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福山から九州を遅寝・早起きで廻った強行軍のつけは、帰って2日目に出て、喉が腫れ、このままダウンかと思ったが、6月7月の本格的休業と、その間野口裕之先生に体を観て頂いたお蔭か、墜落ギリギリで機首の立て直しに成功したようで、体の不調は一晩で何とか寝込むことは回避できた。
ただ、体力が回復すると共に襲ってきたのは、自分の未熟さに対する苛立ちである。まあ客観的にみたら、それなりに技の利きは以前よりあり、ちょうど一月前にあったラグビーの公認コーチの講習会では、その後ラグビーフットボール協会の強化委員の方から頂いた礼状のなかに、私の技に関して「受講生には大変な衝撃であったようです・・・」といった感想も添えられていた。その文面からみて、呼んで頂いてそれなりに参考にはして頂いたように思えたし、私としても、私の動きの有効性の確認が取れたのだが、そういった他からの評価と私自身が感ずる納得度とは全く関係がないようだ。
現在の私の気持ちの焦りを「向上心がある」といえば聞えはいいが、私自身の実感としては何とも今の自分にいたたまれない感じが痛切にするのである。とにかく、この焦りは何か凄まじい人間離れした事が出来るようになりたいという事ではなく、「もっと納得のいく動きをしたい」、自分が「存分に自己の心身を尽くした感じで動きたい」という欲求で、今までにも何度か体験してきたが、今回はその「自分自身で納得のいく」という主観的な部分がかつてないほど強い。
私の武術の動きはラグビーの関係者から関心を持たれ、卓球界では特に西日本では本格的に指導者層に関心を持って頂き、10月末にはかなり大掛かりな講習会も予定されている。また、介護では岡田慎一郎氏の『週間医学界』新聞での連載が好評とのことで、月日の経過と共に武術の体の使い方を応用した介護に関心が集まっている。
また音楽関係の方にも輪が広がった。だから、もう十分じゃないか、大して才能があった訳でもない私が、出会いの運によって特に努力した訳でもないのに、これだけ広範なジャンル、多くの方々から関心を持って頂き、武術の体の使い方が近代スポーツや近代体育とは違った道筋がある事を示し得た。後はその拡がりのままに講座をしたり、本を書いたりしていればいいじゃないかと、そういうふうに思おうとしてもどうにもならない。
私はよほど業が深いのか、欲が深いのか、停滞しているという事は私にとって耐えられない。とにかく、よそ目にはどんなに動きが稚拙に見えても「私自身納得のいく動きがしたい」と切に思う。動きの質を上げるというより、とにかく「私が納得のいく動きをしたい」と、これほどまでに思った事は今までになかったかもしれない。こういう精神状態だと、どうしても『無門関』を読まずにはいられなくなる。これを読み始めたのは二十歳の頃からだから、もう35年以上も読んでいるが、まったく話が古びないのは流石というしかない。
どこかへ籠るのに本を三冊だけと限定されたら、『無門関』と『センス・オブ・ワンダー』、それに『願立剣術物語』だろうか。
9日は数ヶ月ぶりに池袋コミュニティカレッジの講座だが、何を話したらいいか今はまるで思い浮かばない。
こんな状態の私が、いま強く支えてもらっているのは、3日に到着した野口紘子女史の絵。道場の板壁に掛けて観たら、先月の17日に銀座のギャラリーで観た時よりもずっと鮮やかに浮き上がった。芸術というものの力を、これほど身近に感じたことは今回が初めてである。
この先、どのような展開になるかは分からないが、とにかく私なりに進んでいくしかないだろう。
以上1日分/掲載日 平成17年9月5日(月)
体調はまあまあだが、気分の方は台風時の時化の海のよう・・。もっとも、波は高い方は大したことはないが、低い方は相当に低く、以前も書いたと思うが、ここ最近、我ながら付き合いかねるほど気難しくなっている。
