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2005年6月6日(月)

 数日前、以前読売新聞の書評に出ていて、是非読んでみたいと思っていた本『禅という名の日本丸』(弘文堂)が手に入ったので、宿題のいくつもの本の校正や執筆の合間に開いてみたところ、予想以上によく検討・考察された内容に著者山田奨治氏の苦労が十分に伝わってきた。
 本書は、禅を世界に広めたことに多大に貢献したオイケン・へリゲル著『弓と禅』が、如何にして生まれたかを、国内はもとよりドイツまで行って丹念に資料を集めて検討・考察したものであるが、本書の題名からも想像がつくように、その考察はヘリゲルを尊崇している人達にとっては決して愉快なものではない。
 著者の山田氏も、弓と禅を安易に結びつける傾向には元来批判的であったのだろうが、そうした個人的感情は極力出さず、客観的資料を数多く集めることで、仙台に於いてヘリゲル博士が、その師阿波研造師範から受けたとされる感動の物語が、かなりの部分創作であったと思われることを浮かび上がらせている。
 本書は、この『弓と禅』と共に、なぜ京都の竜安寺の石庭が世界にその名を轟かせたのかを、やはり多くの資料にあたって考察し、この庭が「素晴らしい庭だ」という、ある極めて強固な刷り込みによって、ある時代から突然高い評価を受け始めたという歴史的経緯を解き明かしている。
 もちろん石庭は特にそうだが、ヘリゲル博士の師、阿波研造師範への心酔も多分に主観的なことなので、誰がどう言おうと「日本精神の深さがヘリゲル博士を感動させたのだ」と言えば言えるだろう。しかし、弓射がオリンピック種目になりそうになった時、日本の和弓で金メダルをと弓道界が沸き立ったが、的中率において、とても洋弓に太刀打ち出来ない現実を知ってから、俄かに洋弓との差を強調し始めた、といった事実の、言ってみれば暴露は関係者を不快がらせるだろうが、人間が権威を守ろうとする裏の物語として全く「よくある話」だと思う。
 こういう事に関する研究は暗い情熱ともいうべきものが伴うと思うが、人が隠したがっている事を掘り返すその種の暗い情熱というのは、なぜか人を駆り立てるものである。しかし、本書の山田氏は単に暴きたてる無責任なマスコミのような愚は犯さず、「日本の文化には殆ど禅が関わっていて、そのことが素晴らしい」といったステレオタイプな、ある種強制的と言ってもいい(同時に無責任な)「日本賛美論」を、もっと実りあるものにしたいと思われているのだと思う。その事は本書を通読すれば明らかである。
 私が本書をここで紙数を費やして紹介したのは、私にも似たような所があったからだと思う。たとえば、無住心剣術の素晴らしさを強調しようとするあまり、夕雲と一雲との間で起きた"相抜"を普遍的な無住心剣術の大原理とするために、当の一雲が門人の真里谷円四郎に"相抜"にならずに打ち破られていた事が長い間完全に無視されていたのだが、その事実を私が(私の知る限り)初めて世に出したことがあった。
 "相抜"に関しては、富永半次郎氏が昭和19年、その著『剣道に於ける道』のなかで、これを高く評価したのが始まりで、この本によって、このことを知った鈴木大拙翁(鈴木翁は禅を広く欧米に紹介した人物として著名で、『弓と禅』にも関わりがあった)によって、広く世界中に紹介された。
 しかし、この『剣道に於ける道』の巻末に資料として付いていた『辞足為経法前集』(『前集』ともいう)を読めば、一雲が円四郎に破れたという事実は明らかであるのに、この本に関わった人々は、これを黙殺してひたすら相抜の素晴らしさを強調し続けていたのである。私がその事を指摘した『剣の精神誌』を刊行してから後は、無住心剣術研究には、ある種の方向変更の気配が感じられるようであるが・・。
 こうした事実をみても明らかだが、日本人の共同体意識というのは強いものである。そこへ日本人以上に日本びいきの西欧人が加わると、その傾向は一層強化されるのかもしれない。何とか、もっと素直な事実が明らかになって、それに即した評価が当たり前に出る、ステレオタイプな、ある面ワイドショー的ではない社会になってもらいたいと思う。
