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7月29日は神戸女学院大学で公開鼎談。鼎談は内田樹神戸女学院大学教授と舞踏家の島崎徹同大学音楽部教授、それと同大学の客員教授になった私の3人。鼎談は想像以上に好評だったようだ。
以後7月30日から8月1日まで、神戸女学院で初めて学生対象の集中講義。女学院の特別客員教授に今年4月に就任してから1度、就任挨拶の記念講義は6月のはじめに行なったが、受けた学生が単位を取得するという授業は今回が初めて。
29日に家を出る前々日は夏風邪で寝たり起きたりの状態だったので、果たして最後まで体が持つだろうか?という不安もあったが、日を追って体調も良くなり、なんとか乗り切れた。
それにしても5日ほど関西にいたのだが、過ぎてみれば早かったが、ずいぶん長い間家を留守にしていた気がする。不思議なものだ。今回、女学院の他、K高校の剣道や合気道部員といった若い人達に多く接する機会があり、まだ探究心のある若い人達を多く見ることができたのは、壊れかけている日本を見せつけられる事が多い昨今の私にとっては救いだった。
体調は何とか回復してはいるが、まだ鼻をしょっちゅうかんでいるし、ホンのちょっとした冷房の風でたちまち喉がおかしくなりそうなので、まだまだ油断がならない。地震で柏崎の原発が使えず、夏の電力が不足気味だというのに、電車の冷房などもっと弱く出来ないのだろうか。
もともと夏が好きな私が、夏によく体調を崩すのは、暑くあるべき夏に過剰な冷房が至る所にあるからである。冷房の度合を弱めれば、ずいぶん電力の節約になる上、汗が出て体の中の毒も出るだろう。電力不足という状況下各所で是非とも冷房をもっと抑えて頂きたい。
以上1日分/掲載日 平成19年8月4日(土)
3日から7日まで国立で開かれていた渡部誠一翁の個展「漆藝の風狂」は、会場が近かった事もあって二度伺ったが、天然記念物だったという黒松の巨木から彫り、漆を施した菓子皿「独鬼」の迫力は凄かった。これを置くにふさわしい場を持っていたら無理をしてでも欲しいと思った。
6日は佐渡の和太鼓集団鼓童からの お招きで、歌舞伎座にアマテラスを観に行く。これは坂東玉三郎氏の演出で、玉三郎氏も出演という作品。噂に高い坂東玉三郎の動きを初めてナマで観たが、噂通り見事なものだった。ただ、その見事さとバランスをとるかのように、玉三郎氏が心中に巨大な虚しさを抱えられている様子がひしひしと伝わってくるようで「見事だなあ」と観ていながら、「痛々しくて観ていられないなあ」という思いが共存しているという奇妙な心理状況を体験した。
来月は佐渡に鼓童からの依頼で渡る。それまでに私の動きはどうなっているのだろうか。
5日の千代田では「斬り落し」や「浪之下」などを行いながら、「自分でやっている」という感じがなくて「一番近くで見ている目撃者」という感じがしてきて、そんなふうに解説しながら実演したのだが、自分で言いながら「これではますます混乱する人が出るだろうな」と思ったが、とにかく、このところずっと気になっている野口先生の精神と身体の二元論が大きな影響を与えているのだろう。
8日は、その野口裕之先生の個別稽古を受けに身体教育研究所へ行く。夏風邪は何とか抜けたようだが、車中の冷房のキツいのには参る。この暑いのに冬用の羽織を持って歩かねばならないと思ったほどだ。最近は健康のためにと至るところ禁煙なのだから、弱冷房車も一列車に二、三輛は入れて欲しい。
それにしても野口先生の心身二元論は、とうてい常識的思考では付いていけない。理解しようとして過去の知識を動員してはいけないと思いつつ、「理解する」という事は、どうしてもその過去の蓄積に頼るから、頭がパニックを起こす。
しかし、一方ではなんとも抗しがたいと解放感があることも事実。
もっともその解放感は精神が感じているのか身体が感じているのかは不明だが…。
それにしても各方面から毎日のように依頼が来るのには参る。
以上1日分/掲載日 平成19年8月11日(土)
フト気づくと、前回の随感録を書いてから、もう10日ほども経っている。この間、手の放せないこともいろいろあったのは確かだが、随感録が書けなかった一番の理由は、私の技を支える術理が大きく変動して、自分で何をどう書いたらいいのか混乱していた事が、多分最も大きな理由だったと思う。
その混乱の一番の原因は、身体教育研究所の野口裕之先生の、他に例をみない心身二元論。「いや要するに五臓六腑みな精神なんですよ」という言葉には唖然としてしまうが、同時に素晴らしい解放感を感じる。しかし、こういう事に結論を持っていかざるを得ない人の孤独感はいかばかりかと思う。そう仄かに察するだけで、その孤独感を共有するには私はあまりに力不足。ただ、この心身二元論に対しては、すでに述べたように、いままで聞いた公理公式、ことわざの類のなかでは断然他を圧倒する力を感じる。とにかく決定的な何かをもらったことは確か。
