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2005年8月4日(木)

 昨日はようやく寝るのにいい時間に眠くなってきたので、何日かぶりに12時前に寝て、今朝は7時に起きる。
 7月28日の東北行き以来ずっと寝不足だったが、これは久しぶりの旅行、そして人前で話したり動いたりした事でテンションが上がっていたのだと思う。それが昨日8月3日まで続いたのは、31日に東北から帰っても8月2日にはラグビー協会から招かれての講座があったからだと思う。
 あらためて考えてみると、今までバスケットボール、陸上、サッカー、卓球にアメフトやラグビー、野球等々の選手や指導者の方々が単独に、あるいは有志の方々がある程度集まって私のところに来られたり招いて下さったりした事が数多くあったが、あるスポーツの専門種目の公的団体から正式に招かれて動きを解説し、体験して頂いたのは、今回の財団法人日本ラグビーフットボール協会が初めてである。ちなみに今回講師としての私の正式名称は、平成17年度(財)日本体育協会公認ラグビーフットボールコーチ専門科目講習会講師という舌を噛みそうな名称である。
 しかし、どのような会であっても私がやる事は殆ど変わりない。とにかく直にラグビーに役立ちそうな動きを行い、実地で質問を受け、動き、体験をして頂くだけである。今回は大学、社会人、高校の指導者の方々が参加され、それに私の技の受け役として現役選手が7人ほど、全体で30〜40人ほどだった。
 内容は、タックルに来た相手の沈め方、躱し方。それから逆にこちらがタックルに行った場合、相手がハンドオフで逃げようとする場合、そのハンドオフの手を切り落としてタックルに行く等々といったものなど。ただ、今回初めて出された課題は、ボールを持って地面に倒れた選手が持っていたボールを、敵のチームに奪取されないように味方が倒れた選手とボールの上に、ちょうど卵を抱く親鳥のように覆いかぶさっているのをどうやったら速やかに排除出来るかというもの。この状況を何という名前か聞きもらしたが、体格のいい選手が倒れた選手と直交する形で覆いかぶさると、その排除はなかなか難しいとの事だった。
 私も初めて見る状況で、その上はじめに倒れている選手をまたぐ形でその上に重なっている選手の腰の辺りまで手を伸ばす事はルール上出来ないとの事だったので、7〜8秒考えたが、「これは『平蜘蛛返し』をまず試みて、その状況次第で次の手を考えよう」と決め、覆いかぶさっている選手の肩口と上腕に手を入れて、足裏をフラットにして体を沈めると直ぐ立ち上がった。結果は思っていた以上に有効で、瞬間的に跳ね上げて排除することが出来た。
 その他、抱えているボールの奪取、後から抱きつかれた時の抜け方等々、出された課題や質問にそれぞれ対応する動きをその場その場で行なう事が出来た。ただ、スクラムを組む形で地面と併行になるぐらい肩と肩を当てて押し合う形は、有効な方法がその場では思いつかず、宿題として持ち帰らせて頂いた。
 私の相手に出られた方は、その多くが80キロ、90キロ、100キロといった体重で、特に優に100キロを超えていると思われる方と正面から普通に踏ん張って当ると、本当に冗談のように私が飛ばされるが、踏ん張らず、浮かず、沈まず、前後の釣り合い、左右の釣り合いをとるようにして(といって、一々考えていたら出来ないが)入ると、相手がこちらの力の方向を認識してから反応しようとしている間に入る事が出来るためか、正面から真っ直ぐ寄り切った形のように相手を崩す事が出来た。これなど『願立剣術物語』の47段目(前回この随感録に引用)の「唯中央をとること肝要なり」が術理的に最も大きな影響を与えている。
 講座が終ってから、今回私の世話役をやって下さった日本ラグビーフットボール協会(ラグビーは正式にはラグビーフットボールという名称である事をこの日初めて知った)の強化委員会の副委員長であるU先生には少なからぬ関心を持って頂けたようで、今後又何か展開があるかも知れない。今回の事では、この講習会の仲介役を務め、又、当日私を車で会場まで送って頂いた防衛大学のバスケットボール部を率いられている入江史郎助教授にこの場を借りてお礼を申し上げておきたい。
 それにしても、いつの間にか、なし崩し的に休業が休業でなくなっていて、今日も今後の講座やインタビューの依頼の対応や準備に6時間は使ってしまった。こんな事をしていると、思いがけぬ方からの思いがけぬ贈り物の礼状もつい1日遅れになってしまいそうだ。
 しかし、『武学探究』の2巻目をまとめているこの時期に、昨日3日この本の中でも何度となく触れた無影心月流の流祖、梅路見鸞老師の許で内弟子をされていた池田正一郎先生から御手紙と梅路老師の漢詩をまとめられたものを贈って頂いた事は何とも言い難い感動だった。