 ことのついでに私自身の事に関し述べておきたいが、最近、私の名前がメディアで取り上げられる頻度が増えるにつけ、私を「古流武術研究の第一人者」であるとか、「古武術の達人」といった形容で語られる事が増え、いくら本人の私自身が否定しても、その傾向が止まない。確かに無住心剣術であるとか夢想願立といった特定の流派に関していえば、私ほど資料を集めた者はいないかもしれないが、その点なら私の研究を手伝ってくれているU氏やM氏も同じく資料を持っているし、私と会話をしていれば、私と同程度の知識は自然と身についてくるわけで、特に取り立てて第一人者という程ではない。まあ、素人の怖いもの知らずで"相抜"のタブーを公開したという功績がない事もないかも知れないが…。
 また、私が達人だという事は馬鹿馬鹿しくて取り合う気もしないほど誤った見方である。4月に韓氏意拳の韓競辰老師に触れて、自らの稽古体系の全見直しをせざるを得なくなった者が達人などであるわけがない。達人だったら、韓老師の動きに接して大いに感動しても直ぐに私の動きを見せ、互いに手を握って相手を祝福し合っただろう。しかし、私は韓老師の動きに接し、深く自らの足りない事を痛感したのである。もちろん、そのお陰で今までの殻が破れ、まったく新たな稽古体系を模索することが出来るようになったのだが、それだけに私に対する過大な、というか勝手な評価は何とか止めてもらいたいと思う。
 何やら『禅という名の日本丸』に関して、ついいろいろと書いてしまったが、今の私は、最近読み直したもう1冊の本『阿部薫 1949〜1978』によって、いま述べたことよりずっと強いインパクトを受けて考え込んでいるのである。このような状態になったのは、ここ10日以上全く他人と稽古せず、他人とどころか私自身の一人稽古も殆どやっていない事も影響したのだと思う。
 この、今考え込んでいる事とは、私にとって思いがけない気もするが、よく考えるとこの思いはずっと以前から私の中に沈んでいたと思う。その思いとは、「天才というのは練習はしないものだ」という事である。
 小出切一雲が書いた『無住心剣術書』の冒頭に、「今から100年前は天下乱国のため、武士はのんびりしている暇がなかったので、常に戦場で敵と戦っていて、その実戦の経験から内心たしかなものを得た者は、当世諸流の剣術でいう秘伝極意を得た者よりも確かである」といった記述がある。一雲はその後、殊更皮肉を利かせて、天下が平和になってからは暇ありの浪人どもが、実践を偲んで勝つ利の多く負ける利の少ないことを友と検討しあったところから多くの流派が生まれた、と書いているが、よく考えると、稽古、練習とは何だろう。
 私はかつて武術稽古研究会を創った時に、稽古法の研究こそが大事だと思って、この名称にしたのだが、稽古・練習などする暇もない切迫した状況こそが、何か一番間に合う者が育つような気もする。もっとも、その切迫さはスポーツの試合などではない、命がかかった切迫さだが…。
 カナダ北部に暮らす民族カショーゴティネは、この民族に間に「教える 教わる 習う」という概念がなく、日常の中で自然と学んでいった事を通して、結果としてその熟練度を高めていくようであるが、その為、きわめて優れた見取り能力があるという。小説家も、結果として「あれが練習になった」という事はあるかも知れないが、本物の(という言い方はいかにも胡散臭いが)小説家であればあるほど練習などせず、作品自体を積み重ねていくのだと思う。
 アメリカ開拓時代の名保安官としてあまりにも有名なワイアット・アープ。このワイアットの早撃ちは伝説的だが、ワイアットが早撃ちの練習をしているところを見た者は一人もいないという。(当時の拳銃使いは、普通1日4〜5時間抜き撃ちの練習をしていたらしいが)近くは整体協会の野口晴哉先生が、立てかけた琴の何番目かの糸を気合で鳴らすとか、雀鬼こと桜井章一雀鬼会会長が、辞書を前に、何ページと思ってその通りのページを出すといった自己訓練をしたようだが、こういった事は、いわゆる練習のレベルを超えているだろう。それは切迫した状況と向き合う為に、自らの心身をそれに向けて鋭く研ぐ作業であり、一般の武道、スポーツなどで聞く「稽古(練習)をミッチリやり込んで…」というような稽古・練習とは根本的に違っているように思う。(こんな事はここであらためて書かなくても誰にでも分かることだと思うが)
