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29日は、前々からこの日を楽しみにしていた関根秀樹氏との対談を行なう。
ナイフの古川四郎氏、大工道具の市川進氏、そしてナタやら小刀、その他刃物、民具、工芸に桁違いな知識豊富な関根氏と、この3人の方々との対談を1冊の本にまとめる企画の最後が、この関根氏。すでに2度お会いして、その該博な知識には平伏状態だが、まあ話について行けない事はなかったので、双方熱が入り、気づいてみれば約7時間互いに喋り通しに喋っていた。ここで紹介したい興味深い話はいくつもあるのだが、挙げはじめたらキリがないので止めておくことにする。ただ、焼入れの際の焼刃土がわりに味噌を塗ることがあることは知っていたが、味噌の蛋白質の窒素が浸炭促進効果を出すとは知らなかったので、目から鱗が落ちる思いをした。その他、具体的な鉄や道具のことから学校教育にまで話が及んだが、小学校の理科の指導責任者が電子工学の専門家だったりして、小学生レベルに必要なルーペの覗き方も知らないなどの不適材不適所の人選が横行している話にはガックリくる。いわゆる官庁の硬直化した対応は今に始まったことではないが、それらの根底には明治以来の尊大な官の意識がいまだに根強く残っているからのように思えてならない。今回対談させていただいた関根氏が、文字通り体を使っての、いわば野の碩学の権威であるだけに、この思いはこの日一層強く感じた。
12月1日はNHKテレビスポーツ教室のバスケットボールで、桐朋高校の方式を紹介する為の撮影があった。私もこの撮りに応援出演を依頼されたので、国立市の桐朋高校に出向く。この日は私の著書『剣の精神誌』や『剣の思想』を読んだとのことで、とても読み流せない感想の手紙を送って来た、国立在住の女子高生Tさんを臨時のアシスタントとして撮影に臨む。30分前まで全く顔も知らなかったのだが、よく気のつく高校生で、さすがに現代では滅多に棲息していない珍しい高校生なだけはあると、あらためて感じ入った。しかし、高2でこういう本質的なことを考えようとする若い人がいると思うと、今のような時代に生きていく上で張りが出る。
撮影中も、その後もバスケ部員の高校生相手に又新しい動きの発見があったが、この日最大の発見は、私の迎え送りをして下さった桐朋の小学校などで教えられているK先生が、私を送って下さったついでに深夜行なった稽古であった。K先生は私のところで手裏剣術に触れられてから、この道の魅力の虜となられた方で、その熱意は現在私の影響でこの道に精進されている方の中でも、恐らくその思い入れの強さでは5本の指の内に入ろうかという方。私が「少し稽古してゆかれますか」と声をかけたところ、一も二もなく稽古を始められ、あっという間に小1時間は経ってしまった。度外れて情熱的な人の前で技の説明をすると、聞き手の熱に感応して私も熱くなり、集中力もあがるらしい。
剣の飛び方の癖と足の左右の開きの関係、下段からの向身打では伸ばした手指にブレーキがかかるので、どう折り合いをつけるか等々話しているうち、剣を飛ばす発力機構の造り方に新しい発見があった。うねり系によらずに飛ばすための発力は、そのロックのかけ方がポイントだが、この夜、体の沈み込みに対して浮きをかけるという、今までにない働きに意外な功力が出たからである。
やはり手は操縦感覚を主とし、物を飛ばすエネルギー源は他からより有効な方法で取り出すことが、術としての動きを育てる上で不可欠であることをあらためて悟った。
それにしても今年もあと1ヵ月を切った。今年の師走は水道管が破裂して、そこからジャンジャン水が噴き出しているように時間が過ぎてゆく気がする。よほど工夫しないと大量の仕事をどうしようかと、ただ眺めているうちに年が明けてしまいそうだ。
しかし、かつてない異常状態であることは確か。今日の朝日カルチャーセンターなど、出版社3社の関係者5人に、NHKテレビ1人、ラジオ2人の方々が、取材というか取材の下見やら打合せやらで来場。講座の会場が、私の都内にある臨時応接間になっている。
テレビといえば、とうとうNHKのニュース10からの取材依頼が来た。活字系からは、とてもこなしきれない数の執筆依頼が来ているが、テレビは9月に2件ほど来た以外全くなかったので(テレビは聞き手やコメンテーターのなり手がなかなかないらしく、企画が出来づらいとの話をある所で聞き)、ホッとしていたのだが、今回は今年の総まとめの1つとして桑田真澄投手の特集をニュース10でやるので是非ともと言われ、条件つきで受けることにしたのである。その条件とは、私が説明したいと思っている部分は勝手に編集せず、必ず私が納得する形で入れる、ということである。
