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10年前の1992年の夏、私は家族と伊豆の海へ行き、現在は高校1年になった長男を背中に乗せて、波打ち際から100mもないほど先にあった岩場のアスレチック施設へと泳いでいった。当時まだ入学前の長男は、馴れない海と私の泳ぎに今ひとつ信頼感がなかったのか、恐々背中に貼り付いていたが、いざアスレチック場へと着いてみると、急ごしらえの浮き輪やロープが張ってあり、干潮のせいもあってか、そのロープに取りつくには海面が低すぎたのである。もちろん私1人なら簡単に上れたが、怖がる長男を背中に乗せているので、あまり姿勢を変えられない。何度か上がろうとしたが、子供は怖がるばかりだし多少疲れてきたので諦めて岸へ戻ることにした。そうして引き返そうとした時、何か妙に手足が粘ってきて、ちょっと嫌な感じがした。しかし、これ以上グズグズしてはいられないと思い、岸へ向けて泳ぎ始めた。ところが手足が粘るような疲労感は嫌な予感によって急激に増加し、ものの10mも泳がないうちに極限に達しかけてきた。
思いもかけぬ事態に精神は非常状態に入ったようだったが、どこか入ってはならない非常状態のスイッチが入ってしまったのか、話によく聞く火事場のバカ力的状態ではなく、どんどん悪い方に連想が働いて、体力が急低下する非常状態らしい。「さあ噂に聞く、火事場のバカ力、こんな時こそ出てくれ」と思ったが、そんなふうに頭が働いては出るわけもない。考えたのは只1つ。「この子だけは助けねば・・」という思いだけだった。しかし、疲労感は限界に来ている。その時「ああ、泳げる人でも溺れるというのは、こういう理由なのか」と妙に冷静に長年疑問だった事が分かった気がして納得したりしていた。
ここで私が助かったのはゴーグルをしていたからである。「ああ、もうダメか」と思った時、水中を見ると2メートルほど先に深さ3〜4メートルの海底から塔のように出ている岩があるのが見えた。「あっ、あそこまでなら何とかいけるかもしれない」そう思って頑張った時は夢中だったから、火事場的力もその時多少は出たのかもしれない。とにかくやっとの思いでその岩の上に立つと、足裏に鋭い痛みが起こった。「あっガラスのかけらでもあったかな」と思ったが、痛みより足のつく所に行きついた安心感の方が遥かに大きかった。
一息ついて足許を見ると、足がウニを踏んでいた。「ああ、ウニか」と思って、とにかくしばらくそこで休み、再びゴーグルで海中をよく見ると、今度は5メートルほど離れた所に、やはり足の立ちそうな岩があった。そうやって休み休み漸く海岸まで辿り着いたが、海岸に辿り着いて見た松の青さはそれまでのどの松の色よりも鮮やかだった事を今でも覚えている。
何だか事のついでに溺れそうになった顛末を延々書いてしまったが、つまりこの時感じた妙に手足が粘った「あっ、これは何かちょっと大丈夫かな?」という嫌な予感と、今朝目が覚めて、今やりかけの、しかも急を要する様々な用件の数々を思い浮かべていた時に感じた心理状態がまるで忙しさの海に溺れそうという感じで重なってきたという事なのである。
しかし、ここ数日、体の使い方の進展がいろいろとあり、こうしたことに関しては極力優先順位を上げているので、諸々の用件のどれを先にすべきか優先順位付けに迷っている間に、つい稽古をやってしまう。そして、やれば又気づきがある。しかも稽古に来ている人がいて、その人が熱心で私の説明への反応が良ければ(今日は、シーズン中はこれが最後になるであろう桑田氏と稽古をしたのだが、最近は話の通りがよく、思わず説明に熱が入ってしまった。)、又そこから更に気づきが広がる、といった循環が始まり(これを悪循環とはやはり言い難いが、私に原稿を依頼されている方や用件の返事を待たれている方には良い循環とは言い難いかも知れない)、もう止めようもない。仕方がないので御迷惑をかけているであろう諸方の方々に、その言い訳のように今これを書いている。返事を待たれている方、どうぞ御催促下さい。御催促されない方々の用件も極力やるべく努力はしておりますので御容赦下さい。