 この当たり前の事についてあらためて書いているのは、『阿部薫 1949〜1978』を読んで、彼が(彼は私と全く同じ年に生まれ、奇しくも私が武術稽古研究会 松聲館道場を開いた年に死んでいるのである)かつてないほどのアルト・サックスの高みに達したと言われながら、そこに至る過程は、いわゆる練習などという生やさしいものではなかったという事が、この本からヒシヒシと伝わってくるからである。
 阿部は、激しく車が通る道路の近くや、多摩川の川岸で1日数時間も吹きまくったようだが、ある時、そのあまりにも凄まじい音と、その打ち込みように、貸しボート屋の親爺が狂人だと思い込んで110番したという。かつて、この随感録でも引用したと思うが、阿部薫が死ぬ2週間ほど前に、札幌で演奏した時のチラシに次のような文がある。
 「(前略)自己に対して破壊的であること、ものごとに対して根源的であること、状況に対して危機的なまでの緊張感を維持すること、これらを阿部薫はアルトサックス1本でなし得てしまう。(後略)」
 人間にとってギリギリの状況とは死であり、どの分野にしても凄まじい迫力でその事と取り組むことを「真剣勝負」という表現を使うことが多い。
 しかし、考えてみれば、本来その真剣勝負という言葉の発生に最も近い現場である武術に関わっていて、その事を他の分野の人間から今更のように気づかされるとは情けないことである。
 七年半にわたった落ち込みから浮上して、気づいてみれば私は自らを「武術を基盤とした身体技法の実践研究者」と規定し、スポーツ、介護、音楽、その他のジャンルに、その身体運用法を広めることを行っていた。今になってこれが間違っていたという気はない。廃刀令が出て、多くの刀匠は廃業か、さもなければ農具を鍛つ野鍛冶や鑿(のみ)や鉋などを鍛つ道具鍛冶への転業を余儀なくされた。いま命のやり取りを直に扱う武術に関わると言ったら生活が成り立たないどころか法を犯してしまうだろう。となれば、せめて稽古(練習)のための稽古(練習)にならないように、日々の稽古そのものを作品化していくしかない。…といちおう結論めいたものを書きはしたが、体の中に何とも言えぬ悶えと不全感が残る。
 我々のように業の深い人間は、畏友の名越氏の口癖ではないが、「本当に神サンは楽にさせてくれませんよ」という事なのだろう。
 半年前から準備して、休業に入って体が元気になってきたと思ったら、とんでもない重荷を背負っていることに気づいてしまった。これでは又この先が思いやられるが、この道を(選んだのか選ばされたのか分からないが)捨てる気がない以上、どれほどの重圧でも前へ行くしかないだろう。それもこれも全て私の心の内から発しているのだから、いまさら嘆いても始まらない。何しろ私の一番の武術の愛読書『願立剣術物語』の最終段に言う「善悪我に有る故、山の奥水の底までも悪を亡ぼす敵の来ぬという事なし、恐るべし恐るべし」と、人は騙せても自分は騙せない、他人の毀誉褒貶は放っておけるが、自分で自分を責めるのは放っておけない。
 まあ、これも今の私の身体の状態から出た言葉で、身体の状態が変われば、また考え方も変わると思うが、どうしてこう自分で自分を追いつめたがるのか、ホントに「君とはもう付き合いきれないよ」と言いたいところだが、現在は私の気持ちの殆どが私自身を追いつめるモードに入っているので、この最後のくだりを書いている私の中の5パーセントに減ってしまった普通人モードは、今は黙って見ているしかないようだ。その内、広葉樹林の綺麗な所にでも連れていけば、少しは気持ちも和らぐかもしれないので、そうしたいと思っているが・・・と言いつつ、今は何かあればこの追い詰めモードに普通人モードも同調して突っ込む気が満々なので、とにかく成り行きに任せるしかないようだ。そういうわけで今の時期籠っていて本当に良かったと思う。今、うかつに人に会ったら、会う人にもよるが、その人がちょっと立ち上がれないほどキツイ事を言いかねないので…。
 私に会いたいと思っておられる方もいるようだが、会いたいと思って下さっている方ほど会われない方がいいと思う。もうしばらく時間をかけて私が私と対話し、人前に出られる状態にするつもりですから、それから会われることをお勧めします。