ただ、講座とかインタビューではかなり熱を入れて喋るので、よそ目には私の気分の落ち込みがひどいとは見えないようだ。今日も夕方からインタビューがあったが、予定時間をかなりオーバーしてしまった。
現在の自分の技への満足度というか、まあまあある自信のようなものが今までは2割で不満が8割と言っていたが、今は自信のようなものが2%で98%が不満。それでも技の利きは以前よりはあるようだし、駅の構内などでフッと人とすれ違った瞬間に、今まで感じたことのない気づきがあったりもする。
しかし、とにかく明日の自分が分からない、その不安定さが普通ではないので、過密スケジュールではあるが、思いきって明日から山中に2日ほど入る決心をする。ただ、帰った翌日は都内で講座があり、その翌日は四国に行き、その翌日17日は四国での講座。18日は大阪の寄席"ワッハ上方"で落語家の笑福亭竹林氏とトーク。その後、夕方からは講座。翌日19日は大阪で講座。その翌日20日は毎日放送で撮りがあり、その日のうちに伊勢に行き、21日は伊勢にある高校で朝日新聞のオーサー・ビジットという出前授業を行なう。その後も9月は講座や対談、その他で出ることが今のところ6回ある。いつの間にこんなに詰まってしまったのかと自分でも呆れるような過密スケジュールだが、先日、体を観て頂いた身体教育研究所の野口裕之先生には「まあ年内、少しゆっくりした方がいいですよ」とアドバイスをされているという何とも皮肉な状況。ただ、体が整ってきている流れはそう悪くないとの事なので、とにかく流れに乗っていこうと思う。何しろ、いまこの忙しい流れに乗らないと気分的にもっととんでもない事になりそうなので・・。
この間、私の公開講座に関して御関心のある方は、四国での講座については守伸二郎氏に、19日の大阪での講座については尚志会にお問い合わせ頂きたい。
以上1日分/掲載日 平成17年9月12日(月)
12日は宮城県の山中深くにある炭焼きの佐藤家へ。以前は仙台の稽古の帰りなどによく寄っていたから、年に4,5回は行っていたのだが、このところの忙しさと春からの休業で、ほぼ1年ぶりくらいだと思う。
16日からは四国を皮切りに約1週間の旅だし、その前日も都内で稽古があるので、まだ本調子ではない体力的なことを考えてギリギリまで迷った。しかし、気分的にどうしても、あの東北の広葉樹林が黄色くなる前を見ておきたかったし、佐藤家の人達にも会いたかったので、東北に行くことを躊躇する気持ちはかなり残っていたが、思いきって出発した。ただ、そんな状況だったので、東北新幹線の切符は新宿駅の構内で買うことにした。新宿駅のみどりの窓口に行くと、予定していた列車は臨時列車でこの日はなかったため、その後の列車となり、時間がかなり余ったので、東京駅に着いてから打ち合わせの電話などに30分ほど使って、ゆっくりと東北新幹線の改札に向かった。
さて改札口を通ろうと袂に入れた筈の切符を出そうとしたがない。「あれ、財布だったかな、それともバッグのポケットかな」とあちこち探したがどこにもない。そのうち発車時間が迫ってきたので、改札口で事情を言って入場証を貰い、とにかく予定の列車に乗って適当な席に座り、腰を据えてバッグの中やら懐を探すがどこにも見当たらない。「これはどこかに失くしたか」と思った瞬間、「そうか、こういうことか!」と笑いが込み上げてきた。
つまり、東北に行くことに対してかなり強くあった不安も、この乗車券紛失という"税金"で何とか大丈夫となったと思ったからである。そうなると妙なもので、検札に回ってきた車掌のY氏の(事情を知っての)親身になっての世話(車内で紛失の書き込みの乗車券を出してもらい、見つかれば払い戻しできるように取り計らってもらった)も何だかおかしく、ついさっきまで切符を探していた熱意は吹っ飛んで、窓の景色が楽しめるようになった。
