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2005年3月4日(金)

 走っているタクシーのラジオで「3月になったのに雪ですね」という声が聞こえ、「そうか、いま3月か」と気づかされる。2月の末に旅館に籠ってPHPや仮立舎の仕事をして、その後、日本実業出版社の関係者と本の企画の打ち合わせ。そのあと、朝日カルチャーセンターに、そこから出かけ、終って朝日新聞の土曜紙beのインタビュー。それを終えてまた旅館に帰って、また仕事…。
 この日は『アエラ』が出て、尹(ユン)氏が私について「現代の肖像」で取り上げた記事が載る。構成は「ユンさん考えに考えたな」と感じ入ったが、若干の事実関係の誤認があったので少し訂正しておきたい。
 「すり鉢で骨を砕いて散骨」は、「すり鉢では大変なので、金床と鍛冶屋のハンマーで砕いて欲しい」に、薪割りのキャプションにある「ナタ」は「ヨキ」、または「マキワリ」せめて「オノ」にして欲しかった。また、「正しい基本をしっかり身につけることが大事とよく言う。でも初めから基本が身につけられるなら、もっと抜群の技ができる人がいっぱいいるでしょう」というのは、私の発言をまとめたものだが、これではよく意味が通らない。「正しい基本を・・・が大事とよく言う」まではいいが、その後がだいぶ違う。「でも『正しい基本をしっかりと身につけよう』と言っている人に、あなたは正しい基本を身につけたのですかと聞いてみたい。それにいま教えている基本が本当に正しいなら、息を呑むほどに抜群に技を使える人が少しは出ているはずではないでしょうか」というふうな発言にして欲しかった。
 それから、洋服が嫌いなのはネクタイのせいではない。というよりネクタイはあった方が私の最大の洋服嫌いの原因であるモノを隠してくれるから、むしろ有難いのである。また、新潮社での抜刀について書いてあったが、これは、その時「三元同立」の技の解説という前フリがあって刀を抜いたように記憶しているが、こういうことは本人の自覚と他人の認識の間に落差があることが常なので、「足立さんはびっくりしたのかな」と思った。(まあ、話の構成を盛り上げるための仕掛けでもあったろうし) しかし、「・・・まあやりたいんだなあ・・・だから気にしないでおこうって(笑)」は、足立女史を知る人なら誰でもあの彼女独特のイントネーションが聞えてくるようで、私も思わず笑ってしまった。
 それにしても、「三元同立」という用語は私が予言していたように一時的な名称で、早くもテンセグリティ構造に呑み込まれ、この頃口にすることも少なくなってきた。どのみち短い命とは思ったが、こんなに短いとはちょっと予想外。テンセグリティが出たところで思い出したが、張力材がゴムヒモなどではない、ちゃんと出来たテンセグリティ・モデルを造ってくれる人はいないだろうか…。私としては丈夫な真鍮のパイプとステンレス・ワイヤーなどを使って欲しいのだが。

 今日は雪のなか、幕張メッセに行って、日本ボールルームダンス連盟の大会「第5回コングレス」で講演。すぐ取って返して三番町のPHP本社で本の原稿の整理と書き足しと写真の照合。7時ごろまでPHP本社に居て、東京駅に駆けつけ新大阪に向かう「のぞみ」に乗って、今これを書いている。今日はTさん、Oさん、Oさん、お世話になりました。

 明日は山田先生の待つ淡路島へ向かう予定。そして翌日は、そこから香川へ向かう。しかし、旅の先々にNHKの「ようこそ先輩」制作スタッフや新潮社から次々とファックスが入る。『身体から革命を起こす』は4刷に入ったというし、その書評等が『週刊文春』『エンジン』『MOKU』誌等々に出て、どうもこの本のマグマが溜まり出している不気味な予感がする。何しろ今まで車中などでサインを頼まれたことは稀にあったが、今日のように2件という例は初めてで、そうなると4月13日水曜日夜の「課外授業 ようこそ先輩」の放映後の反応が今から恐ろしい。

以上1日分/掲載日 平成17年3月5日(土)


2005年3月8日(火)