これは9月の「スポーツうるぐす」で、あまりに私の意とするところが伝わらなかったので、今後はもし取材を受けるとしたら、絶対にこの条件をつけようと思ったのである。もちろん原則としてテレビには出ないつもりだったが、桑田投手の活躍で、いま日本中の野球関係者の間で桑田投手の投法について尋ねられて困っている人、尋ねても満足のいく答えが聞けず混乱している人が大量に出ているとの話を聞いたので、少しは動きを考えるヒントというか糸口になればと思い、NHKへの出演を決めたのである。
ラジオの方は、来年の1月中旬、ラジオ深夜便で内田樹神戸女学院教授とのトークである。こちらは1時間以上、時間をとってもらっているので、かなり突っ込んだ話も出来そうである。
8日は午後1時から9日午前1時までずっと音羽の光文社に籠って「古武術の発見」の文庫化に伴う増補改訂後のための原稿書き。夜は雪で驚いた。それにしても光文社、知恵の森文庫の編集者O氏は、“なるほど、これが編集者だ”と思わせられる腕の良さ。O氏と話していると、何だかどんどん発想が拡がり話が引き出されてくる。しかし、その手腕に乗って原稿を書いているうち、その量は増えるばかり。一体これでまとまるのかと思ってしまう。
7日は久しぶりに神奈川リハビリテーション病院での講座へ。中島氏、田中氏、岩渕氏、NHKのK氏、U女史とも現地で合流。仰臥状態から上半身を起こす方法は、以前このリハビリテーション病院に招かれて講習を行なった後の打ち上げの席上考えついたものだが、この日久しぶりに実演して質問に答えているうち、細かな技法がいろいろと備わってきて、以前よりも更にスムーズに起こせるようになってきた。
講座で解説中、大相撲出身の格闘家で、現在この病院に入院中のI氏にも紹介され、いろいろと手を交えさせてもらった。手を交える前のI氏の射るような目と、いろいろ体験してもらった後の人なつこい笑顔が対照的で、身体による理解といいうことが、どれほど人間にとって大きいのかをあらためて実感した。
この日も今月の1日と同じく、会場への往復は桐朋小学校のK先生の車で送って戴いた。帰路家まで送って戴いた時、先日同様小1時間ほど深夜の稽古を行なったが、剣術の下段からの構えで下段に落とした太刀を持つ手が、両手でなく片手の方が、その起こりを相手が捉えにくいことをあらためて実感した。
この片手下段の構は、今年の夏、岡山の光岡英稔氏が上京された折、より捌かれにくい太刀奪り対策(つまり、無刀奪りをしようとしている相手に、太刀を奪われないように攻めてゆく剣術者側の技術)として思いついたもので、その後、時折工夫を重ね、先日大阪へ行った折も、講習会で新陰流の人を相手に少しやってみせたが、この7日の夜ほどに起こりの消えはなかった。今回の気づきで、太刀を片手で使うことと両手で使うことのそれぞれの意味について更に考察が深まれば、腰の構え(腰を立てるか丸めるか)、胸の構え(胸と背の関係)との関連に理解が進み、中国武術と日本武術の共通点と相違点がよりハッキリとしてくるかもしれない。また、この夜の稽古では、打剣の方も、下段からの打に威力が出れば、体術にも直接進展があることをかつてないほど実感した。
しかし、何にせよ本当に課題はまだ山積み状態である。
追記:業務連絡
12月18日午後1時、打合せか何かで来館される方があった記憶はあるのですが、このところあまりに多くの方とやり取りしている為に、間の抜けた話ですが、それがどの方だったか忘れてしまいました。誠に申し訳ありませんが、もしこのホームページを御覧になってお心当たりのある方は御連絡をお願いします。
しかし神戸女学院の内田樹先生のお忙しさは私どころではないらしい。ただ、その様子の書かれているホームページを読ませていただいて驚いたのだが、私も12月10日にこの随感録に書いた“業務連絡”のアイディアを、何と同日の日付で内田先生も同じようにして使われている。お互いにこのアイディアは、それぞれ独自に思いついた筈なのに(内田先生は以前も使われていたのかもしれないが)、よりにもよって同じ日に使うとは、内田先生とは御縁があるとは思っていたが、このシンクロぶりには、ちょっと15日にお会いするのが恐いような気もしてきた。
まず11日は桑田氏と岡山へ。2人で新横浜から“のぞみ”に乗ったが、今更のように同氏の知名度の高さには驚いた。本当にあれでは日本中どこへ行っても心休まる時もないだろう。しかし随分と周囲に気を使ってもらい、その人柄には多くの人が好感をもったと思う。光岡氏の許で站椿やらカリやら、荷物と一緒のギュウ詰め移動も楽しそうだったし、何より又体の使い方のヒントを得たようで、私も紹介のしがいがあった。
13日は池袋コミュニティカレッジでの講座だが、その前に光文社の方やら2月の講演会の打合せやらで、6時15分前には到着していなければならないのだが、光文社のO氏に渡す原稿整理をしていたり、他の出版社との打合せやらFAXを受けたりしているうち約束の時間に20分も遅れてしまった。11月いっぱいで執行猶予つきの光文社『古武術の発見』文庫化の追加原稿は更に1週間の猶予をもらったが、この後の予定を考えると果たしてどこまで出来るか?
