2005年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 2001年 2005年 2009年 2013年 2002年 2006年 2010年 2014年 2003年 2007年 2011年 2016年 2004年 2008年 2012年 |
家に帰って丸2日半経ったが、約2週間にわたった留守中に届いた郵便物や宅配便は、まだ全て確認し終えていない。というのも、私の帰宅を待っていたかのように雑誌等の緊急の校正がいくつかあり、又、4日から名古屋の方に出かけるための準備などに追われているからである。
ただ、そうしたなか、あらためて思うのは精神内面のこと。「己に勝つ事を知る者には敵なく、敵に勝つ事を知る者には敵する者絶えず」の古人の言は『願立剣術物語』にも引用されているが、その事をあらためて思う。
そうした思いから、真宗の悟得者ともいえる妙好人の一人、因幡の源左の事績をインターネットで探して読み返す。このなかで、一燈園の西田天香師との問答には唸らされる。天香師の講演会に、十八里の道を歩いて来たが間に合わなかった源左翁を気の毒に思った天香師は、宿で源左翁と会うと、源左翁は天香師の肩揉みを志願し、肩を揉みつつの問答となる。
源左、「今日のお話は、どがなお話で御座んしたな。」
天香氏はこの答えが一度では分かりかね、また念問をされた。
天香、「お爺さん、年が寄ると気が短くなって、よく腹が立つようになるものだが、何でも堪忍して、こらえて暮らしなされや。そのことを話したんだが。」
源左、「おらは、まんだ人さんに堪忍して上げたことはござんせんやあ。人さんに堪忍してもらってばっかりおりますだいな。」
「お爺さん、何といわれたか、今一度いうてくれんかな。」
源左、「おらあは、人さんに堪忍して上げたことはないだけっど。おらの方が悪いで、人さんに堪忍してもらってばっかりおりますだがやあ。」
流石の天香氏もこの言葉には三舎を避けた様子であった。
天香師ならずとも、教えたつもりでこのような答えに出会ったら次の言葉は出なくなるだろう。同じ人間で、なぜこういうところまで行けるのか、あらためて深く考えさせられる。
以上1日分/掲載日 平成17年11月3日(木)
疲れた!体調は次第に良くなってきている筈なのだが、九州・中国地方から帰った直後から、以前行なった講演のテープ起こしや雑誌の取材の原稿が続々と入ってきて、しかも、どれも戻しまでの日数があまりなく、5日の深夜に名古屋から戻ってきて丸3日、ひたすら校正をしていた。なかには7月末に行なったものが今頃来ていたり、赤入れを依頼してきていながら、A4の用紙にほぼビッシリ字が入っていて、赤入れをする余地が殆どないものを、そのまま送って来たものもある。また、既にはじめに送られてきたレイアウトが入る以前の棒打ちの原稿に赤入れして送ったにもかかわらず、全くそれが直っていないものなど、編集者の配慮のなさには、もう既にこの随感録に何度書いたか分からないくらい書いたが、一向に改まる気配がない。
まだまだ就職事情は厳しく、しかも編集者は多くの人が目指す花形の職種だと聞いているが、どうしてこんなに配慮の欠けた人でもプロになれるのか不思議でならない。配慮の欠けた編集者に赤入れ原稿を送っても、どこまで直るか心もとないので、結局、全文をメールで送ってもらい、妻も動員して、こちらですべて直して返す事にしたが、1万5千字くらいあるものだと、2人合わせて10時間はかかってしまう。これが記者による第三者の印象記ならここまでやる必要もないだろうが、私の講演発言なので責任上いい加減にも出来ない。
講演は出かけていって話せば、それで仕事は終るのだが、こうしたテープ起こしのまとめがつくと、講演の何倍もの労力がかかる。これからは、事前にそうした講演内容の活字化の予定があるかどうかをよく確かめて、そうしたものがある場合は、〆切の日数や送る時期の確認など、必ず事前によく打ち合わせるようにしようと思う。