それにしても腰腹のアソビのとり方の種類と足運びは、「こんなに違うか」というほど全身の動きに影響が出る。全く武術稽古研究会を始めて4半世紀になろうというのに、人間の身体運用原理への疑問は益々深くなってゆくばかりだ。よく武道雑誌の広告などに、指導に関して自信満々のものが載っているが、あの勇気には恐れ入るばかりだ。
それにしても、この1週間は考えさせられた。圧巻は12日、名越氏、岩渕氏と共に伺った整体協会身体教育研究所での野口裕之先生の迫力。先月末は建築家(というジャンルでくくっていいのか分からないが)の荒川修作なる人物のスケールの大きさについて改めて思い知らされたと書いたが、この荒川氏とは全く異なる生命体であるが、その信念(という言い方は不適切だが)と過激さは甲乙つけがたいと、つくづく思った。そのお蔭で、その前の数日間、自分の武術の未熟さに呆然となっていたのが、何とか私は私の道を行こうと思いなおすことができた。
又、この日は名越氏からカウンセリングに関わる凄い気づきを聞くことが出来、この方でも深く深く感動した。事実は小説より奇なりというが、近頃流行っているらしい精神科医が主人公の漫画やドラマよりも、名越氏から聞く人間の深い心理のやりとりは背筋の毛が逆立つような思いがする。
人が生きていて、時代が動いていくということは、観察の仕方によっては只なんとなく時が過ぎてゆくようにしかみえないだろうが、その裏に実に複雑にして精妙な働きがあるようだ。
野口裕之、名越康文といった傑出した畏友に親しくさせて戴いていると、闇に沈んでいて普通は決してみえないその舞台裏が、一瞬の稲妻に照らし出されて見えたような気がしてくる。
その間にも電話は来る、FAXは来る、そのうえ名古屋地区での稽古会等のため、本やら着替えの荷物つくり、おまけに今日は光文社の編集者と新宿で打ち合わせ。風邪気味の体調をなるべく休ませて、9時間ぐらい寝たため起きてからは分刻みのスケジュール。そのため、まるで空巣に入られたような状態で飛び出さざるを得なかった。ただ、まあ怪我をしないだけまだ良しとしなければならないだろう。
ここ数日ずっと電話しなければ、と思いつつ出来ていない仙台大学の中房先生には申し訳ない。その他にもこうして電車の中でこれを書いていると5人ほど入れるべき電話で入れていない人がいて、「ああ、申し訳ないなぁー」と思う。しかし、今日都内の稽古会。明日吉祥寺の講座。明後日から名古屋なので何とか電話番号をメモして出て、どこかからかけたいと思う。
昨日は名古屋、豊田と2日間の稽古会と講座を終えて帰ってきたのだが、いろいろと気づきがあった。なかでも19日の夜、名古屋の稽古会の後泊まったY氏宅で歩法の工夫から連打に対する今までにない対処が出来た事が、私にとって東海行きで最大の収穫となった。只、これが一体どのような原理によるものか、今のところ自分でもよく説明が出来ない。まあ今のところ言えるのは、体の中のアソビを今まで以上になくして動けるようになったということぐらいだろうか。
しかし、このアソビをとるという事と身体の割りを促進するという事が、一見矛盾したように見えることがあるので、そこをどう理解しやすく説明するかは今後の大きな課題だと思う。
しかし、今回の東北旅行で最も私自身嬉しく印象に残ったのは、藤井優監督のお招きで山形県の高畠に伺ったことである。
昨年の7月のはじめ仙台の稽古会の後、私にとって心の故郷ともいえる炭焼きの佐藤家に寄ったのだが、そこで日本の射撃チームを率いてオリンピックに行かれたという藤井優監督とお会いしたのである。今までスポーツ関係者で私の動きや術理に関心を示して下さった方は何人もあるが、出会ったその時から全面的に激しく共感を示して下さった方は3人とは存在しなかったと思う。ましてや、その世界では日本のトップ、第1人者という立場の方では藤井監督以外は皆無だった。ただ、お互い忙しいのと、あまりにもハッキリと分かって戴いたので、何回も会ってその動きや術理の意味を確認するという必要がなかったからだろう、昨年の7月以来2度目にお会いしたのがこの10月27日で、場所は高畠にあるコンセントレーション・スポーツセンターというコンピューターを使ったデジタル射撃場となったのである。