しかし、今までは、こういう流れで済んでいたのだが、今回はそうはいかなかったのである。そのことについては後で述べるが、とにかくは久しぶりの佐藤家に円夫人の迎えで行き、その後、現在建築中の見事な木造家屋(素晴らしい太さの松の梁、屋根の樽木が四寸角、屋根の板と床板共に厚さ4センチの杉板。すべて地元の杉材。壁は本格的にコマイを編んで荒壁を塗って、現在乾燥中。家が仕上がるのはあと2年後かという本当に驚くほど時間をかけた手づくりの家)を見学し、はしゃぎまわる子供達(長女遍ちゃんと、その同級生達)と一緒に遊んだり、それがここに来ての一番の楽しみの夕暮の広葉樹林の中に佇んだりした。
夜は都会ではなかなか食べられない大きなナメコの入った味噌汁など、いろいろと御馳走になり、勧められるままにここずっと飲んでいなかったアルコールも大吟醸とビールを少し体に入れた。その後、佐藤光夫氏の炭焼きの師匠佐藤石太郎翁の孫に当る美術教師の智弘氏も加わり話が弾み、佐藤家の包丁を、私が今回持ってきた砥石で研ごうということになって研ぎ始めたのだが、2本目を研いでいるうちに急に肩が張ってくると同時に足元がふらつき、脂汗が出てくる。しばらく休み、風呂場で汗を流して人心地ついたので、智弘氏に介護法の実演などを行い、その晩は休んだのだが、翌朝、目が覚めても目がまわっている。外に出ても高さ50センチの切り株に飛び上がることも出来ない、まるで他人の体のよう。
しばらく休んで広葉樹の林を1.5キロほど散歩したが、元気になるどころか益々疲れてしまった。これでは15日からの予定が思いやられるので、佐藤夫妻に詫びて2泊の予定を1泊にし、帰宅することにした。
昼前に佐藤家を出発。運転席に光夫氏、助手席のチャイルド・シートには1才の大丈夫君、後は円夫人と私。東北新幹線の白石蔵王駅まで約30キロ。宮城の山里は前日の12日は入道雲が湧いた夏空だったが、この日、13日はすっかり初秋の気配。足がふらつくだけで気分は悪くないので、車窓から木々を観ていると、もう一晩泊まろうかなという気になったが、あらゆる状況からみて今日帰ることが最もいい選択と思えたので、そのまま帰宅した。
帰宅すると、思いがけぬ手紙やら新たな問い合わせやらが来ていた。それらの用件2〜3には対応したが、とにかく早めに寝て、約10時間は休む。明けて今日14日は、やはり起きても雲の上を歩くような頼りなさだったが、一つは昨日から殆ど食べていないせいのようなので、食べれば何とかなりそう・・。まあ、それでどうやら15日の稽古会も16日からの旅行も行けそうである。ただ、どうみても本調子ではないので、打ち上げ等でのアルコールはその後の予定にも響くと思われますので固く御辞退申し上げます。
追記
夕方、いま、私の体を観て頂いている身体教育研究所の野口裕之先生に電話で経過報告と指示を仰いだところ、野口裕之先生的な、内観による処置を教えて頂いた上、「今、アルコールは絶対だめですよ、まあ、その事が実感されたからいいですけどね」と笑われてから、「今の甲野さんの体は、ウイスキーボンボンのアルコールすらダメですからね」と念を押されてしまった。
以上1日分/掲載日 平成17年9月14日(水)
渡辺京二先生の名著にして大著『逝きし世の面影(平凡社ライブラリー552)』が、平凡社より入手しやすい並製で刊行され(定価:1995 円)、昨日版元の平凡社より渡辺先生の御好意で送られてきた。この本は葦書房から刊行されたものが絶版となり、古書店でも入手が絶望的で幻の本となりかけていたもの。幕末から明治にかけて来日した西欧人が見た日本の印象をじつに詳しく調べて検討したもので、きわめて客観的に整理されているが、この本で浮かび上がってくるものは、明治という近代化で日本が失った、あまりにも惜しまれる文化、風俗、工芸、そして生活である。
坂本龍馬や西郷隆盛等に関するものをはじめ、多くの研究書や小説その他、数多くの幕末から明治にかけての日本について記述されたもののなかには昔を惜しむものもないではないが、その殆どは「日本の夜明け」といった形で書かれたものが多く、特に坂本龍馬ものなどは、その印象が強い。そのため、我々は知らず知らずのうちに、昔はよくなくて、明治になってから、日本もよくなったと思いがちだが、この大著『逝きし世の面影』を読めば、それがいかに明治以後の偏向的教育によって刷り込まれた常識であるかが分かる。