以上1日分/掲載日 平成17年8月5日(金)


2005年8月15日(月)

 7日に名古屋へ発ってから約1週間、次々に想定外の事が起こり、しかも予定が目白押しで随感録の原稿も折々書いてはいたのだが、とうとう送ることが出来ずに日が経ってしまい、今更それを送るのもどうかという気がして、結局漸く少し時間を得た今、初めからこれを書いている。
 この1週間で一番印象深かったのは、技と術理の進展。それをどういうふうに言っていいのか分からないが、体術などの相手と触れ合っているところで言えば、相手と触れている曲面と直線的最短ルートと同時に2つの動きが働いているという感じ。剣を打ったりする時は、手の振りに沿う曲面の認識と内動する直線の同時存在とでもいうのだろうか。これが「三元同立」とどういう関係にあるのか私自身よく認識出来ていないが、この三元同立と刀の構造を考えているうちに、7日に名古屋であった会の後の打ち上げの席で、初めてこの動きがある程度ハッキリとしてきた。
 当初は刀の構造というのがヒントになっていたように思う。つまり刀は側面から見れば反りがあって曲線だが、刃筋が立つ方向から見れば直線(相手に沿う曲線と一気に貫く直線)である。これは曲線と直線を異なった面で同時に存在させていることになるが、その同時存在の新たな気づきだったように思う。
 この気づきによる変化を知りたいという事もあって、13日、格闘家の植松直哉氏に技を受けてもらって感想を聞く。植松氏の感想としては、まず何よりも以前より動きが何気なくなってきているとの事。実際、その何気なさがどの程度かは分からないが、その様子はちょうどいまF氏がドキュメンタリーの映像として記録されているので、いつか見てみたいと思う。もっとも、しばらく経ったら、またここから変化していて、あまりこの事には関心がなくなってきているかも知れないが、動きの研究という事では一つの手掛かりになるかも知れない。
 しかし、この休業に入ってから進んできている言語化しづらい術理の展開は、益々その度合を深めてきている。反りのある刀で斬るという感覚は、もう25年以上も前、私が武術稽古研究会を始めた頃に盛んに言っていた「斬りの原理」と、言葉でいうと近い気がするが、当時の斬りの働きは、斧のような打ち込む力と鋸のような引く力との合成という概念であり、ベクトルの合成のような、きわめて物理的表現であって、二次元に収まる説明だったが、今回の「斬りの働き」(そう名づけるならだが)は、そうした分かりやすい理論とは随分違う気がする。何よりも私自身よく理解出来ていない。
 今後、理論的にまとめる事は不可能でも、せめて私自身使いこなせるよう言葉にならぬ言葉のまま何とか感覚的には把握していきたいと思う。
 それにしても7日からの名古屋・大阪方面への旅ではいろいろ思い出に残ることがあった。例えばバスケットボールの浜口典子選手との研究で、スクリーンアウトなどで顔面に肘打ちを入れてくるような過激な外国人選手のガードへの対応法の発見。また8日の夜は北浜で植島啓司先生の「聖地のフィールドワーク」の講座に出たところ、植島先生の遅刻で前半を少し私が代わって代講をした事。9日は『武学探究』の2巻目の制作打ち合わせで久しぶりに夏の京都を味わった事。10日は神戸女学院大学の内田樹先生と本のことなどでお会いし、あらためてその頭脳の回転の速さに感嘆した事。その2日後、精神科医の名越康文氏と会ったが、2人とも「内田先生こそ政治の世界に入るべきだ」という結論で一致した。
 関西から帰ってみると、とにかく問い合わせ、打ち合せの山。休業の筈が事務的仕事と雑用で数日間は瞬く間に過ぎた、という次第である。もう自分でも追いたてられるように、そうした仕事をやってしまうので、これは本当に何とかしなければならない。