 今回の淡路島・四国への旅は、その前後の寄り道も少なかったが十分に内容は濃かった。まず、淡路島があんなに大きいとは意外だった。琵琶湖とほぼ同じ大きさとの事だが、「琵琶湖があんなに大きかったかなぁ」と思うほどだった。大阪駅から高速バスで約1時間40分、洲本インター駅には洲本高校の先生に出迎えて頂き、県立洲本高校へ。卓球台が何台も並ぶ多目的ホールで、卓球の指導者の方々や洲本高校の先生、そして卓球練習中の中学生や高校生、大学生といった面々30人ほどだったろうか。
 今回、私がここに来ることになったのは、先月末、原稿書きで籠っていた旅館に、洲本高校の山田俊輔先生から電話が入ったことに始まる。電話は、「甲野先生、今度6日に四国へ来られますねぇ。それで、もしよかったら、その前日の5日淡路島に来られませんか。もし5日の夜ここに泊まっていただいたら、翌日の6日はここから車で丸亀に卓球の試合で行く者がおりますんでお送り致しますが、まあ、ちょっと息抜きのつもりでどうですか」という、まるで暖かい瀬戸内の陽射しを思わせるような声でのお電話に、思わず心が動いた。
 ちょうど、この5日の日をどうするかは2月の初め頃から気にはなっていたのである。名古屋に声をかけてみようかな、紀伊民報の石井氏に連絡しようかな等々、4つか5つ寄るところを考えていたのだが、なぜか忙しさに紛れてどこにも連絡をしそびれていた矢先だった。別に講座とか稽古会という仕事ではなさそうだが、せっかく卓球界に「この人あり」という山田先生のお誘いだし、私も行く以上はただの観光より、いろいろと卓球関係の方とも交流したいと思ったので、なるべく体を動かす時間をとることにし、4日幕張メッセでのダンスの会合の講演の後、そのまま大阪入りし、翌日午後遅くない時間に淡路島入りすることにしたのである。
 今回、洲本に来て、一層ハッキリしたのは卓球界における山田先生の影響力の大きさである。かのミキハウスの卓球部の大嶋雅盛監督が絶大な信頼を寄せているとの事は以前から聞き知っていたが、今回、何人もの方々の口から山田先生の人望の高さと指導力について伺い、「知る人ぞ知る」という、最も人として絵になる存在であることをあらためて知った。
 「知る人ぞ知る」という存在として代表的な人物といえば、もう30年ほど前に亡くなった整体協会の野口晴哉先生が、まず思い浮かぶ。野口晴哉先生の最晩年、何度か講座や講習会で直接野口先生の雰囲気を知った者として、「知る人ぞ知る」という言葉にはずっと憧れがあったが、いつの間にか私は「知る人ぞ知る」というような、実力を内に秘めた人物になることも無いまま世間に晒される状況となってしまった。それだけに、身は淡路島の高校の先生でありながら、日本の卓球界を裏で支えているという山田先生のような存在は目に眩しかった。ただ、その山田先生にのせられるままに卓球関係者の方々の御質問に答えて体を動かしていたら、「フォアマエ」と呼ばれている、卓球台の左端から右端へなるべく早く体を移動させる動きを行なったところ、何か常識的な卓球の動きとは違ったものがあったらしく、参加した方々の間からどよめきがあった。私としては太刀取りの感覚を応用してみたのだが、床を蹴らずに動いたので、何かが違ったのかもしれない。私が移動時に床を蹴っていないことは、山田先生発案の滑りやすいナイロンの袋で足を覆っても私が動けたことで、参加された方々も納得されたようだった。
 夜は山田先生の教え子の方が開かれている料理屋で、新鮮な海の幸を戴き、話に花が咲く。遅れて参加されていた大嶋監督からも、「またミキハウスで」というお話しも頂き、私も「フォアマエ」について、もう少し研究しておこうと新たな広がりについて、体の使い方の工夫にまた一つ火がついた感じだった。
 翌日は7時前に迎えの方がみえて、淡路島から丸亀までを2時間弱でひた走る。今まで全国各地いろいろまわったが、車で朝の7時前に長い距離を移動したのは初めてで新鮮だった。友人の結婚式で広島まで来ていたという筑波大の高橋氏とも合流て臨んだ丸亀での稽古会は賑やかだった。あんまりいろいろあったので、とても書ききれないが、体をマッチポンプに使って一種のテンセグリティ構造をつくるという事をやって、それなりに成果が挙がったが今後どうなることか・・。
 帰路、出来れば大阪に寄りたいと思ったが、急ぎの校正等もあり、7日はそのまま東京へ帰り、PHP本社に直行。ここで原稿の修正、それから新潮社の仕事もやって、新潮社に寄り、校正ゲラを足立女史に渡す。養老先生のムック本の追い込みで、ここしばらくロクに寝ていないという足立女史は、昼間道を歩いていると道路が歪んでみえるというほどの状態らしく、私も自分が忙しいというのを遠慮してしまうほどハードな状態らしい。人間、そこまでになると身体が命の危険を感じてくるのか、一種名状しがたい迫力が出てくる。声もあまり変わらないし、例によって笑顔はよく出るのだが、どうにも近寄りがたい雰囲気があって、新潮社の中でも廊下で人がよけて通るらしい。
 そういえば、『アエラ』誌の記事での、私が抜刀して稽古していたのは私の思い違いで、三元同立が出はじめの頃ではなく、もっとずっと前のことらしい。『アエラ』の「現代の肖像」に関して補正意見をこの随感録に書いておいたら、いろいろな方から反響があり、こういう時ホームページを持っているという事、その意味を一番感じた。

