2002年5月6日(月)
昨年、岡山で知り合ったA氏の御好意で、5日の午後、A氏の御母堂が住まわれている埼玉県内の農家へ伺い庭前の畑の横をお借りして、梨の木に古畳を立てかけ、かねてからの念願であった遠間の打剣を心ゆくまで行なった。その目的の第一は私が日頃使っている八角先太ミサイル型の手裏剣1本1本の遠距離対応の程度を確かめるためである。
持っていった手裏剣は21本。全て遠間も利くようにと造った全距離対応型だが、微妙な重心位置の関係で、遠間で抑えを利かせると剣先が首落ちせずそのまま飛んでいってしまうものもあり、その剣がどういう釣り合いになっているかは1本1本を実際に飛ばしてみないと分からないのである。
何百回も打ってみた結果、九間(18m強)くらい飛んでも、まだ首落ちしないものが5本ある。
他の14本の内12本は、六間半から七間くらいで大体首落ちして畳に通った(勿論、それ以内の距離は全てに対応する)。
残りの2本は重心位置が前で六間もきつく、まあ五間半ぐらいが限度だった。
ただ七間以上になると、うねり系のピッチング的な動きでないと届かないので、現在の私の打法としての限界点は六間半から七間であり、もし剣を飛ばす発力が本質的にアップすれば、この剣で八間九間も通せるような気がした(うねり系では既に十間も通しているが、これはただ直打法で十間通ったというだけのことである)。
また打剣の際に剣を飛ばす発力は体術においても密接に関わっているように思った(同行のK先生とも手を交えてみて)。これからはその工夫が稽古の大きな焦点になってくるだろう。
それにしてもA氏や御母堂にはお世話になった。この場を借りてあらためて御礼を申し上げておきたい。
さて、相変わらずやることはいろいろあるが、最近つい開きたくなる本は、先日もここで紹介した『フェルマーの最終定理』(新潮社)。実に多くの技のヒントと心揺さぶられる感動の物語がそこここにある。2、3日前も、大阪の精神科医、名越氏との電話で思わず何ページか朗読して感激された。こういう種類の本に出会えるのはそうそうないことだ。
この本から何か新しい出会いや突破口が見つかるような気がするのはありがたいことである。
以上1日分/掲載日 平成14年5月7日(水)
2002年5月8日(水)
中国武術の站椿に相当するようなものが日本の武術にあっただろうかと、ここ最近ずっと考えていたこともあり、又、ある人から坐ってみて欲しいとの要望を受けていたこともあって、6日7日と10数年ぶりに結跏趺坐を組み、坐禅の形をとってみた。すると驚いたことに、10数年前までは見様見真似で組んだだけだったものが、今組むと微妙な身体の姿勢によって身体の芯への感じがまるで違ってくることがハッキリ自覚できるではないか。
かつて肥田式強健術の創始者肥田春充翁は、従来の坐禅の坐法には2つの大きな欠点があり、それは柔らかい坐趺を使用する事と手の組み方である、と発表しているが、今の私にはそこまでの実感はないにせよ、結跏趺坐と半跏趺坐それに正座とやってみて、全く体の芯の感覚が違うこと、それから手の位置、指の組み合わせ方、半眼の開き方などによっても大いに精神に与える影響が違うことを実感して驚いた。
昨夜など、結跏趺坐に組み、その精神の統一感を探りつつ味わっていると、何の努力も無理もなく瞬く間に30分ほどが経ち、このかつてはまるで想像もつかなかった事態にただ驚いた。
そしてその後打剣を試みたところ、何か体内に干し柿をつくる風景のように、何段もの葡萄くらいの粒々が体中にぶら下がっていることが感じられ、これを一斉にガクッと落とすというか律動させることが質の違う動きにつながっている実感があった。
いま感じる質の違う動きは、手は勁道をつくってアソビをとり、体の方は発力を受け持つ。このアソビ・ユルミなく、しかも力まずという体の状況を説明するのに、『勁道』、『発力』という中国武術の用語は何か非常にピタリと来る。
こういう世界に私を導いて下さった岡山のM氏にはあらためて感謝したい。
以上1日分/掲載日 平成14年5月9日(木)
2002年5月22日(水)
数多くの書き物や資料に囲まれ、遅れていた原稿書きや手紙の返事などに追われていた時、書き散したものの間から、「金曜日は、いつも私の穿いている袴を縫ってもらっているF女史と、日暮里の繊維街へ行く」という書きかけの原稿が出てきた。一瞬「…?」と思ってからハタと気づいた。「そうだ、これは電車の中で書きかけていた『随感録』の原稿だ。そういえば、もう半月くらいホームページの更新をしていないなあ」と。思えばそれ位いろいろとやることに追われていた。
とにかく昨日だけをとっても、福島大学のS先生から剣道関係者の勉強会の講師依頼と、横浜の公立高校で開かれる体育関係の先生方の集まりでの講演依頼、旧知のH氏からある雑誌で対談の企画があるので引き受けてもらえますかという問い合わせと、3件新しい仕事の依頼があり、そんなこんなで資料を送ったり打ち合わせたりですぐに時間が経ってしまう。
さて、書きかけの『随感録』の原稿にあった袴のことというのは、私が専ら和装で過すようになってもう20年以上になるが、その初めの頃買ったり縫ってもらった袴が、昨年辺りから耐用年数を過ぎたのか折り目から布が切れたりしてきて、穿けるものが減ってきたのだが、新しく縫ってもらうにしても、普段穿きの袴の袴地が容易に見当たらず、ある人の勧めで洋服地で使えそうなものを探しに日暮里へ行ったという話である。
その数日後、願い事は念ずれば叶うというが、突然、普段穿き用の袴地が送られてきた。これは以前『男の着物雑学ノート』の著者塙ちと女史から、塙女史が新しい著書を書くにあたって、私に取材協力の依頼があったのだが、ことのなりゆきから袴を仕立ててもらえることになり、その道では腕利きとして知られているという一衣舎の木村氏から袴地が送られて来たものだったのである。
しかし忙しさは加速度的で、12日にはある人の縁で遠寿院という日蓮宗の寺院(荒行で有名だという)へ行ったり、翌日は、最近はなかなか好調ということで忙しいスケジュールの合間を抜けて来られたM選手や、新しい視点でスポーツや体育を見つめ直し研究をされているというK氏が来られた上、この日は朝日カルチャーセンターでの講座。終わってからは、まだ設立間もない出版社B社の方のお招きで食事をしながら企画についての相談等々、1日のうちに何回も場面が変わり、その日その日の予定をこなしていくだけで精一杯だった。
ただ、この10日間ほどは技に関しては身体の解体が進み、その解体した各部所にブレーキをかけること、身体の調整的な動きと武術としての動きの相関性などに前以上の気づきがあり、何よりもありがたいのは、時間さえ許せば剣でも杖でも素手であっても、何時間も全く飽きることなく動きの追求に時間を忘れるほど集中出来るようになったことだろう。
以上1日分/掲載日 平成14年5月23日(木)