 今後、この過密な日常の対策に乗り出すと、私に何か新たな依頼を考えられている方の御依頼にはなかなか応えられない事になるかと思いますが、その点をなにとぞ御了承下さるようお願い致します。

 私の動きに興味を持たれている方で、スポーツ等への応用展開に興味のある方は、高橋佳三氏の研究が相当進んでいるようですので、私のサイトとリンクしている高橋氏のサイトを御覧下さい。今月21日に高橋氏が朝日カルチャーセンター湘南で講座を行なう予定で、まだ多少席に余裕があるようですので、そちらもお問い合わせください。
 介護に関しては、高橋佳三氏と共同研究をしている岡田慎一郎氏が最適任者でしょう。私の技の介護への応用と展開は私よりも幅広く技術も確かですから。岡田氏への連絡は高橋氏へお問い合わせください。
 また、私の武術の技と術理の軌跡と、それらに関する独自の展開は、やはり私のサイトとリンクしている半身動作研究会の中島章夫氏が最も詳しいと思います。中島氏とは25年を越えるお付き合いで、私の動きが一般的なスポーツ理論とどう違うかについては、私も気づかなかった思いがけない指摘を受ける事もありますから・・・。

追記:
先程電話があって、4月にNHK総合テレビで放映された『課外授業・ようこそ先輩』が、9月7日23時15分から45分までの時間帯で再放送されるという連絡がありました。4月の放映後、「再放送も見逃してしまったので、もしまた再放映をするような事があったら連絡を下さい」との声が少なからず寄せられたので、ここにお知らせしておきます。7日の再放送はNHK総合テレビで教育テレビではありません。

以上1日分/掲載日 平成17年8月16日(火)


2005年8月17日(水)

 昨日16日は『月刊消防』のインタビューと、その後ドキュメンタリー映画の撮り。その間、2件ほどインタビューも中断して話さねばならないような電話もあり、とにかく午前11時頃から午後11時過ぎまで時間が一息で流れたような感じだった。
 このように12時間が一気に過ぎたのは、夜に入ってからの私の稽古風景の撮影時に、また1つ気づきがあって、その事に気持ちが集中したために、私自身、時間が経つのを忘れたからだと思う。
 まず、稽古の課題というのは、禅の公案のようにある程度は話として出来ていながら、その問いかけの答えは決して論理では不可能な構造である事が必要なのではないかという事に思い至ったこと。つまり科学的にはすべて矛盾のない論理の組み立てによる術理などは、そういう構造であればあるほど限界がみえている、という事になる。
 こんな事を考えながら抜刀や剣術などを一人考えて稽古をしているうちに、体の使い方は「全身を協調させ全力で向かいつつ、それをチェーンソーのように次々と全力で当る部位を交代させることによって居つかず、休養十分な、いわば新手の兵力を相手方に向かわせることになるのではないか」という思いが自然と展開してきた。
 そんな事をいろいろと考えている時、ちょうど別の用件で電話をした四国の守氏(私が四国や岡山で稽古会等を行なう時に、いつも世話役をしてもらっている)に、この話をしたところ、このような妙な「たとえ」にも関わらず大変よく理解してもらったので、話をしているうち調子に乗って益々突飛な「たとえ」を思いつく。それは企業などのクレーム対応係などを思い浮かべて思わず出たのだが、悪質なクレーマーが「責任者を出せ!」と怒鳴っている間に、その「せきにんしゃ」の「せ」と「き」と「に」・・・の一音一音の間にもめまぐるしく対応係が変わって、それまでの経緯を理解しない者が出続けたなら、文句を言う側も対応にまごつくだろうという事。つまり、相手の押し込まれたり崩されたりというのは、体がそれまでの経緯、物語を理解して、それに反応しようとするからそうなるのであって、それまでの脈絡を知らず、取り合わないという事は、相手の攻めに乗らないし、相手が凄んでもそれに威圧される事もないという事である。もちろん、これはあくまでも「たとえ」で、現実にこんな事を客商売に応用したら店の信用は一度に失われてしまうだろうが、相手と戦う際は有効だと思う。
 とにかく最近は多くの人には理解してもらえそうもない飛躍した「たとえ」をいろいろと思いつき、これでは広く社会一般の人達に納得のいく話は難しくなってきているのではないかという気がしてきた。この事に関しては、今月26日、何年ぶりかで行なう福山での講座は一般の方々を対象にした話と実技解説を行なう場なので、現在の私の話に対する一般の方々の反応を見るのはいい機会かもしれない。
 この広島県福山市での講座については四国の守氏が窓口を担当されているので、御関心のある方はお問い合わせ下さい。

