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4月中旬からの長期休業を目前にして、いくつかの思ってもいなかった問題が浮上してきた。もっとも、その中でも最大の問題に関しては、「思ってもいなかった」というと嘘になるかもしれない。どうも何となくウッスラとは予感があったからである。
今は、そう私が思うに至ったことについては、あまりにも未整理で何をどう書いていいかも分からないので何も書く事は出来ないが、とにかく私自身の武術に対する稽古研究の在り方を全面的に見直さなければならないと思いはじめていることは確かだ。
そして、その思いを一層強くしているのは、数日前、群馬大学の清水宣明先生より送って頂いた『逝きし世の面影』(渡辺京二著 葦書房刊)の大著である。A5判で500ページ近いこの本には、幕末や明治の初期に来日した欧米人が観た、自然と調和し、美と芸術が生活の細部にまで行き渡っているという驚嘆すべき文明を持った日本という国についての報告と感想が集められていて、ついどうしても読まずにはいられなくなってしまったのだ。ただ、それを読むほどに20代の半ば頃、フト何かのキッカケで気持ちが沈み始めると、河原のなかにひっかかっている土に還らぬプラスチックの容器や袋を目にしただけで、激しい絶望感にまるで熱い風呂に入った時のように身動きひとつ出来なくなった時のことを鮮明に思い出してしまった。
この私の自然な風景と自然な環境に対する愛着と思い入れは、物心ついた4〜5歳の時からあり、作文が書けるようになった小学校2〜3年生の頃には、東京郊外にある自宅近くの丘陵が切り崩されて宅地化されていく様子を悲しみと怒りをもって嘆く文章を書いていた。そうした、まるで生まれついた時から持っていた本能のような自然な環境への思い入れがあったため、97年の夏、『もののけ姫』の映画を観た時に、生涯最大の落ち込みがあったように思う。その時のショックは、昨年、裏日本一帯に熊が出没した時、日本はもともと狭い国であり、かなり昔から国全体がある種、里山的で、僅かに原始の森を残し、それでバランスが取れていたのだという事に気づいて、かなり軽くはなったのだが、その里山の風景も消える一途を辿っている現代日本は無残としか言いようがない。これは近代に入ってそうした自然との調和を根本的に無視した西欧文明が日本を侵攻したためだが、それによってもたらされた町並の醜さは、ほとんど感覚が麻痺しているから平気でいられるものの、もし昔の感覚の日本人であったら、まるで牢獄に閉じ込められている思いがすると思う。
かつての日本人の感覚が如何に自然と調和していたかについては、幕末や明治の初めに来日して、日本の文化に自らの感覚を拓かれた欧米人が、日本の家屋の美にくらべ、自国の飾り立てた部屋を嫌悪をもって思い出す、という凡そ考えられない状況まで生んだのである。(普通は何年も異国の地にいれば、故郷の風物を懐かしく思い出すものだろう) もちろん、来日した欧米人の多くが、このような感想を持ったという事はないだろう。白木造りを未完成と考え、セッセとペンキを塗った欧米人の方が多数派だったと思う。しかし、数は少ないとはいえ、日本という東洋の一小国の文化に魂が震えるほどの思いを持ち、来る日も来る日も、まるで竜宮城の浦島太郎のように夢のような思いで日を送った欧米人が何人もいたことも事実なのである。
そうした情報に接したゴッホなどが深く深く日本に憧れたのであろうし、それがあるために、今日世界中で「日本人は好きではないが、日本の文化には尊敬を持っている」という外国人が多くいるのだと思う。ただ、このように嘆いてみたところで「死児の齢を数える愚」に近い。あらためて考えてみれば、いまの自分に出来ることは、より納得のいく人間にとっての自然な動きしかないようにおもう。そして、その「自然な動き」ということが、私の武術の稽古研究の全面的な見直し、ということに繋がってくるのだから、時節というのはあるものだなと思った。
いまは、その「自然に」ということを、かつての心ある欧米人が魂がふるえるほどの思いを持った、日本文化のその粋を集めた日本刀という道具の操法を通して、あらためて根底から考え直してみたいと思っているのだが…。
付記