この日、講座の後、『週刊現代』の取材を受ける。週刊誌の取材は先日の『ゴルフダイジェスト』でも懲りているので断ろうと思ったが、断って又いい加減なことを書かれたらクレームをつけるにも説得力がないので取材を受けることにした。取材を受けた感触では、あまりいい加減なことを書かれそうにはなかったが、出てみなければ何とも言えない。こういう時、ホームページを持っていると、ある程度の人達には事実関係の訂正が出せるので、インターネットがなかった時代に比べれば、かなり違ってきたと思う。
14日は岡山から上京した光岡氏の稽古会。しかし道場は原稿やFAXの野原。(各種の用件がいろいろ入ってくるので山と積めず、片づけるのも実に時間がかかる)早めに来た人達は公園やら何やらに行ってもらってひたすら片づける。そして5時少し前、光岡氏来館。急なことでインフォメーションもごく限られた人達にしか出さなかったが、私の狭い道場はかつてない人数であふれる。終わったのは一応9時過ぎだったが、最終的に皆が帰ったのは午前2時をまわっていた。始発が出るまで駅で站椿するという若者もあり(最終的にはI女史に説得され、I女史の事務所に行ったようだが)軟弱といわれる現代の若者にも気概が感じられ頼もしかった。気概といえば、金がないからと打上げの飲食物を持たずに来て、どう勧めても「後で胸がいたみますから」と、それらを口にせず頑張ったS君の自分の美学に殉じた姿もなかなかのものだった。
15日は光岡氏がある中国武術の会の納会に出るということで会場近くまで一緒に行き、私も会ったことのある光岡氏と旧知のN氏と3人で小1時間ほど武術談義に花を咲かせる。光岡氏と別れて、すぐ私は晶文社から招かれている内田樹神戸女学院大教授の極く内輪の出版記念の宴へ。晶文社のA氏が内田先生、田口ランディ女史と私との顔合わせのため予約してあるという百人町の韓国料理店に行く。御二方との顔合わせなので、私としては是非名越康文、名越クリニック院長を同行したかったのだが、この忙しいなか大阪から来てもらうわけにもいかず、院長御推薦のO女史を同行。なお援軍兼打合せでライターの田中聡氏と編集者のA女史も同席。お蔭で興の尽きぬひとときを過せた。
そして明けた16日、ナース(看護婦)の雑誌『ナーシング・トゥディ』のインタビューと写真撮り。その後大急ぎで飛び出して、岡安鋼材の岡安一男社長からのお誘いを受けて、台東区根岸のおでん屋「満寿田」で開かれた銕(鉄)の会へ。もうずっと何年も前からお会いしたいと思っていた薬師寺などの建造に使う和釘を鍛たれている白鷹幸伯氏にお会いする。また鑿、鉋を鍛ってはその名も高い市弘こと山崎正三氏もみえていて帰路、専門家御二方の鍛冶談義を聞かせて戴いたが、炎土でのフイゴの風のまわし方など大変興味深く聞かせて戴いた。滅多にない機会なので、私の帰り道から少し外れていたが、白鷹氏が泊まられるというお嬢さんの御自宅の最寄り駅まで車中ご一緒させて戴き、お話しを伺った。そのため家に帰り着いた時は、午前1時半になっていたが気持ちは充実していて有難かった。(それにしてもこの1週間よくダウンせずもったと思う)
息もつけぬほどの日々は1週間で漸く終息したが、その間ほとんど手つかずの原稿や校正ゲラが思い出すのも恐ろしいほどたまっている。とにかく出来るだけ書いて新年を迎えたいと思う。
そこで今回は、今気になっている2冊についての訂正を述べたい。まず1冊目は光文社新書の新刊(最近、新聞広告が載っていた)織田淳太郎著『コーチ論』、ここに桑田氏と私のことが出ているのだが、ここに述べられているところで、大部分はまあその通りだが(多少話を面白くつくってあるところもあるが)、明らかにいくつか事実と違っているところがあるので、その事について訂正を入れておきたい。