そのお蔭で言葉ではうまく言えないが、技そのものの威力というか利きが3日ほど前から明らかにあがった。その原理は、そのまま言えば「動きをやめる」という何とも奇妙キテレツに思われそうなものだが、まあ、別の言い方をすれば無住心剣術の三代目、真里谷円四郎が『中集』のなかで説いていた「悪しき路を行くに、足のすべりた時、そのまま両手をひろげて足をふみとむるものなり…」などの無住心剣術で説くところの応用といえば応用といえる。
キッカケは17日の夜、三十数年来の武友である伊藤氏と久しぶりに稽古をした時に、最近気づいた打剣技術を解説していたことから展開した。ただ、そうした気づきの背景は先月からずっと常に頭のなかを組み換えさせられている野口先生の心身二元論。「心が体を動かす」という言葉なら誰も不思議な感じを持たないだろうが、野口裕之説では「心が心を動かす」ことになる。まったくそのことが理解できない混乱と、理解できないのに感じる不思議な解放感のなかから、今回新たな展開がみえてきたが、これから講座で何を話し、依頼原稿に何を書くかは本当に分からない。
したがって、いま現に抱えているスタジオ・ジブリの機関誌『熱風』からの執筆依頼の原稿は、この混乱をそのまま書いてみようと思っている。
そして今週は22日の綾瀬の稽古会、23日の千葉の朝日カルチャーセンター、25日池袋コミュニティカレッジの公開トークといろいろあるが、どうなるやら…。
22日、23日共にすでに満席で〆切終了との事だが、25日の埼玉工業大学教授でヒューマンロボット学科の学科長を務められている川副嘉彦先生とのトークは席に余裕があるようなので、このテーマや、現在の私の状態に御関心のある方は、25日の池袋コミュニティカレッジへどうぞ。
こうなったら私も、これからの講座などで私が何を言い何に気づくか楽しみにしているしかないようだ。
以上1日分/掲載日 平成19年8月20日(月)
フト気づくとツクツクホウシが鳴いている。この夏、アブラ蝉やミンミン蝉の鳴き声ばかりだっただけに、我に返るような思いだった。この夏は特に蝉が多かった。ひとつは私の家の周囲も巨大マンションなどが立ち並び、何年もかけて土中から羽化した蝉が止まる木が激減したので、我が家の木立ちに集中したからかもしれない。最盛期は恐らく数百匹の蝉が同時に木々に止まっていたと思う。その蝉も、アブラ蝉とミンミン蝉ばかりでヒグラシの声は2,3度聞いたぐらいだった。日が落ちれば、1週間ほど前からアオマツムシも鳴きはじめている。
都内ではクマゼミが増殖中との事だが、今年は珍しく1回も自宅周辺ではクマゼミの声は聞かなかった。(毎年1〜2回は聞くのだが)しかし、アオマツムシと同じように何年か後にはクマゼミの声を沢山聞くようになるのかもしれない。
技の方は日々というほど変わり続けている。打剣などで、ちょっとした指の動きがこんなにも肩や腕など他の部位に影響を与えていたのかという事を今更のように知り、自分の愚鈍さに呆れる思い…。
「やめればいいんだ」という気づきは、その後「やめる」ことで身体全体が解放されているらしいことが分かってきた。これが身体の解放なのか精神の解放なのか、はたまたその両方なのか今の私には何とも分からない。そのため、最近は私の技を受けた人から「これは暗示じゃないんですか」と言われたとしても、それを否定する気もしなくなった。
よく不可思議な現象に対して「それは暗示だ」とか「催眠術じゃないんですか」などと言う人がいるが、だいたい、暗示や催眠術とは何かが、よく分かっていないのである。したがって、武道関係者などのなかに、ある普通では出来ないことを行って「これは催眠術とは全く違う」などと断言する人がいるが、催眠術自体よく分かっていないのだから、そう、いい切るのもどうかと思う。
明治期の有名な剣客であった根岸信五郎(昭和の剣聖と呼ばれた中山博道の師に当たる人物)は、「剣道は行きつくところ催眠術ではないか」と言っていたくらいである。
ただ、誤解のないように言っておくが、私が現在の私の技を進展させるために、いわゆる催眠術などを研究しているわけではない。いまの私は、それが身体なのか精神なのか、よく分からないが、とにかく「やろう!」とすることを解体解放して、伸び伸びとすることで、より技が技となる世界の追求をしているのである。
不思議なもので、そういう気持ちになると、長年読みなれてきた無住心剣術関係の伝書や『願立剣術物語』が、また違った新鮮さにみえてくる。
年月が経っても色褪せないものを古典というそうだが、そうしてみると『無住心剣術書』、『前集』、『中集』、『願立剣術物語』などは優れた古典と言うことができるのだと思う。
以上1日分/掲載日 平成19年8月27日(月)