今回の出会いの経緯は、先日豊田市であった私の講座に出席して下さった、バランスボードの製作者K氏を介して藤井監督に話が達し、29日からブルガリアに選手を連れて向かわれるという過密スケジュールのなか「是非とも、どうしてもこれを甲野さんに見てもらいたくて」と、まるで十年来の知己ででもあるかのように熱っぽく電話を頂いたのである。無論ありがたくお受けしたものの、風邪が抜けきらない上、なにしろカード破産になりそうなほどスケジュールがつまっている。「とっても有難いんだけど少々困ったな」というのが偽らざる私の本音であった。
しかし、今述べた山形でバランスボードを作られているK氏とK氏の空手の師にあたるI氏らと、仙台稽古会の後山形に向かっているうちに木々が多くなるにつれて元気になってきた。(1つには仙台稽古会で、また私なりの気づきがあったせもある)そして高畠に到着したのは4時過ぎ近かった。高畠駅近くの会場に行くと、私が来ることを知ってやってきたという野球部の生徒を含め数十人の人々に出迎えられ面くらったが、先頃のアジア大会でも活躍したというA選手の射撃フォームにコメントを求められたり、私の動きを高校生相手に実演したりしているうちに体調がドンドン良くなってきた。ひとつには、ここで素材も調理法も吟味された料理の数々を御馳走になったことも一因だったと思う。
しかし何よりも私を元気づけたのは、この倉庫を改造した射撃練習所の一部に、私の手裏剣術の実演と稽古が存分に出来る場所を造ることを藤井監督が約束して下さったことである。屋内で天井も高い所で15メートル以上の距離がとれて、弓射でいえばあづちにあたる剣止めの材木も十分な大きさがある、という手裏剣術の稽古場が得られるという事は、私の場合「夢にまで見た」という表現が大袈裟ではなく、そのまま当てはまるほどの事である。しかも、食事を共にした数人の方々の中で、手裏剣を初めて試みたにも関わらず1間半ほどの距離から高い頻度で剣を通すことが出来るようになられたK氏が、この道にすっかり魅せられ、本格的に稽古をしたいという思いを持たれたのである。K氏は大手商社の重職を定年で引かれてすぐこの地に来られ、今は有機の野菜作りなどで日々を送られているという、話しの通りの大変いい方で、この夜は60年ものの杉丸太を大黒柱に、随所に丸太を生かした実に素敵なこのK氏宅に泊めて戴くという願ってもない豊かな一夜を過すことが出来たのである。
ただ、翌日このK氏宅から新宿の朝日カルチャーセンターへ講座のため直行してみると、スポーツ雑誌2誌の編集者、ただ桑田選手のファンだというだけの理由で私の講座に参加したという女性の受講者らが私を待ち受けていて、「ああ、ついにこういう人が来はじめたか!!」と思い、いきなり現実(とも思えない気もするが)世界へ引き戻され、さらに帰宅するとFAXやら手紙やら速達やら。しかもその速達も、どの速達から読もうかと迷わねばならない状況だった。
お蔭で疲れてはいたが、寝ついたのは結局3時過ぎ。喉の具合を思って口を絆創膏で閉じて寝ようと思ったのに、それは記憶の中だけで気づいた時は既に29日の午前10時近かった。そして、又電話、電話、電話・・の1日が始まったのである。
しかし今回の仙台での稽古会、山形での実演等で私が体の使い方を説き稽古法を説く時、現在のところ一番参考になっているのは先月の12日来館された内家拳のH師から教示を受けたことである。私はそれを基に、その後私なりに展開させた体の運用法で1ヶ月前なら絶対不可能だった事が出来るようになったのだが、それによってあらためて出来る人に術理を聞くことの重要さを思い知らされている。なにしろ私が聞いたH師からの教えは言葉の上だけでいえば、マニアックとまでもいかない中国武術に関心を寄せている人ならかなりの人が知っている事なのだから・・。実際にたいして使えない人に同じことを教わっても関心の度合いはずっとすくなかったにちがいなかったと思う。
とにかく現在の私の動きに最も影響を与えた人物を3人挙げよと言われたら、その内の1人に出会って2ヶ月にもならない。しかも共に過した時間が10時間とないH師を外せないことは確かである。御縁のあったこと、御縁を繋いで戴いた方々に心から感謝したい。