我々は現在、中国の日本に対する歴史教育の偏向ぶりを話題にするが、それを指摘する以上に明治以前の我々日本人の豊かさ(当時来日した西欧人は「下層の民がこんなにもにこやかで幸せそうに暮らしている国は、世界に日本の他に例をみない」と驚嘆している)について考えを新たにする必要があると思う。
むろん、様々な差別があり、悲惨な物語も数多くあったに相違ないが、当時世界中で日本ほど子供達がのびやかに笑い、遊びまわり、日々の生活を楽しんでいた国民は少なくとも西欧の文明圏には見られなかったことは確かなようである。何しろ、日本を「遅れた野蛮国」と批判している文献にも、思わず筆がすべったように日本のもっている美質について言及しているところがあるところを見ても、「人が人らしく生きる」ということについて、そうした雰囲気が世界でも稀にあふれていた国が日本であったように思われる。
今回の選挙でも、福祉々々の声は高かったが、設備の整った病院でチューブだらけで意識がなくなっても延命させられる事が人としての在るべき在りようだろうか?不便であっても豊かな自然に囲まれたなかで、不慮の急病や事故で命を落としても、私はそれが人としての自然だと思う。そうした覚悟やリスクを背負ってこそ、人は人らしく生きられると思うし、多くの生き物を絶滅に追い込んできて人間にとって、これ以上他の生命を犠牲にして自分達だけが生き延びようというのはあまりにも勝手だと思う。もし、そのことを積極的に許す宗教があれば、それがどれほど権威ある教えだとしても、私は到底肯定できない。
とにかく我々がいま一番向き合わねばならない事は、郵政や年金よりも人が人として生きるということの価値をどこに見出すかということを真剣に考えなければならない筈なのだが、IT化や景気対策に目を奪われている殆どの人達の耳に、その事はとても届かないだろうし、そうした生き方に関心を持とうとしている人達がいても、世の中がここまで機械化していては、志だけではどうにも難しい。
それだけに『逝きし世の面影』は、いっそう光を放っているのである。
今日は、これから四国である。
以上1日分/掲載日 平成17年9月19日(月)
16日から6日間の旅程をすべて終え、何とか東京まで帰りつく。体調不良の中、我ながらよくもったと思う。途中、何度か肩がひどく張ったりして「これはマズイ」と思ったことが3回ぐらいあったが、何に助けられてか何とかもった。恐らく明日はほとんど何もできないだろう。
この旅の間に印象深いことはいくつもあったが、最後の朝日新聞が主催する出張授業オーサービシットで訪れた伊勢の高校で約40人の高校3年生のクラス全員に1人の例外もなく喜んでもらえたのはやはり嬉しかった。私に来て欲しいという先方からの応募に応えての出張授業だったが、高3という年齢からして1人や2人しらけた顔の生徒はいるだろうと思っていたのだが(確かに授業の開始時はあまり関心のなさそうな顔もあったが)、中盤を過ぎた辺りから熱気が漲ってきて、予定の1時間半を30分近く超過するほどだった。そのお蔭で私も体調の不良を忘れて集中できた。三重県立伊勢高等学校3年8組の生徒の皆さんと校長先生をはじめ諸先生方にあらためて厚く御礼を申し上げたい。
この伊勢高校が今回の旅の最後だったので特に印象が強かったのだが、今回は大阪の寄席「ワッハ上方」で笑福亭竹林氏とトークもしたし、昨日はMBS毎日放送で角淳一氏の「ちちんぷいぷい」にも、確か4度目となる出演のための録画撮り。19日は久しぶりの大阪での稽古。これは一番きつかった。(最後は単に技の説明をしているだけで息がキレた) ただ、この日も試みたが、今回17日に四国で稽古した時、抜刀の体を体術に応用して、座り技で相手の首に手刀を抜きつける技の時、浮こうとして浮かず、沈もうとして沈まず、右旋左旋の釣り合いをとりながら、そうした全体の働きのなかから期せずして発する動きに久しぶりに僅かな光をみた。