以上1日分/掲載日 平成17年3月9日(水)


2005年3月10日(木)

 昨夜は、約4時間にわたって梶川泰司シナジェティクス研究所々長と会談。初対面以来約15年経っているが、彫りの深いちょっと日本人離れした風貌は昔のまま。私の家の近くの自然食レストランで、恩師バックミンスター・フラーに関して、その才能にあらためて感じ入っていること、テンセグリティに関しては、これが如何に奥の深い原理であるかという事と、それだけにその取り扱いは誤解がきわめて生じやすいこと等々を語られ、その合間にフト顔をほころばせながら、近くの農家から畑の大根を3000本持っていっていいと言われ、300本貰って切干大根をつくった話など聞かせて頂いた。
 私自身どのように今後術理について考えてゆくか、まったく分からないが、今までの物理的常識をなぜか殆ど裏切る形で、しかも具体的構造物としてハッキリと存在するテンセグリティ構造は、やはり少なからぬ関心を寄せずにはいられない。

 今日10日は、角川書店で介護本の実技の撮り。同席したのは、岡田氏とモデルのT女史、それに見学者としてI書院のT氏。岡田氏と会うのは、そう日にちも空いていないと思うが、私が少し前に気づいた手指の張りを様々に応用し、長座で座っている人を立たせる「添え立ち」が一段とスムーズになっていたのには驚いた。その他、「さすがに餅は餅屋だなぁ」と感じ入るような細やかなテクニックもあって、実技の主役は完全に岡田氏。以前から「介護は岡田氏主導で展開してもらおう」と思っていたが、今回のことで完全に介護の方は岡田氏が私よりもずっと多くのものを受講される方々に提供できることを確信した。したがって、『身体から革命を起こす』等を読まれて、介護法に関心を持たれた方は、新潮社を通して岡田氏に連絡をとっていただきたい。(私も岡田氏と連絡を切らさず、岡田氏と共同研究を行ない、岡田氏にそう見劣りしない程度に介護の技も磨いてゆきたいとは思っているが…)

 そして夜は市ヶ谷の旅館に泊まって仮立舎の原稿の校正。これは、先日の四国への旅の途中に赤入れを終了して送るはずだったが、どうにも時間がなく持ち歩いているもの。とにかく、今の私の状況は、どうにも水漏れの止まらない桶のようなもの。やりかけの事、やらねばならない事が右にも左にも正面にも山積みしていてボタボタ洩れ落ちている。
 したがって、この随感録で何度もお願いしているが、私へのインタビューをまとめたものや校正ゲラなどは、事前に私の都合を聞いてから、どこに送るかを確認して送って頂きたい。こんな事は編集者のイロハだと思うのだが、どうも私の留守かどうかも確かめず、期限ギリギリのゲラ等を送ってくる編集者が少なくないのには迷惑させられている。関係者の方々は、どうかそうした点にもご留意頂きたい。

以上1日分/掲載日 平成17年3月11日(金)


2005年3月15日(火)