以上1日分/掲載日 平成17年8月17日(水)


2005年8月22日(月)

 2,3日前から陽射しがすっかり秋。油蝉とミンミン蝉の大合唱の合間にツクツクボウシの声も聞くようになってきたし、日が落ちると樹上では青松虫が鳴き始め、私が1年のうちで最も感傷的な思いが込み上げてくる晩夏が始まりだしている。そうした季節の変わり目もあってか、ここ1週間ほどの間の出来事は1ヶ月くらいに感じる。
 その間、最も印象に残ったのは、身体教育研究所の野口裕之先生の次女にあたる野口紘子女史の絵の展覧会。私は17日と19日に2度伺ったが、ジャンルとしては抽象画だろうが、人間というのは何かを見ると、どうしても何か具体的なものを連想したくなるという習い性に斬り込んでくるような厳しい絵でありながら、見方によっては暖かくほのぼのともしているという実に不思議な絵なのである。
 私よりも先にギャラリーに行って、そのまま帰阪した精神科医の名越氏と夜電話で話したが、あんな絵を観てしまうと人間にとって努力とは何なのかとあらためて考えてしまう。それにしても、その鋭すぎるような感性を見ていると、そういう感覚は祖父野口晴哉、父野口裕之と受け継がれてきた血の中にあるとしか思えなくなってくる。かつてこの随感録の中で、「天才は練習しない」という事を書いたが、その事をあらためて思い出してしまった。
 18日はずいぶん久しぶりにフェンシングの方の質問を受けて、いろいろと使ってみる。フェンシングは数年前、米沢東高校のフェンシング部に招かれて以来だったが、あの時気づいた"払い"が当時よりは威力が出ていて、フェンシングの撓みやすい剣の先の方で相手の鍔元近くの太い部分を払い落とす技に関しては、「こんな事はフェンシングの常識ではあり得ません」と、何だか想像していた以上に感激されてしまった。この方はアメリカ在住の日本女性で、武道、格闘技のアメリカ人指導者と結婚され、数ヶ月前から大変熱心なメールを寄せられ、そのあまりの熱意に私も心を動かされていたのだが、8月に短期間帰国されるというので道場に来て頂いたのである。
 「剣客に非ざれば剣を呈ずるなかれ、詩人に非ざれば詩を献ずるなかれ」とは古人も言っているが、私に会えるという事で遠路はるばるアメリカから頑丈でかさばるゴルフ用具のケースにフェンシングの用具一式を持参して来られた熱意には、あらためて頭が下がった。しかし、いろいろと技を試みてみて、武術的な立合の場というのが、やはり私にとって最も気持ちが集中する環境である事をあらためて感じた。
 この日は払い技の他に、相手の抜き技に対して抜き返す技も、体を手とは別々に使うことで一層速やかになる事が判明。私にとっても実りのある時間を持つことが出来た。こうした事もあって、術理に関してもまた一つ次のような気づきがあった。
 「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」これは有名な『方丈記』の冒頭部分であるが、1週間ほど前から展開中の「チェーン・ソーの原理」について考えているうち、ふと『願立剣術物語』の「此伝は流るる水の如く少しの時も止むことなき剣術ぞ」から、この『方丈記』を思い出した。確かに川の水は流れ続けているが、その水は絶えず入れ替わっている。上段から斬り下ろす太刀は、通常それに関わる身体は動きが変化しつつも担当部位がずっと受け持っているものだが、それが数多くの部分に受け渡されて変化するほどに、その技は捉えがたくなるだろう。そんな事を19日、野口裕之先生に体を観て頂いた折に話したところ、深く頷いて頂いた。
 体のことといえば、現段階でもかなり体を動かしてしまっているが、野口先生によれば「本格的に動かすのは10月の初め頃にして、それまでは無理をしないようにして下さい」との事だった。
 このような指示を頂いたから、という訳でもないが、休業中の現在でも、とても対応しきれないほどの用件が入っているので、休業は当分このまま延長しようと思っている。ただ、既に決まっている今月26日の福山での講座に変更はない。福山の講座は会場が広いようなので、球技系の方の質問に実技で答えるには向いているかも知れない。この福山の講座へのお問い合わせは守伸二郎氏まで。
 また、翌27日は佐世保での講座。そして9月9日の池袋コミュニティカレッジの講座も予定通り行なうつもりである。27日の佐世保での講座に関しては、いつも佐世保でお世話になっている平田雄志、平田整骨院院長にお問い合わせ頂きたい。(平田整骨院の電話番号は0956−49−3754です)