この見直しと休業の間、介護やスポーツ等に私の動きを取り入れたいという方は、この私のサイトとリンクしている高橋佳三氏のホームページに御連絡を取られ、介護に関しては岡田慎一郎氏に、各種スポーツに関しては高橋佳三氏にご相談して頂きたい。
(私の休業前の講座や稽古会は4月10日の千代田が最後で、次に決まっている公開講座は9月の池袋コミュニティカレッジであるが、9月以後は従来通りに活動するかどうかは現在のところ全く分からない。)
介護に関しては、私の個人的事情に関わらず切迫した問題と思われるので、私を招いて講習会等を企画しようとされている方は岡田氏に相談して頂きたい。私が提唱する方法が、現在広く一般に行なわれている方法に比べ、介護者の負担も介護される人の負担も遥かに少ないことは、体験された方々すべてが認めておられることなので、体得されれば身体の負担は相当軽減されると思うし、本当に使いこなせれば、介護者の身体能力は介護によってむしろ向上すると思われる。岡田氏は、私の介護法を体得し、さらに工夫を加えつつある稀有な才能の持ち主であり、教え方も私以上に上手なので学ばれれば少なからぬ方々が今までより遥かに楽な介護法に眼を開くことが出来ると思う。
そうした従来のやればやるほど身体が消耗し壊れていく方向とは異なった介護法とも密接に関連があるスポーツのトレーニング法を日々向上させつつある高橋佳三氏は、岡田氏とも親しく介護法も一通り体得しているので、スポーツから介護に関わる広い範囲で身体の使い方に関心のある方は、高橋氏にお問い合わせいただきたい。
今までに何度か体育関係の方々が多く集まられている会にお招き頂き、高橋氏をアシスタントとして同行したが、結果はアシスタントというよりも講師が2人という形となり、高橋氏にいろいろと質問された方の納得度が、私と較べて少なかったということはなかった。つまり高橋氏は、アシスタントというより一人前の講師として十分に推薦できる人物であり、岡田氏と同じく高橋氏に学ばれれば少なからぬ人々が従来のスポーツトレーニングでは見落とされていた新たな身体の使い方に眼からウロコが落ちると思う。
以上1日分/掲載日 平成17年4月8日(金)
昨夜NHKテレビで放映された『課外授業 ようこそ先輩』は、編集で前後が多少入れ替わったりしていたが、番組としてはそれなりにまとまっていたと思う。
ただ、本来野球の指導者である高橋氏がラガーマンとして(実際ラグビー選手のタックルも潰しているが)の印象のみだったのは気の毒であったし、女子卓球の現日本チャンピオン平野早矢香選手の事が、取材のみで放映されなかったのは申し訳なかった。
また、子供達の体験学習で中心的話題となった"折れもみじの手"(中指、薬指の2本を折り曲げ、他の3本を張って伸ばす)は、発案し、上体起こしに使ったのは確かに私だが、抱き上げなどにも応用することを、あの場で思いついたのは、アシスタントに来てもらった介護福祉士の岡田慎一郎氏であることを申し添えておきたい。
それにしても、テレビの影響は、恐ろしい。家を出てちょっと人の多いところに出たら、すぐに、「昨日は大変面白かったです」と知らない人に話しかけられてしまった。いまの私は、また一から検討のし直しだが、これからの検討の基盤になる、一般に行われているトレーニング法よりは有効で、身体にも負担が少ない、つまり身体を壊しにくい方法については、新潮社の『身体から革命を起こす』(田中聡氏との共著)や、岩波の『古武術に学ぶ身体操法』、PHP文庫『自分の頭と身体で考える』(養老孟司氏との共著)等をご覧いただきたい。
以上1日分/掲載日 平成17年4月14日(木)
4月10日の千代田の会をもって公開の稽古会や講座を終え休業に入ったが、休業前から引き受けた予定が目白押しで、状況は今のところ以前と少しも変わっていない。というより、13日のNHKテレビ「課外授業 ようこそ先輩」の影響か問い合わせがドッと来て、私のホームページの管理人のS氏は大変なようだ。半年前から準備し告知してきた休業なので、私への依頼は「またあらためて・・」という事にして頂きたい。
もっとも休業といっても、実態は溜まりに溜まった諸々の用件を少しは消化することが主眼なので、私の忙しさはあまり変わらないと思う。ただ、休業直前に私の動きの根本的見直しをしようという思いが強く湧き上がってきたので、いま休業することは私にとっては幸いだった。ただ、今後どうなるのか全く分からないので、取り敢えず私がいままで展開してきた動きに関心を持たれている方は、私の本やビデオを参考にして頂きたい。