以上1日分/掲載日 平成17年6月8日(水)


2005年6月9日(木)

 「天才は練習しない」という事について、ずっと考え続けている。この場合の「天才」というのは、「本来は」という意味も含んでいる。「天才は」などと書くと、「まあ天才は別かもしれないけれど、普通の才能の者は…」などといった逃げをうつ意見が必ず出るだろうから。
 ライオンや狼の子は、よくじゃれ合って遊び、それが将来の狩りの基礎練習になっていると、よく言われているが、この場合、こうした猛獣の子は、その体の奥から溢れてくる衝動から遊び、じゃれるのであって、将来を見据えて「体を鍛えておこう」などという邪念で兄弟達と遊んでいるわけではないだろう。
 これは人間社会においては勉学についても言えることだと思う。歴史・文学・語学・物理・数学・化学その他、どの教科についても言えるが、その事が面白くていろいろ調べているうちに、その事に対する知識と洞察が深まって、その教科が「よく出来る」ようになったのと、受験技術に押され引かれて、何とかその教科の試験は及第点を取れるようになったのでは、それこそ本物と偽者ほどの差がある。そうした受験技術を磨いて、いわゆる一流校に入り、その後、世の指導者的立場に立つようになったとしたら、国民が災難である。
 現在、日本が「技術王国」と謳われた事が過去の栄光になりつつあるのも、子供の頃、手と身体を使っていろいろなものを作って遊んだりする経験をしなくなったからだという指摘は、しばしば聞く話である。
 稽古(練習)が単なる何々の為の稽古(練習)でなく、それを超えたものにするためには、何が必要かをあらためて深く考え直してみる必要があると思う。例えば、松林左馬助無雲は、59歳の時、三代将軍家光の御前で門人阿部七左衛門道是を打太刀として演武を行なったが、そのあまりの見事さに家光は三度呼び返して演武を所望。この時、最後に左馬助は「足鐔」(そくたん)という秘技を試みた。これは打太刀の打ち込みを躱しざま、その鍔元を踏み落として自身は舞い上がるもので、おそらくこれは多人数に囲まれた時、その囲みを破って抜け出す本当の意味の秘技だったのだろう。その時、左馬助ははいていた袴の裾が廂(ひさし)に触れるほど高く舞い上がったというから尋常ではない。(演武の場所は江戸城内であるから、その廂の高さは民家とはまるで違う)その様は、まるで翼のある蝙蝠(こうもり)が自在に飛翔するように見えたのであろう。家光が「まるで蝙蝠のようだ」と賛嘆したことから、以後左馬助は蝙也斎と名乗ることになる。この時のことを左馬助が仙台の家族に書き送った自筆の手紙が今も残っているが、いかにも左馬助の人柄をあらわしていて興味深い。
 この中で左馬助は、演武が概ね天理に叶った出来であったと満足はしているが、打太刀の七左衛門の出来がいまひとつで、それが残念だったという事も書いている。ただ、七左衛門の動きは他人にはよほど見事に見えたようで、七左衛門も着物一枚を家光から拝領している。(この時、左馬助が着物三枚を拝領し、そのうちの一枚は赤裏という特に誉れの高いものであった事は左馬助の伝記には常に記されていることである)
 問題は、この超常的な左馬助の身の軽さは単に高跳びの修練−例えば麻の種を捲いて、その麻が伸びてくる上を毎日跳ぶ−などという事では決して得られるとは思えない事である。私もかつて身の軽さにひどく憧れ、麻ならぬオクラの種を撒いて、毎日その上を跳んだ事があったが、オクラの成長に跳躍力が追いつくはずもない。結果は乗用車の屋根に飛び上がれるぐらいで、後は膝関節を痛めてしまったというオマケがつき、屋根に跳び上がる夢は敢え無く撤退を余儀なくされてしまった。
 つまり、シッカリした稽古などというものは、なまじ情熱があると、その事で体を追いつめて、体を壊すことになってしまうのである。それが自分の自発的意欲であっても、自分で自分を強制しているから、つまりある目標・目的を手に入れようとして硬直化した命令を自分で自分に課しているのであろう。
 左馬助が超絶的な剣技を身につけた基盤は、15歳の時、夢に導かれ、3年間浅間山に籠った折とされているが、この時左馬助は他人の眼からは1人稽古のように見えたかもしれないが、左馬助自身は恐らく数々の天狗に自らの相手を務めてもらい、教え導かれた実感があったのだと思う。こうした事は近代でも、私が縁のあった鹿島神流の国井道之先生のエピソードでもよく聞くことである。
 今も懐かしく思い出すが、奈良の大倭教の矢追日聖法主は親しく私に国井先生のエピソードをいろいろと話して下さったが、その中に「国井さんはなあ、ここ(大倭神宮)で1人で転げ回りながら、『う〜ん、そうか、こういう技があったのか、これは俺も知らなかったなあ』と独り言をよく言いながら、ここの天狗さんに教わってましたよ‥」というものがあった。私もかつて矢追先生の許で禊会に参加した折、手指がひとりでに猛烈な早さで動き、さまざまな印を結んだり、凄まじい気合が出た経験があるので、国井先生の体験も単なる作り事とは思えない実感がある。