以上1日分/掲載日 平成17年8月17日(水)


2005年8月23日(火)

 甲子園で優勝した駒大苫小牧高校野球部の部長が生徒を叩いたという事が表沙汰になって、優勝報告会も取り止めになったというニュースに接し、何とも言いようのない思いにかられた。この言いようのない苛立ちは、まず第一に高野連をはじめとする、いわゆる教育関係者の官僚的体質への苛立ちである。
 生徒を指導者が叩いてこれほど問題とするのなら、常日頃生徒達に向かって罵声を浴びせ続け、日頃のストレスを、生徒達を怒鳴ることによって解消している非常に数多い少年野球の指導者達をなぜ放置しているのかという事である。
 少年少女のスポーツの練習を見たことのある人なら、その殆どの現場で言葉の暴力が飛び交っている事を知っているはずである。私もバスケットボールの練習試合で発狂したように女子生徒達に罵声を浴びせ続けている監督を見て、119番しようかと思ったほどだが、関係者によれば、それでもいつもよりは控え目だと聞いて本当に驚いた事がある。
 今回の事がどういう状況下で行なわれたか分からないので、今回の事そのものに関しては何ともコメント出来ないが、しょっちゅう罵声を浴びせるよりは、よくものが見えている指導者が時に叩いた方が、その後生徒の為にもなる事はあるだろうし、子供に対する接し方というのは、その場その状況に応じ、またその人その人の力量で様々であるべきだと思う。
 禅宗史上、最も名高い臨済義玄和尚は、その師黄檗希運に3度質問して3度とも叩かれ、訳が分からなくなったが、その後高安の大愚和尚の許で黄檗に叩かれた事の真意を悟り、後にその教えは日本にまで伝わり、日本では曹洞と並ぶ禅の二大宗派となった。
 とにかく教師は生徒に手を出してはいけないという事を絶対的なルールとしてマニュアルで定めたら、そのルールを楯にとり、教師を挑発し、からかい、本当に鼻もちならない小ズルイ者が野放しに育ってくる恐れも出てくるだろう。また、最近は保護者の中に、生徒が学校で転んでも校舎の床の整備が悪いからだと文句をつけて訴訟にまで及ぼうとする者がいるようだ。このような他に責任をなすりつけたがる風潮は、今回のような事で学校側が謝ると益々増えてくる可能性がある。
 もちろん、決して生徒を叩いたりしないで、言葉のみで生徒の心に響く事を語りかけられる力量を持った指導者は素晴らしいが、人間、性格も体癖も様々であり、自分の分にあわない事を猿真似でやってみても上手くはいかないだろう。
 親が子育てに情熱を失い、責任回避を優先させるような教師が増えている教育環境の中にあって、根本的解決策は現行の教育制度の解体しかないような気がする。
 つまり子供は十代のはじめから、とにかく仕事をするようにして、仕事をしながら自分のやりたい事を探し、やりたい事が見つかったら、そのための知識を得るために学ぶ。そして、その学ぶための形態や場は多種多様にあった方がいいと思う。そうしたなかで育った人材を見つけ、そうした人材を欲しているところに世話をする人材の目利き人が職業として成り立つような、そんな社会を私は思い描いている。
 暴力事件やイジメに対する根本的解決は、自分に適ったところを探すため、さまざまな私塾的な教育の場に自由に出たり入ったり出来るようにする事だろう。そして、その際必ず仕事と引き換えに体験する事と定めるようにすれば、ただ無責任にあちこち出入りするという事は防げるだろう。
 考えてみれば何千年もの間、人間は子供であってもある程度のことが出来るようになれば、すぐ何らかの仕事に就いていた。体を使って動きたい盛りに学校という場に押し込めて頭を使う事を偏重する教育を無理やりやらせるというのは、ここ百数十年来の事であり、ずいぶん不自然なことだと思う。
 郵政民営化が根本的にいいか悪いかは私にはよく分からないが、教育の解放(企業に就職する際、大卒が条件になるといった条件を完全に無くすこと)は是非ともやってもらいたいと思う。そうすれば要らざる見栄に使われているエネルギーが、もっと社会のために有効に活かされるだろう。
 明治維新以前の日本人、特に庶民は子供達を大変可愛がり、当時来日していた西欧人が、こんなに子供を叱らずにいたら子供達が増長して大人の言う事を聞かなくなるのではないかと驚いたというが、可愛がられた子は、それだけによく親を助け、西欧人を感嘆させたらしい。(もちろん例外はあったろうが)
 明治維新の近代化で、維新以前はすべて旧弊と切り捨てたために、何だか昔は「無理偏に拳骨」で子弟を仕込んだなどと思われていたようだが、そういった風潮は、むしろ明治になってから広がったような気がする。
 人間も生物としての本来的立場でみれば、親は子を、ただひたすら育てて、見返りを求めないのが自然だと思う。何か大きな目的を持つという事は張り合いもあろうが、子供を育てるということ本来の意味(つまり苦労もするが、共に生きていることの楽しさを得るという事)を歪めるような気がしてならない。