そして、実際の動きについては、私のサイトとリンクしているサイトで、実際にいろいろ展開している方々のところに問い合わせられるのもいいのではないかと思う。
私は会も解散し、本来的には1人で、師範代も後継者も存在しない。だいいち、師範代や後継者などは、私が「確かなものを得た」という自覚があってから生まれるもので、ずっと模索してきている私にそのような存在など生まれようもない。
数日前、『ナンバ式快心術』(矢野龍彦、長谷川智共著 角川書店)という新刊が送られてきたが、この本の著者である矢野・長谷川の両先生がナンバの動きというキッカケを私から得たのは事実だが、その後、独自に展開されており、この本の中でも最初に私の名前が出ている以外は、まったく私の話は出てこないが、これが正解なのである。
なかにはもっと私のことを書くべきだという人がいるかもしれないが、両先生は、私の心事をよく了解して、はじめに一度私の名を出すに止められたのだと思う。したがって、私がこの随感録で具体的に名前を挙げた高橋佳三、岡田慎一郎の両氏も、私に影響を受けてハッキリと展開が始まった人物であるが、私の代理でも後継者でもない。まあ、客観的に見れば後継者的状況にはあるが、岡田氏の介護技術は明らかに私を越えているし、高橋氏はスポーツの場に展開した場合の知識の豊富さは私などとは桁違いにある。そして、何よりもこの両氏の名前を私が出した理由は、両氏共に私に出会ったことで、それまでの人生設計の予定が大幅に狂い、私に会ってさえいなければ今までの社会の輪の中で、ごく普通に就職し年月を送っていたであろうに、私に出会ったばかりに、それまで描いていた人生設計は狂い、明日もわからぬ身の上となったので、私も責任を感じているからである。
もちろん岡田、高橋両氏とも、その状況に悔いはないようで、岡田氏は自らカナリヤ軍団の一員と称している。カナリヤ軍団とは可愛らしい名だと、私ははじめ何のことやら分からなかったが、よく聞くと、昔、炭鉱や鉱山などの坑道に入る時、有毒ガスや酸欠の危険から身を守るため、カナリヤを籠に入れて持って入り、カナリヤが倒れたら、すぐ逃げたということに因んだ命名と聞き、私も「これは本気だ」と驚いたいきさつがある。
恐らくは、まだまだ筋トレや現代スポーツトレーニングが圧倒的に盛んな現代トレーニング界、現代スポーツ界、体育界を巨大な山に例えると、そこに掘り込んだ坑道ともいえるものが、武術的な体の使い方や稽古法であり、まだまだどんな困難が待ち受けているか分からないので、自分達が体を張って酸欠や有毒ガスを検知しようというのだろう。このカナリヤ軍団は岡田氏によれば5人ほどいるようだが、自他共にカナリヤを任じているのは、今のところ3人ほどのようだ。
もっとも最近は坑道も広く通気も良くなり、浜口選手や植松選手など、それぞれの世界で名を知られた人達が、我々と共に動きの研究をしていることを広く公開されているので、これから研究される方の身の危険はずっと少なくなってきているとは思う。
世の中に広く知られている方といえば、13日に来月宇宙飛行に飛び立たれる予定の野口聡一飛行士からサイン入りのポスターと「最後まで平常心で訓練に励みます。帰還後にお会いするのを楽しみにしております」という私宛ての短いコメントが書き添えてある手紙が届いた。ただ、差出し人の住所がなく、多分どこかのJAXA(宇宙航空研究開発機構)からだとは思うのだが、御礼の言い様もないので、この場で野口氏に御礼を申し上げておきたい。(野口氏は、私の体の使い方に興味をもって、昨年の1月に私のところを訪ねられ、その後、何度か電話等での交流が続いている)
宇宙飛行が人間にとって自然な行為かどうかは何とも答えようもないが、来館された野口氏の人柄には強く打たれるものがあったので、こうなった上は無事帰還され、お目にかかる折を楽しみにしている。
以上1日分/掲載日 平成17年4月15日(金)
16日17日と広島の山奥にあるシナジェティクス研究所へ。ここの所長である梶川泰司氏からテンセグリティの講義を受けに、岡山から韓氏意拳日本分館の光岡英稔代表と共に四国の守伸二郎氏運転の車で、アシスタントの高橋佳三氏(ちょうどこちらに用件があったのと、テンセグリティのモデル作りもあるというので、いろいろと力仕事を頼む都合もあったので同行を依頼したのである)も一緒に、朝の9時に岡山を出発。ひたすら走って12時頃、島根県の県境に近い廃校になった小学校を改築した目的地に到着。