 その自らの奥底から突き上げてくる自分であって自分でないような感覚、それと意識とをどう結びつけるかという事に、古来数多くの先人が苦心してきたのだろう。その辺りの事情を「剣禅一致」などと安易に括って欲しくない、という思いは私にもあるが、一方、禅に対するただならぬ思い入れは、最近は以前よりも強い。禅というのはある面、神道のシャーマニズムとは対極にある観もあるが、それだけに感覚的理智性というものが感じられ、真正面で物事と向き合うその姿にはたまらない魅力がある。
 一方、禊会で発動状態となった事でも分かるように、シャーマニズム的縁も私にはどうしても付いてまわるようである。大本草創期を描いた『大地の母』に、あれだけのめり込んで読んだのも、それがあったためであろうし、そこには畏友のN氏が「一方通行をバックのまま強引に入ってくる」と形容した、禅では全く取り扱えない様々な人と人との縁の糸の絡まりを解く何かがあるように思う。
 たとえば禅の中でもひたすら坐り、シャーマニズムとは最も遠いところに在るような観のある曹洞宗であっても、かつてこの曹洞に在籍し、その霊力の的確さと高潔な人柄に、接した人誰もが推服した油井真砂女史のような人物も存在したのである。現在、曹洞宗の長老となられている方の中には、油井女史の事を深く記憶されている方もまだ生きていらっしゃると思う。この油井女史は昭和34年に亡くなっているが、その筑波山における修行体験は松林左馬助もこうではなかったかと思わせるものがある。
 こんな事を書き連ねていると、私がひどく怪しげな人間に見えてくると思うが、日本中これだけ開発が進み、山の奥の思わぬところに産業廃棄物の捨て場があったりして、天狗や龍神といった異界の方々の生活も困難になっている事を思うと、私も少々は世間から怪しいと思われて引かれた方が、そうした存在に対して気持ち的に楽である。
 もっとも、少し前の、この随感録でも書いたように、日本では"迷信"の典型例として、現代医学からは嘲笑の的の一つであった「手当て」「手かざし」という、いわば民間療法がイギリスではスピリチュアル・ヒーリングと呼ばれ、既に公的保険の対象になっているという例からも分かるように、現代社会は全世界的傾向として、かつては嘲笑して、蓋をしてきた「見えざるもの」の力を認めようとしている気配が感じられるから、私がいま願うほどには私に対して持たれる社会からの関心の度合は、あまり下らないかもしれない。
 現に、5月末から本当に社会との交渉の窓口を絞り、まるで鎖国中の日本のようにしているが、休業前に引き受けていた本や雑誌の原稿やインタビューで期日の迫っているものが少なからずあり、机に向かっている状況は休業以前よりも多い有様である。(それにしても今まで何度も書いてきた事だが、そうしたゲラや原稿の依頼の際に、必要最低限と思われる事、例えば「添削した場合の字数はどのくらいにしたらいいのか」とか、「連絡先の電話やFAXの番号」とか、そうしたものが抜けている事が非常に多い。それが世間に名を知られている出版社の編集部でもそうなのだから、そうした気配りがもはや日本では崩壊の一途を辿っているとしか思えない。これを正すには会社等の採用時、そうした事が出来ているかどうかを採用の重要な考査基準にするしかないと思う。この事は関係する方々に深く深く考えて頂きたいと思う)
 数日前の「課外授業 ようこそ先輩」の再放送の時間帯に、また私が出た回の何度目かの再放送があったらしい。この日、日曜日だというのに、この松聲館のサイトへのアクセスが3000件を越えていた。しかし、私は現在休業中で何も出来ない。ただ、いま述べたように現代人全体の身体感覚が低下してきたためか、あちこちにほころびが目立つ今の日本にあって、身体を通しての新たな視点は何かの役には立つように思われるので、私が気づいてきた身体操法を御覧になることは何かの役には立つと思う。私の動きに関心を持って下さる方で、特にスポーツ関係の方は、私の身体技法をスポーツに応用して成果を挙げている高橋佳三氏のサイトを御覧頂きたい。高橋氏は、今月の18日に大分県、19日に香川県で講習会を行なうはずですから、世話人の方に連絡をとられる事をお勧めいたします。
 「稽古・練習のあり様」については、この先もいろいろ考えていきたいと思うので、そこで気づいた事などを書き続けていきたいと思っています。これは事が事だけに、また随感録という性質上、私の志向の下書き・メモ書き的な、かなり内容的にまとまりのない文になると思います。読まれる方々は、どうか字面をそのまま真に受けず、それらの中の何かをヒントとして下さるようにお願いしておきます。

