたい。どうしてもお急ぎの方は直接お電話を下さい。ただ、22日から24日頃まで東北に行っています。
このような状況ですから、とてもテレビや雑誌などからの御依頼は、現在お受け出来ません。
以上1日分/掲載日 平成19年7月21日(土)
22日は仙台で稽古会。熱心な人達の質問を受けて稽古していると、今までとどこも変わっていないような気がしてくるが、何かが違ってきている事は確か…。稽古後の食事会の後、峠田の炭焼き職人佐藤光夫氏宅へ。
今回、私を仙台から峠田まで車に乗せて下さったのは、かつて"ヒットマン"の異名をとった空手家の長田賢一師。現在仙台で空手を教えながら環境問題にも心を砕き、水源地の水を守る「水守人の会」など佐藤氏の活動にも積極的に参加され、子供達にも環境問題の大切さを説き続けられているという。
仙台からの車中と佐藤宅に着いてからもいろいろと話したが、その環境や教育に対する知識と熱意は本格的で、非常に感銘を受けたと同時につくづくと時代の変化を感じた。
今回は佐藤家の周囲を歩き、染まりそうな真夏の緑の中に身を置いていると、フト「この夏の緑をあと何回見ることが出来るだろうか」という感慨がこみ上げてきた。まだ若い人達のことを「なお春秋に富む」などというが、四季の中で真夏の陽の下の緑ほど生きている事を私に実感させる季節はない。そして、それは真っ盛りであればあるほどに儚さも感じさせるのである。それが今年はひとしお身に沁みるというのは、私も人生の晩年に入ったのだという事だろう。
その晩年をいかに過ごすかは、技の気づきの質によるのだろう。あらためて技の原理そのものを見つめ直して行きたいと思う。
以上1日分/掲載日 平成19年7月25日(水)
東北から帰ってきて、彼の地で何かもらってきたのか、東北行きまで相当に強行軍のスケジュールで来たせいか、夏風邪気味で喉が腫れ、26日は外せぬ約束があったので出かけたが、27日はおとなしく寝たり起きたり。まあ、28日はいろいろ準備もあって、起きてある程度の事をしていたが、29日は朝早く出て、神戸女学院で鼎談があるので今夜は早寝する事にしたい。
以上1日分/掲載日 平成19年7月29日(日)