ここで僅かながら光となったのは、意識せぬ動きを行なうのに、ただ単に「何も考えず」という事ではなく、四方八方への動きと釣り合いをむしろ意識することで、禅の公案のように結果として「何も具体的・論理的なことは考えられない」という状況をつくり、それが意識しては行けない世界へ一歩踏み込む手掛かりとする事が出来るように思えたからである。
そして今回16日の夕方、四国に渡る前に、岡山で光岡師と会って話すことが出来た事も大きな印象に残った。すぐれた技、すぐれた体系は、それがすぐれていればこそ、また様々な問題も生じる。その事を十分承知して、その重さを引き受けてゆこうとしている光岡師とは、安易な協力関係ではなく、互いの進展のため「研ぎ合う関係でいたい」という事に気づけただけでも、今回体の不調を押して5泊6日の日程を強行した意味もあったように思えた。
以上1日分/掲載日 平成17年9月22日(木)
22日は予想通り体力回復のため家から一歩も出なかったが、四国や関西への旅行中に溜まった郵便物やFAXなどの類の整理と、これから先の予定の確認や問い合わせの電話の応対で、気がついた時は夜になっていた。
それでも、ごく近々の予定で連絡を取らなければならない人への連絡を忘れていたりして、よく数えれば早急に対応しなければならない十数件が手つかずで残ったように思う。
何度もこの随感録で呼びかけていますが、私に用件を依頼されている方は、必ず電話で御確認下さい。
また、私が出すべき手紙などが遅れておりますが、お心当たりの方、御容赦下さい。
例えば、先日伺った伊勢高校の山川校長先生には、出張授業の後、伊勢の内宮を案内して頂いたり、大変お世話になりましたので拙著をお送りしたいと思っておりますが、しばらくお待ち下さい。御案内いただいた内宮に到る五十鈴川にかかる橋からの息を呑むような美しさは、今も眼の底に焼きついております。
以上1日分/掲載日 平成17年9月24日(土)
今日は、久しぶりに夕方近くから少し時間ができたので、たまっていた手紙を何通か書き、又、近々の予定の確認などを行いつつ、テレビで優勝決定で盛り上がっている大相撲を見る。
画面を見ていたら、つい数時間前に会って話したばかりの舞の海氏が同じシャツ、同じスーツ姿で解説者として映っていて、何だか不思議な気持ちになった。相撲の結果は大方の予想通りだったが、朝青龍の抜群の強さに、舞の海氏から聞いたばかりの多くの親方の嘆き(現在の日本人力士の脆さ)をあらためて思い返した。
舞の海氏は品のいい好感のもてる方だったが、私の直入身や、のしかかられた状態からの抱え上げを体験された時の、五月人形が驚いたようなお顔は、こう言っては失礼かも知れないがあどけない幼児のようで大変印象的だった。この対談は10月末に発売される雑誌『助六』の創刊号に載る予定である。
さて、10月4日は鈴鹿サーキット交通教育センターで講演だが、夕方、急遽鈴鹿で介護とスポーツの体の使い方の講習会を行なうことになった。御関心のある方は告知板を御覧いただきたい。
以上1日分/掲載日 平成17年9月26日(月)
朝起きたら、体が鉛のように重く、むくみもある。「ああ、やっぱりなあ…」と気分もひどく重い。この体調不良の原因は、あまりにもハッキリしている。それは昨日、9月の初めに受けた、ある媒体のインタビュー原稿に赤入れをしたからである。問答形式で、私が答える形のものだが、私が決して使わない表現は勿論のこと、日本語的にみておかしな所が数え切れないほどにある。始めは我慢して赤入れしていたが、あまりの酷さに赤入れを中止して、いちおう最後まで目を通したところ、開いた口が塞がらなってしまった。
今まで酷い文章は数え切れないほど見てきたが、私が発言した形でここまで滅茶苦茶にされた事は、ちょっと記憶にない。それでも何とかしようと試みたが、全面的に書き直さねばどうにもならないので筆を投げ出した。
そして、センスがないという事はここまで悲しいことかと、つくづく思った。