とにかく、こうした仕事のお陰で急を要する手紙や荷物まで、つい出しそびれてしまうくらいだから、いろいろとお世話になった方への礼状やお礼の電話など、もう何十件たまっているか分からないほどになっている。
誠に申し訳ないが、この場でお断りと御礼を申し上げさせて頂きたい。
11月4日のアイシンAWのバスケットボール・チームでの事、5日の春日井での介護に関する講演の事、名古屋での稽古会の事なども書きたいのだが、今日はもう時間がないので、またの機会にしたい。
以上1日分/掲載日 平成17年11月9日(水)
松本市で開かれた高体連の講習会に招かれて、初めて松本市街を歩く。迂闊なことに、ここに来るまで松本城が国宝ということを知らなかった。講習会が明けた11日、長野工専の児玉先生に案内して頂いたので、天守閣の内部まで入る。
松本城太鼓門付近の石垣は、ごく最近積んだように見えたが、果たしてどのような工法で積んだのか、もしご存知の方があったらご教示頂きたい。
帰京先の新宿駅には、雑誌記者のK女史が迎えに出られていて、ずっと私と一緒に所用先を廻りながらの取材となった。
私も今まで随分多くの編集者に会ったが、K女史ほど私が会った人達それぞれに愛嬌よく挨拶をされる人は見たことがない。にこやかに挨拶をされて気分を害する人も滅多にいないだろうから、挨拶ということもコミュニケーションをとる前提として大切なのだということをK女史を見ていて改めて思った。
明日は久しぶりに野口裕之先生の許へ伺うが、そこから帰宅して、翌日9時頃の"のぞみ"で福山に向かうには、あまりに睡眠時間がないので(おそらく帰宅していたら寝る時間は2時間あるかどうかだろうから)、新横浜駅のすぐ側のホテルに泊まって、翌日西へ向かう予定である。
松本での高体連の講座は好評だったとのことで、「また来年も」と、担当して頂いた真田先生からご依頼を受けたが、一年後、果たしてどのような状況になっているのか、まるで想像がつかない。
以上1日分/掲載日 平成17年11月12日(土)
今回の旅は、12日に家を出てから4泊しているのだが、その間に起きたいくつもの事が、それぞれ切り離されていて、長いような短いような不思議な気分で帰途についている。
13日の福山での会には、毎日私のムック本のDVDを観て、看護の動きを研究されているという年配の女性から熱心な質問を受けたので、文字通り手を取り、足を取って(両足裏の垂直離陸と腰の落ちのタイミング等)説明し、実習をして頂いたところ、感覚的に腑に落ちたところを得られたのか、「DVDで観ているのと実際は全然違いますね」と興奮気味に喜んで頂き、私も会を開いた甲斐があったと思った。
この時思い出したが、10日ほど前の11月4日、春日井の老人介護施設で約300人の介護職員を前に、講演と実技を行なったところ、私が椅子に座った人を、その座った姿勢のまま抱き取って持ち上げる「浮き取り」を実演したところ、見ていた若い職員の人達がどよめき、その後一斉に近くに座っている同僚と思われる人たちと興奮して喋り出したら止まらなくなってしまい、司会者が「静粛に願います」とマイクで制せざるを得ない状態となってしまった。
私も、この介護法を各地で何十回となく実演してきて、どよめきや、ざわめきは経験しているが、まるでUFOか何か常識ではあり得ないものを見た人達が興奮して喋り出して止まらなくなった状況になった事は、この時が初めてだった。
恐らくは、人を抱え上げる事を仕事として、日常そのことに従事している人達なだけに、「浮き取り」で、椅子に座っている人が、まるで目に見えない椅子に座らされ、その椅子を私が大して重そうな素振りも見せず持ち上げた光景が、ひどく奇妙なものに映ったのだろう。この事実を見ても、現代は何かというと「科学的に見れば・・・」と言って、科学では説明の難しい術の世界が潰されてきたかがよく分かると思う。