 いつもいつも、忙しい忙しいと書くのは芸のない話で恐縮だが、休業の4月中旬をあと1ヶ月に控えて、その多忙さはもはや我がこととは思えない。私の場合、誰かと会う対談とか講座とか、ハッキリと時間を拘束されているものは、多くても日に2〜3件ぐらいだが、とにかくさまざまな用件の問い合わせやら打ち合わせ、そして片づけと整理がどうしようもなく増えてきて、電話をすればホンの2〜3分で済むかなり急な用件すら何日もその電話をかけ損なっている。そのため数ヶ月持ち越して、本当に済まないと思っているゲラへの赤入れも時間を盗むようにしてやっていたため、この間も乗り換えるべき電車も降り損ね、思わぬ回り道をしてしまった。
 しかし、そうやって追いたてられるような日々のなかでも、術理についての考察は止まらない。12日、横浜の朝日カルチャーセンターの後、身体教育研究所の野口裕之先生の許へ、名越氏と、それからずいぶん久しぶりの岩渕氏と共に伺い、種々話をしているうちに気づきがあった。厳密に言えば、私の話から野口先生に気づきがあり、それが私にも及んだのであるが、これもテンセグリティが関わっている。したがって、1度テンセグリティについては梶川氏に、しっかりとまとまった話を伺いたいと思っている。

 13日は千代田の会。昨日14日は筑摩文庫の仕事で、赤坂で鼎談。その後、フト気がついて、紀伊国屋本店に寄って、21日の講演会の場所の下見をする。講演会の打ち合わせは16日の予定だったが、この日は会場が塞がっているとの事で、昨日寄ることが出来て幸いだった。昨日打ち合わせを行なったために、1度は依頼があり、その後用意が十分できないので止める方向に傾いていた手裏剣術の演武も行なう方向が出てきたし、会のやり方も当初の予定とかなり違ってきた。しかし、昨日紀伊国屋ホールに行って、私が何より興味深かったのは、大掛かりな舞台装置を上げ下げする原理が"釣瓶井戸"と同じで、よほど重いものでも錘を増やせば人が手で上げ下げ出来ること。私の"平蜘蛛返し"に代表される一連の技の原理について、あらためてその技の有効性を教わった気がした。
 この紀伊国屋の講演会といえば、この会の告知と一緒に『身体から革命を起こす』の広告が『週刊新潮』に1ページ全面で載ったのだが、「古武術の技が…」となるところが「古代武術の技が…」になっていて、新潮社の足立女史から「私が見なかったものですから…」と平謝りの電話があった。私としては「ああ、そうですか」と苦笑程度のことだが、足立女史は大変気にして何度も謝られていたので、ここに、古代武術ではなく「古武術」であることを、あらためて訂正しておきたい。
 考えてみると、今まで千人以上の人の前で話をしたことは何度もあるが、チケット等を買って入って頂いた有料の会の場合で数百人というのは今回が初めてである。(今まで有料の場合は、数十人か多くて百人くらいだったと思う) 4月から私は休業に入るが、そうなると公開講座は数ヶ月間まず行なわないつもりなので、もし御関心のある方は、まだ席も残っているようなので、紀伊国屋書店までお問い合わせ頂きたい。
 もっとも、朝日カルチャーセンター新宿で中島氏等が講座を持っているし、スポーツ関係は筑波の高橋氏の指導力が上がってきているし、介護に関しては岡田氏が私以上にさまざまな状況への対応が出来るし、フルート奏者の白川女史も最近気づきが続いているようなので、新潮社の『身体から革命を起こす』を読まれ、あの本から関心を持たれた方は、そう困られることもないと思う。高橋氏や岡田氏を招きたいと思われている方は新潮社へ問い合わせて頂きたい。ただ、岡田氏は12日付の朝日新聞の土曜紙『be』に紹介されてから問い合わせが相次ぎ、かなり忙しくなってきたようであるが‥。