ここで群大医学部の清水宣明先生、内科医で10年以上前から私のところに来ている小池弘人氏らと合流する。テンセグリティのワークショップは1時半から、まず基本的な6本の圧縮材(バー)によるテンセグリティモデルづくりから始まった。1泊2日のワークショップは細かいことよりもテンセグリティという根本原理を感覚的にも理解出来るようにと配慮されたもので、光岡師はじめ出席者は全員はるばる広島の山中まで来た甲斐があったとの思いを深くした。あらためて梶川氏御夫妻とアシスタントの中村女史に深くお礼を述べたい。また、我々を岡山から運び、食事についてもいろいろ心遣いをして下さった守氏には本当にお世話になった。この場を借りてあらためて御礼を述べておきたい。
そして、このワークショップの後、私は光岡師宅へ泊めて頂き、ワークショップを振り返って話し合い、また、久しぶりに光岡師と2人で稽古。
先日、韓競辰老師に手をとって頂いて以来、それまでの私の稽古体系の大変革を余儀なくされ、ずっと混乱の中にいたが、テンセグリティー・ワークショップの後、光岡師と話しているうち、漸くひとつの落ち着きと方向性を見出してきて、木刀を持っての動きや打剣、抜刀など、10日以来はじめて稽古らしい稽古が少し出来た。光岡英稔師の御厚情には、ここであらためて深く感謝の意を表したい。
今後、少しは人との稽古を再開できそうにも思えるが、開始5分で「申し訳ないですが、今日はここまでに…」と言う恐れもあり何ともいえない。私の新しい稽古法については、近々試運転はするつもりだが、当分の間、稽古相手も大変難しそうである。何にしても休業中で本当に幸いだった。
以上1日分/掲載日 平成17年4月18日(月)
先日、久しぶりに身体を観ていただいた身体教育研究所の野口裕之先生から、「とにかく寝る時間の絶対量が不足していますから、1度ゆっくり寝て下さい」と指示され、今まで1度もそのような事を言われたことがないので(2年前、けいれんを伴った背中の痛みで半月休んだ時も、すぐにでも地方への講習に向かう事を勧められたぐらいであった)驚いたが、同時にその指摘の的確さ(4月に入ってからのハードスケジュールでも、あまり眠さを感じていなかった)にあらためて感じ入っていたが、昨日から今日にかけて、ようやく12時間ほどもやすむことが出来た。
疲れていても、あまり寝られなかったのは、私の稽古の方法が激変したからであろう。そして、少しずつだが今までとは違った切口から新しい稽古の手掛かりが見つかり始めてきた。
まず何よりも、何気ない動きにこそ武術としての本質的な動きが宿るという事を、このところ徐々に、しかし確信をもって体感しつつある。例えば、私が「本棚の整理」「食器棚の整理」と名づけた日常的な動きの検討、「互(ぐ)の目の足」と名づけた足裏を水平にしての垂直離陸を意識的にではなく、さり気なく行なう方法、これをタックルかわしや太刀取り、小手返に応用すると支点が居ついていないから、今までにないスムーズさがある。
また、相手と体当たり的に当る時、こちらが雪道で滑って思わずバランスを崩しかけたのを立て直そうとするような動きで発力するようにすると、今までとは全く違った当たりが出る。
また、相手と接触した時、相手と触れ合った点とそれに連なる肘、肩などの部位が固定的支点とならぬよう接点2ミリの動きなら、支点となりそうなところは5センチは動くという事、またそれらの接点と肘・肩がラグビーのボール状の膨らみ、多面体の折り畳みのような変化、それらが微妙な手・肩の異和感を無くすため、自然となるべくしてなるようにという事が抜刀の体とも繋がってきた事が、現在の私にとっては数少ない有力な手掛かり。多面体の折り畳みとは、バックミンスター・フラー博士のジターバグの動きを見ていて思いついたのだが、これも含め今感じはじめている体の動きは、先日広島のシナジェティクス研究所で講義を受けたテンセグリティ構造との関連をますます感じずにはいられない。
それにしても稽古相手と稽古法の難しさ、そして私自身の気難しさにはあらためて呆れる。天才でもない私がこんなに気難しいのは気がひけるが、「より自然な動き」に伴って発顕した副作用ともいえるこの状況に呆れながらも、当分つき合っていくしかないようだ。
以上1日分/掲載日 平成17年4月25日(月)