まず22ページにある、桑田氏が私の道場を初めて訪れた日だが、この本では平成12年3月中旬となっているが、正確には3月7日であり、神奈川リハビリテーション病院で初めて桑田氏に会った2月29日から約1週間後である。(この本では約2週間後になっている)又、アトランタブレーブスの名投手グレッグ・マダックス選手の動きを収めたビデオテープを桑田氏が持ってきたのが、この本では私の道場に桑田氏が初めて来てからあまり間なしのように書いてあるが、実際は、私も月日までハッキリ覚えていないが、翌年の平成13年だったように思う。
その他、この本はまだよく読んでいないので、いくつか事実との相違点はあるかもしれないが、一応分かったものだけここに訂正をしておきたい。
次の訂正は、昨日出た『週刊文春』である。その中の連載「阿川佐和子のこの人に会いたい」の467回目で、阿川女史の質問に答えているのが桑田真澄氏なのだが、桑田氏の思い違いが2つほどあった。1つは私と桑田氏が出会った年。実際は2000年2月29日だが、桑田氏は1999年と勘違いして話している。(このことは以前も指摘したが、1度間違って覚えてしまうと、私も経験があるがなかなか直らないようだ)それと最後の方で“先生もよく「百聞は一触にしかず、見るだけじゃダメだ、触れてみろ」と言われますし”という発言があるが、この発言は私が宇城憲治先生の著作『武道の原点』の推薦文を同書の帯に、次のように書き始めているところからの錯覚だろうと思われる。「『百聞は一見に如かず、しかし百見は一触に如かず』これは宇城憲治先生が、常に口にされる言葉だが・・」桑田氏に宇城先生のことを話した時、この本を紹介し、その時この言葉の意味について話したと思うのだが、いつの間にか私から聞いたということで私の表現のように思い込んでいたのだろう。
このような些細な事でもいろいろ話を作ってしまう人も多いし、何かとその事からおかしな風向きに話が流れていってしまうことが往々にしてあるので、今のうちに訂正を入れておきたい。
この後、年内に『週刊現代』、年明けに『文芸春秋』と、続けて私に関することが載るので心の休まらない日は続きそうである。しかし、この忙しさの中でも技の進展はいくつかある。下段からの発剣で、「現地集合の原理」と名づけた気配のない打ち方は、先日光岡氏に説明しているうちハッキリしてきたし、体の沈みに浮きをかけるロック機構は、その後更に研究を重ねている。どんなに忙しくとも稽古研究の優先順位は下げないようにと深く肝に銘じている。
しかし、それにしても今日、大修館『体育科研究』のゲラの最終チェック、『文芸春秋』のゲラの最終チェック、『週刊現代』のゲラのチェック、岩波のアクティブ新書の写真撮りと原稿の相談、PHPの『古武術からの発想』の文庫化のための前書き、光文社『古武術の発見』文庫化の後書き、恵比寿での稽古等がある。光文社は21日昼が〆切だから、まだいいが、出来た分は送らねばならないし、写真撮影で道場を片付けねばならないし・・・もう時間切れのため、この辺で筆を置きたい。
私も今まで対談やインタビューで、いろいろな人からいろいろと尋ねられ、又そのリアクションもいろいろ見てきたが、有働アナウンサーほど好感の持てた人はちょっと記憶にない。こういう人が増えれば世の中もっとすごしやすくなるだろうにとあらためて思った。
この有働さんのインタビューで、「ああ、まだ今の世の中にも素敵な人がいるなあ」と思ったのも束の間、又々情けない現実に直面。知人のG氏から今日の日付のあるスポーツ新聞のホームページを送ってもらったが、そこには"桑田投手が中国武術に挑戦"との記事で、桑田氏が今後「古武術と中国拳法の割合を半分半分にしたいんです」と発言していると書いてあり、その後「古武術だとねじり系で力が伝わるのが遅いんですよね。ドミノ倒しみたいにパン、パン、パンって感じなんです。でもそれじゃその間にやられてしまうんです」と発言したと書いてある。まったく呆れてしまった。勿論、この記者の思考力、国語力のなさにである。