この、「科学的に見れば・・・」という事については、翌14日の夕方から大阪の名越クリニックを借りて行なわれた、内田樹神戸女学院大学教授と私との教育問題に関する対談のなかで、私は何度も強調した。この対談は来年1月に出る『中央公論』誌に載る予定だが、約2時間半、論客で早口の内田先生と、内田先生ほど早口ではないが、私も途切れることなく喋ったので、そのままテープ起こしをしたら数万字になってしまうだろう。それをどうまとめるかは編集者の腕にかかっているが、何とか私も赤入れするのに張り合いのある原稿が上がってくる事を祈っている。
今回の4泊の旅でも、私が家を出た直後に来た赤入れ原稿が2本あった。「私が家を空けていないかどうか、原稿やゲラを送る前に必ず確認して下さい」とクドイほどに言っているのだが、それが守られない事が相変わらず後を絶たない。
近々、告知板に編集・取材の方々に最低限守って頂きたい事を箇条書きにしておこうと思うが、原稿やゲラの戻しの期日の明記、連絡先の電話、FAX番号の明記、依頼者に送る原稿やゲラに赤入れする余地のあるものを送る事、原稿やゲラが到着する頃に、依頼者が在宅かどうか確認する事など、編集者として基本中の基本であり、本来出版社や編集プロダクションで教えることだと思うが、こういった事が守られていない例があまりにも多いので(これらが守られる事の方が近年では少ない)、これからは、あらかじめ取材に来る方に、これらの事を守って頂くよう文書をお渡ししようと思う。そうでないと、急ぎの原稿の時など、旅先で世話になる方々にも迷惑がかかるし、私にも精神的負担が、かなりかかるからである。
15日は岡山に1泊し、光岡師と濃い時間を過ごす。「事実は小説よりも奇なり」というが、生命体の不思議さをまた新たに実感させて頂いた。御縁のあった事に心から感謝したい。
以上1日分/掲載日 平成17年11月17日(木)
16日に家に帰って、まる3日が経ったが、いくつも重なるようにして入っている校正原稿やゲラに追われ、ロボットのような日々。
昨日は夕方5時から蔵前の会が約半年ぶりにあったのだが、それに間に合うよう数時間前から最低限やっておかねばならない諸用を、その中でも優先順位を考えてやっていながら、出発予定時間に仕度が間に合わず、1つ次の電車にしたが、これにタッチの差で遅れ、結局会の開始は7分遅れになってしまった。それでもなお電車の中で緊急に連絡を取らなければならない事を2件忘れていたことを思い出す。「全くなんという人生か」と思うが、これがいつしか日常になって特別に思わなくなってきている。(考えてみれば、これは大問題だが…)
ただ、このような状況ですので、私と取材で約束されている方は、事前に必ず電話で直接私と話して御確認下さい。
このような状況でも、まだ一応は休業中なので、最低限、睡眠だけは極力とるようにしている。(もっとも、気になって起きてしまう事もしばしばだが)その点、自宅に帰ると、やはりよく眠れてありがたい。
それから、帰宅して一番ありがたいのは食事。玄米、黒米、丸麦、キビを大体同じくらいに混ぜて炊いた雑穀飯とネギをたっぷり入れた納豆、そして小松菜等をサッと湯にくぐらせたもの、その美味さが身に沁みる。野口裕之先生のお蔭か、体が変わり出してから、「敏感になるので、いろいろ大変ですよ」と忠告されてはいたが、これでは海外旅行は無理かも知れないと思う。
敏感といえば、昨日出かける時、慌てて草履で出かけようとして、すぐ下駄に履き替えたのだが、その時、草履のままの方がいい予感がしたのを無視して出かけ、「これは転んだりするのかな」と思ったのだが、直前で電車を出した時に「ああ、草履で走っていれば間に合ったのに・・」という事に気づき、あの妙な予感はこの事かと腑に落ちた。