以上1日分/掲載日 平成17年6月10日(金)


2005年6月10日(木)

 今日6月10日付の朝日、読売の各新聞にも広告が載っていたし、この随感録では5月末頃に、この事について書いたので気がつかれた方もあると思うが、今日10日発売された『文藝春秋』誌7月号のなかの特集の1つ「人生の危機に読む本」31冊の中に、私が挙げた『大地の母』が載っている。同誌を開くと、文章は私が書き送った通りだったが、タイトルの「狂信的信仰の悲喜劇」を見た時は「エッ」と驚いた。これでは私が推した紹介文とかなりのズレがある。せめて「狂信的信仰の悲喜劇と純粋さ」にして欲しかった。
 このような思いがけない事態は、物を書くようになって何度か味わってきたが、なかなか行き届かないものだ。私もまさかタイトルがつくとは思わなかったので、先方からの本文の確認で、すっかり安心していたのである。
 まあ、『大地の母』は常識を遥かに超えた内容だから、科学的常識人的見地からはタイトルをネガティブな内容にしたいという意識が暗黙のうちにも働いたのかもしれないが、筆者としては、ちょっと、というよりかなり残念だった。
 最近、私自身が自分でも怖いほど突出して過激になってきて、休業前に稽古をしていた人達と会うのも憚られる気がするのだが、それだけに畏友、名越康文氏の6月6日付の「日記のような人生」(名越クリニックのサイトにある)の記述は心に響くものがあった。

以上1日分/掲載日 平成17年6月11日(土)


2005年6月12日(日)

 ここずっと体の改革のためにも完全にひきこもっている私だが、その状況を点検してアドバイスをいただくため、11日は整体協会身体教育研究所の野口裕之先生の許にうかがった。
 私の体をご覧になった野口先生は苦笑されて、「甲野さん、私がいいと言うまで、絶対に目を使う仕事をしてはいけませんよ。インターネットなんかは勿論ですけど、本を読むのも、原稿を書くのもだめです。もし、この僕の言ったことを破ったら、今後一切、体を見ませんからね、いいですか」と厳命され、何か持つ時には左で持って、右半身には付加をかけないようにと合わせて忠告を受けた。
 同席していた名越氏に「名越さんも証人として聞いていましたよね」と二重に釘をさされてしまった。

 という次第ですので、当分の間、私は一切読み書きを致しませんので、メールは勿論、お手紙も控えていただくようお願い致します。

以上1日分/掲載日 平成17年6月12日(日)


2005年6月13日(月)

 読み書きが出来ない、体に負荷もかけられないという状況だが、〆切が目前に迫った原稿がある。ここで野口先生との約束を破り、無理をするわけにはいかないので、こういう事には異能のあるKさんに来てもらい、初めて長時間に亘って口頭のみによる校正と原稿の口述筆記を行なう。口述筆記は以前試みたこともあったが、まだるっこしくて、とても続けられなかった。しかし、状況がこうなると背に腹は変えられず、延々8時間集中力も途切れずに、何とか当初の目的以上のところまで済ませることが出来た。Kさん、真にご苦労様でした。
 人間というのは今までの行動に強力な制限を加えられると、それなりに新たな能力が開花するようである。単に口頭による原稿書きに終らず、この制限された環境を通して、また何か新たな気づきを得たいものである。

 また今日、読み書きが出来なくなったというのに本がいろいろ届く。京都の有志からは『ロマンアルバム・サムライチャンプルー』というムック本が届く。私はこの世界には全く不案内だが、かなり人気のあるアニメ作品らしい。しかも驚いた事に、この作品に私が書いた『剣の精神誌-無住心剣術の系譜と思想』が大きな影響を与えているそうである。(このムック本にその事が書いてあるようだ)本を出すという事は、いったん出してしまうと著者の元を離れ、様々な所へ流れて行くようだ。流れ着いたその先で思わぬ働きをする本も出てくるところは、本を刊行する事の面白みでもあり恐ろしさでもある。

 今日は、また同じ便で『江戸という幻景』(渡辺京二著 弦書房刊)が届く。著者の渡辺京二氏は、4月8日にこの随感録で紹介した『逝きし世の面影』という大著の著者である。私がこの本に感激し、拙著『身体から革命を起こす』を渡辺氏に献本したところ、一昨日、丁重な礼状を頂き、今日、版元の弦書房より本書を送って頂いたものである。現在読み書きが出来ない状況なので読むことはかなわないが、読めるようになったら是非精読させて頂きたい。

 また、埼玉県立久喜図書館からは、拙著『古武術からの発想』を、本を直接読むことの出来ない方の為に朗読した90分テープ4巻が届く。よりにもよって、本が読めなくなった直後にこういうものが届くのだから不思議なものだ。

 この状態がいつまで続くかは野口裕之先生の御判断次第だが、そう簡単に解禁になるとは思えない。非常事態ですので、私に御用のある方は宜しくご配慮をお願い致します。

以上1日分/掲載日 平成17年6月14日(火)


2005年6月22日(水)