 26日の福山、27日の佐世保の講座のための荷造りに追われ、また何本もの原稿依頼や校正がある上に、今日書く予定ではなかったこの随感録まで書いたため、一層時間がなくなって、本来なら連絡するべきところに連絡をしていなかったり、礼状を出すべきところに礼状を出していない数が20件や30件ではないような気がする。誠に申し訳なく思っておりますが御容赦下さい。それから私からの連絡を待たれている方は、どうか積極的にお問い合わせ下さい。なお、26日から今月一杯、私は不在の予定ですので、御連絡は25日中にお願い致します。

以上1日分/掲載日 平成17年8月24日(水)


2005年8月31日(水)

 台風明けの26日、昼少し過ぎの「のぞみ」で福山に向かう。進み方の遅い台風11号に、果たして予定通り無事に福山の講座に行くことが出来るかどうか、今回は今までで一番気を揉んだが、私がこの武術を仕事にし始めてから26年間、ただの1度も台風で予定が狂った事がない運の良さを頼みに、25日中に繰り上げて家を出ることは止めて(もっとも25日中に何件もの問い合わせや、どうにもギリギリに間に合わせなければならない手紙などを書いていて、出るに出られなかったのだが)26日に賭けた。
 結果は、今回も強運に支えられ、まったく何の支障もなく予定通り福山に到着することができた。これですでに決まった講座などに台風で遅れたり行けなかったという事が全くないという記録はまた伸びた。こういう運の強さはあらかじめチケットを取っておいた指定列車にただの1度も乗り遅れたことがないという記録と共に、私についてまわる不思議なサポートである。とにかく列車の場合はギリギリでも間に合うのである。もっとも下駄を脱いで裸足で階段を駆け上がった事が2,3度はあった。記憶に新しいところでは、道がひどく渋滞していた昨年の甲府の場合も、「今度ばかりは、この運も尽きたか」と覚悟したが、結局発車20秒前くらいに乗れて、何とか千代田での講習会に間に合った。
 しかし、こういう事で運を使いすぎるのもどうかと思うので、忘れ物などはその税金として素直に受け入れるようにしている。
 福山は9年ぶりくらいであろうか。駅近くの会場福寿園は昭和初期の見事な木造建築。私が案内された控え室は、障子の外にガラス戸がなく、雨戸を閉めて退室するという昔の日本家屋そのままで感激した。
 九州に向かう途中、この地に寄ることを8月の初めに決めたにも関わらず、万全の準備をして下さったO女史にはあらためて御礼を申し上げたい。行動派のO女史は、「講演会が大変好評でしたから」と既に3ヶ月後の講習会の用意までして、九州旅行中の私に打診される熱の入れようで、現代は女性が元気な時代といわれるが、あらためてその事を思い知らされた。
 26日の福山以後は、佐世保に向かう新幹線の車中で福山までの事を書く程度の時間はあったが、それ以後は、今、30日博多発の「のぞみ」で九州を後にするまで、各地で多くの方々と出会い、話をしたり、稽古をしたり、の連続で一行のメモ書きをする暇もなかった。
 今回印象に残った事は数々あったが、昨日29日、熊本市内で『逝きし世の面影』の著者、渡辺京二先生にお会いした事と、その後福岡県で刀剣研磨のF師の御自宅に熊本のK師に連れていって頂き、綾小路定利をはじめとする逸品の刀剣類と見事な縁や目貫、小柄などの小道具の数々を見せて頂きながら、今までの刀剣製作の常識を覆すようなお話を伺えた事は記憶が新しいこともあって強烈だった。