久しぶりの蔵前の会はいろいろな方が集まられていたが、私自身自分の動きのマズさが今までで一番ハッキリと自覚できた。ただ、客観的には技の利きは半年前よりあったようで、体重110キロという柔道選手も驚いた様子だった。この会で稽古のやり方を説明していて、フト口をついて出た「技が上達する1つの要素は、潔癖症の人が、普通の人なら何でもないようなものも堪らない嫌悪感を感じて、それを避けようとするような情熱と同じように、自分の動きの粗雑さ、いい加減さが気になってしようがないくらい自覚出来るようになる事かもしれません」というフレーズには、この言葉を私が発したという事は別にして、私自身あらためて人が何かと取り組む時の情熱について考えさせられている。
以上1日分/掲載日 平成17年11月19日(土)
昨日から仙台に来ている。このところ、いつも考え事をしながら歩いているので、東北新幹線に乗るのに、東京駅で東海道新幹線の改札口へ行ってしまい、あらためて我に返って、「そうか、今日は西に行くのではなくて東だった」と慌てて東北新幹線の改札口へまわったような状態。
そんな中、感激したのは、14日に大阪で行なった内田樹教授との対談の原稿が、中央公論の井之上氏から22日の夜遅く送られてきたのだが、その出来栄えの見事さ。2時間半くらいはあった対談で語られた大量の言葉を、一万数千字に編集されているのだが、それが実に要領よくまとめてある。建物に例えれば、「家が出来ました」と知らせを受けて行ってみたら、本当に思ったとおり出来ていて、内装をちょっと直せばいいぐらいに仕上がっている状態なのだ。このところ、「家が出来ました」というので行ってみたら、結局その家を取り壊して、土台から建て直さねばならないものやら、土台や柱はそのままでも、外壁も内装も同じ家とは思えないほど手を入れなければならないもの(原稿)に辟易していた私にとって、予想を遥かに上回る出来に感動してしまった。
思い返せば『超人へのレッスン』という中央公論社の雑誌『GQ』で縁が出来、今年『身体から革命を起こす』でもお世話になった田中聡氏以来、私の喋ったことが殆ど赤入れの必要もないほどに仕上がってきたのは、UHJ総合研究所の雑誌でお世話になった鎌田氏と、今回の井之上達矢氏のただ3人だけである。
そうしたなか、とりわけ井之上氏に感動したのは、氏がまだ20代後半という若さであること。「国語力がない、企画力がない」といわれる現代の若者に、これほどの能力のある人物が存在した事が無性に嬉しく、本来なら翌日の仙台行きのため早く寝る予定だったのに、ついつい赤入れをして寝るのが遅くなってしまったが、元の原稿がよく出来ているから赤入れもやり甲斐があり、主なところは井之上氏から原稿が届いてから1時間くらいのうちに入れ終わり、細かいところは原稿を東北の旅に持って出て、途中から電話連絡で十分済みそうである。
対談、あるいは講演をやって、その内容の校正の手間に天地の差があるとなると、このような仕事のギャラがライターや編集者によって差がない現行の出版界の慣習が、きわめて不合理に思えてくる。まあ、その慣習に異を称えても何も変わらないだろうが、今後は優秀な編集者の仕事なら、かなり無理をしても受けようという気になることは確かだ。
中央公論社には申し訳ないが、井之上氏のような能力のある書き手、まとめ手は早く独立して、優れたライターやエディターを喉から手が出るほどに欲している語り手のために、縦横に活躍して頂きたい。
今朝の朝日新聞の朝刊のオーサービジット(作家による出張授業)に、私が9月に伊勢高校で行なった様子が出ているが、そのなかで、どうも記事の書き手が、私が実演した"一本釣り"と"添え立ち"を混同して書いているようだ。
以上1日分/掲載日 平成17年11月24日(木)