 11日に野口裕之先生に読み書き禁止を申し渡されて以来、原稿書きも校正も口頭で行ない、野口先生の指示を忠実に守って約10日間が過ぎた。(何しろ野口先生の内観による感覚は猟犬のように鋭く、もし私が指示を守らなかった場合は、確実に見抜かれてしまうからである)
 口頭による校正や原稿書きは、実にもどかしいが、そうした制限を設けられると、型稽古ではないが、それはそれで新たな工夫が生まれてくる。
 この随感録の原稿は、そうした禁止令が出て以来初めてペンを持って紙に書いているが、遠い風景を見るように目は筆紙を見つめることなく、あさっての方向を向きながら、まるで「筆先」のように書いている。
 このスタイルをいつまで続けるかは分からないが、野口先生から読み書き禁止が解けても、私自身も眼のことを思うと、今後は以前のように根をつめて活字を読み書きするのはどうかと思うので、今後の活動形態をかなり考え直すことになりそうな気がする。活字を読み書きしない分、内側に眼が向けば、今までとは違った展開になると思う。
 それぞれの成り行きで、自分にとって、より悔いのないように生きて行きたいと思う。

以上1日分/掲載日 平成17年6月22日(水)


2005年6月26日(日)

 整体協会、身体教育研究所の野口裕之先生に読み書き禁止を申し渡されてから2週間、昨日25日、ちょうど2週間ぶりに体を観ていただきに身体教育研究所へ。
 うつ伏せになって体を観ていただいている間というのは、何とも例えようのない時間が過ぎていく。ここで「ああ、甲野さんの命もあと3ヶ月ですね」と言われたら、「そうか、あと3ヶ月か」と素直に納得し、「では残された日々をどう有効に使おうか」と、むしろ生き生きとしてくるような気さえする。そして、その3ヶ月が過ぎて生きていても、「そうか、上手くのせられたなあ」と、きっと感心することだろう。
 ここで「たとひ法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候」 (歎異鈔二章)と、師法然への信の厚さについて名言を遺している親鸞上人の例を出すことが適切かどうか分からないが、「人が人を信じる」ということの揺るぎなさが、これほどまでにあるという事に、我が事ながら今回さすがに感動した。
 私が野口先生の指示に忠実なのはいつもの事だが、今回、今の私にとって非常に守るのが難しい「読み書き禁止」の指示をも忠実に守ったのは、自らの眼の機能が悪くなっては大変だという事よりも、野口先生に出入禁止を申し渡されることが辛いのと、野口先生の我が命に鉋をかけて削るような、あの整体操法に対してその御尽力を無駄にするような真似はとても出来ないと思うからである。
 ただ、2週間、野口先生の御指示を守った甲斐あってか、そう遠くないうちに、この禁令は徐々に解除になっていきそうだ。書くことに関しては、「筆ペンで大きな字を書くようにします」という私に、「まあ、そう言わず、折角ですから硯で墨を磨って毛筆で書いて下さい」と応じられた野口先生の言葉は、そのタイミングの絶妙さに絵のような場面となった。
 読み書き禁止の間、ゆっくり片付けをしたり、洗濯をしたり、刃物を砥いだりした。研ぎに関しては、鎌倉の菊一商店からいろいろと評判を聞いて、よく出来ているという砥石をいくつか取り寄せてあったので、それらをゆっくりと目は殆ど使わずに、感覚のみに頼って試してみたが、やはり以前からお勧めの「刃の黒幕」の1500番シャプトン社製は、中砥としては何より刃がつきやすかったが、「北山」の中砥石もなかなか良かった。
 中砥に関しては、合成砥の性能が相当に良くなっている事は確かなようだ。今や天然砥で、これら以上のものといえば、刀一振買えるほどの値段だろう。
 洗濯も、梅雨の晴れ間で決して快晴ではないから、干す時に干し物の間の風の通り方を工夫し、途中何度か見廻って、上下逆さまにしたり、横に開いたりと乾きにくいところによく風が当るように手入れをしながら干した。そうやって手をかけて干すと、取り込む時、何か育てた農作物を取り入れるような、ある種の充実感がある。もともと私は凝り性な性質なのか、干し方、干し具に対しても、いろいろアイディアが湧いてくる。
 あとは、ほぼ毎日、土釜で雑穀飯を炊いている。最近は、キビ、黒米、丸麦のブレンド。これに鉄火味噌、摺りゴマ、そして湯をくぐらせた野菜、納豆などで十分に満足。
 菓子は、この1ヶ月ほとんど一口か二口食べただけ。体重は約4キロ減って58kg。
 しかし、こうして根本的に体調を整えていると古傷がいろいろと浮き出てくる。一昨日は右足首が突然何も原因が思い当たらないのに痛みはじめ、左手の人差し指も刺すように痛むし、腹痛も昨日からずっと続いている。
 野口先生の見立てでは、体を動かせるのは速くて来月末からとのこと。それまでは、今のペースの生活が続きそうだし、それ以後は間違いなく活動スタイルが変わりそうだ。その理由の一つが渡辺京二先生の著作にあることは確かな気がする。
 大著『逝きし世の面影』の著者である渡辺京二先生から『江戸という幻景』(弦書房刊)の著作を送って頂いた事は、この随感録で既に述べたと思うが、野口裕之先生から読み書き禁止の指示が出ているので読みたくても読めず、差し迫った本の校正を妻に読み上げてもらい口頭で行なっていただけだったが、そんな私に同情してか、妻がこの本を朗読してくれた。妻には難解な漢字もあってか、ところどころ意味の通じにくい所もあったが、深く心に染み込んでくる話がいくつもあった。なかでも最も心打たれたのは、『近世畸人伝』に出てくる馬子の話。その話を本書『江戸という幻景』から引用してみたい。