私の稽古が激変しつつある。
井桁やら三元同立などの、捻らぬ・うねらぬ体の使い方などは、それはそれでその通りなのだが、こうした具体的な体の使い方の話が今の私にはかつてないほどに遠い。
私の一番の武術関係の愛読書である『願立剣術物語』も、かつては読んでいて心に引け目を感じたような42段目、
手の内身構え敵合などよき程と心に思うは皆非也。吉もなし、悪もなし。我が心におち、理におち、合点に及ぶは本理という物にてはなし。私の理成るべし。古語に「道は在て見るべからず。事は在て聞くべからず。勝は在て知るべからず。」
や、44段目、
移り写すと言う事分かる時は二つにして本一つ也。敵の鏡に移ると味方の鏡に写すとの二つ也。理を言う時はしか也。所作にあらわして見ば、智恵分別の曇り鏡に覆て忽ち土の鏡となり、移れども見えず、写すとも写らず弁舌ばかりにて用に立たず。理は無尽蔵なり。理にかかわらず私の才覚を止め、ひたすら稽古を専らに行なうべき事肝要なり。
が、いまは直に私の心に入ってくる。
4月はきつかった。私が昭和53年(1978年)に松聲館道場を建てて以来、稽古への思いが一番大きく変わったと思う。どう変わったかといえば、体の使い方をそれなりに合理的な、たとえばヨットの三角帆とかエレベーターの錘とゴンドラの関係とか、いわば発想の転換で拓いてきたのだが、そしてそれはそれで意味があったし、スポーツなどに応用して成果も挙がったし、これからも挙がると思うが(もちろん、その術理そのものが間違っているとも思わないが)、私はそうした事に一区切りつけて次へ、というか、本来私が武術に志した原点を見つめ、そうした合理的術理では追いきれない世界へと入っていきたいと思うのである。その思いの例えにこういう話をして分かってもらえるかどうか分からないが、人間は自分の体の状態をみるため自分で脈は計れるが、呼吸は計れない。なぜなら、まるで不確定性原理のように、呼吸は計ろうとすると、その計ろうとする意識によって変化してしまうからである。しかし武術で或る枠を超えた者は、いわば自分で自分の呼吸を計れたのではないかと思う。つまり体がごく自然な状態を保ったまま使いこなせたのではないかという事である。もちろん呼吸数を計らなくてもいい。計ろうとして、計ろうとする気持ちがいつのまにか消えているなら、それもいい。
私は今までスポーツや様々な身体を通して行なう技芸の世界に、私が気づいた多様な体の使い方のいわばコツを発表提唱してきた。それによってスポーツのトレーニング法に今までにない有効さも見つかり、介護も楽になり、音楽や舞踏などに関わる方々にもいろいろと喜んで頂けた。そして、それはそれで良かったと思う。勿論、こうした体の使い方は、まだまだ研究の余地はあるし、そうした分野に関わる方々には是非研究を続けていって、多くの、特に少年少女の体を壊さない体の使い方を研究普及させていって頂きたいと思う。
もちろん、今後そうした人達の活動にも私が関わることもあるかと思うし、講演で具体的な体の使い方の原理を解説することもあると思うが、今私は松聲館を設立して26年半にして、初めて私の人生の航路の舵をハッキリと動かそうとしている自分を感じつつある。その舵をどの程度動かすのか分からないが、いま4月30日の深夜(厳密には5月1日)、船の方向を変えつつある私を、まるでこの船に乗り合わせた船客のように見ているもう1人の自分に気がつかされている。
私としては、この1ヶ月間のきついトンネルを抜けて出た結論だが、見方によれば無責任な心変わりとも見えるかもしれない。しかし、武術はかつて「昨日まで良しと言われていた事が、その人の成長に伴って今日からは否定される」ということが起きていた世界である。ここで、1年半前にすでに会も解散して1個人になっている私を責められても何とも答えようがない。
ただ、身勝手といえばそうに違いないかも知れない。(かつて新体道を創られた青木宏之先生が私に「僕のことを何か人格者のように錯覚しようとしている人がいて、僕の行動に対していろいろ言うんですが、僕は自分では芸術家と思っているんで、芸術家なんて元々ひどく身勝手なものなんですから…」話して下さったことが、今ありありと思い起こされる)
それだけに、「私の人生につき合って」とは、今、誰に対してもとてもではないが口に出来ない気分なのである。
以上1日分/掲載日 平成17年5月1日(日)