今、世上では今回の衆議院選挙の比例区で選ばれた26歳の自民党新人議員のセンスの無さが笑いものになっているが、今回のインタビューアーも、ずっとこのセンスでそれなりの仕事をしてきたのだと思うと、それで通ってしまう現代という時代が何とも情けない。これが悪意があって、私を貶めるような文章なら、「ああ、そういうことか」と気持ちの整理もつくが、私のことを好意的に伝えようという企画であり、インタビュー時には熱意も誠意も感じられただけに、何ともやりきれない思いにかられるのである。
この気持ちは、どう言ったら伝わるだろうか。ちょっと正確な例えではないかも知れないし、私に対して、あまりにレベルの高い人で、ここで例に出すには気がひけるが、次のような話にやや通じていると言えるかもしれない。
道具鍛冶の世界で近世の名工と言われた千代鶴是秀翁は、自分の名を騙る偽物の鉋をつくる鍛冶や「千代鶴なんて名ばっかりで切れやしないよ」と悪口を言う職人や同業者に対して、きわめて寛容であったらしいが、千代鶴翁に彫刻のための刃物を注文して、その後その刃物との相性が悪かったのか、使わないままにしていたらしい木彫界のさる大御所に対して、「誰から頼まれても作りますが、□□□□だけは、今後どう頼まれても作りません」と厳しい口調で言い切ったという。これは誰に対しても、たとえ小学生に対しても丁重に接していた千代鶴是秀翁の日常を知る人にとっては少なからぬ驚きであったらしいが、翁をよく知る人には納得がいったようだ。
なぜかというと、千代鶴翁にしてみれば、気に入らないところがあれば、気に入るようにどこまででも作り直さずにはおかない職人魂の根本に関わることだったからだろう。現代は専門家とは名ばかりの人があふれているというが、その事を身をもって実感するのは悲しい。
これを書いているうちに、もうひとつ昨日体験した嘆きの事実を思い出してしまった。それは、隣家でクルミの木の枝降ろしをして、それが薪のように切ってあるので、「薪として使いませんか」と、その家の人に声をかけられたので受け取りに行った時に体験したことである。行ってみると、なるほどちょうど薪に適した長さに束ねてある。早速、その1つを持とうとしたら、縛ってある紐の間から薪がザァーッと抜け落ちそうになった。慌てて他の束も確認したが、どれも緩い。その時、「ああ、時代は変わったんだ」とつくづく思った。
恐らく、この木を切った人はその専門家だったらしいが、薪など使ったことなど殆どないのだろう。まして作ったことはなかったのだろう。昔、実際に薪を作って使った経験のある人なら、わざわざ気をつけなくても、手が自然に動いてキッチリとした薪束を作っていた筈である。こんなハンパな仕事などやろうとしても体が許さなかっただろう。
このような、昨日あった出来事を思い返してみると、あらためて近代の科学文明の進展と、それに連なる現代から未来を考えて溜息が出た。そして同時に、渡辺京二先生の『逝きし世の面影』や『江戸という幻景』に出ている江戸時代に思いを馳せた。
学問など、よほどの物好きがした時代。
識字率は低くとも、人それぞれが自分の分に応じて背伸びをしなかった時代・・・。
それに対して、多くの人間が読み書きが出来るようになり、マニュアルに従えば、それなりの事が出来るようになって、一見よくなったように思えるが、何もかも取り敢えずの見せかけが氾濫し、目先の便利さを追って、その結果人間自体の生存の基盤である環境そのものが狂ってきた現代。
進歩を追い続けるのは人間の性とはいえ、今回のような目に遭うと、忙しさでつい忘れていた「人間にとって文明とは一体なんだったのか」という根本的な問いかけが再び心に重くのしかかってくる。
それでも明日から当分スケジュールはビッシリなので、それをこなすが、雑誌等のインタビューは、今後よほど考えて受けるかどうか決めようと思っている。
まあ、これを書いた事と、畏友の精神科医、名越康文氏と話したことで、何とか気持ちに一区切りがついた。
依頼のあったインタビュー稿は、仕方がないので全面的に私が書き直すことにしたが、書き直しながら、名越氏の「しかし、ぬるいところで仕事している人が多いですよねえ」という嘆きが耳の底にこだましていた。
以上1日分/掲載日 平成17年10月1日(土)