 渡辺先生の許へは、いろいろとお教えを受けたいと思って伺ったのだが、逆に渡辺先生からいろいろと御質問を頂き、私が答える時間の方が長くなってしまった。ただ、今後につながる出会いとなり、渡辺先生の御要望で、秋か冬には熊本か福岡で何か話をすることになるかも知れない。渡辺先生の大著『逝きし世の面影』は、近々平凡社から文庫として装いを新たに刊行されるとの事。この本は明治以後、日本では歪められて伝わっている江戸期の日本の素晴らしさについて、当時来日した多くの西欧人が感嘆した様を詳しい考証と共に集めたもので、決して安易な日本びいきの本ではなく、今は少なくなった本当のインテリと呼べる知性の持ち主である渡辺京二先生が見事にまとめ上げられた大著である。これから日本についてあらためて考えてみようという方には必読の本である。刊行が決まったら告知板でもお知らせしたいと思うので、是非多くの方々に読んで頂きたい。
 その後伺った福岡のF師は、以前大分であった私の稽古会に来て下さった折、少しだけお話しして、その後是非詳しいお話を伺いたいと思っていた方。奇縁とも言うべきか、私の佩刀の作者である故延寿宣次刀匠とも親しく付き合われていたという方である。
 とにかく今回、目が覚めるほど驚いたのは、古作の中には土取り、つまり焼刃土を塗らずに鍛造してセンなどで削り上げたままの刀をそのまま熱して水中に入れる「ズブ焼」と呼ばれる焼入れ方法を用いた刀があるという事である。そうした焼入れ法を用いたと思われるという事でF師が見せて下さった青江貞広の細直刃の太刀の刃の冴えと、何よりも小丸に返った鋩子の見事さは今も目の底に焼きついていて、とにかくその後に見た綾小路定利でさえ感激が薄れた。
 何よりも感動的なのは、焼刃土を塗るという作意なくしてこれほど見事な刃が焼けるという事。この説は刀剣界では完全にまだ市民権を得た説とは言えないようだが、このズブ焼で見事な牡丹映りを出した現代刀匠杉田氏の短刀を目の前にしては、そうした焼入れ法がかつてあったという事は大いに考えられるように思う。
 深夜1時近くまで付き合って下さったF師、案内して頂いたK師にはあらためて御礼を申し上げたい。殊にK師は28日夜の明けた頃、F氏を伴って熊本を出、佐世保まで私を迎えに来て頂き、以後阿蘇山中での講習会から29日の午前2時頃、私を博多のホテルまで送り届けて下さった約40時間の間、ずっとF氏と共に面倒を見て頂き、人の縁の不思議さを実感させて頂いた。
 しかし、今回もまた人脈が広がり、次回の講習会を要請されたり、私の関心を強く刺激された杉田刀匠のところへの同行を誘われたりと、いよいよ私の予定表に空欄が少なくなりそうである。何か物を販売するだけの仕事なら人脈拡大は結構な話だが、私のように身ひとつで仕事をしている者にとって招いて下さる方の熱意と御好意による拡がりは有難くもあるが、酒好きな人間の酒のようなものでもあり、どのように身を処していったらいいかは悩むところである。
 家に帰ってみれば、又いくつもの依頼が届いていた。旅行中ほとんど遅寝早起きで、果たして身がもつかと思ったが、取り敢えずは大丈夫そうだ。5日間とはいえ旅から帰ると冷えてきた外気と耳を聾する樹上での青松虫の鳴き声に、いやでも秋の近いことを感じさせられる。

以上1日分/掲載日 平成17年9月1日(水)


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