 今日は特に忙しいので、ホンの10行ぐらいにしようと思ったが、書き出すとつい手が止まらなくなり、このように千字以上も書いてしまた。
 これだから益々忙しさに絞め殺されるようになってしまうのだろう。しかし、生来の(私の場合は後天的だと思うが)書き出すと止まらない性分というのはどうしようもなく、精神衛生のためにもと思ってペンは止めなかった。ただ、今度の紀伊国屋での講演でもハッキリと言うつもりだが、私の技や術理は、これが正しくて立派なものではなく、私のなかでは以前よりもマシになったものであり、今後も変化し続けるであろうものである。
 ただ、私がさまざまなスポーツの方や介護、音楽家といった方々と交流したところ、私としては、古人を思えば実に恥かしい程度の動きを、何やら過分に評価して下さる方々が多く、乞われるままに、それを実演して解説しているに過ぎない。
 つい昨日もNHKの「ようこそ先輩」の制作スタッフからの問い合わせがあって、先日お邪魔した淡路島の洲本高校の山田先生と電話で話す機会があったのだが、洲本で私が質問を受けて見せた「フォアマエ」(これは「フォア前」と書くのかもしれないが、その程度の知識も私にはない)の動きが、その後関係者の間で何とかいう速さで有名な韓国の選手の動きと比べられる速さだったらしい。そう言われてもまるでピンとはこないが、床を蹴った動きでは遅くなることは確かだから、もし世界の有名選手でも、蹴っていれば私の方が早いのは理論的にも当然といえば当然だろう。しかし、それは私が速いというより身体運用のさまざまな可能性を追求してこなかったスポーツ界の怠慢さの方に問題があると思う。

以上1日分/掲載日 平成17年3月16日(水)


2005年3月24日(木)

 4月中旬からの休業を前に、諸々の予定用件は数え切れないほどにある。
 先週末は新潟から郡山へ出て、翌日は紀伊国屋での講演。1日おいて「和のメソッド」の講座。明日25日からは関西での3連続の講座や稽古会などがある。新潟市は全く初めての地だったが、多くの熱心な方々が集まって下さり、スポーツ界や介護の世界も意識が変わりつつあることを感じた。
 それにしても、いま自分が何をやりかけていて、何を優先してやるべきかかという思考が殆ど止まりかけていて、4月からの休業は私にとっても必然に思える。動きに関して言えば、うねり系の動きの問題点を一層はっきり感じてきた。

以上1日分/掲載日 平成17年3月25日(金)


2005年3月28日(月)

 3月の25日から関西での3日連続の講座や稽古を昨日終え、昨夜から今日の昼にかけては、主のいない名越康文宅で倒れこむように寝ていた。夕方遅く、ようやく食材を買いに出たが、夕闇の迫る大阪の多少下町がかった雰囲気もある通りを1人で歩いていると、現在自分が置かれている立場やら、〆切の迫った原稿やら何やら、さまざまな用件がある事も全て忘れ、何だか1人でひっそりと隠れ棲んでいる天涯孤独な人間のような気がしてきて、我ながら呆然としてしまった。
 もちろん記憶には、この3日の間に気づいた体の使い方、すなわち「身体各部それぞれが、他の体の部位の動きにつられないように自分の役目を果たすこと」と、"釣り合い"の重要さ、「身体各部は自分の持ち場で自分の背負う無理のない範囲の動きをすること」等々についての記憶は残っているのだが、これをどう展開して行くかは全く何も考えが浮かばない。ただ、この後、立て続けに月末に対談の予定が入っているので、それに答えながら、これからの私自身の展開のさせ方を考えて行きたい。
 そんな事を考えている最中、新潮社の足立女史から連絡が入る。そういえば明日は足立女史が中心となって出来たムック本、『養老先生と遊ぶ』が刊行される。私もひとこと足立女史より依頼があって、養老孟司先生についてのコメントを載せているし、養老先生に関してさまざまな角度からの情報が満載されているようなので、御関心のある方は是非お手にとって頂きたいと思う。
 とにかく10時間近く寝ていたお陰か、頭が休まりすぎたようで、あまり考えることもなく、食事を終え、いま、これを書いている。食事は古代米の黒米と丸麦とキビとを1/3ずつ混ぜたものを、水に半日漬けたのを、ごく普通の鍋で炊いたものを主食に、納豆と小松菜とニラを数十秒茹でたもの。実に簡単だが十分に満足。もし多くの人が、この私のような食事で満足すれば、BSE問題やら何やらもないだろうし、厄介な慢性病や成人病も激減すると思うのだが、食へのこだわりは人間の欲望の中でもひときわ強いものだから、まあ、こういうものがごく普通に旅先で食べられるようになる(つまり、このような食事が一般化する)のは難しいだろうなあと思う。
 しかし、頭があれこれ忙しく回らないのは実に助かる。今のうちに、このペースで出来る範囲の原稿書きや手紙を書こうと思っている。

以上1日分/掲載日 平成17年3月29日(火)


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