今年、桑田投手がねじり系で力が伝わるのが遅いので武術を取り入れ、「ねじらない、うねらない、ためない」投法をして好成績を挙げたことは、多少なりとも桑田氏に関心を持つ者なら誰でも知っているだろう。ならば、なぜ「古武術はねじり系で・・・」となるのか。ドミノ倒しのような力の伝わり方は、うねり系の動きの問題点を指摘して私が使った"たとえ"である。ねじるというなら、むしろ中国武術で纏糸勁という言葉もある通りだが、このねじりは、いわゆるタメのための"ねじり"ではなく、今回岡山で桑田氏も学んだ意拳の降龍椿(椿の字は本当は春の中の日ではなく臼)のようなアソビをとるねじりであり、体全体を使うための"ねじり"だろう。日本武術、中国武術共にドミノ倒しのような力の伝達が遅いものを使う筈がない。その他、(まあ、この辺は仕方がないかも知れないが)少林拳と少林寺拳法を混同している。
今日も取材やら打合せやらでの電話がいくつも入った。そんなこんなで今日も暮れる。昨夜、目に出血の兆しがあったので、これはマズイと思い、一晩早めの自分へのクリスマスプレゼントにと、昨晩から今日午前中にかけて約10時間寝ためをし、今最も切実な岩波書店の依頼稿にとりかかろうと思ったのだが、諸々の用件を片付け、漸くこれからやろうと時計を見ると既に7時を回まわっている。さて、これからできるだけやって寝よう。
岩波書店に籠って、午後9時過ぎ頃ともなると、さすがに朦朧としてきたのだが、一体何がどう働いたのか、深夜午前1時近く帰宅するために自宅に向かって歩く足取りは信じられないほど元気だった。
それにしても、この28日午前1時頃までの50数時間の間、あちこちから電話があったり、印象深い手紙が来たり、テレビで放映されたりと実に様々なことがあったが、最も印象に残った事は25日の夜にU氏からもらった電話であろう。
武術稽古研究会を主宰し、古伝の武術の歴史についても少なからぬ関心を持って調べてきた私にとって、この2002年12月25日にもらった電話ほどの大きなニュースは恐らく生涯で何度も接しないに違いない。このように書くと何だかひどく思わせぶりだが、私がこれから発表するニュースは、最近復刊された『剣の精神誌』の読者で無住心剣術に少なからぬ関心を持たれている方なら全員が程度の差こそあれ、声をあげて驚かれるほどの特ダネである。
なにしろ、あの無住心剣術の3代目を継ぎ、他流との試合千度不敗の記録を持つ真里谷円四郎義旭には円四郎義品という2代目、円四郎信栄という3代目、新右衛門信興という4代目まで存在し、天保6年というから明治維新のつい60年前までは何がしかのものが真里谷家に代々伝わっていたらしい証拠の古文書が、この円四郎の子孫と思われる方の家に保存されていることが分かったからである。
その事を私に報告してくれたU氏の声も興奮で聊か裏返っていたし、私にとって古伝書研究の同士的存在である吉田健三氏にも早速電話したところ、だいぶ声が裏返っていた。さしあたっては、すぐに礼状を出してもらい、年が明けたら、現在身動きが出来ない私に代わってU氏は現地を訪ねる腹づもりのようである。
それにしても本当に驚いた。『剣の精神誌』で私は南台寺に遺されていた戒名からみて真里谷円四郎には2代目がいたことはほぼ間違いないとの推論を下していたが、まさか3代目までいたとは思わなかった。よく探し難いものを探す時に、「納屋の藁の山の中から針1本探すようなものだ」という表現があるが、縁というのは不思議なものだ。それにしても、田中の小山宇八郎が一雲の高弟矢橋助六の門人であったことを示す文書『田中葵真澄鏡』や、一雲出家の折の詩『空鈍一百韻』など次々と貴重な資料を発見してきたU氏にとっても今回の発見は生涯その記憶に残るものとなったことだろう。あらためてU氏の熱意と努力に心からの称賛を送りたい。
これでいよいよ『続・剣の精神誌』執筆への機運は熟してきたのだが、その前に立ちはだかる諸々の原稿・・。しかし何としても執筆は開始したい。