 天明・寛政の頃、ある僧が江戸からの帰り木曾山中で馬に乗った。道のけわしい所に来ると、馬子は馬の背の荷に肩を入れ、「親方、危ない」と言って助ける。あまりに度々なので僧がその故を問うと、馬子は「おのれら親子四人、この馬に助けられて露の命を支えそうらえば、馬とは思わず、親方と思いていたわるなり」と答えた。この馬子は清水の湧く所まで来ると、僧に十念を授け給えと言い、僧が快諾すると、自分は手水を使い、馬にも口をすすがせて、馬のあごの下に座ってともに十念を受けた。十念とは南無阿弥陀仏の名号を十遍唱えることをいうのであるが、この男は僧を乗せる時はいつも賃銀は心まかせにして、その代わりに僧から十念を受けて、自分ら家族と馬とが結縁するよすがとするのだということであった。

 今の畜産関係者が、この馬子の爪の垢でも煎じて飲めば、BSE問題など起こる筈もなかったろう。
 それから、この章の書き出しに、実に傑作な老婆の話が載っているで併せてここに紹介したい。

 摂津国に富豪でありながら儒学に長じ、しばしば世に陰徳を施した男がいた。この男が死んだとき、遠近から男女群れ集まって泣き悲しむこと、ちょうどお釈迦様の入滅なさった時もこうだったかと思わせるほどだったが、ここに一人の無知な老婆がいて、その言うことには、「これほど学問なさってさえも善い人であったのに、もし学問なさらなかったなら、どれほど善い人であったかなぁ」。
 もちろん、今日の庶民のなかにも、学問をやると理屈ばかり言って、仕方のない人間になると信じている人はいる。だがそういう庶民といえども、学問自体の存在理由を否定しているのではなくて、かえって学問に劣等感めいた畏敬と羨望を抱いているのがふつうだろう。ところがこの老婆にとって、学問とはよき人になる上での妨げ以外の何ものでもなかったのだ。こうなっては学問も形なしである。死んだ男は儒学を学んだからこそ、たんなる金持ちというのでなく、持てる富を世に施すよき人になったのであるのに、そんな理屈はまったくこの老婆には通じない。彼女の眼に学問というものがいったいどういう姿で浮かんでいたかと思うと、何ともいえぬおかしみを感じる。

 無知といえば無知そのものの老婆だが、こういう人間が社会の中に少なからずいた時代はどんなにか伸びやかな社会であったろうか。明治にはその名残りもあったろうが、いまは絶滅してしまったと思う。最近出来の悪さを親に指摘され殺人に走った少年がいたが、あの親がほんの僅かでもこの老婆のおかしみを解する心があったなら、あのような事は起こらなかったろう。
 ふと何の脈絡もなく『大地の母』の一節が浮かんできた。出口王仁三郎が若い頃、なんとも気に入っていたという峠の茶屋、その看板に実にまずい字でこう書いてあったという。「さけ、さかな、あったりなかったり」。近代化以前の日本に許容された、こうした風景が今の私にはたまらない懐かしさを伴って激しく心惹かれる。もちろん、そのような純朴な人ばかりであったなら、僅かなスペイン兵に亡ぼされたインカのようになってしまうという恐れも無論あったろうが、そうならないために、というか自らがインカを亡ぼしたスペイン側の立場にまで息せき切って追いつこうとしたため、取り返しのつかない精神の宝を自ら葬り去ってきた気がする。

以上1日分/掲載日 平成17年6月27日(月)


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